懲罰としての去勢


はてなブックマーク - minori kitahara column


北原みのり氏の文章を久しぶりに拝見した。「模範的被害者」「非の打ち所のない被害者」というものを世の中は求める。その場所から減点法で個別の被害者の「落ち度」や「非」をカウントする。それは権力の作動で、「犠牲者は無垢でなければならない」すなわち無垢にあらずんば犠牲者にあらず。だから世の中が一方的に押し付ける「犠牲者」という観念は、個別の被害者にとって、スティグマでしかない。


社会は観念としての「犠牲者」を必要とする。その犠牲者は無垢でなければならない。硫黄島星条旗を立てた兵士が雄々しく戦った国の英雄でなければならないように。「犠牲者」の存在は環の一端でしかなく、その権力の環から外れた者は誰も守らない。男女の仲は文脈に規定される。関係性は、そうした男女の仲を規定する文脈をずらしていくものとしてあるが、しかし男女の仲は今なお文脈に規定される。現存する文脈が権力の作動する場所であるとき、その場所に、権利としての性的な自己決定は存在しない。


以前も書いたが、合意の有無は厳密に必要か、と知人に問われて真面目に返答する気をなくした。奴にとっては男女の仲は一切文脈であり、文脈をずらしていく関係性を知るには鈍感に過ぎたし飽きっぽかった。男女の仲を規定する文脈が権力の作動する場所であることを誰かに教わったわけでもなかったしこれまで気付きもしなかっただろう。告訴されたという話は聞かない。気付かないなら、誰がそれを教えるだろう。私は匙を投げる。


交際相手に対してもそうだが、私は、他人に、その無鉄砲を理由に、性的な自己決定という権利意識を抑圧して、現存する男女の仲を規定する文脈という権力の作動する場所を呑め、とはあまり言いたくない。交際相手に対してではないが、言わざるをえないときはある。暴力と共に世界に遍在する権力を呑んで、自己決定の権利意識を自ら抑圧すること。それが大人になることで、そしてそれは男性が自らを社会化する過程として、通過儀礼としての去勢において当然行ってきていることだからこそ、歴史を繰り返したいとは自分では思わない。


北原氏の文章にホルモン云々というのがあって、私としては異論なしともしないのは、現代の社会的な男性の通過儀礼は割礼ではなく去勢であって、だから他者にも去勢を望む。女性に対しても。いわゆる女叩きとは、女性の性的な自己決定に対して一方的に男根を見出してそれを自分同様に去勢する、という考え方で、それが男女平等である――と。


だから、社会化される過程において通過儀礼として去勢されてきた現代の男性にとって、性的な自己決定は、「自由にセックスをし、自分がいいと思う相手に気軽に股を開いて」「ミニスカート大賛成。胸見せる格好大好き。肉食系女子万歳。男を挑発上等。だけど、したくないことは、したくない。」その振舞いは、自分たちが失った男根主義の現れであって、未だ去勢されていない野蛮人でしかない。「そんな簡単な理屈がなぜこうも通らないんでしょう。」通るわけがない。男女を問わず男根主義者は去勢されるべきなのだから。「私たち同様に去勢されよ」――ブックマークコメントにも散見される見解か。私見を述べると、パラノイアックなオブセッションとしか言いようがない。


共同体の脱臼した文明社会において、男性は性的に自己決定できない。早い話が社会的に去勢されてしまったため強姦できない。だから娼婦を買ったりポルノを買ったりDVしたりする。そういうのを変態紳士と言う。「だから」女性に対してもそうしろと言う。社会的に去勢されて、性的な自己決定を諦めよと言う。まことに文明人らしい倒錯した話だが、当然そこには権力が作動している。


女性や、あるいはセクシャルマイノリティの性的な自己決定に対して「その帰結」から道徳的規範に基づくスティグマを付与するのは、文明社会が作動させる権力だ。むろん、帰結でもなんでもないのだが、単なるヘイトクライム同然の暴力を「その帰結」として他者の自己決定と紐付けることがよく訓練された権力以外の何であるか。そういえば「エイズまみれの変態ホモ野郎」とか言っているはてなダイアリを注目エントリで見かけたが、エイズはまさに「セクシャルマイノリティの性的な自己決定に対して「その帰結」から道徳的規範に基づくスティグマを付与する」ためにかつて利用された。むろん「その帰結」でもなんでもない。


文明社会の男性において、通過儀礼としての去勢が、暴力と共に世界に遍在する権力を呑んで自己決定の権利意識を自ら抑圧することであるがゆえに、彼らは女性やセクシャルマイノリティのその権利行使に対しても、文明社会の一員の資格としてそうした去勢を要求する――通過儀礼として。それは、有体に言うなら、聞き分けのない奴はいっぺん強姦されてこい、という話でもある。


アメリカと異なるのは、日本の男性は文明社会の変態紳士として、女性に対しても文明社会の変態淑女であることを望む。よって、世界が性暴力に満ち溢れていることを呑むよう、性的な自己決定の権利などという無防備マン並みの妄想を信じる世間知らずの輩に対して要求する。インターネットのような抽象化された言論で、そして個別の男女の仲を規定する文脈において。それが権力の作動する場所でありその抑圧でありよく訓練された暴力である、という話。


暴力と共に世界に遍在する権力を呑んで、自己決定の権利意識を自ら抑圧することが、文明社会の一員の資格を得るための通過儀礼としての去勢である。だからこそ、私たちが文明社会の一員であるためには、世界に圧倒的に理不尽な暴力が――たとえば性暴力として――現存し続けなければならない。そして、性的な自己決定権などという妄想を信じる輩は文明社会の一員として陶冶してやる必要がある。世界に圧倒的に理不尽な暴力は現存し続けているぞ――と。教育的指導であり、懲罰であり、調教でもある。


性暴力における悪意と言う。それは、必ずしも野蛮な男根主義ではなく、女性やセクシャルマイノリティの性的な自己決定という男根を去勢して陶冶してやりたいと考える、社会化された去勢済みの文明人の悪意でもある。むろん、それは裏返しの男根主義なのだけど。そしてそれは、必ずしもわかりやすい男女対立の構図に還元しうるものではない。


強姦と輪姦は些か違う。文明的な社会は、暴力を誰かに呑ませることによって、権力の作動する場所として成立する。男性の社会において、ババを女性に引かせれば、男たちは安んじて誰かに呑ませた暴力を肴に親しみ合える。知ったる誰かに暴力を呑ませて権力を内部に作動させてしまえば、いかにも体育会なイジメだ。だから、どこかの誰かに、殊に文明人の一員たりえない野蛮人に、皆で暴力を呑ませれば、権力の作動する場所で去勢済みのブルジョワは紐帯の意識を涵養する。旧軍以来の伝統であり、植民地主義以来のセオリー。よって、彼らが教職に就くことも、とても「正しい」。去勢を必然とする文明的な社会は、このようにして成立している。


私は都知事とは考えが違うので、去勢それ自体を批判しているのではない。私たちは、文明という概念の理解を、間違えた――女性やセクシャルマイノリティの性的な自己決定権を抑圧するものとして、文明社会が私たちにとってある以上。罪の意識なくして、ブルジョワが連帯しうるはずもない。世界に圧倒的に理不尽な暴力が現存することを要求する文明的な社会は、暴力を誰かに呑ませることによって成立する、権力の作動する場所でもある。野蛮なインディアンがいて、それを撃ち殺して回らないと、法を守る市民の文明的生活は存在しない。その自作自演が、平和な現代日本にあっては、スイーツ叩きとセカンドレイプと輪姦としてある。やはり、パラノイアックなオブセッションとしか言いようがない。罰すること、罰されることの。