「個人の尊厳」の贖い


選挙結果が判明して以来色々とゴタゴタして更新が滞りました。都民の私は比例は社民に入れました。


「種としての個体」と自民自滅後の表現規制(追記アリ - 地下生活者の手遊び

2009-09-04


反論、ということでは必ずしもなく、フォローとして少しコメントを。駆け足の雑駁な議論になりますが。


私の見解では。レヴィ=ストロースの仕事とは、共同体的社会の「可能性の中心」を近代の場所から読み解く試みでした。だから、彼は共同体的社会を人類の事実性の問題として単に主張しているのではもちろんない。共同体的社会の「可能性の中心」に「個人の尊厳」がある、とはたして彼は言ったか。――「個人の尊厳」を何によって贖うか、という問題です。

僕はここで、「権力と自然両者」を「システム」と読み替えますにゃ。

文化とはもともと「自然の鉄則」とか「弱肉強食の原理」「世界はこういうもの」とかいった「システム」への否定として現われたものですにゃ。

言い換えると、個々人の尊厳を確保するために文化が必要とされたのだにゃ。



というわけで、Yagokoroやkadotanimitsuru に応えると、

  • 個々人の尊厳・代替不可能性を担保するために文化があり公共性がある

となりますにゃ。日本国憲法の基本原理も個人の尊厳だしにゃ。個人の尊厳は自分でかってに獲得しろってのは、相当に極端な主張になると思うんだけど、その辺はわかってるんだろか?

だいたいね、個人において尊厳やら代替不可能性を獲得できるって、もうニンゲンを超越しとるぞ。お釈迦様とかイエス・キリストの次元。そんなやつ、人類史上で何人いるんだろ? まあ、個性トーテミズムをして個人の尊厳の獲得だとか勘違いしているノウタリンは掃いて捨てるほどいそうだけどにゃ。

というか、尊厳というものが個人で何とかするものなのであれば、性犯罪被害者の二次被害・三次被害なぞ考慮する必要なんてにゃーわけだ。


これは、tikani_nemuru_Mさんに対する反論ではなく、むしろ同意ということですが。「個人の尊厳」という観念と人権思想は違う。人権思想は代替不可能性を贖うものではない。「個人の尊厳」を共同性によって贖おうとした近代の宿痾として前世紀前半のファシズムはありました。レヴィ=ストロースは、「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの「可能性の中心」を、近代の洗礼を経ていない共同体的社会に見出しました。それは西欧近代人の視線以外の何物でもありませんが、そのことはむろん彼の問題ではない。


原始的社会において共同性によって贖われる「個人の尊厳」は、複雑化しシステム化する近代社会にあって、個性トーテミズムという無前提の自己信仰に取って代わられる。――レヴィ=ストロースはそのように主張しました。それは当然、人権思想の否定ではない。

文化とはそもそも反自然・反権力、つまりは反システムであり、システムとは個々人が取り換え可能な存在であることを基盤にして成り立つものですにゃ。

  • 個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつけるのが文化

なのであって、文化とは個人の尊厳という幻想のためにあるといえますにゃ。

そして文化とは表現によって表象される。



だから、表現は何でもアリにしておいたほうがよい、のかどうか?

表現が経済的に流通するものである以上、システムに片足つっこんでいるといえるわけで。



表現の自由」とは「蹂躙の自由」である
という言明について、これをシステム的に解釈するのか、文化の側で解釈するのか、という違いがありそうですにゃ。前者を国家による自由、後者を国家からの自由、と言い換えられるかもしれませんにゃー。


文化とは共同性の表象を指す観念です。だから、近代以降、文化と芸術は弁別された。共同性と別の場所で行われ、共同性を突き抜けて普遍へと至りうるものが芸術であり、そして芸術は公共を表象する。共同性によって贖われる「個人の尊厳」の表象としての文化をシステム的に解釈するのがスターリニズムです。


「個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつけるのが文化」その通りです。そして、ナチス頽廃芸術を措定し、同志スターリンロシア・フォルマリズムを掃討しました。複雑化しシステム化する近代社会にあって「個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつける」文化の観念が、国家システムと結託したとき、公共を表象する芸術をどれほど疎外してきたか。ひいては個をどれほど疎外してきたか。「それが個性トーテミズムである」というのが唯物論者の言い分です。モダニズムが花開いたのは、自由主義を奉じる社会でした。レヴィ=ストロースの芸術論は、敢えて言うなら、モダニズムの観念に対して些か懐疑的です。


「個人が取り替え可能な存在であること」に対する回答として、プルーストジョイスもウルフもナボコフも、デュシャングリーンバーグゴダール小林秀雄も、その「芸術」を提示しました。もちろんカフカも。村上春樹も。それが「否定をつきつける」ものであったか――簡単に言えることではありません。ただし。彼らの営為は文化へと捧げられたものではない。


繰り返しますが。レヴィ=ストロースは、「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの可能性の中心を、近代の洗礼を経ていない共同体的社会に見出しました。「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの表象が文化としてあるから、それと対立するものとして表現はあり自由主義はある。「表現」とは「「個人の尊厳」を共同性によって贖うこと」ではありません。共同性の外延をいくら延長したところで「表現の自由」という観念には辿りつきません。共同性を突破する場所として表現の自由はあるからです。そのようなものとして、公共は用意されているからです。


表現の自由」が「蹂躙の自由」でもあるのは、当然、「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの裏腹です。原理的に、かつ本質的に、「表現の自由」は「蹂躙からの自由」としてあるので、「個人の尊厳」が共同性によって贖われることがそもそも蹂躙です。「表現の自由」がおよそ普遍の観念とされるのは、システム化しグローバル化する近代社会にあって「個人の尊厳」が共同性によって贖われることこそ国家というシステムの最たる機能だからです。――靖国神社のように。

表現の自由」の名における蹂躙がシステムに依拠したものであると捉えるのか、文化に属したものであると見なすのか? どちらかが一方的に正しい、という話にはならにゃーでしょう。

ただし、蹂躙・陵辱表現が日本社会のシステマティックな女性蔑視とはまったくの無関係という証明はほぼ不可能だろにゃ。悪魔の証明だし。というわけで以下のようなことをいわれているわけだにゃ。


(引用略)


見てのとおり、「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」が性差別的な政治的社会的システムの一環として認識され批判されているのは明らかにゃんな。


「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」と「国連の人権系の委員会」は「認識」しているようですが、それは自由主義社会における自由な表現です。表現を「政治的社会的システムの一環」として「認識」しあまつさえ「批判」するのがスターリニストです。いや、国民選択の結果政権交代もされたし、この国でも冷戦が終わったとは言えるので、スターリニストであることは構わないしスターリニストであることに道理がないものではもちろんないのですが、しかし私はその考え方には乗れない。


「批判」は結構ですが、「性差別的な政治的社会的システム」を是正するために表現をその「一環」と「認識」する発想は、誤りです。そしてスターリニズムです。私は自由主義社会を支持する者なので、表現に及んで「性差別的な政治的社会的システム」を是正しようとする発想にはまったく同意できません。なお、人権思想にコミットすることは「国連の人権系の委員会の勧告に従う」ことではもちろんありません。


付け加えますと、表現規制は性差別是正のもっとも安易な解決策です。表象とその公的流通の問題なので、お国の官憲が上意下達で規制を敷けばよいし、過去の経緯から業界は空気を読む。たとえば「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」 や「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」は具体的かつ物理的な暴力の問題であり、本職のDQNが絡んでおり、多く私的領域や擬似的な契約に隠蔽されていることなので、解決に人力を必要とします。その「人力」を「国内NGO」とその国境を越えた連携に頼っているのが現在の実情です。そして、そのようなNGOの国際的連携に対するコミットさえ日本政府は滅法腰が重い。むろん、人手もろくに出さない。だから顰蹙を買い、結果、「国連の人権系の委員会」が斯様な勧告を出す。筋としてそういう話なのですが、しかし。

引用中の指摘された諸事項について僕は個にゃん的には「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」はビミョーだけど、その他の項目はすべてもっともだと思いますにゃ。


当該の勧告に対して「「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」はビミョーだけど、その他の項目はすべてもっともだと思います」とは私は言えない。レイヤーの相違する話を一緒くたに並べていることが彼らの判断とその安易の証明だからです。レイヤーの相違は、いずれも人権思想に由来する。「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」を「是正」するのは「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に滅法腰が重い本邦の政府です。


そして。表現規制にお国と官憲の腰が軽いことは「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対する腰の重さと裏腹としてある。これら一切がひっくるめて問題、というよりこのことが問題の本丸なので、「国連の人権系の委員会」は問題の本丸に対する認識に些か欠けている、と私は判断せざるを得ません。それは、日本が先進民主主義国を名乗っていることのツケではあるでしょう。つまり、この「問題の本丸」はいわゆる途上国においては普通にあることなので。


なので、自民党政権であれ民主党政権であれ、問題は統治権力に対する批判として問われなければならない。それが建前であるにせよ、自由主義社会の自由な表現を「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」と「認識」して性差別是正の的にすることは、間違いです。なぜなら、自由主義社会の自由な表現という建前を「公共の福祉」という建前を宣う国家から勝ち取るべく戦ってきた表現者を、維新以来の歴史において私たちは知っているから。そして、刑法における猥褻の規定はなんら廃されたわけではない。


武智鉄二の名前を、彼らは知らないでしょう。要するに、国情に対する理解が足りない。日本の問題は――国籍の如何に関わらず――その国に暮らす人々が解決に取り組むべきだと、戦後、この国においてまがりなりにも守られてきた自由主義社会という建前にコミットする私は思います。

その他項目において性差別が撤廃・縮小されて、それでもエロゲが元気だったら、エロゲと性差別は無関係、つまり陵辱表現が文化の側にあったってことの証明になるでしょうにゃ。是非とも証明してみたいところにゃんな。皮肉でなくそうなる可能性はあるし、そうなったらオモチロイとも思いますにゃ。


このくだりについては、書いてきた通り文化観が相違するので、なんとも言えません。いうなれば、陵辱は近代日本の文化です。陵辱によって「個人の尊厳」を贖うことが近代日本の共同性として機能していた時代がありました。もちろん、過去形ではまるでない。だから、フェミニズムは異議申立をした。陵辱によって「個人の尊厳」を贖うことの供犠とされてきた存在が声を上げた。私たちにも「個人の尊厳」がある、と。それは人権思想の問題では必ずしもない。なぜなら、近代日本の文化としての陵辱は、常に比喩なので。比喩であることが建前なので。


共同性もまたシステムです。共同性をシステムとして陶冶したのが日本という近代国家です。戦前も、戦後も。明治憲法下も、戦後憲法下も。共同性というそのシステムは、かくも複雑化しグローバル化する以前の、この国の近代化と経済成長を支える社会システムとして代替的な役割を果たしていた。山本七平は、あるいは丸山眞男は、それをこそ喝破しました。


しかしグローバリゼーションと共に社会システムはシステムそれ自体として複雑化し「洗練」もされ、グローバル化に伴う下部構造の確変は、戦後日本において社会システムを代替してきた共同性さえ破壊した。獅子身中の虫のように。小泉純一郎は、あるいは竹中平蔵は、その旗をこそ振りました。結果、システムから遺棄された者による共同性への回帰という現在の様相がある。かつて社会システムを代替してきた共同性への。そして彼らは、そのゆえに、社会システムとして共同性を要求する。結果、国籍至上の排外主義です。


それは、無所属の城内実小選挙区で当選するし、在特会も躍進するでしょう。彼らが振る日の丸は、共同性の象徴です。――喪われた共同性の。日本のいわゆる「地方」は、とっくのとうに、システムそれ自体として「洗練」された社会システムから遺棄されている。彼らもそのことに気が付いている。かつて社会システムを代替した共同性と共に、世界の選択に伴う社会システムそれ自体の陶冶からブースターのように切り離されて。そしてグローバル化に適応した新自由主義の小さな政府は月を目指す、かといえば、そうではなかったから民主主義は面白い。


それが近代の達成であるか。否、という有権者の判断が民主党政権を選択しました。「自民自滅後の表現規制」という話なら、私が考えるのはこういうことです。そもそも「自民自滅」と私は考えない。私は小選挙区でも民主党には投票しませんでしたが、国民選択の結果として民主党政権がある。なお。

善悪が社会と無関係に個人に属するの? すさまじく斬新にゃんな。何にしても、尊厳は個人で自前調達かー。すっごいねー。


kadotanimitsuruさんと私はたぶん意見が相違するのですが、しかし、「善悪が社会と無関係に個人に属する」のが人間にとって神の存在する意味です。あるいはかつて明治憲法下の天皇が存在した意味です。カントの用語では「超越性」という言葉になりますか。クリント・イーストウッド主義者であるところの私にとってもそうです。「尊厳は個人で自前調達」も同様です。中島義道も同じことを言うでしょう。それこそが「個人の尊厳」です。繰り返しますが、「個人の尊厳」という観念と人権思想は違います。


そして。ハーバーマスが取り組んだのは、神なき世界において、つまり「超越性」に拠らない場所で、「個人の尊厳」を社会的存在としての人間が獲得する枠組でした。たぶん、この点について、私とtikani_nemuru_Mさんの更なる意見交換の契機があるのでしょう。私は、そのハーバーマスの取り組みを、極めて大事なことと思っている。なぜなら――神なき世界を生きる人間は、「個人の尊厳」を、神以外の何物かによって、贖わなければならない。神の愛ではなく、具体的な誰かの愛によって。


なお、原理的に、かつ本質的に、「表現の自由」は「蹂躙からの自由」としてあり、表現とは「蹂躙からの自由」の別名なので、当然、あらゆる表現は政治的です。原理的には。しかし自由主義社会は、タダ乗りを認めます。それが自由主義社会の価値ですが、しかしそのことは同時に、自由主義社会それ自体の危機を時にもたらす。一般投資家の株式市場への参入がライブドアショックを引き起こしたように。これが、再三言われている千日手であり、このことも原理的問題です。