表現規制から遠く離れて


世間様から公共圏へ - 地下生活者の手遊び


先のエントリを挑発的に書いた甲斐があったようで、議論が前に進みそうです。包括的な社会観の議論として、私とtikani_nemuru_Mさんの見解の相違点について確認していきたいと思います。

確かに各人が緊密に結びつけられて相互に影響がでかいところが「世間」の特徴のひとつにゃんが、それだけで「世間」となるわけではにゃー。

  • 「世間」というのは、「個人の尊厳」がないところ

これは基本にして必須の論点のはずだにゃ。阿部謹也も「世間とは何か」で言っていたぞ。


仰る通りです。だから、そういうのを「東洋の土人部落」と言うのだと思いますが。佐藤亜紀氏も使用していた「世間様」という言葉を一連の議論で最初に使用したのはtikani_nemuru_Mさんだと思いますが、その典拠は阿部謹也の世間論だったのですか。ならば「東洋の土人部落」という話には必ずしもならないでしょうね。つまり、価値の問題として。誤解した人がやはりいたようですが、私は特定宗教を批判しているのではない。しかし、信教の自由とはすなわち政教分離であり、政教分離によって信教の自由が実現される、そのような「自由な社会」を言祝いではいる。

やふ掲示板以来のネット知己に、ypcpn8というメリケン在住の聖書律法主義者がいますにゃ。以前、彼がいっていたことなんだけれど、彼の属する教会のコミュニティにおいては、当然のように障害者に対するケアがコミュニティの成員によって行われているそうですにゃ。障害児の親は、そのコミュニティが存続する限りにおいて、障害児たる自分の子供の将来に何の心配もいらにゃーのだそうだ。

宗教ってものにはこういう一面があり、メリケンにおけるキリスト教の影響力をただの愚昧とみなすことは何重にも間違った認識だということにゃんね。



まあ、それはそれとして、この教会コミュニティは「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」の典型のひとつですよにゃ。そもそも教会とは個々の代替のきかなさを説き、前のエントリで触れた「死んだ子供」を扱う共同体ですにゃ。


教会においてはそうでしょう。神からの授かりものであるところにおいて「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である」ことが教義だから。そこには価値が埋め込まれているし、私も素晴らしいと思う。マザー・テレサが素晴らしかったように。そのことが「ただの愚昧」であるはずがない。そして、公的領域において、その価値を洗練させたものが人権思想です。そこには、政教分離に基づく信教の自由というオプションが追加されている。キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想は、自由主義とセットとしてある。それが、メリケンという国家の選択です。


ところで、私は、tikani_nemuru_Mさんが紹介してくださった上の話を、次のように読みます。教会のコミュニティに属さない障碍児の親は、そのコミュニティの存続の如何に関わらず、障碍児たる自分の子供の将来への心配に日々頭を痛める、と。大江健三郎のように。そのような障碍児の親が「自分の子供の将来に何の心配もいらにゃー」ようにするためにこそ、社会はあり、社会は公的領域に帰属する。信教は自由です。そして、障碍児の親が信教によって「自分の子供の将来への心配」が左右されないようにするために、公的領域に帰属する社会はある。


障碍児の親が何を信じていようと、どのような価値観の持ち主であろうと、「自分の子供の将来への心配」が左右されることがない――そのために社会はある。そして社会は公的領域に帰属している。だから、信教が自由であればこそ、信教が公的領域に横車を押してはならない。特定の信教が公的領域に横車を押すことは、他なる特定の信教の自由を抑圧する。かつて国家神道の胴元であった靖国神社の政治性にそれを見る人がいるように。


政教分離とは、そのことです。それは、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が、導き出した解です。子供は他者であり、他者であるがゆえに育児は公共的である。そのようにtikani_nemuru_Mさんは述べておられたと記憶していますが、私の考えではこうなります。育児は公的領域であるところの社会に帰属する、と。当然、ここには差異がある。その差異が、私とtikani_nemuru_Mさんの社会観の根本的な相違なのでしょう。


そのような社会がこの「東洋の土人部落」にあってはまともに成立せず機能もしていないからこそ、自分の子供の将来への心配に日々頭を痛める、たとえば障碍児の親は、信教とそのコミュニティにすがる。結果、ホメオパシーの流行と、我が子のためを思っての幼児虐待です。キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想は、そのことを許容しません。


「世間様」とは、まともに成立せず機能もしていない社会の代替物です。戦後、創価学会が躍進したのは、新憲法下にあって人権思想を言祝ぐ日本社会が社会としてまともに成立せず機能していなかったことの証左です。故郷という共同体から遺棄され徹底的にマージナライズされた都市住民にあって「自分の子供の将来への不安」は、信教とそのコミュニティにおいてしか贖われることがなかった。その歴史を忘れて、やれ政教分離だの「そうかそうか」だのと言っているのは何なのか、ツケが回っているだけだろう――と私は紋切型の学会批判を見るたび思います。私が生まれ育った東京の団地には、学会員が多かった。

そう、この箇所はソノトオリと僕も思うにゃ。「個人の代替不能が個別利害の問題としてのみある」のは確かにムラ社会であり世間様だにゃ。

しかし、

なぜ個人の代替不能を「個別利害の問題としてのみ」見るんだ?

「個人の尊厳」から導かれる代替不能とそのためのコミュニティという側面がありえにゃーとでも?



無論、教会コミュニティが理想的で抑圧ナシってことは多分にゃーだろ。ニンゲンとニンゲンが緊密に結びつけられたところには「うざさ」もついて回るだろうにゃ。

だけどさ

個人の尊厳を運営原則としたコミュニティは、ムラ社会とか世間様とはやはり違うものなのでにゃーのか? それは世間様と地続きであるかもしれにゃーが、同じものではにゃーだろ。


私がムラ社会を価値判断において非とするのは、ムラと社会は相容れないと考えているからです。社会の機能不全の代替物としてムラがあると考えるからです。政教分離に基づく信教の自由の機能不全の代替物として疑似科学があると考えるからです。「「個人の尊厳」から導かれる代替不能とそのためのコミュニティという側面がありえにゃーとでも?」ありえますよ。信教とそのコミュニティにあっては。「個人の尊厳を運営原則としたコミュニティ」にあっては。ムラ社会なり世間様なりには「ありえにゃー」だけで。


「東洋の土人部落」とは政教分離の不可能な政体の問題です。つまり、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が成立しない政体の問題です。それをしてムラ社会と言い、世間様と言います。新憲法下の日本の政体は、政教分離を掲げながら、なんら実現されることがない。もちろん、創価学会のことを言っているのではない。「死んだ子供」が蘇り、公的領域に横車を押しまくっている現在のことです。結果、信教の自由さえ実現されることがない。つまり「個人の尊厳」がない。


キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が規定する信教の自由は、内心の自由へと敷衍される。ひいては表現の自由へと。公的領域の問題として表現の自由を問うとは、公的領域を用意した人権思想ならびに自由民主主義政体をその起源において問い直す、ということです。そのことに対する認識とコミットが足りない――tikani_nemuru_Mさんにせよ、佐藤亜紀氏にせよ、あるいはApemanさんにせよhokusyuさんにせよ、今回の一連の議論において規制反対論に対する疑義として指摘されたのは、そのことでした。

公共圏論とは、「個人の代替不能が個別利害の問題としてのみあるムラ社会の論理」にダメ出しするものであるのは確かだにゃ。ただし、「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」に対してダメ出しするものではにゃーぞ。個人の尊厳とは、ひとりひとりが代替のきかにゃー存在、かけがえのにゃー存在であるということだろ、少なくともタテマエ上は。

そして

「個人の実存や傷つく心」や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押すこと」を許容すべきでにゃーからこその公共圏だにゃ。


公共圏論が「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」に対してダメ出しするもの」と私は書いていませんし、都市のモラルと公共圏論が一致するとも書いていません。それはハーバーマス的には前提と思うのですが。公共圏論にかこつけてムラ社会を言祝ぐことはやめてくださいと私は言っている。言祝いでおられないなら結構です。正反合ということで、相互の挑発を止揚したいと思います。


「個人の尊厳とは、ひとりひとりが代替のきかにゃー存在、かけがえのにゃー存在であるということだろ」そうです。そして、そのような「個人の尊厳」を、信教が実現するのではなく、人権思想において信教の自由を実現する政教分離された社会が、すなわち自由民主主義政体が実現する。そのように、この「東洋の土人部落」にあっても、公的領域に帰属する社会は要請される。公的領域に帰属する社会が「個人の尊厳」を実現することは、物心を意味する。たとえば公的福祉として、表現の自由として。それが、私の社会観の大枠です。

光市母子殺害事件差戻審の際の顛末には僕もまったくもって辟易三昧ですにゃ。まさに「個人の実存や傷つく心」や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押」しまくり。

いったいなんでこんなことになるのか?



「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。

だのに

「「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。」

だってえ? それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?

はいはい、「私たちの社会がムラ社会であることを免れないことと私たちがムラ社会を真っ平御免と考えることは両立しうる」でしょうにゃ、確かにね。導き出された当為にコミットしてくれ。多いに結構。

でも、

僕たちがニンゲンという生き物である限り必然的について回る「死んだ子供」を実際にどうする? 

殺す? どうやって殺す? そもそも殺せる? これは神殺しにゃんぜ。だから殺しても生き返るだろ。まあ供養次第かもしれにゃーが。

それとも飼いならす? 飼いならすなら放し飼い? それとも檻にいれる? エサは? 人身御供でもするかい?

確かにヤスクニって厄介だよにゃ。



sk-44はさ、「真っ平御免」としか言ってにゃーよね。括弧にいれてるだけ。見たくにゃーだけ。「知識」をシカトして「価値」を言祝いでいるだけ。

それじゃ祟られるぜ。

光市事件の顛末ってのは、「死んだ子供」を見ないようにしてきたことの祟りだろ。

「死んだ子供」ってのは祟るぜー。道真や崇徳天皇どころじゃにゃーぞ*1。



ローチは正しいんだにゃ、ただし大文字のシステムとして。

だから、レヴィ=ストロースを引っぱってこなければならなかったの。

自由科学にコミットするのなら、いっぽうで怨霊を何とかしなきゃならにゃーんだ、この国では。


「「死んだ子供」ってのは祟るぜー。」ええ。だから祟りを鎮めるためにも靖国神社天皇陛下は御親拝されるべきですね。――そういう話は通らない、という話を私はずっとしています。日本が自由民主主義政体である限り、それこそ「死んだ子供」という心の問題が公的領域に押す横車以外の何物でもないからです。信教が公的領域に押す横車そのものだからです。


「光市事件の顛末ってのは、「死んだ子供」を見ないようにしてきたことの祟りだろ。」ええ。だから私は裁判員制度に賛成です。市民の司法参加に賛成です。市民とは、心の問題を公的領域へと止揚しうる「死んだ子供」の親のことです。本村洋氏がそうであったように。


「「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?」そうですよ。だから、マージナライズされた者は「死んだ子供」を公的領域へと止揚したとき初めて市民として振舞いうる――自由民主主義政体にあっては。その、「自由民主主義政体における市民」が――こと性の問題にあっては――偽善と欺瞞の極みである、というのが私の書いてきた「知識」ですが。そのような「知識」の問題を退けてきたtikani_nemuru_Mさんは「価値」について問うておられる、と私は理解していました。

sk-44はさ、「真っ平御免」としか言ってにゃーよね。括弧にいれてるだけ。見たくにゃーだけ。「知識」をシカトして「価値」を言祝いでいるだけ。


「真っ平御免」というのはムラ社会を言祝ぐことに対する価値判断のことですが。「「知識」をシカトして」は私の「真っ平御免」同様レトリックなのでしょうが、私としては困惑するところです。私にとって「「知識」をシカトして」いるのはtikani_nemuru_Mさんなので。

自由科学にコミットするのなら、いっぽうで怨霊を何とかしなきゃならにゃーんだ、この国では。


まったく同意です。だから、「死んだ子供」は社会において止揚されなければならない。社会がなぜ要請されるか。「死んだ子供」を止揚するためです。「死んだ子供」を止揚するために公的領域が要請される。その公的領域にあって「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞う存在のことを市民と言う――自由民主主義政体では。よって、私はリバタリアニズムを必ずしも受け容れることはできない――この点では、私はNaokiTakahashiさんが示しておられるような規制反対論とは、おそらく考えと立場を異にするものです。


「死んだ子供」が単純に共同体や国家において止揚されるなら、それは靖国神社が要求していることです。それこそレヴィ=ストロースが指摘したように、人類社会始まって以来延々と繰り返されてきた営為です。それは、自由民主主義政体下の現在にあっては――id:chuuburarinさんのブックマークコメントを借りるなら――「違う信仰者や祀られたくない人や日本に帰属しない戦争被害者を尊重」しないで行われていることです。だから8月15日に「反靖国」デモが行われ、結果、公共圏でのviolenceをもって贖われる。


「死んだ子供」が社会において止揚されること。「死んだ子供」を止揚するために公的領域が要請されること。公的領域において「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞うことに私たちが市民として合意すること。それが、社会合意であり、現在の自由民主主義政体の起源にある考え方です。この考え方にあっては、ヘイトスピーチ規制は十分に検討の俎上に載る。佐藤亜紀氏の立論の趣旨も、大筋ではこの線です。保守主義的な立場にあってはそもそも「止揚」というのが綺麗事でしかないので調停として問われるにせよ。


「死んだ子供」の社会における止揚の可能性をその不可能性の臨界において問い続けるのが政治的立場としてのリベラルです。tikani_nemuru_Mさんが「現在の議論との距離をはかる指標としてブクマ」された私の過去エントリに即して言うなら――「「死んだ子供」の社会における止揚の可能性をその不可能性の臨界において問い続ける」リベラルの知的営為に限界を感じた東浩紀氏は現在のスタンスへと着地した。「死んだ子供」の社会における止揚を放棄した。「社会における止揚の可能性をその不可能性の臨界において問い続ける」類の論理の研鑽に――あるいはアクロバットに――見切りをつけた。


それはそれでひとつの立場と今では思いますが、結論としては「「死んだ子供」の社会における止揚の放棄」と「工学的アーキテクチャに新たな止揚の可能性を見る」なので、そしてそれが「ポストモダニズム系リベラル」であるとのことなので、それは顰蹙されるだろうし、「市民として」私も顰蹙しました。


私たちが在特会を顰蹙するのは、市民を名乗りながらその言行において先祖返りであり、自由民主主義政体の正統性の在処を理解せず、挙句社会合意をなんら顧みないからです。「差別主義者の集団だから」というテンプレートは、容易にシニカルな対抗言説を用意する。なお、私は人間に貴賎があるとは思いません。賎しい振舞いはあっても。

「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。

だのに

「「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。」

だってえ? それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?


この点において、私とtikani_nemuru_Mさんの社会観の根本的な相違があるのでしょう。自由民主主義政体にその正統性を負う「自由な社会」は、「死んだ子供」という迷信を社会において止揚することをその目的とする。そのために公的領域が要請され、「死んだ子供」が社会に止揚されるための公的領域における「市民」の振舞いが要請される。社会合意とはこのことです。だから――「自由な社会」のオプションに「死んだ子供」を追加しないでいただきたい。「自由な社会」とは価値を負う概念だからです。キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を負う概念だからです。


「オプション」というレトリックで間違いはないのです。「死んだ子供」という迷信を社会において止揚することをコンセプトとする「自由な社会」のオプションに改めて「死んだ子供」を追加することは、リベラリズムにあっては、反動であり先祖返りでしかない。ただし。それを反動と先祖返りと指す限り、「自由な社会」がその正統性を負うところの自由民主主義政体とその起源について、問い直すことが必要でしょう。自由民主主義政体を言祝ぐ私たちは、それを止揚するために自由民主主義政体を要請し、市民社会を要請した「死んだ子供」のことを忘却してはいまいか、と。


しかし、tikani_nemuru_Mさんがされた反論はそのようなものではない。「それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?」――「死んだ子供」がマージナライズされた者にとっての生きるうえでの前提であることと、「それはオプションなどではにゃー」といかなる関係が? 


前者を止揚するために「自由な社会」は要請される。その、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を負う概念に「死んだ子供」というオプションを追加するのが、文字通りの感情論であり、保守反動です。佐藤亜紀氏はそのような感情論を述べてはいなかった。正直、私とtikani_nemuru_Mさんと、どちらが左翼かわからなくなってきました。


「「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。」「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回ることと、「死んだ子供」が「自由な社会」の条件であることは全然違います。前提ではあるでしょう。前提を忘却していた者もいたでしょう。前提の忘却において在特会は典型的でしょう。しかし。「自由な社会」の条件は「死んだ子供」という迷信の公的領域における止揚であって、「死んだ子供」という迷信そのものではない。


「自由な社会」は「死んだ子供」をその目的とはしない。「死んだ子供」それ自体が目的であるならば、在特会の「外国人売春婦は私たちの祖父を貶めるな」は正しく市民的行為です。そういうのを共同幻想と言います。「自由な社会」の目的にして条件は公的領域における「死んだ子供」という迷信の止揚であり、市民的行為とは、公的領域において「死んだ子供」という迷信が止揚されるべく振舞うことです。「自由な社会」が「死んだ子供」それ自体を目的とするなら、公的領域など要らない。一切を共同幻想で塗り潰せばよい――靖国神社の境内のように。


「「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回る」こと、それが「僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であること」。私がシカトしているとtikani_nemuru_Mさんが主張される「知識」がそのことなら、こちらのアンサーは以上です。私は、「死んだ子供」を止揚するための公的領域を要請する「自由な社会」を是とするので、「死んだ子供」を目的とするムラ社会は真っ平御免です。価値判断の問題です。これは、リベラリストにとって、あるいは近代主義者にとって、イロハのイのような前提と思いますが。


レヴィ=ストロースも先祖返りは是としないでしょう。先祖返りとは、区別と差別の弁別を巻き戻すことです。人類社会は、近代の達成である諸価値において、区別と差別を弁別してきました。トイレの♂♀別は差別ではないが、しかしGIDにおいて差別問題たりうる。そうした精緻な議論が交わされるのがリベラリズムです。念の為に申し上げておきますが、レヴィ=ストロースがフィールドワークしたような社会にあっては「売春婦」は区別の対象です。♀は共同体の所有物なので。それを「差別」と近代の達成である諸価値は呼ぶことにしました。で。

その曲解の検討は後でするとして、「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を都市のモラルとして言祝ぐことが僕には理解できるものではにゃー。都市には確かに好意的無関心というものがあるけれども、それは互いをニンゲンと認めているからだにゃ。「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」に個人の尊厳などどこにもなく、ここから帰結するのは女工哀史自動車絶望工場であり秋葉原ダガーナイフによる無差別殺傷、あるいは♀を「輸入」して強制売春させ、妊娠でもしたら強制中絶して血の一滴まで搾り取ることがほっておかれる、つまりは他者への恐るべき無関心と冷酷さが帰結することになるんでにゃーの。


こういうのを真正の感情論と言います。「他者への恐るべき無関心と冷酷さ」が「自由な社会」の前提であり、条件であるからこそ私たちは近代の達成である諸価値において区別と差別を弁別し、「死んだ子供」を止揚するために公的領域を要請し、公的領域において「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞うことに市民として合意する。


それが、社会合意であり、自由民主主義政体の起源にある考え方です。「他者への恐るべき無関心と冷酷さ」がキリスト教の教義に埋め込まれていた価値観か、と問うなら私はYESです。そして、その洗練の結果としてあるのが人権思想と考える。もちろん、これは人権思想批判ではない。キリスト教批判でもない。ただ、そのようなものとしてある人権思想をレヴィ=ストロースは批判しました。


――tikani_nemuru_Mさんによれば「曲解」とのことですが、反論を拝見した限りでも、レヴィ=ストロースに対する見解の相違、というのが私の判断です。それが議論の本筋ならそちらについて論じても構いませんが――レヴィ=ストロースがルソーを否定したと私はまったく書いていないのですが、そのようなレベルで応酬を繰り返してもたぶん横道でしょう。本筋。

まあ、確かに現在の都市は「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」になっちゃったのかもしれにゃーがね。それは言祝ぐようなものではにゃーよ。島宇宙を言祝いでどうすんの?

島宇宙ってのは、多様性・多元性が個々人にとっては何の意味も持たにゃーということにゃんぞ。

「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」ということ、つまり他者の存在による多様性が各個人において何も意味がにゃー多様性を言祝ぐのであれば、民族学のフィールドワークなんて面倒なことしてにゃーで、奪いつくし焼きつくし殺しつくして、戦利品を博物館に入れとけばいいだろ。大蟻食のいうとおり、みんななかったことになるだろにゃ。

「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を言祝ぐ多様性というのは、「博物館にいろんな珍しいものがあります」という多様性でしかにゃーよ。



そういう多様性を拒絶するから、誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースを引っ張り出して、受苦だの内省だの死んだ子供の祟りだの共苦だのといった宗教がかったオカルトをしゃべっているんだにゃ*2。


下部構造においても上部構造にあっても――個人の代替可能性は近代の宿命です。それに対する反動として前世紀前半のオカルティズムとファシズムはあった。付け加えるなら精神分析の流行も。誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースは、また大戦の時代を生きたレヴィ=ストロースは、近代の宿命としてある個人の代替可能性に対する反動としてのオカルティズムを言祝ぐようなことはしなかった。それは、民俗学に埋め込まれていた「他者の発見」という価値そのものです。


オカルティズムもファシズムも、付け加えるなら精神分析におけるユングの台頭も、「他者の発見」からもっとも遠かった。別の言い方をするなら。近代の宿命である個人の代替可能性と近代の達成である諸価値は相互補完の関係にある――たとえば人権思想は。大戦後、サルトルはそれをこそ否定してアンガージュマンを掲げたし、たとえばトーマス・マンは『ヨゼフとその兄弟』を著しました。ドラッカーがマネジメントを提唱したのも同じ時代のことです。

以前のエントリで、「野生の思考」の第1章を僕なりに読んで以下のようにまとめましたにゃ。

  • 呪術=人間の知覚および想像力のレベルをねらった認識の様式。記号的であり、その把握する現実に人間性をもちこむことが容認され、または要求される。
  • 科学=人間の知覚および想像力のレベルを忌避した認識の様式。概念的であり、その把握する現実に対して全的に透明であろうとする。

そして「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」とレヴィ=ストロースは言っていますにゃ。

さて

この呪術と科学の定義は、私見ではローチの「表現の自由を脅すもの」と「自由科学」とにキレーに対応しますにゃ。ローチは両者を対立するものとみなしているけれど、僕はレヴィ=ストロースにしたがって両者を並置させたいと考えますにゃ。なぜなら、呪術/科学は、真正な社会/非真正な社会にそれぞれ対応するものだからですにゃ。僕たちは、真正な社会/非真正な社会という二重の社会を生きなければならにゃー。二重の社会については、以前にもリンクしたものを引用して再リンクしますにゃ。

多分、sk-44と僕の公共圏のイメージで1番違うのは、僕が中間団体を重視する点にあるような気がしますにゃ。そして、この国で中間団体を維持していくとなれば、「世間様」的なるものをどうするかを考えなくてはならにゃー。

そもそも世間とは「人々が長い間育んできた原社会とでもいうべきもの」「人と人を結びつける原基的意識形態」なのであり、レヴィ=ストロースのいう「悪弊や犯罪の背後にある人間社会の確乎たる基礎」といえるものですにゃ。こういうものに対し「真っ平御免」ではすまにゃーので、リサイクルしたいのですにゃ。

「世間様」の恐ろしさと凶悪さはちっとはわかっているつもりにゃんが、それでもその「柔らかな構造」をあてこんでいくしかにゃー。「死んだ子供」をそこに封じて、公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー。公権力の領域においてはローチの自由科学でいくべきなのですにゃ。


そもそも、私は阿部謹也の世間論に必ずしも同意しないので、tikani_nemuru_Mさんの「世間様」の典拠が阿部謹也であったことに成程とは思っています。阿部謹也の世間論は丸谷才一山崎正和のような日本的市民社会論でもないので、そうした市民社会論ならまだ私は同意するのですが。レヴィ=ストロース阿部謹也が直線で結ばれるのは、tikani_nemuru_Mさんが「中間団体を重視する」のは、社会の原型を彼らの議論の場所にtikani_nemuru_Mさんが見ているから、ですよね。それは、私とは根本的に社会観が違う。レヴィ=ストロース阿部謹也が立っていたメタな位置、という話でもあるのですが。


「「死んだ子供」をそこに封じて、公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー。公権力の領域においてはローチの自由科学でいくべきなのですにゃ。」この点で、私と全然考え方が違う。


「死んだ子供」は世間様の「柔らかな構造」に封じるのではなく、社会の名において止揚されなければならない。「公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー」のではなく、公権力の領域としてある公的領域においてこそ「死んだ子供」が止揚されなければならない。「死んだ子供」を社会の名において止揚するために公的領域が要請される。そのとき、公権力に対する掣肘として公的領域は要請される。だから、私は裁判員制度に賛成です。そして、原理的死刑廃止論者です。


先般、前上博と山地悠紀夫の死刑が執行されました。靖国の英霊に形式的にしか黙祷したことのない私ですが、線香の代わりに煙草で、個人的に黙祷しました。それは、私にとっての「死んだ子供」つまり「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」のひとつです。この社会は「死んだ子供」をそのように止揚している、そして執行は人知れず行われ事後の発表のみが公権力の領域を表象する。


だから私は裁判員制度に賛成です。この社会が「死んだ子供」をそのように止揚していることに同意して、彼らは控訴を取り下げたのでしょう。加藤智大の行為も、そのようにして止揚される。それが共同幻想でなくして何であるか私はさっぱりわかりませんが。この「東洋の土人部落」において、裁判員制度なくして、心の問題を公的領域へと止揚しうる「死んだ子供」の親は、つまり市民の自覚は、育まれることはない。本村洋氏は稀有な人でした。


世間様の「柔らかな構造」は、国家幻想において止揚される。そして動員と暴力が横行する。それもまた、近代の宿命です。そして私たちは先祖返りすることはできない。「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」が現在の近代社会に対する「べき論」として述べられるなら、近代主義を経たリベラリズムの立場からは、それは先祖返りの反動としか言えません。


現在の近代社会に対する「べき論」として、すなわち価値判断として、レヴィ=ストロースは述べてはいない。それが、私のtikani_nemuru_Mさんに対する指摘の趣旨ですが、それを「「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を都市のモラルとして言祝ぐsk-44は、レヴィ=ストロースを自分に都合よく曲解していく。」と記述するのがtikani_nemuru_Mさんの議論作法であることは了解しました。誤読はお互い様ですが、また挑発もお互い様ですが、その記述は誤りです。


世間様を当て込んでいる限り、レヴィ=ストロースの主張をベタに受け取っている限り、英仏独がそうしたようには、この国において死刑は廃止されないでしょう。だから、私は、裁判員制度に賛成。これは、普通の近代主義の立場だと思いますが。「真っ平御免」とは、そのことです。レヴィ=ストロースもまた「真っ平御免」とメタには言っている、ということです。


なので――tikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロースを引いて主張しておられる「真正な社会」という話には、まったくついていけない。それは先祖返りです。グローバリゼーションとは下部構造の問題です。マクドナルド化島宇宙化も世界の選択です。これが「知識」の問題。そして、それ自体は私は是です。ただし、人権思想にはコミットします。ひいては自由民主主義政体にも社会合意にも、表現の自由にも。これが「価値」の問題です。


ただ。

これは、パスが勝手に言っていることではにゃーんだな。「民族学は西欧の《悔恨》から生まれている」とレヴィ=ストロースも「悲しき熱帯」で言っていますにゃ。

価値が最初から埋め込まれているからこそ、価値を括弧に入れることができたのですにゃ。そして埋め込まれているその価値は「わたしという存在はあなたという存在があってはじめて生きるのだという」「内省」という価値だとパスは言いますにゃ。


これはその通りです。そして、レヴィ=ストロースを育んだ社会に「悔恨」はあっても、レヴィ=ストロースがフィールドワークした社会に必ずしもそれはなかった。他者を発見することができたのは、レヴィ=ストロースを育んだ、「内省」という価値の埋め込まれた社会であり、レヴィ=ストロース水木しげるではなかったので、彼を育んだ「内省」という価値の埋め込まれた社会にしか自分の居場所がないことを知っていた。近代の達成である諸価値を国旗に掲げる社会に。国家主義的な社会に。民族学に発するフィールドワークが、そもそもそういうものなのですが。「族」「俗」違いといえ、柳田國男がそうであったように。

自由主義の帰結といえる世界のマクドナルド化島宇宙化ってのは、実際には多様性の縮減だろうという指摘をきれいにスルーしたうえで、さらりとこんなことを言われてもにゃー(ぽりぽり


「指摘をきれいにスルー」? 『美人投票の果てに』で私が書いたこととと同じ話をしておられると判断しましたが。水は低きに流れます。「実際には多様性の縮減だろう」という話には普通に同意です。ところで、tikani_nemuru_Mさんは私の指摘をいくつスルーしてきましたか。「世界のマクドナルド化島宇宙化」など下部構造では擬似問題にすぎない。表象の商業的流通の問題とは、水が低きに流れることです。「水は低きに流れるもの」と言ってしまえばそこで終わります。それが下部構造の問題です。水が低きに流れることと人権問題は違う。下部構造において問われるべきは、人権問題です。


そもそも。共同体に遺棄された者、「人々が長い間育んできた原社会」とやらにあっては殺されるか「区別」されるしかない者、マージナライズどころか、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者のために、自由民主主義政体とその社会はある。


近代以前にあっては、世間様という名の共同体的社会から排除されることが、この世界のどこにも居場所がないことを意味した――キリスト教の教義に埋め込まれていた価値も、それを洗練させたものとしての人権思想もなかった世界では。人権思想が知識層にあって普及してなお、民族国家という共同幻想が要請されたのは、不完全な社会の定石でしかない。結果、オカルティズムとファシズムであったわけですが、しかし、それを批判することは、個人の代替可能性という近代の宿命をスターリニズムをもって替えることではない。


ハンセン氏病患者が世間様においてどのような扱いを受けてきたか承知ですよね。レヴィ=ストロースがフィールドワークしたような社会にあってハンセン氏病患者が「区別」されてきたことも。HIVに対する偏見はなんら根絶されたわけではない。


中間団体が利権の巣窟だから構造改革、というのが小泉純一郎のスローガンでした。小泉構造改革の是非は措き、中間団体が利権の巣窟であることは同意です。中間団体とは、コネクションのことであり、警察一家のことであり、非合法の警察であるところの任侠一家のことです。総じて代紋商売です。それはそれで、かつては宅間守のようなゴンタクレの受け皿になったものですが。tikani_nemuru_Mさんが言祝いでおられる教会コミュニティとは別の話でしょうが、それが本邦の世間様です。私は好きだけど――花村萬月の小説のようには必ずしもこの世界はできていない。


他者を尊重することと、世間様や共同体的社会を尊重することは、全然違います。他者を尊重するためにこそ、世間様や共同体的社会を真っ平御免とする。馴致と包摂は違う。他者を包摂しようとして、共同体的ではない「自由な社会」が要請される。それが、リベラルの価値判断です。他者とは、加藤智大のことであり、宅間守のことであり、前上博のことであり、山地悠紀夫のことであり、福田孝行のことであり、かつてのオウム真理教の信徒のことです。――ここで『A2』に言及すればますます議論は入り組むのですが。加藤智大も、宅間守も、前上博も、山地由紀夫も、福田孝行も、その罪を許す宗教があり、現に執行の際は神父が直前に立ち会う。しかしオウム真理教の信徒は? 死刑囚がノーサンキューと言ったなら?


――だから、「死んだ子供」は公的領域に帰属する社会において止揚されなければならない。そして、「死んだ子供」が公的領域に帰属する社会において止揚されるとき、彼らの内心は彼らのものです。私は前提として近代主義なので、レヴィ=ストロースの真正性云々をもって現在の近代社会を価値判断的に論じるなら、それはポストモダン的反動としか言えません。私は退けるものです。もちろん、レヴィ=ストロースポストモダン的反動だと言っているのではない。


価値判断の話をしているのでないのなら、Midasさんが私やtikani_nemuru_Mさんに対して述べておられる一連の指摘で終了です。――上部構造がガラガラポンポストモダン的現実にあって下部構造を公共圏論で掣肘しうると考えることがそもそも頭がおかしいし偽善者のカマトトでありスターリニズムの入口である、と。それはそうなんだけどね、と私の実感としても「知識」に照らしても思うところです。


共同体に遺棄された者、中間団体の利権に与らなかった者、「人々が長い間育んできた原社会」とやらにあっては殺されるか「区別」されるしかない者、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者。――キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が、彼らや彼女たちのために社会を物心として要請すること。そのことが、表現の自由の意味としてある。しかし。


「死んだ子供」を止揚するために公的領域が要請される。その公的領域にあって「死んだ子供」が社会に止揚されるべく私たちが市民として振舞うことが社会合意であり、その社会合意が自由民主主義政体の起源としてある以上、公的領域の問題として表現の自由を問うことは、公的領域を用意した人権思想ならびに自由民主主義政体をその起源において問い直すことであり、それは、表現の自由の意味を規定する人権思想の二重性を承知することでもある。――これが、千日手の実相です。


表現の自由に付く紐という話なら、このようには言えます。公的領域を用意した人権思想ならびに自由民主主義政体の起源を問うことと表現の自由を公的領域の問題として問うことは密接に連関しており、ゆえに近代の達成である諸価値は輻輳している、と。ただし、そのことは、人権侵害として問えることではないし、「表現の自由には他者という紐が付いている」とクリアに言い換えうるものではありません。公的領域がなんら要請されない共同幻想に支配された南米の土人部落をフィールドワークしたレヴィ=ストロースが、人権思想ならびに自由民主主義政体をなんら否定しないように。そして、表現の自由は、自由民主主義政体の基盤です。


言ってしまえば。ムハンマドの風刺画を描く自由は当然ある。それが、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が規定する表現の自由の意味であり、価値だからです。しかし、「汝の隣人を愛せよ」ともイエスは言った。ムハンマドの風刺画を描く自由は当然あるが、しかし、ムハンマドの風刺画を描こうとするそのとき、「死んだ子供」を止揚するために要請された――すなわち他者との衝突を調停するために要請された――公的領域において「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞う市民の責務を、社会合意の何たるかを、自由民主主義政体の起源とその正統性の在処を、私たちは問い直し、顧みなければならない。


――このような話をtikani_nemuru_Mさんがされていたなら、私としては普通に同意するのですが。「他者への配慮の問題」と一言でまとめる議論にも、「表現の自由には他者という紐が付いている」という話にも、乗れません。なぜなら、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者のために要請されるのが社会であり、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者のための社会を要請するのは人権思想であり、その根底にはキリスト教の教義に埋め込まれていた価値と、自由民主主義政体の基盤としての表現の自由がある。根底にあるものは、輻輳しているがゆえに、時に衝突する。主義としての自由主義は、タダ乗りを認めるものです。


そして念押ししておきますが、中間団体の存在と表現の自由はなんら関係がない。中間団体の論理を退けるから表現の自由です。中間団体の論理に人権思想は優先する。そのために社会は要請される。――戦後日本がそうでなかったことは周知の事実です。だから創価学会が躍進し、自民党55年体制を維持し、経済成長と消費社会と不況を経て、現在の「マクドナルド化島宇宙化」をもたらした。それは、分断された社会の謂です。「多様性の縮減」の様相とはそのことなので、この期に及んで「中間団体を重視」することは、私はできません。価値判断の問題に限ったことではまるでない。在特会の成長は、排外主義の活発化は、中間団体の崩壊の証左です。


沢田美喜は稀有な人物でしたが、エリザベス・サンダースホームが存在する社会は、社会の名に値しない。終戦直後ならともかく、21世紀になってなお、世間様は、公的領域がなんら要請されず公権力が掣肘されることもないこの東洋の土人部落は、エリザベス・サンダースホームを過去の話にはしない。価値判断の話をされていたのだと理解しています。私はナショナリストなので、レヴィ=ストロースに言及してこの国の世間様を肯定的に論じられると何だかなぁと思うのです。この東洋の土人部落は、レヴィ=ストロースにとって、フィールドワークの対象です。


本筋での異論としては、こんなところでしょうか。私は表現規制反対に際してキリスト教を批判した記憶はないのですが、やはり誤解されてしまったようで残念なことです。これで議論が前進するなら何より。なお、『公共圏についての個にゃん的イメージ』と題された結部の整理的な記述には――その社会観にもハーバーマスに対する見解にも――概ね異論ありません。ただ。

ハーバーマスによれば、公共圏とはもともと私的領域の拡大したもの。ここでは、会社組織や地域共同体、あるいはゼミやサークル、宗教団体・教会、NPO、NGOなどの中間団体を想定している。それぞれの団体固有の価値が組み込まれている。

家庭ではないが、個人が直接所属し、個人を包含し、個人を抑圧もすれば守りもするもの。昔のムラ社会とちがって、現代ではある程度自分の所属する共同体を選ぶことができる。

それぞれの団体の性格にもよるが、内部での諸個人による討議はあってしかるべき。


これが無理だからムラ社会なのですが。中間団体の成立とその崩壊と市民社会としてのその再生の模索の歴史がドイツとは違う。日本社会はこれから、80年遅れで、(敗戦をもってさえ崩壊しなかった)中間団体の崩壊と共に動員と暴力の時代へと突入するのでしょう。再生を模索すべき市民社会もないままに。もちろん、民主党政権のことを言っているのではない。その後のこと。