自由な社会のセキュリティホール


2009.6.19: 日記


蹂躙の肯定はこのように具体的な形を取るか、と改めて閉口したのは確かです。当然、言論の自由は個々人の傷付く心と関係がない。言論の自由を制限しうる公共の利益は個々人の傷付く心と直接には関係がない。個々人の傷付く心の問題は人権問題ではない。


これは、古典的な自由主義の原則です。個人の傷付く心の問題は、自由の問題でも人権の問題でもない。貴方の傷付く心の問題は貴方が手当てすべき問題であり、この利権で動く国家の、それも法的規制において、傷付く心の手当てを要求するなど、自由の価値を毀損する論外の行為である、と。


少なくとも、表現規制を行政サービスと捉えることを退ける自由主義においてこの基本線は動かないのですが、しかし、個々人の傷付く心の問題は存在する。そして、その場所に、現存する差別構造が圧倒的な非対称性として作動している。自由で寛容な社会の差別問題とはそのことで、そのとき、表現の自由は人の心に傷を負わせる公的な許可証として機能している。


「人の心を傷付けてでも」為される表現のその自由は、公的な許可証と化して、「人の心を傷付けるために」為される表現の自由へと引っ繰り返った。業界によるゾーニングの選択は、この伝ではコモンセンスに即した判断と考えます。


日本国の刑法において、肉体の問題は他者危害として存在しても、心の問題は他者危害として存在しない。性犯罪は当然、肉体の問題です。21世紀の先進国の話ですが。そして、傷付く心は存在し、歴史的差別構造がその背景にある。ここに致命的なセキュリティホールが存在することはどんな馬鹿でも容易に気が付くことですが、そのことを問題として問うことが難しいのは、自由な社会のセキュリティホールは同時に、表現の自由において個人の内心の自由を贖うからです。


致命的なセキュリティホールを放置することが、自由な社会である、ということ。当然、それは、放置することのリスクに対してコミットする、構成員の高い自覚を要求する社会です。近代が獲得してきた諸価値であるところの自由を借り物として実装する際、理念型を前提する現実解は――致命的なセキュリティホールを放置することのリスクに耐えない社会において高い自覚を備えた――社会の全員ではない――構成員が要所においてコミットすること。自由な社会がその実装のために払うコストは、とてつもなく高い。


自由な社会とは、表現の自由において贖われる個人の内心の自由のために、自明なセキュリティホールを放置する社会であり、当然、セキュリティホールを放置することのリスクに対してコミットしなければ、自由な社会自体の脆弱性が覿面に露呈する。その、自由な社会の危機は、同時に、個人の内心の自由に及ぶ危機でもある。なぜなら、セキュリティホールを放置できないと考えたとき、脆弱性対策はシステムの再設計に及ぶ。セキュリティホールを人の内心という悪に由来すると考える発想は、内心の統制を設計仕様に書き込むからです。


言うまでもなく、内心は既に統制されています。私たちが自由な社会と能天気に信じる自由な社会は、内心の統制によってセキュリティホールにパッチを当てて達成されている自由な社会です。脆弱性対策において内心の統制は端から仕様に書き込まれている。そしてそれは実装されている。その官民相乗りの実装の一端がプロレフィードであるとき、陵辱表現はそうではないものとしてありうるか。だから――表象は読み解かれなければならない。


私たちは、セキュリティホールにパッチを当てられた自由を享受して、セキュリティホールを放置するリスクとそれに対するコミットを考える必要もなく、表現の自由においてヘイトスピーチを垂れ流す。そのとき、マイノリティや性犯罪被害者の心が堂々傷付けられるのは、歴史的差別構造上、それが近代の達成としての諸価値を一切顧みない国家の都合だからです。


結果、「差別意識は顔に出すな」の妥協点においてサイバネティックスとその結論としての監視社会が進行する。環境管理型権力は、自明だったにせよ、露呈した自由な社会の脆弱性に対するコンサバの落としどころです――官民合作のお仕着せの自由な社会にあって個人の尊厳としての内心の自由を守らんとすることの。


仰る通り、諸価値の達成において近代は、傷付く心の問題を遺棄してきました。だからその反動が来る。一挙に押し寄せることがある。時にバックラッシュとして。そして、遺棄されたことから差別構造の暴力にさらされ続ける、圧倒的に非対称な、傷を負わされた心によって。


表現の自由は表現によって傷付く心を守るためにあるのではない。傷付く心は人権問題ではない。だから、心を傷付けるために表現の自由を行使する者はいつだって出てくる。それは原理的正解です。しかしその背景には、歴史的差別構造があり、傷付くこと傷付けることの圧倒的な非対称がある。本朝には、ホロコースト宗教戦争もなかった。1945年の敗戦があった。それが政府公式見解です。近代の達成である諸価値を体現しているか到底心許ない政府の。


たとえ理念型としてであれ、近代の獲得した価値であるところの「自由」の社会における実装に際するセキュリティホールを知り、端的に脆弱性としてあるそれを放置することのリスクに対して社会の構成員がコミットしないなら、借り物であるがゆえにいっそう、好むと好まざるとに関わらず、人はセキュリティホールにパッチを当てようとするでしょう。パッチは実装において統制でしかなく、私たちは既に統制されている内心をかろうじて官民合作の自由から守るべく「差別意識は顔に出すな」において妥協する。規制は措き、陵辱ゲームは表通りに出すな、と。


「当然、次に来るのは合意の浸透による表現自体の自然消滅でしょう」という記述は了解しかねます。社会的合意が浸透して自然消滅する表現ならそれだけの表現に過ぎない、ということなら同意します。当然、と見通しうる話かはわかりません――陵辱表現に対しても、表象を読み解くことによる政治的原罪の指摘に基づく社会的合意の浸透についても。当然、と見通しうる話かわからないから、自由の議論でなく公私概念の合意において私たちは社会的合意を暫定的に代替する。その、ある種の欺瞞を構成員が承知することなくして、もはや公私は区別されない――そう私は考えます。


この世の炎上を望むことは当然です――私は鈍感なので望みませんが。しかしこの世の炎上を望むことは、プラクティカルには応仁の乱を望むのではなく統制をしか望まない。望みようがない。当然、応仁の乱は現代において心の問題を累乗的に撒き散らすことでしかないことを、みな知っているからです。それも、圧倒的な非対称性において。血で血を洗う内戦のトラウマさえ、本朝には存在しない。それが政府公式見解です。日本政府におかれては、概ねユーゴ紛争は他人事です。


傷付く心の手当てが、行政サービスとして達成されない社会は糞かと問うなら、私は糞と答えます。しかし利害の一致において国家の統制を是とするなら、利害の一致しない者は表現の自由を持ち出すでしょう。その表現の自由さえ、国家の統制の手札とされているのが現状ですが。


傷付く心の問題は当然存在します。しかし、それを制度への実装として位置付ける設計仕様は、諸価値不在のこの国において現在存在しないし、およそ当面存在しません。だから、自警団の話しか私はできないし、そして当然自警団は、公共という名の利益のために動きます。テクニカルな議論を退ける限り、近代の達成である諸価値において議論することとゾーニングは一致しません。しかし、近代の達成である諸価値を政治的資源としてプラクティカルに綱引きするなら、ゾーニングは暫定解です。その暫定解さえ危ういのが現状です。


商売の問題ではなく、近代の達成である諸価値の問題です。傷付く心を主張することと保守反動のバックラッシュは、時に似ています。そのような判断が、傷付く心の問題を反動と区別しない自由主義の傲慢とヘイトスピーカーの自己肯定であるとしても。究極的には、バランサーとしての判断しか、現実的な暫定解としては――求めるならば――求めようがない。やはり、私はそう考えます。それが表現の問題であり、表象の問題であるなら。


自由な社会がその実装のために払うコストは、理念型を前提したとき、とてつもなく高い。吝嗇家は、暫定解とも緊急避難とも思わず、統制を採るでしょう。私は賛成できません。たとえそれが傷付く心の問題と、歴史的差別構造を背景とする、傷付くこと傷付けることの圧倒的な非対称の問題であっても。近代が獲得してきた価値であるところの自由は、馬鹿高いコストを払ってでも社会に実装さるべき理念と、先人の苦闘に敬意を払って、私は思うからです。


むろん、コストを払うこととは、個々人が「強く(=鈍感に)」なることでも歴史段階論に即して理念のために個人の短い生を犠牲にすることでもない。コストを払うこととは、第一に、自由のために傷付く他者の心を理念型において包摂することであり、どのみち相互理解が不可能である以上現実的な暫定解を採るしかないにせよ、断じてセキュリティホールの存在を否認することではない。その吝嗇が、獅子身中の虫として、自由な社会の実装に際する脆弱性としてある。吝嗇に、自由主義も保守反動も区別はありません。もちろん、コンサバの私もケチっているのですが。