暴力と擬似暴力、ベタとメタ


「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

「レイプレイ」と言論の自由、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。


そのような話をするのなら、「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通に両立する、でFAです。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことはヘイトスピーチではない。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通には両立しない、という結論は「差別意識は顔に出すな」以外のどこから出てくるのか。見当は付きますけど。メディアがメッセージとして機能している以上、ヘイトスピーチに等しい陵辱表現の、その意義を説け――か。


先日、交際相手からレイプゲームについて訊かれて心停止しかけた。ブログが彼女バレしたら死ねるが、そうではなかった、よかった。レイプシミュレータってなにそれ、と言われた。


ブックマークコメントでローティに言及している人があって、確かに私もローティを想起した。私の返答は、やはり――「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通に両立する。しかし、人と人の間に暮らすとき、「陵辱」を「陵辱」として愉しむことが問われうることがあるだろう。当然、それは「大きなお世話だ」と返答してよいことだが、しかし人と人の間に暮らすことは大きなお世話を慎むことか。倫理学的にはそうなる、が、ローティは、それをこそ退けた。


レイプシミュレータってなにそれ、と私に訊いた交際相手は、要するに陵辱表現の意義について私に尋ねていた。いや、私がエロゲやらないことは知っているが、フライトシミュレータでレインボーブリッジくぐろうとしてハイジャックしちゃいけません、と私が余計なことを言ったのがまずかった。


さて。陵辱に意義はないが陵辱表現には意義がある。ガス抜きということではない。人間は夢を見る。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことは、擬似暴力ではあるが、暴力ではない。擬似暴力と暴力は違う。


半田溶助女狩り (プレイコミックス)

半田溶助女狩り (プレイコミックス)


『半田溶助女狩り』というありえないタイトルの素晴らしいマンガに、半紙に筆で書かれた『女』という字を見ただけで勃起する主人公半田溶助が登場する。表象の性暴力とは何かと問われたとき、私はこう説明する。『女』という字に対してフィジカルに反応する社会的な文脈のことだ、と。


言うまでもなく、字は女性ではない。しかし『女』という字に対してフィジカルに反応する社会的な文脈について人類はよく訓練されてしまった。その社会的な文脈が差別構造であり現在形の暴力である、ということは言える。字の問題は人権の問題ではないが、『女』という字に対してフィジカルに反応する社会的な文脈は現在形の暴力の問題か、と問うならNOとは私は言えない。


で、ローティ的に21世紀における陵辱表現の意義を述べるなら、社会的な文脈に私たちのフィジカルな欲望が規定されている、そのことをメタフィジカルに知ること、でしょう。それは、自由について、誰かの自由を奪う世界のシステムについて、考えることではないか。たとえば、規制論に断固反対するような。


暴力と擬似暴力は違う。暴力には意義はないが、擬似暴力には意義がある。問題は、メディアがメッセージとして機能するために、擬似暴力が暴力として、言い換えるならメタがベタとして、現実の暴力にさらされている人に受け取られることです。


そのとき、暴力と擬似暴力は違う、メタをベタと取るな、とリテラシーを説くことは、駄目でしょう。先方は感情論だから、と言ってもいいけど、私に言わせれば、暴力と受け取る人にとってそれは紛れもなくベタなのだから、擬似暴力だメタだと指摘してもこちらの都合です。政治的に考えるなら、ということ。


で、私が交際相手と話して改めて思ったのは、レイプシミュレータを暴力と受け取る人にとって、それは紛れもなくベタであるということ。また、ベタであることの理由はわかる。狼男は世の中に多い。その話は彼女からも聞いている。


そのとき。レイプシミュレータは擬似暴力であって、弧で括られた「陵辱」を「陵辱」として愉しむための密室でプレイされるゲームであり、事態はフィジカルでなくメタフィジカルである――と言うか。言ったけど、それはいちおう親しき仲だから。ローティ的に振舞った、と。


陵辱表現の意義とは、暴力を擬似暴力にしてしまうことの意義であり、暴力という人類社会最大のベタをメタ化してしまうことの意義であり、社会的な文脈に規定される私たちのフィジカルな欲望についてメタフィジカルに知ることの意義です。そして、誰かの自由を奪う世界のシステムについて心得る意義は、陵辱表現にはない。それを総じて、調教とも訓練とも去勢とも言いますが。しかし、調教と訓練と去勢が、文明人の倫理の源泉なのだから。


そして文明人は、メタフィジカルな擬似暴力をベタでフィジカルな暴力と受け取る低リテラシーな野蛮人について「これだから女性の感情論は」と指して、彼らや彼女たちがベタな暴力にさらされていることについて思いを馳せることがない。――これはまさに、mojimojiさんも言及しておられるヨーロッパのムスリムの話です。


mojimojiさんやhokusyuさんが改めて指摘しておられることについては、私は以上の見解を持つので、レイプシミュレータにベタでフィジカルな暴力を受け取った他者に対してそれをメタフィジカルな擬似暴力と主張することは、些か微妙と思う。


陵辱表現の意義は、それがメタフィジカルな擬似暴力であるところにあるが、しかしそれをベタでフィジカルな暴力と受け取る他者に対して、擬似暴力のメタフィジカルを主張したところで始まるまいし、感情論と却下することはもっと始まらない。人間は類推する。


そして「メディアがメッセージとして機能している以上、ヘイトスピーチに等しい陵辱表現の、その意義を説け」というmojimojiさんの要求は、人間が類推する以上、その意図を裏切るものでしかないからこそ、誤っている。マクルーハンの時代はともかく、現在、メディアは、メタメッセージとして機能します。そして、21世紀の洗練されたヘイトスピーチは、メタメッセージとして発動する。たとえば風刺として。


陵辱表現の意義を説くことは、メタメッセージの意義を説くことであり、欧米においてもムハンマド風刺画がそうであったように、メタメッセージはヘイトスピーチではないのだから。そしてメタメッセージが、それをベタな暴力として受け取る他者がさらされている現実の暴力に対して私たちを盲目にするなら、それはまずい。


もちろんこれは、表現の自由の紐の話ではないし、規制云々関係ない。規制をちらつかせて倫理を説くことはやめていただきたいと思う。が。言うまでもなく私の法律観においては倫理と法は違う。


地上波の深夜で放送していた『キングダム・オブ・ヘブン』風に言うなら――虐殺を避けるためにこそ、私たちは、たとえばムハンマド風刺画のようなメタメッセージの意義を力説すべきではない。メタメッセージの意義を説くことは、誰かの自由を奪う世界システムのコードの、格好の方便なのだから。だからこそ、陵辱表現には意義があり「ヘイトスピーチたりえない」。そしてそのことに対して、規制論が提出される。


エド・ゲインが言ったように、世の中の役に立たないものなどない。ちなみに私の欲望は、暴力にしか用がなく、擬似暴力には用がない。にもかかわらず規制反対を主張しているのは、当然、私に用がないことと私の理路は関係がないから。そして、半紙に書かれた『女』の字と、陵辱表現は、メタメッセージのレベルにおいて、違う。