社会通念と表現


いくつかの失望と怒り - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー)


から、id:T-3donさんのコメント。

差別の受容と文脈に関しては、sk-44@地を這う難破船さんも論じていますね。正直、地下猫さんの論との差異が何処で生じるのか今一つよく解らない(からブクマコメントできない)んですが、この後明らかになるのではないかと期待を持っています。いまだ回り道の途上である、と私は考えますので。


ごく簡単に言うと。表現、というのは社会通念のコードに対する異議申立としてある。社会通念のコードをそのままなぞってしまうなら、それは表現ではない。表現論的にはそうなります。無自覚になぞってしまうならそれは素人だし、自覚的になぞってみせるならそれはプロの仕事です。プロの仕事とは、商業ということです。そして、そもそも社会通念のコードが(性差別に限らず)差別的であるとき、その差別性を自覚的になぞってみせるプロの仕事について看過することは妥当か。


その差別性がraceに対するものなら、社会状況的に考えて、看過されません。そのような社会通念のコードが肯定されてはならないからです。古典は、古典であることを理由として、あるいは歴史性を理由として、看過されます。ポルノが看過されるとき、その性差別性についてどう考えるか、それが問題です。


ポルノは商業であるがゆえに、需給の最適化において流通販売が制限されている。しかしインターネットやamazon様の御陰で制限が足りないという指摘はある。「だから」非合法化、という話は、私は採らない。tikani_nemuru_Mさんも採らないと言っている。


tikani_nemuru_Mさんは、「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性について、社会状況的に考えて、欧米におけるraceをコンセプトとする暴力表現同様に、看過されてはならないのではないか、と主張されている、と私は理解している。ただ、その「看過されてはならない」を法的な理路では考えない、ということ。しかし「看過されてはならない」は法的な理路へと変換されて容易に実装されかねないのも社会状況なので「看過されてはならない」それ自体が反撥を被っている。


そして。――「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性は、社会状況的に考えて、欧米におけるraceをコンセプトとする暴力表現同様に、看過されてはならないのではないか、現に日本社会における性犯罪の暗数は、ヘイトクライムと同様の問題を指し示している、にもかかわらず、「規制反対派」に「看過されるべき」と言っているか思っている者がいる――という立論になる。これが、私が理解する現在の対立。


で、私とtikani_nemuru_Mさんとの見解の差異は何処で生じるかというと。決定的な点は、私は「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性については「看過されるべき」と考えるのです。もうちょっと言うと、看過される社会を望む、ということです。自称「自由と寛容」の話をしているのではない。


それは、「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性が「社会通念のコードをそのままなぞってしまう」社会を望む、ということではない。逆で、「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性が社会通念のコードに対する異議申立としてある社会を望む、ということです。


望む対象は、社会であって「ある種のポルノ」ではない。そして、表現者を自認する「エロゲ屋」は「ある種のポルノ」が社会通念のコードに対する異議申立としてあることを、社会通念の如何に関わらず望むでしょう。表現者の矜持とはそういうことだから。


私が言っているのは、エロと内心の自由の連関です。たぶん、tikani_nemuru_Mさんは「ある種のポルノ」に内在する性差別性について「看過されてはならない」と、性犯罪の暗数に顕著な社会状況に鑑みて、考えておられる。


私がそう考えないのは――tikani_nemuru_Mさんに対する反論エントリでも書いた通り――性犯罪の暗数に顕著な社会状況とその性差別の深刻と、「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性とを、紐付けて考えることを退けるからです。因果や相関の話ではなく、早い話が、社会状況としての性差別の深刻を理由に表現に対して改良主義的な議論を展開することは端的に駄目な主張です。「看過されてはならない」のは、「ある種のポルノ」に内在する性差別性ではなく、社会状況としての性差別の深刻だからです。


社会状況としての性差別の深刻と、表現内在的な議論を連関させるべきではないということ。なぜなら、「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性が社会通念のコードに対する異議申立としてある社会を私は望むからです。「ある種のポルノ」に対して望むのではなく、社会に対して望むからです。なぜなら、「ある種のポルノ」もまた、表現だからです。


「黒人狩りゲーム」の流通販売が社会状況的に考えて看過されないのは、ヘイトクライムの存在を理由とするものではない。これは大事なことで、黒人狩りをコンセプトとするゲームの流通販売が社会状況的に考えて看過されないのは、当然政治的な理由であって、要するに、そのような社会通念のコードが肯定されてはならないから。


tikani_nemuru_Mさんが「応用問題」として持ち出した流通販売の確認されない架空のゲームと現実のヘイトクライムは、当然のことながら、なんら関係ない。では、その「黒人狩りゲーム」の流通販売を看過しない政治的な理由は、現実に存在する「ある種のポルノ」に対して敷衍されうるか。


されてはならない、というのが私の見解で、なぜなら、「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性が社会通念のコードに対する異議申立としてある社会を望む私は、社会通念のコードを否定するために表現のコードを否定することを、できる限り望まないからです。


社会状況としての性差別の深刻と、表現内在的な議論を連関させる、紐付ける、それは政治的な議論であって、性犯罪の暗数を根拠として主張されうる議論ではない。性犯罪の暗数に顕著な社会状況とその性差別の深刻に鑑みて「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性は看過されるべきでない、という議論は、規制云々を措いたところで、無理筋、というのが私の見解です。


なぜなら――因果や相関やエビデンスの以前に――性犯罪の暗数に顕著な深刻な性差別と「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性は、別個に論じられるべきだからです。一緒くたに論じるのは、たとえばラディカル・フェミニズムがそうであったように、政治的な議論です。tikani_nemuru_Mさんが政治的な議論をしておられることはわかる。ただし、政治的な議論について、性犯罪の暗数を論拠として主張することは、避けるべき、というのが私の見解です。


政治的な議論とは、社会通年のコードと表現のコードを一致させる議論で、社会通念の如何に関わらず、また表現の如何に関わらず、私はそれを採らないし、その理路は、たとえばNaokiTakahashiさんのような、矜持を持ち合わせる表現者は、認めないに決まっている。


ポルノに対して表現内在的に、社会通念のコードの反復を見る議論は絶えたことがないし、それは一定妥当です。しかし、社会通念のコードの反復も表現である、表現の自由は内在的な論拠において問われうるものではない、というのが「表現の自由」の理路です。社会通念のコードの反復は表現か、ということとは別に。


表現の自由」の理路を採らないとして、「ある種のポルノ」は、強姦ゲームは、社会通念のコードの反復か。表現内在的にそのことを論じうるか。仮に表現内在的にそうであっても、表象読解的にはそうではない、というのが、私の見解です。強姦ゲームにも、表現のコードはあり、それは当然のことながら、社会通念のコードと一致しない。


にもかかわらず、流通販売は社会通念のコードにおいて看過されたりされなかったりする。だからこそ、性犯罪の暗数に顕著な深刻な性差別を引いて「ある種のポルノ」の表現に内在する性差別性を問う政治的な議論を退けるとき「表現の自由」は主張される。つまり、政治的な議論は社会通念のコードにおいて流通の首根っこを事実上押さえつけている。そして、表現のコードを社会通念のコードと一致させようとしている。論者の好むと好まざるとに関わらず。


「ある種のポルノ」の消費の現場と、ヘイトクライムとしての性犯罪の現場と、性犯罪の暗数に顕著な深刻な性差別は、常に、一致しない。その不一致を、差別構造の現前として一致させること。それは、事実上の規制論であり、少なくとも表現の問題について、私の採るものではない。なぜなら、社会通念の如何に関わらず、社会通念のコードに対する異議申立として、表現はあるのだから。商業であっても、「ある種のポルノ」であっても、どのような表現であっても、必然的に。