欲望が問われるとき


リベラリズムと他者危害(追記アリ - 地下生活者の手遊び


流石と思ったけど――やはり私の見解とはこの点で決定的に相違する。

問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら(そういう表現者もとうぜんいるでしょう)、陵辱をテーマとした作品を作ればいいのです。


たとえ表現の自由に紐が付こうと、表現には紐が付かない。私はそう考える。Chim↑Pomのときも書いたけれど、原則論として、表現したい人は勝手に表現するのであって、その表現を社会的な文脈に位置付けるのは他者。「問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら」などという紐は、およそあらゆる表現に対して付いてはならない。だから、雉と射手の存在を同時に肯定してなお事態を収拾する法の執行について述べた。


Chim↑Pomと陵辱エロゲの相違点は、現代アートと商業ということで、だから市場の性質において「その表現を社会的な文脈に位置付ける他者」はそう多くはないし、つまりこれは東浩紀がかつて言っていた批評家不在という話でもある。そして、国際的な人権団体という文字通りの他者が「その表現を社会的な文脈に位置付ける」――批評家不在のゆえに。私は「戦略」の話に関心はないが、その話をするなら、この時点で最初から負け戦です。

理想をいえば、ゾーニング・レーティングなどの自主規制は、私的自治の圏域において、役人を相手ではなく、性暴力や児童の性被害問題にコミットしている方たちも巻き込んだ公開の議論をへて決定されるのが望ましいでしょう。公開の議論が前提ならば、差別問題へのコミットメントが製作者にとっても現実的な益になっていくでしょう。作品のクオリティが高まるという副次的な効果もあるかもしれません。


もちろん、意図して広島の空をピカッとさせたChim↑Pomは「問題の深刻さや被害者の心情を知」ろうとして被爆者団体と対話を重ねてきたし、一方、陵辱表現に脅威を感じる現実の性犯罪の「被害者の心情」に対して商業としてゾーニングと自主規制を選択してきた業界は「役人を相手ではなく、性暴力や児童の性被害問題にコミットしている方たちも巻き込んだ公開の議論をへて決定されるのが望ましい」とはまったく考えない。表現には紐は付かないが、商業表現には自主規制という紐が付く。だから表現論的には、そのことは問題になる。


とはいえ、表現論的には「役人を相手ではなく、性暴力や児童の性被害問題にコミットしている方たちも巻き込んだ公開の議論をへて決定されるのが望ましい」というのも問題。「私的自治の圏域」における自主規制肯定がそもそも問題。「戦略」の話に私同様関心がないように、tikani_nemuru_Mさんは表現論にも関心がないのだろうとは思う――「作品のクオリティ」には関心があっても。


以上が私の異論だけど、しかし。「おおきな応答責任」という話はわかる。他者を他者として見えなくさせるものとして差別構造はあり、その他者に対する不可視化という差別構造に準拠して――殊に二次元の――陵辱表現があることは、多い。そのとき、他者に対する不可視化という差別構造について貴方はどう考えているのか、という問いは問われうる。


tikani_nemuru_Mさんが『我が闘争』を引いて言っているように、またニーチェが喝破したように、道徳という概念は、他者に対する不可視化の現前としてある。念の為に付け加えると、ヒトラーが説いたのは生存闘争のための強者の道徳。


だから、私がmojimojiさんの主張に同意しうる点は、他者に対する不可視化という差別構造に準拠した表象としての陵辱表現に対して、表象された対象としての他者が他者として異議申立したとき、応答する責任が「私たち」にはあるだろう、ということ。「私たち」とは陵辱表現の愛好者のことではない。mojimojiさんもそう言っている。


なぜ応答する責任があるか。そのことが、他者を他者として受け止めることだから。他者を他者として受け止めることは応答することではない――デリダを外れて、私自身はそう考えるが、無言は沈黙でしかない。当然、これは倫理の問題。


陵辱表現をめぐる一連の主張について、私がmojimojiさんに対して思うことは、倫理綱領を社会綱領として主張することは勘弁してください、に尽きる。それがスターリンであることを承知ならなおのこと。倫理綱領は倫理綱領として、社会綱領は社会綱領として、別個に主張してください。仮にもリベラリストなら。


とはいえ、とまたねじくれるけど――フェミニズムの主張は、近代の原理としての反差別の形式性に対する異議申立としてあった。mojimojiさんはそれを倫理綱領として変奏してしまっているが、フェミニズムは近代の原理としての反差別の公的な形式性に対して、私的領域における暴力をも介した非対称関係の存在を指摘した。その意義は、当然のことながら、大きい。


問題は、私的領域における暴力を介した非対称関係の存在に対して、近代はその公的な原理において歴史的差別構造の現前として掣肘を加えるべきか、ということで、そのとき国家の法的介入が問われる。


tikani_nemuru_Mさんは、私的領域における暴力を介した非対称関係の存在に対して、近代はその公的な原理において、歴史的差別構造の現前、もしくは他者危害禁止原則からの逸脱として、掣肘を加えるべきと考えており、しかしそれは国家の法的介入によらずハーバーマス的な「私的自治の圏域において」行われることが望ましい、と考えている――私の了解では。


ラディカル・フェミニズムから受け取れること - モジモジ君のブログ。みたいな。


私が考えるのは、私的領域における暴力を介した非対称関係の存在に対して、近代はその公的な原理において歴史的差別構造の現前として掣肘を加えるべき、という議論の範疇に、現状幾重にもゾーニングされた陵辱ゲームを含めるべきか――ということ。


少なくとも「私的領域における暴力を介した非対称関係の存在」として、陵辱表現の愛好者と陵辱表現に脅威を感じる性犯罪被害者を指し示すことは、倫理綱領の議論としては了解しても、社会綱領の議論としては到底了解できない。つまり、それがmojimojiさんの議論。私はmojimojiさんの自由観を存じ上げているつもりだけど、倫理の議論における自由と、社会の議論における自由は、少なくとも法に及んで論じる以上、別個であるべきです。


ブクマ経由で拝見した。


「痴漢で感じる女なんていない」という暴力


当然のことだけど、話を早くするために性差別的な表現を使うと「上の口と下の口は違う」ということ。そして、上の口と下の口を近代的主体という観念において統合させる近代においては、上の口と下の口が違うことが、他者を毀損する暴力として発動する。そして、上の口と下の口が違っていようとその統合において法は加害者を処罰する――だから、個人の尊厳が下の口の問題にまで及ぶ。それは、大きなお世話というレベルの話ではない。端的に暴力です。下の口とは、つまり欲望と快楽の問題。


当然のことながら、人権とは、ひいては個人の尊厳とは上の口、つまり自由な自己決定の問題であって、他者危害禁止原則もこれに関わる。人権と個人の尊厳に対して欲望と快楽を云々することはまるっきり筋が違う。欲望と快楽において自由な自己決定など存在しない、というのがフロイト先生のテーゼであり、それをポストモダンに変奏して「自由な自己決定など存在しない」と言い切ってみせる言論はこの30年ほどの流行だが、プラクティカルにそれで得をするのは誰かというとレイピスト。


レイピストに得をさせたいとはハーバーマス的な市民は思わないので、人権ならびに個人の尊厳とは自由な自己決定とその剥奪の問題である、という話になり、法の議論になる。問題は、自由な自己決定の剥奪の回路が、様々に輻輳しているとき、そのどれに対して掣肘を加えるか、また法的に掣肘を加えうるか、ということ。


私がろくでもないと思うのは、法の議論と称して、自由な自己決定として陵辱表現を愛好する者に対して、欲望と快楽の問題として下の口を追求し挙句「彼ら/彼女ら」の不自由さを言挙げてみせる言論。不自由なのはその通り、というかそんなのは少なくとも「まともでない性」の持ち主におかれては(「まともな性」の持ち主と違って)否応なく自覚せざるをえないがゆえに周知の事項なので、問題は「それは自由な自己決定なのか」と公的にクエスチョンしてみせることが他者をどれほど貶め愚弄しているかわかっていないかあるいはわかっていてやっているバカorカマトトと、そのバカorカマトトが自由な自己決定を目指すべきものとして掲げ他者を言挙げてヘイトスピーチを唾棄してみせることの滑稽です。――mojimojiさんがしておられるのはそういうことです。


近代の公的な原理は、上の口と下の口の相違において、つまり自由な自己決定と欲望/快楽の相違において、他者を毀損する暴力として発動する。であるならば、近代批判としてその相違をこそ問題としなければならない。自由な自己決定を剥奪する暴力と、そのことに快楽を覚える私的な欲望において、歴史的差別構造は現前している――と。


ポルノ批判において、ラディカル・フェミニズムが提起したのは、そのような問いでした。そしてmojimojiさんの問題意識の本丸がそこにあることも、私はわかるけど。私が言うのもなんだが、もう少しまともな問いの立て方があるのではないか。


http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090614/1245018582

ただ、nekoluna氏を強く批判するつもりはないが、「マシ」程度でしかない。「「強姦」されたことが「汚れた」とするような性規範が問題」というのはつまり「「強姦」されたことは「汚れ」ではない」と言いたいのだろうが、イコール「死を選ぶような(深刻な)話ではない」ということになりはしまいか。これはこれで、被害者の苦しみに対する否認になりはしまいか。まあ、言ってないことを読み取るような話なのだけど。

メタブックマークにはこういうコメントをいただいた。たとえばアフリカの、内戦が何十年も続くような国だと、少女は兵士の性欲の捌け口であったり、若い兵士を生産する道具であったり、はたまた兵士そのものであったりする。そういう文化圏ではなるほどレイプは悪としての価値を減ずる。ありふれているからだ。幸いにして日本はそうではないけれども。


自由な自己決定を剥奪する暴力の暴力性に端的に無理解な社会とは、他者に対する不可視化の現前としてある道徳において、自由な自己決定の剥奪の暴力性が減免される社会のことです。それこそが歴史的差別構造の現前であり、「だから」と言いうるかはわからないが――性犯罪被害者が自死を選ぶ。


別様に言うなら、性犯罪を自由な自己決定の剥奪の問題と考え、性暴力の暴力性を自由な自己決定の剥奪の回路として――つまり売買春と管理売春を区別して――考える社会は、道徳と自由な自己決定の剥奪を一致させない程度には「自由で寛容な社会」ではある。日本がどうかは知らん。


そして問題は――自由な自己決定を剥奪する暴力と、そのことに快楽を覚える私的な欲望において、歴史的差別構造は現前している、とラディカル・フェミニズムが指摘するとき、自由な自己決定を剥奪する暴力に快楽を覚える私的な欲望が、歴史的差別構造の現前として、名指しされること。そのことが毀損する個人の尊厳があるということ。陵辱表現愛好者に限った話ではない。


自由な自己決定を剥奪する暴力としてある性暴力について、歴史的差別構造の現前として私的な欲望の問題へと還元することは、自由な自己決定を剥奪する暴力としてある性暴力を「汚れ」の有無の問題へと還元する歴史的差別構造の現前と、パラレルとしてある。


ヘイトクライムという概念なき日本の司法においては、性犯罪の罪は、差別構造の現前として問われることはなく、端的に他者の自由な自己決定を剥奪することの罪です。そして、その場所には道徳が容易に入り込む。それは歴史的差別構造の現前であって、司法の公正に反する――その通りです。しかし、差別構造の悪をその具体的な現前において罪と国家が規定することには私は賛成しない。


自由な自己決定とその剥奪の問題としてある個人の尊厳に対して、歴史的差別構造の現前としての欲望とその不自由について指摘することは「自由な自己決定など存在しない」というポストモダンな言明でしかない。そういうリアルクリムゾンな話でプラクティカルに得するのはレイピスト。


他者の自由な自己決定が女性であることにおいて剥奪されてはならないように、他者の自由な自己決定としての陵辱表現愛好が歴史的差別構造の現前として剥奪されるべきでもない。表現の自由金科玉条かは知りませんが、自由な自己決定とその剥奪の問題としてある個人の尊厳は、人権議論の金科玉条とすべきとは思います。公私の区別と同程度に、欺瞞に満ちた『かのように』であっても。


欲望と快楽において、私たちの自由は、いや不自由は、歴史的差別構造の上にしかない。だからこそ、超歴史的な、言い換えればアプリオリな、道徳律としての自由な自己決定が抽象観念としての個人の尊厳の要諦にある。当然それはフィクションです。ラディカル・フェミニズムはその欺瞞について指摘しました。しかしながら、そのフィクションなくして性暴力に対する個人の尊厳を規定することはできません。


その欺瞞性を知ることは、私たちの最低限の前提ではある。自由な自己決定はなんら超歴史的でもアプリオリでもない、にもかかわらず、レイピストに得させないために、私たちは自由な自己決定のアプリオリに社会的に合意するよりほかない。あるいは、自由な自己決定を歴史的概念たらしめるべく差別構造は私的な欲望に及んでいっそう社会的に是正されねばならない。――後者を、私は採りません。他者を他者として受け止めるとは、そういうことだからです。当然、倫理の問題です。


自由な自己決定とは社会綱領としての合意であり、歴史的概念ではない。道徳律でさえない。だから、「道徳の問題」が主張されるということではあるでしょう。むろん、それは欺瞞なのですが。