表象と欲望


2009.6.17: 日記


性の問題は聖域ですが、暴力の問題は当然聖域ではないし、蹂躙の肯定もまた聖域ではない、というのが私の認識です。むろん「聖域」とは社会的合意の問題ですが。そのような社会的合意を採らない、という立場はあると考えます。あるいは、そのような社会的合意の欺瞞性について指摘する立場も。だからこそ、性の問題を聖域と考える私は、聖域たらしめるために、暴力や蹂躙の肯定については問題と考えます。聖域とは神聖不可侵ということではない。神聖不可侵と考えることは近代の神話そのものです。


「聖域」だからこそ、私たちはその「秘密」を「告白」することにおいて個人の尊厳を贖ってきた――そうした発想の賞味期限がとっくに切れたのが現在です。そして現在において、私たちは告白さるべき秘密をネタ化し商業化し、結果、暴力的で差別的な欲望がインターネットを媒介として世界に伝播する。そのとき、野放しにされた欲望とその暴力性や差別性に対して規制の意思が発動することは当然と私は思います。ただ、私はそれに反対するのですが。


自由主義者ではないのになぜか、と問われたとき、私は答えます。性の問題は個人の尊厳と不可分であるがゆえに、性の問題に対してその暴力性や差別性を指摘することは、個人の尊厳を現在形で毀損する。毀損されるのは陵辱表現愛好者に限った話ではない。性犯罪被害者の個人としての尊厳もまた毀損される。だからこそ、私たちは性の問題を聖域として社会的に合意しなければならない。――と。


もちろんこれはコンサバの見解であって、野放しにされた欲望とその暴力性や差別性に対して規制の意思が発動するとき自由主義者が「性の問題は聖域である」と主張するなら、微妙です。そのような二重の議論に対して、たとえばmojimojiさんがバカorカマトトと指摘することは、わからなくもない。


なぜなら、自由主義者が理路において肯定する、暴力的で差別的な欲望が商業的に流通する世界は(ゆえに、自由主義者はマッチョでなければならないし、tikani_nemuru_Mさんは反マッチョとしてそのことをこそ問題と考えておられる。tikani_nemuru_Mさんの言説をパターナリズムと指摘している人があったが、それは誤っていると私は思う)、フロイト先生が到底想定しなかったろう、性の聖域を困難たらしめる世界だからです。つまり、そこでは、個人の尊厳というものがあるとして、それは無限に毀損される。にもかかわらず性の聖域において規制論に対して個人の尊厳を主張することは、なるほどバカかカマトトでしょう。


これは人権論の範疇ではまったくありませんが、「たかがゲームで毀損される個人の尊厳などない」とは私は思いません。だからこそ、陵辱表現の擁護において表現論を主張している。佐藤亜紀氏が違う(=スターリニストではない)ということは百も承知ですが、私はスターリンが嫌いです。「性はコントロールされなければならない」という議論を私は認めないので、だからこそ、性の本質的な差別性の肯定が蹂躙の肯定へと転用されることを認めません。擁護論が蹂躙の肯定であってはならない。


「女性を拉致強姦し、妊娠させ、中絶させて悦に入るゲームの流通を表現の自由の名において擁護」することが、蹂躙の肯定か。私の認識は――人権論の範疇ではないことを厳に断って述べるなら――蹂躙の肯定である、というものです。だから、蹂躙を肯定しないために、表現の自由を主張すると同時に、問われなければならないことがある。擁護論が蹂躙の肯定であってはならないから。


コンサバは、人権論と個人の尊厳の議論を区別します。「言論の自由」という「土俵」に上れ云々という意見がmojimojiさんを筆頭としてありましたが、少なくともそれは私の採るものではない。有体に言って、問題の実質は土俵になどない。個人の尊厳について社会的に合意すること、暴力的で差別的な欲望が流通する世界においてその合意が失効すること、そして個人の尊厳のために規制論が台頭すること、スターリン嫌いの私が「個人の尊厳のためにはならない」と考えてそれに反対すること。私が考える問題の実質とは、そういうことです。土俵など為にする思考実験でしかなく話にならない。


ゲイも、ホームレスも、外国人労働者も、尊厳を持ち合わせる個人としての彼らは、他のカテゴライズされた存在を個人の尊厳などお構いなく撃ち殺し焼き殺し撲殺する欲望を持ち合わせている、かも知れない。しかし、彼らは撃ち殺され焼き殺され撲殺される――その対象とされる。政治の問題とはそのことです。表象された欲望は、なべて差別構造の現前です。欲望の原罪については誰しもよく承知している。


問題は、時に、欲望の原罪について承知することが表象された欲望における政治的無原罪を意味してしまうことです。差別構造の現前として表象される欲望に対して政治的無原罪を担保するものは、他ならぬ市場の存在です。「だから」市場に対して政治的な介入を規制として行うことには私は到底賛成しません。が、表象された欲望の政治的原罪について指摘することには同意します。表象は読み解かれなければならない、だからこそ、存分に批判されなければならない。そう書きました。ゾーニングは究極的には表現の自由を守らないと述べました。


ディズニーやハリウッドおそるべし、という話は、その政治的原罪に対する指摘と共に、言い尽くされてきました。クールジャパンとはそういう思惑です。クールでないジャパンは「洗練」されなければならない。官製の寛容であって、国家主義者の考えることです。もちろん、表現の自由以前に、国家主義は市場原理に敗北したので、国家主義者は市場やコンテンツ産業と「うまくお付き合い」しなければならない――赤狩りを経たアメリカのように。


そして。「うまくお付き合い」して得もなく「うまくお付き合い」してくれない連中は潰すに躊躇するまでもない。このとき、潰される当事者が「表現の自由」を持ち出すことは当然のことです。なお、日本の内務/司法官僚の根本的体質については歴史に学んで学びすぎることはないと思います。


「うまくお付き合い」して得もなく「うまくお付き合い」してくれない連中の所業の政治的原罪について海の向こうから問い質されたとき、それは国家主義者の思惑と一致する。そのとき、『ダークナイト』やスピルバーグを生み出すハリウッドや、あるいはディズニーのようであれ、さもなくばその政治的原罪において国家主義者の思惑に利用されることも致し方なし、と述べることは、当然国家主義ではありませんが、表現論として相当に強い主張です。


――表象された欲望が商業的に流通することの政治的原罪を指摘し、またそのことが国家主義者の思惑に利用されることの天国と地獄について示唆し、加えてそうした追求を撥ね返しうる表現の強度と密度を商業表現物に対して要求する、ということなので。


確かに、表象された欲望の政治的原罪は、市場の存在と需給の均衡によっても、また社会的合意としての個人の尊厳における性の聖域によっても、贖いうるものではなく、そのことに対する追求は、それらによって退けうるものではない。欲望の原罪についての承知は、表象された欲望における政治的原罪の否定を意味も結果もしません。欲望の原罪について承知することは、他者不在の寝室の夢を自覚することです。そして、他者不在の寝室の夢に対しても、政治的原罪は問われます。表象において、表象された欲望の商業的流通に対して。


表象は読み解かれなければならない。そして、読み解かれることに耐えない表現物は、端的に表象された欲望として、公に、商業的に流通する限り政治的原罪の追及を免れない。「他人を蹂躙する嗜好も性の問題であれば聖域であって触れてはならない」とは、このことについては私は考えていません。ただ、「表現の自由」の主張に対する疑義として、自由の問題を指し示すために他者の不自由を指摘する議論に対しては、自由主義者ではない私は、そういう問題ではない、と言います。


欲望の問題は、そもそも自由の問題ではない。だからこそ、欲望に基づく暴力や蹂躙の肯定は社会的合意において問題とされなければならない。そのとき、表象された欲望の商業的流通は蹂躙の肯定か。蹂躙の肯定ではない、という社会的合意において、表象は読み解かれなければならないし、だからこそ、同時に、その政治的原罪についても指摘されなければならない。


私たちは個人の尊厳について社会的に合意しなければならず、その合意は性を聖域と措定するがゆえに、欲望に基づく暴力や蹂躙の肯定が問われる。暴力や蹂躙の肯定を問うためにも、表象された欲望は商業的流通を理由として規制されるべきではない。それが、私の見解です。


製作に際して一定のバジェットを要請するエロゲの成立に顕著なように、ポルノの市場はインターネットを媒介として広範化しました。「ある種のポルノ」についても同様であって、だから「暴力で他者の性的な自己決定権を、生殖の能力まで含めて、玩ぶゲームが商業的に流通」し、英amazonでレーティングされずに販売され、こういうことになる。


そのとき、読み解かれることに耐えない表現物は、つまり表象された欲望は、それが商業的に流通する限り「公」における政治的原罪の追及を免れない。20世紀後半における「表象」とは、表現物に対する政治的原罪を指摘するための認識の枠組でもありました。そして、私は、規制には賛成しません。


政治的原罪の追及について「されるべきではない」とは私はまったく思いません。ハリウッド映画についてされてきたように、「ある種のポルノ」について、追求されるべきでしょう。しかし、そうであるならば、ゾーニングは批判されなければならない。ゾーニングを採るとは、そういうことです。それが、商業であるということです。


欲望の不自由に基づく性の聖域が、そしてプラクティカルな棲み分けの徹底が、表象された欲望の政治的原罪を免罪するわけではない。商業的流通を理由として、表象された欲望の政治的原罪を追及するとき、現行のゾーニングを考量しないなら、その「公」は誰が何によって決めるのか。少なくとも「表現の自由」という「土俵」で相撲取って決まるものとは私は思わない。


商業的流通を理由とする政治的原罪の追及と規制論の両立は、私には了解しかねます。市場の自由と官製の寛容は、表現ともその自由の政治的な困難ともなんら関係ない、と書きました。表象された欲望の差別構造に基づく政治的原罪について指摘すると「表現の自由」と同時に女性に対するヘイトスピーチが返ってくるのは表現論どころか他者不在の寝室の夢のことしか考えていないからだ、という指摘は了解します。表象された欲望の差別構造に基づく政治的原罪が、市場と憲法によって免罪されるなら、そのように本気で思っているのなら、規制論やむなし、ということも。


性差別の構造が現存する限り、表象された欲望の政治的原罪は免罪されません。だからこそ、「免罪」するために、表象は読み解かれなければならない。読み解かれることに耐えない表象は、市場と憲法がその流通を許しても、その欲望を「免罪」されない。


その認識と同時に、規制論に対しては、需給の均衡と最適化と統治権力に対して表現の自由を主張する立場を私は採ります。政治的原罪を免罪されない欲望の表象は、需要という現存する差別構造に対して供給されるべきではない、とは原則的に私は考えないし、その判断を誰かに、まして国家や官憲に託すなど御免です。


商業的流通は、単に需要としての読者やユーザーの存在を理由とするものではない。差別構造に基づく政治的原罪について指摘する他者の追及に耐えうる読解がされない表現物は公の流通には耐えない。――それは、私も了解することです。しかし。道徳でなく、コモンセンスは、狂った世界をこそ、要求します。


表象は読み解かれなければならないがゆえに、表現物に対して「公」は問われます。表現物に対して「公」を問うことは、規制によって為されはしない。「規制によって為されはしない」という合意を社会は形成すべきと私は言っています。私はヘイトスピーチ規制論にも反対です。


表現物に対して商業的流通を理由として「公」を問うなら、官憲は表現物の商業的流通に対する干渉から一切手を引くべきであり、ゾーニングも解除ないし緩和されるべきです。狂った世界だからこそ、更なる狂気を食い止めるために、私たちはゾーニングを選択し、表現物に対する「公」を官憲が直接間接の介入によって決定してきた、と私は理解しています。


官憲が許せば「女性を拉致強姦し、妊娠させ、中絶させて悦に入るゲーム」「暴力で他者の性的な自己決定権を、生殖の能力まで含めて、玩ぶゲーム」も「公」。そして市場は複製頒布するために表象された欲望を欲する。「私たちの欲望」を。その差別的な暴力を。それも、官憲が決定した範疇において「公」です。これまでそういう話でやってきました。「だから」他者不在の寝室の夢の話が対官憲の「表現の自由」の話になる、というのはその通りです。「公」とは、官憲が決めるものではない。それは、古典的な自由主義に対する批判として、ハーバーマス的な立場から示されてきた批判でした。当然、日本におかれては、今もなお、「公」とは官憲が決めるもの以外ではありえない。


現存する差別の構造に依拠した「表象された欲望」に対する政治的原罪の指摘において。第一に、表現物に対して商業的流通を理由として「公」を問うこと。第二に、表象された欲望について官憲に「公」を決定させないこと。第三に、個人の尊厳とその在処について社会が合意すること。「蹂躙を肯定しないために、表現の自由を主張すると同時に、問われなければならないこと」とはそのことです。


だから、それが表現の自由を究極的には守らなくとも、私はゾーニングを支持します。それが「公」に対する私たちの暫定的な判断だからです。「私たち」とは「ある種のゲーム」の製作者やユーザーに限定された話ではない。


貴方の商売の話は関知するところではない、は無問題ですが、貴方の表現の自由は関知するところではない、は問題です。問題だからこそ、私たちは誰かの表現の自由について関知して、表象を読み解き、存分に批判する。現存する差別の構造に依拠して「表象された欲望」に対する政治的原罪を指摘する。斯様な「公」の市民的決定のためには、規制は言うに及ばず、ゾーニングさえも、問題です。「だから」ゾーニングは「公」に対する私たちの暫定的な判断であり、それを私は支持すると言っています。ねじくれた話ですが。