茶髪と刺青


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はてなブックマーク - 中学生の茶髪イクナイ - チョコっとラブ的なにか


交際相手からタトゥーを入れることについてどう思うか訊かれたことがあった。その人は高校生なのだが(じき卒業)「親御さんに反抗したいの?」と質問に質問で返したら激怒された。賛成も反対もないが、ジョニー・デップの話はした。若かりし日に「ウィノナ」と腕に刻んでウィノナと別れて消した愛すべき馬鹿の話。その話はそれきりだったが、上記のエントリを拝見してふとそのことを思い出した。


育ちは良いが、御世辞にも躾の厳しい両親ではなく、事実上の放任だった。私は育ちは悪かったが、そのぶん躾に厳しいつもりの両親ではあったろう。だから親父が恐ろしくて中学生で茶髪などとんでもなかった。周囲の連中の髪の色がどんどこ明るくなっていく中で。


そういう学校だった。都会の中高一貫進学校。晴れて高校で茶髪にして金髪にして坊主にして耳に穴開けた。その都度親父に殴られたが。現在は通りすがりの理容室で適当に刈っているのだから、人はトシを取る。先日、久しぶりに美容院でカットしたところ、カラーリングを勧められて「茶髪かぁ」「今はチャパツって言いませんけどねぇ」田中美保に似た美容師に訂正された。


上記エントリのような話だと、茶髪とタトゥーは違うなぁ、と思う。交際相手は栗色の髪で(もともと色素が薄いにせよ)それはカラーリングの結果だが、彼女の友だちにそうしている人は幾らもいる。ゲームであれ携帯であれ何だってそうだろうが、ティーンエイジにとっては人間関係に基づく周囲の環境は決定的で、要するにクラスメートの半数が茶髪なら自分もそうすることに抵抗を覚えないし、逆に自分ひとりが茶髪にすることはとても勇気が要る。当該の女子生徒はその部類だったのかなと思うし、それなら可哀相なことと思う。「よそはよそ、うちはうち」と言い切れる親が多いか少ないか知らないが、私の親はその部類だった。ので困った。


腐ったミカンの話でも同調圧力の話でもない。先進国のティーンエイジにとって自他の区別は決定的な問題で、そして制服社会では、頭をいじるよりほかない。『ゴーストワールド』のソーラ・バーチのように髪を緑に染めるなんてのは、当たり前。誤解されがちだけど、差異化ゲームということではない。「似合わないよ」とか言っても意味がないのは子供だからではない。


いわゆるオタクファッションの理由でもあるが、アイデンティティの確立期において、差異化の前線にさらされることが当事者にとってどれほどの負担か。その差異化の半分は、性的なそれだ。負担に抵抗して、アイデンティティを性的な差異化の前線から切り離す。そのために、髪を緑に染めたり古いレコード聴いたりブシェミに恋したりしなければならないのだから、若いとは可哀相なことで、自分探しも止まるまい。


「本当の自分」とは(性的な)差異化の前線から切り離された自身のアイデンティティのことで、もちろんそのようなアイデンティティが存在しうるか心許ないし、それを恋愛に求めることは間違いの喜劇であるだろう。しかしそのことは、性的な差異化の前線に確立期のアイデンティティがさらされることの不幸について慮る必要がないことを意味しない。


「だから」私たちは制服を着せているし茶髪を禁じている、と世の責任感ある大人は言うだろう。それはそれでわかる。しかし私が思うに、制服を着せることも茶髪を禁じることも、銀の弾丸たりえないとわかってなお「子供のため」を説くことは一種の欺瞞だ。私がティーンの頃と比べて、インターネットは携帯電話は爆発的に普及した。もとより銀の弾丸ではなかったが、性的な差異化の前線に確立期のアイデンティティがさらされることの防波堤にはもはやならない。そして防波堤が守る対象は子供たちのはずだ。


現在、子供に対して制服を着せることや茶髪を禁じることが守っているのは、社会的存在としての大人が必要とする規範の観念だろう。大人が必要とする規範の防波堤として、子供に制服を着せて茶髪を禁じる必要がある。それは昔からそうで、そもそも学生の制服とはそういうもので、モラルとはそういうもの。だからあまり「子供のため」と言うな。人の振り見て我が振り直すために私たちがやっていることなのだから。


制服の奥にあるものを、制服を着せることにより見ないことにするのは規範やルールの存在意義であって、それはそういうもの。しかし、大英帝国の由緒正しい紳士を育成しているつもりでもあるまいし、形骸化した制服文化を規範として子供に押し付けても詮無く、倒錯すら生むまい。給食制度のように、あるいは徴兵制度のように、親の事情において生じる格差を「学生」という所属において一律化する必要はかつてあったが、この豊かな社会にあって「服装頭髪」は自己表現の範疇なので。


その豊かな社会の自己表現が性的な差異化の前線とコラボするから問題なんだけど、それでも性的な差異化の前線と自身のアイデンティティを切り離すための自己表現を子供に許容したほうがいい。ケンブリッジの昔から、制服がエロいのは、一律化という個性の抑圧と自己主張の抑制と、結果的な肉体的差異の強調の成果なのだから。


制服の奥にあるものは、脱がせてみないとわからない、と品のない与太を飛ばしたくなるが、たぶん脱がせてみたってわかりはしないのだ。そんなブラインドどもの捌け口になりたくないから、性の前線にさらされるティーンエイジは「服装頭髪」で自己主張する。ブリティッシュ・トラッドの美学は知らんが、性別を問わず、制服の奥にあるものは、抑圧された個であり、抑制された自己主張であり、確立されようとする中で苦闘するアイデンティティであって、決して剥き出しの肉体でも、セックスドラッグバイオレンスでもない。


だから、条件において社会から隔離されている子供は髪をいじるくらいしかない。自分が自分であることを確認して証明するために、髪を緑に染める。それを半人前と指していたら、話が逆だ。私の親がそうであったように、条件において社会から隔離されている子供に直接の責任を負う親が言うことはなんら問題ではない。赤の他人が言うなら、話は逆だ。


身体髪膚これを父母より受ける。あえて毀損せざるは孝の始めなり。――その通り。だから子供はあえて毀損する。親不孝のために、ではない。そんな儒教道徳を却下するために。孝の始めが身体髪膚を毀損しないことならそれはGIDとか親不孝の極みだろう。そしてそれはまことに遺憾なことに概ね正しい。そんな2009年の日本がくそったれという話だから、考のありかたについて人の親でない者が発言することにも意味はあるだろう。


儒教道徳など鼻で笑うだろうその人は、しかし親への当てつけを思った、らしい。それはメッセージでなく、自分に言い聞かせるためにすること。茶髪は一目瞭然だが、一目瞭然でないものにはその意味がある。証明されることのないアイデンティティを確認するために行われる「あえて毀損」は、自分との誓約のようなもので、そういえばゴータマは家族を捨てた。


相手が生きている限り、考を始めるに遅すぎることはないことを私は知っているが、考を忘れる誓いを自分に確認することを必要とする年頃があることも知っている。「ウィノナ」と刻んだ若き日のジャック・スパロウのように。


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