スローターハウスの倫理


たとえどんなにエホバが間違っていようとも、私はエホバの側に立つ - すべての夢のたび。


個人の意思は人命に先立つ、という「一般論」は普通に危険思想です。ナチナチ言う気もないけれど、「だから」カトリックを私たちは否定できない。「私たちの命は神の御心だから、人間の意思で命を左右してはならない」。


「意思は人命に先立つ。それが人間の尊厳だから。危険思想かも知れませんが何か?」――それがみちアキさんの一貫したスタンスと思っているけど、「だから」当該の司教にダメを出すことは「探る」までもなく当然と、他人ながら思った。みちアキさんにとって「倫理」の下位概念であるところの「教義」に基づいて他者の意思に干渉しているのだから。


もちろん、みちアキさんは「人命」をなんら問題にしていない。「思い至」るまでもなく「妊娠4ヶ月の胎児の命も1歳児の命もその重みに大差はないと考えている」ことは当然と他人事ながら思った。それはみちアキさんのスタンスなので、ダメ出す気はない。


が、だからこそ、当該の輸血拒否問題に対するみちアキさんの「私はエホバの証人の側に立つ」というスタンスに私はダメを出す。貴殿にはまったく立つ筋合も筋道も資格もないと。


人間の尊厳は意思において規定される、「人命」はなんら問題ではない。――というみちアキさんのスタンスはそもそもすべての医療関係者に喧嘩売ってるに等しいのだがそれは措くとしても、では意思は人命に先立つとして、1歳児の意思とは何か。だから、両親が信仰を理由に1歳児に対する輸血を拒否したことは倫理的にも非常に問題を含む。1歳児の意思を誰かが代理する、という発想がそもそもおかしいし、もちろん倫理的ではない。

主治医の側が倫理ではなく法に基づいて行動していると主張する根拠はここにある。もし、1歳男児の命がほんとうに大事なのであれば、家裁による親権停止などを待たずにさっさと輸血を行ってしまえばよかったではないか。「過去に1週間程度で親権停止が認められた例があるが、即日審判は異例のスピード」だなんて、そんなのは誇るべきことでもなんでもないだろう。もし即日ですら間に合いそうになかったら、目の前の死にそうな子供をいったいどうするつもりだったのだ? 手続きの遵守が命そのものより大事なのか?


輸血を拒否する両親の側は、その主張に実存のすべてを賭している。対する側は、なにも賭してはいない。理屈をこね、責任を転嫁し、お墨付きが出てからやっと事に当たり、終わればきれいさっぱり忘れてしまう。正しいとか間違いではない。正しい宗教などというものは存在しない(そんなものがあれば皆それに改宗すればよい)。ただこれは、圧倒的な力を持つ側が、力なき側を磨り潰した、そういう事件だろうと思う。子供がトンボの羽根をむしる時のように、ヘッジファンドがあらゆる手段で利益を追求する時のように、そこに悪気はないのだろう。自分たちがいったいなにをしているのかという意識もないのだろう。だけどその無邪気さが、不快なんだよ、と、ぼくはそう言うのだ。

たとえどんなにエホバが間違っていようとも、私はエホバの側に立つ - すべての夢のたび。


「自分なりに納得できた結論」なので仕方ないかも知れないが、人命の遵法的な遵守が倫理的な行為でない、と断じる前提が「宗教の教義がその下位である世俗的な法律(ごとき)に打ち負かされたことを不快に感じている」なら自己紹介でしかない。人命の遵法的な遵守を「手続きの遵守」と言い換えるための論法に過ぎない。人命の遵法的な遵守を「手続きの遵守」と言い換える理由がパターナリズム批判なら、それは「エホバの証人の側に立つ」ことでも何でもない。


「意思は人命に先立つ」という命題は意思の存在を前提する命題です。人命と別個に意思が存在する――それが広義の信仰の観念です。人命と別個に意思が存在する、という命題をみちアキさんは主張しないし、たぶんそのことには同意しない。つまり、「人命が意思に先立つ」ことに同意したうえで人間の条件を主張しておられる。「人命が意思に先立つ」ことを認めるからこそ「意思が人命に先立つ」ことが人間の条件であり、倫理の所以であり、尊厳の在処――と。それをして実存と言う。が、信仰とは実存のような当為命題ではない。


おそらくは「無宗教」のみちアキさんと違って「人命が意思に先立つ」ことに必ずしも同意しないから信仰者と言う。人命と別個に意思が存在する、という信仰の命題が人に選択させる生があり、あるいは死がある。むろん、そのこと自体は問題ではない。しかし人命と別個に存在する意思においては、倫理というメタ概念はない。「倫理」を「教義」の上位に置くみちアキさんの議論は、端的にメタ議論でしかない。輸血拒否問題はメタ議論の対象たりえない。だから深刻なんです。人命をダシにするメタ議論は成立しません。


信仰者ではないみちアキさんは、信仰問題について倫理というメタ概念の導入をもって処理している。倫理というメタ概念では処理できないベタな事態だから深刻化している。信仰とは世界の条件です。世界の条件を、人間の条件として処理することは、メタな議論の僭越であり、ベタな問題についてメタな立場に立ちうると考える者の傲慢であって、つまりまったく「エホバの証人の側に立つ」ことではない。村上春樹はメタを礼賛したのではまったくない。宗教戦争の覚悟を他人に説く類のメタを。


「子供1人くらい死のうがたいした話じゃない」と仰せですが、エホバの証人の「教義」を信じることなく「エホバの証人の側に立つ」としてそのことを言うことが、どういうことかわかっておられますか。人命をダシにするメタ議論の自己言及でしかない、そのことがわかっておられるなら構いません。


人命と別個に存在する意思を信じない私は世界の条件を人命に置きます。個別の人命の存在が世界とその個別性を条件付ける、だから個別性として存在する世界の前提条件として個々の人命はあって、そのことが私たちの倫理性の基礎としてある。「子供1人が死ぬんだから倫理の問題だろJK……」という指摘が散々されているように。


「子供1人くらい死のうがたいした話じゃない」倫理とは、個人の意思が人命に先立つと考える人にとっての倫理の話です。つまり、それは危険思想以前にトンデモ。釣りの指摘とは「わかってやっているんですよね」ということで、本気だったら以下略。


「人命と別個に存在する意思」を否定して倫理の問題として「意思が人命に先立つ」と主張するなら、端的に釣りかトンデモであって、実質はすべての医療関係者に喧嘩売ってるに等しい。人の生命を、人命と別個に存在する意思に委ねないことこそ、倫理の源泉であり、現代の医療倫理の源泉なのだから。


神は沈黙せず

神は沈黙せず