否定神学と左翼


承前⇒誰が為に鐘は鳴る? - 地を這う難破船


id:CrowClawさん、お返事ありがとうございます。 以下、引用が順不同になってしまいますが。

申し訳ありません。私の議論は私の問題意識に基づいたものだったのですが、確かにwiseler氏の元々の主張とは事実かけ離れていたし、それが「為にする議論」に見えたのも仕方が無かったと思います。自分自身では正直なところあまり自覚が無かったのですけども。

壁を「正義」でなく「体制」の隠喩としてCrowClawさんは論じておられた、ということですか。


そうです。


マジコンもガザもそもそも関係なかった、ということですね――CrowClawさんの問題意識においては。pbhさんのことに言及しておられたことの理由がわかりかねたのですが、某所でpbhさんについて「追放された」と書いておられたのを拝見して、合点が行きました。「その発想はなかったわ」というのが私の感想ですが。自己都合云々以前に、はてながそこまで「不寛容」な場所とは私は思っていないので。良くも悪しくも「寛容」で、最近話題の正論原理主義からは程遠いと思います。「不寛容」なら、私も遁走しています。

「「不見識の指摘」によって不特定多数の相手をバカ呼ばわりしたから不特定多数の相手からバカ呼ばわりされた」、確かに今回のマジコン論争でのwiselerさんはそういう行為をしたわけですが、具体的に何が行われたかの議論に踏み込まずに理屈を述べるだけなら、それこそ(コミュニケーションに関しての)「本質論」を述べることに近しいのではないでしょうか。


というか、「形式的な妥当」などと言うなら、いかに相手から「お前はバカ」と(特定人物ではなく不特定多数の一人として)呼ばれたからとて、その相手に「お前の方こそバカ」と(相手を「特定人物として」名指しした上で)返すのは、全く「妥当な」コミュニケーションのあり方ではないと思うのですけど。それは餓鬼のケンカが「妥当」だと述べているに等しいし、私からすれば大の大人の癖に赤の他人に対してそんなことをする人間はただの原理主義者であって、「リベラル」からは程遠い人種だと思います。「リベラル」な多様性の肯定が原理主義的な主張に繋がる、というのはそれこそ大澤真幸が述べてることの一つではありますが。


「一対多の集団の暴力がけしからん」という話なら最初からそう言ってください。ガザだの体制だのと持ち出さずに。それなら「壁と卵」の話も「The System」の話も関係がない。村上春樹と関係ない話と断ったうえで述べると、集団の暴力がけしからんことには同意です。そのことと、wiselerさんが批判されたことといかなる関係が? 


内容的に妥当な批判を暴力と言い換えるならそれは恣意的です。一対多はWebコミュニケーションの原理です。その原理に対して批判的であることが倫理、ということなら全面的に同意です。苦情として申し上げるなら、「議論の内容以前に、一対他の集団の暴力がけしからん」という話なら「議論の内容」に踏み込まないでください。「議論の内容」を偽装して隠喩としての問いを提示しないでください。


「私は「白燐弾論争のときwiselerさんを批判していた「はてなサヨク」」への批判としてリベラル批判がしたいのではないし、そんな事は今まで書いてこなかったはずです。」と書いておられますが、私が言っているのは、対話が成立しなかったことはwiselerさんの議論態度の問題で、そのことには白燐弾論争の経緯が関係しているのだろうか、ということです。要するに私なりの「フォロー」です。「正義」だの「正論原理主義」だのの問題でないなら、「はてなサヨク」は無関係ですね。


「対話が成立しなかったことはwiselerさんの議論態度の問題」と私は書きました。一対多がWebコミュニケーションの原理であろうと、その暴力の対抗軸として個人の倫理はある、ということには全面的に同意しますが、しかし私に言わせれば、CrowClawさんはそのことを述べるために論点を恣意的に選択しておられる。論点の恣意的な選択に基づく隠喩としての問いを私に投げかけている。


そのこと自体は構いません。しかし、論点を恣意的に選択することの根拠について、CrowClawさんはどのように整理しておられますか。倫理なら、それは違います。政治的行為以外の何物でもないからです。倫理とは政治の対立概念です。

私の原理的な理解では、「正義」と「体制」は相反します。原理を捻じ曲げるのが日本社会で、はてな村もまた日本社会の縮図、という話なら、大筋で同意します。


単なる私の勉強不足なのかもしれませんが、そう考えられる理由がよくわからないのです。「間違った正義」と「国家」の結婚がありえるなら、正義と体制が相反すると考えるのはおかしいのでは?体制が国家とイコールではないにしても。

第二に。フランス革命以来の「間違った正義」が人を殺してきた歴史を反省し、「間違った正義」を排除するために、正義の精度と粒度を高めるべく、20世紀後半以降のリベラリズムは膨大な議論を積み重ねてきました。Midasさんがそのことを一切合財批判することはわかりますが、CrowClawさんもそうなのですか。「間違った正義」を排除するべく正義の精度と粒度を上げてきた20世紀後半の知的営為を全否定するなら、CrowClawさんにとってリベラルとは何を指すのですか。またその限界とは。


私の書きざまが不味かったのでしょうが、これも誤解だと思います。私は、白燐弾の件やマジコンの件でwiselerさんを批判していた人々を「駄目なリベラル」と見なして批判しているのではありません。(後略)


誤解も何も、「間違った正義」と言葉遊びで言っているのではないですよね、と確認したわけですが。そしてCrowClawさんは「リベラル」と自己規定しておられるのですよね、と確認したのですが。「間違っていない正義」を目指すリベラリズムが肯定神学である以上、否定神学とは原理的に相容れないでしょうね、というのが結論です。そしてMidasさんは否定神学をもって肯定神学を批判している。肯定神学の不可能を指摘し、不可能に気が付かない愚か者の不見識を嘲笑って。


「「間違った正義」と「国家」の結婚がありえるなら、正義と体制が相反すると考えるのはおかしいのでは?」――「リベラル」と自己規定する人がこういうことを書くことこそ私にはよくわからない。国家と結婚する正義は間違った正義である。それが「リベラル」の共通認識でしょう。なぜなら「リベラル」において国家は公共財に過ぎないからです。もちろん、左翼とリベラルは違います。ちなみにMidasさんは左翼です。


「正義」ってのはかつて革命原理だったわけです。前世紀初頭、革命原理が国家と自覚的に結婚したときスターリンが誕生しました。だから、正義は常に国家を相対化する。国家を相対化しない正義は正義ではない。「リベラル」のリベラルたる所以でしょう。ヒトラーの説いた正義は国家を相対化しませんでした。昨年のチベット騒乱の際「中国共産党を批判しない左派は云々」と指摘されて、左派の返答は、イデオロギーに拠らずあらゆる国家主義を批判する、でした。「ネオリベ」だってそれは同じです。

「趣味の問題」というのはある意味その通りですが、その「趣味」は様々な選択肢の中から主体的に選びうるようなものではありません。むしろ、血なまぐさい運命の言いかえとしての「趣味」の話をしています。ここでの「趣味」とは、自分で決められるようなものではないのです。以下を参照してください。

何故突然漫画の話が出てくるのかよくわからないのですが、当該作品について言うなら、荒唐無稽な「運命」を生きてきた人間が荒唐無稽な「趣味」を持つに至るのは当然で、内容がB級アクションであるという前提に基づけば何らおかしなことではありません。私はその「荒唐無稽」が結局、「普通の人」の書生論じみた訓戒で解説されているのがあの漫画の決定的にダメなところだと思っていますが(ダッチにサルトルを解説させるとか、最悪ですね)。


参照も何も、私ははてなを知るずっと以前から古谷利裕氏の『偽日記』の愛読者です。で、「何故突然漫画」というのはCrowClawさんは読んでおられるだろうと思ったからですが、評価は相違するようです。伊藤剛氏が『BLACK LAGOON』について「この作者はジジェクとか読んでるような気がする」と書いていましたが、それは私もそう思います。「B級アクション」の作者がジジェク読んでるから高尚とかいう話ではもちろんない。


「理想とその崩壊」と「正義の不在」という問題意識――というか「シニカルな認識」――をそれなりに消化している、ということです。ダッチがサルトルを「解説」すると何が最悪なのかわかりかねますが(あれを解説と呼ぶなら)、理想が崩壊し正義が不在であるとき人は自身の実存において賭けるよりほかない、賭ける対象がどこにも存在せず、どでかいクソの上を歩いていることにどのみち変わりはなくとも――という話ですね、あれは。賭けることを実存が要求し、そして賭けることそれ自体が目的化する、という話です。私は何にでも「教訓」「メッセージ」を読み取る壊れた近代人なので。

「趣味の問題」と返して、相手が信者でなければどうなるか。「俺は「趣味の問題」として痛い学生を嗤いますが何か」ということになる。実際、そういう人もおられることでしょう。そのとき正義を問わずして何を問うのか。正義を問うとは「俺の信じる正義」を主張することによって「貴方の信じる正義」を問うことです。「シニカルな認識」を嘯く人間の胸にある正義をノックすることです。ラカン的に申し上げても、あらゆる正義を信じない社会的動物はいない。むろん、その正義とは「他者の欲望」に過ぎません。


そうやって、「趣味」を自分で選びうると勘違いした挙句、自分と本来的に無関係な他人を嘲笑って平然としている態度を、倫理に程遠い行為だと批判しています。実存と行為が乖離しているのは彼らの方ではないでしょうか。私も嘲笑しましたが、それは「ひたすら空しく、ひたすら消耗する政治的縄張り争い」に過ぎないにしても、私がwiselerさんと友達で「いてしまった」という「運命」に従う限りにおいて、彼ら以上に倫理に背いていたとは思えません。別に決定論を主張したいわけではないので、「運命」に抗いたいならそうしていれば良かったのでしょうけども。


最初に書いておくと、実存と行為は当然別問題です。行為に実存を賭けることが「運命」ならそれは錯誤です。友情は構わないのです、論難という火の粉を他人に飛ばす類の恣意がなければ。その恣意を倫理と仰るから私は批判している。


「友達をかばうこと」と「「趣味」を自分で選びうると勘違いした挙句、自分と本来的に無関係な他人を嘲笑って平然としている態度」がどう倫理において区別されるのか私にはわかりかねます。私に言わせれば「友達をかばうこと」も恣意なので。恣意で構わない。しかし他者の恣意性を批判するならそれは倫理的な態度ではない。集団とは集団と名指されるから集団なのであって、そのような名指しは「倫理に程遠い」。立派に政治的行為です。人間性とやらを問うなら話はいくらでも循環するし、ポストヒューマンにおいては時代錯誤も甚だしい行為ですね。


だから「運命」という補助線が引かれるのでしょう。ClowClawさんがwiselerさんと「友達で「いてしまった」」ことは「運命」であっても、痛い学生を嗤う人の恣意は「運命」に対して無自覚である、と。行為に実存を賭けることが「運命」であるとき、運命を運命と自覚すると行為に実存が賭けられたことになる。「信念とは便利」とはそういうことです。


「運命」を自覚すると恣意は倫理になる。それは、あながちbullshitでもなくて、その通りです。貴方が仰る「運命」を屏風から出してください、と言う人がなければ。「形式的な妥当」と私が述べたのは、そういうことです。形式とは「運命」を屏風から出す類であって、そこに倫理はない。個人もない。

最初に「影響された」と言いましたが、私が嘗て尊敬していた人(今もしていますが)は、KKKに「私は黒人を殺す運命を生きてきた」と言われたとき、それを倫理の問題として批判することは出来ないのではないか、という感じのことを言っていました。確かに、そうした時に主張される「趣味の問題」において、社会の防衛の為に「正義」が要請される局面は有り得ると思います。「倫理」では解決手段にならないのかもしれません。本件がそうした事態に相当するとは私は考えませんが。


「確かに、そうした時に主張される「趣味の問題」において、社会の防衛の為に「正義」が要請される局面は有り得ると思います。「倫理」では解決手段にならないのかもしれません。」という言葉に驚きました。「社会の防衛の為に「正義」が要請される」ですか。倫理の問題として批判できないことは当然です。倫理とは、自他を自他であることにおいて区別することだからです。ゆえに「貴方は間違っている」と指摘する理路/回路を持ち合わせることは人類社会の至上命令です。


レイシズムレイシズムです。私たちは社会の防衛の為にレイシズムを批判するのではない――当然のことながら。「リベラル」な多様性の肯定が原理主義的な主張に繋がる、という大澤真幸の言はまことに正鵠を射ていますね。


「俺は女を殺す運命を生きてきた」とか逮捕後に口にする連続殺人犯は腐るほどいます。確かに、話を聞くと本人にとっては運命だったりします。自己欺瞞の極みにせよ、本人が運命と考えることも致し方ない、と。要するに、事後的に行為に実存を賭けてしまうことも致し方ない。「運命」とは事後的に見出されるもので、つまり自己都合の行動を実存問題として修飾する錯誤です。


彼らが非難されるのは「法を犯したから」ではない。もちろん、他者を手にかけた彼らは倫理的でもなんでもない。というか、実存とか知ったこっちゃないのであって、外形的には貴方は単なる利己的な人殺しだ。そして、「本件がそうした事態に相当する」のは、CrowClawさんもまた自身の恣意において他者を嗤っている点です。


繰り返しますが、「痛い学生を嗤う」人と「痛い学生を嗤う人を嗤う」CrowClawさんと、どう違うのか。批判内容の妥当性でなく行為の倫理性の問題であるわけですよね(CrowClawさんが示した批判内容が妥当だったと思わない)。恣意性についてどう整理しておられるか。前者の恣意が非倫理的で後者の恣意が倫理的なのは「運命」という補助線を、古谷氏の記述を借りて引いたから、という整理ですか。「運命」を屏風から出してください、とは私は言いませんが、自己都合な議論と思います。自己都合で議論することを倫理とは呼ばない。自己都合で他者を論難することはまるで倫理ではない。

上で述べた私の「欺瞞性」は確かに本件についてsk-44さんから指摘されたことではありますが、ここでの問題はむしろ、Midasさんの今までの発言全般について「左翼」と名指される人々がまともに答えられないことについてだったはずです。wiseler氏は直接的には無関係な話です。


「ここでの問題は」やはりMidasさんの毒が回っている、と記すよりほかないCrowClawさんに対する私の感想なのですが。最初に言及したのは私といえ、CrowClawさんが再三私を問い質しておられるMidasさん問題について――

違います。一度最初のエントリーに立ち返りますが、sk-44さんは「マジでコンする5秒前 - 地を這う難破船」(http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090303/1236028492)において、

京極夏彦は二次創作について、カエサルのものはカエサルに、ではないが、地下活動は地下であることが仁義、と言った。「原作者は神」と言っているのではない、ビジネスの話をしている。ビジネスとは概ね仁義の問題で、仁義を切らないビジネスは顰蹙を買うし然るべき場所にも置かれる。だから、仁義を切らないビジネスが存在する以上、非合法化には意味があるし意義もある。


と書いておられ、今でもその主張は変わってないものと思います。それに対してMidasさんは、

夏彦は…←真に一次創作と呼べるのは処女懐胎w位では?全ての製作者は己が地下活動を行ってるのだと悟るべき。wiselerに説教してるバカ共こそ自覚が足りないのだ。大泥棒になる近道はヤクザでなく銀行員(ブレヒト
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20090304#bookmark-12361316


とコメントされました。
ここで、Midasさんを「無視しない」ためには、その後私への批判として書かれてきた一連のエントリーにおいて、こうした批判への何らかの応答が含まれている必要があるのではないでしょうか。
例えば、ブコメに直接言及せずとも「自分は必ずしも創作が地下活動だとは思わない」と一言書くだけでも、(Midasさんは認めないかもしれませんが)立派に「応答」にはなると思います。実際問題、「本質論ではないビジネスの問題」としてみれば、本件での「創作活動」はオーバーグラウンドで行われているわけですから。でも、sk-44さんはそう書かずに、最初の主張を(膨らましつつも)繰り返されてますよね。


私は「Midasさんが対話を欲しているようには見えない」と書いてきました。wiselerさんの議論態度に対するコメントにせよ、はっきりそう書かないとCrowClawさんには伝わらないものでしょうか。対話を欲さないこと自体は構いません、そのうえで他人を嗤うことも。「反論がいっさいできずに、ブクマで石を投げるだけ」とtikani_nemuru_Mさんが評するのは当然のことと思いますが。


そのへんのことについてCrowClawさんはコメントが一切ない。「対話が成立しなかったことはwiselerさんの議論態度の問題」とも「Midasさんが対話を欲しているようには見えない」とも私は書いています。そのことに対するコメントはなく、CrowClawさんは私やwiselerさんを批判した人の「態度」を問う。構いませんよ。恣意的な行為である、というだけのことなので。その恣意の根拠が「倫理」ならそれは違います、自己都合にも程がある、というのが私の見解です。


対話の相手の提示した論点に答えず自身の論点を再三主張するなら、それはコメント欄でなくTBでやることですね――原理的には。また倫理的にも。またMidasさんのように、ブックマークコメントでやることでもありませんね。


提示されたMidasさんのブックマークコメントに対する「応答」が「無視しない」ことの証明になるそうなので見解を述べますと、まったくレイヤーの違う話を鬼首のごとく書いて他者批判しているのはいつものはてなブックマーカーMidasさんなので無視とかそういうことの以前なのですが。ブレヒトに言わせれば現存の人類社会は欺瞞で、そしてそれはブレヒトの半分です。ブレヒトのもう半分としての真善美への志向と人類社会の再構築の意識がMidasさんの他者批判にはない。そんなのはテンプレートにも程がある。


付け加えると、社会の約束事を「言葉で」解体する「言論」は、つまりホラ話でさえないそれは、道化でなく本気でやっているのなら論外です。右翼テロが肉体を賭けることの意味は、社会の約束事を「言葉で」解体する「言論」が無力で「話にならない」から成立します。要するに、150年は昔の通過点を本気で知らないならあまりに「自覚が足りない」。私に限らず、そんな「啓蒙」は要らない。


「道化として無視してはいない」と言えばCrowClawさんは「納得」されますかね。蟷螂の斧を振るっておられると思うので、その千万人といえども吾往かん姿にかつての赤尾敏先生の辻説法を見て私はリスペクトしているのです。


「全ての製作者は己が地下活動を行ってるのだと悟るべき。wiselerに説教してるバカ共こそ自覚が足りないのだ。」という「ラディカルで本質的な」「批判」に「応答」しないと「無視している」と見なされるらしいのでお応えしますと、そうですね、村上春樹はかつてこう言いました。「ある人は飛行機を作るし、ある人は小説を作ります。」だから自分はなんら特別なことをしてはいない、と。村上春樹こそ「自覚が足りない」バカ筆頭であるようです。もちろん、それは一流のレトリックであるわけです。


「全ての製作者」であるところの飛行機を作る人も己が地下活動を行ってることを悟るべきなのでしょう。ところで「小説を作る人」であるところの京極夏彦はなんら創作の話をしておらず、ビジネスの信義について述べているのですが。一人前の社会人として。一次創作と二次創作を区別するのは創作の本質論ではなく法的権利と社会的合意に決まっているわけですが。


なので、法的権利と社会的合意についてCrowClawさんに見解をお尋ねしたところ「シニカルな立場」とやらに基づくgdgdな返答が返ってきた。gdgdは構わないのですが、論点を捻じ曲げて隠喩としての「ラディカルで本質的な」問いを特定他者に投げかけることは勘弁していただきたい。その恣意性について「自覚」はあるわけですよね。その恣意は「倫理」としてなんら正当化されないことも。


「創作は本質的に社会と対立する」という命題はその通りですが、まったくレイヤーが違う話です、ということです。レトリックで煙に巻いている村上春樹が「職業としての小説家」「社会的存在としての小説家」に問題意識をずっと持っていることは、エルサレム賞受賞スピーチで周知された通りです。読者にとっては、大昔からわかりきっていたことです。「構造を見る」という発想がないままに倫理とやらにおいて態度を云々されても困ります。

前回のMidasさんの「間違いは正義の〜」というブコメにせよ、私が「こういうコメントがありましたよね」と書かなかったら、sk-44さんはエントリー中でそれに応答する気があられたのでしょうか。勿論、大量にあるブコメの全てについてそうすべきだとは言ってないし、Midas氏がキライならハナから全部無視するか、地下に眠るM氏のように「ゴミコメント付けるな」と突っぱねればいい話です。しかし、sk-44さんはMidasさんの「ファン」を自称されているのに、議論の途中で書き込まれたこうしたコメントについてすら自主的に何らかの形でレスポンスをする用意が無いように見えました。だから、「聞くフリだけして無視している」と書いたのです。


「ファン」なので、遠目に見守っていたい存在なのですよ。もちろんそういうことを含意して「ファン」と書いています。私はtikani_nemuru_Mさんとはスタンスが違う。それが「失礼」に値する、とかそういう話なら仰る通りですが、EXILEに激烈に抗議したファンは真のファンではない、とも私は思わないので。「真の非モテ」とか「真のIRA」とかそういう話であるとして。


で、意見の相違と好意の有無は連関する問題ですか、とお尋ねしました。コメントがないのは結構ですが、これも恣意的な論点の選択ですね。「対話の用意がない」のは「Midasさんにその用意がない」と考えるからです。そのことを縷々述べてきたわけですが。それで問題ないと思います。形式的に妥当な応酬が為されていると理解しています。

ついでに書くと、最近のMidas氏は「はてなサヨク」の一部を「原理主義化している」と批判していますが、tmsigmundさんや金光翔さんにしろ、恐らくは無意識でしょうが、従来の「リベラリスト」的な態度ではMidasさんのような「敵」に対抗できないから戦略的にああいう主張をされている面はあると思います。金さんはMidas氏にブコメで「その考え方はアルカイダと一緒」と腐されていましたが、リベラルの限界を突っつく「政敵」への対抗手段として、アルカイダ的な原理主義に(全面的にではないにせよ)接近せざるを得なかった、と言う事情があるのでは。


勿論、私はMidasさんではないので、金氏(彼は「はてな」の人間ではありませんが)や他の「はてなサヨク」の方々をアルカイダと同一視するような見方には反対です。ただ、私はむしろそうして批判される人たちのほうが、ある意味でMidas氏のような批判を誠実に受け止めているのではないかと思っています。sk-44さんはどうなのでしょうか。


「Midas氏の批判を「否認」するはてなサヨク」というストーリーを構築しておられるのかな、と当初思ったのですが、「Midas氏の批判を「否認」するsk-44」というストーリーとして変奏されたようですね――CrowClawさんにおいては。間違っていますよ。「Midas氏のような批判」と言われますが、つまりそれはどのような批判のことですか。解説お願いします。赤尾敏と思っておられないことはわかりましたが、「反論がいっさいできずに、ブクマで石を投げるだけ」ということではないわけですよね。わかっていて訊いているわけですが。


あと、honestyを問うことは結構ですが、他者のことについて別の他者に対して問うのは「大きなお世話」です。それはとっくに倫理の問題ではなくて政治の話、というかサヨクサヨクによるサヨクのためのサヨク批判の話です。そもそも、CrowClawさんにおいては「Midas氏のような批判」は誠実に受け止めるべき批判、という判断があるのですよね。私はと言えば「誠実に受け止めて」はいますが、その対象はMidasさんとその批判ではないなぁ。

はてなidがMidasさんの言っておられることは、少なくともダイアリはともかくブックマークコメントにおいて言っておられるその内容は、私にとって文脈的に既知なので反応しようもない。万一、啓蒙だの教育的配慮だののつもりなら、相手を間違えているようにしか見えないし、それは「はてなサヨク」に対する批判全般においてそうです。私は赤尾敏先生と思って「納得」しています。赤尾先生のことは尊敬していました。


「文脈的に既知」なら、尚更そうした批判に対して再批判が出来るような回路を議論の中に仕込んでおいた方がいいんじゃないでしょうか。その「納得」の仕方は間違ってると思います。私には彼が赤尾敏とは到底思えないので。


――ならidコールしますが、「こうした批判」のことですか。

b:id:Midas  アホか。言葉にならないもの≠正しい。何かを排除した上に確かに言葉は成り立つ。排除されたものが正しかったと証明する事など誰にもできない。原初にあるのは正義でなく嘘、見かけ。難破船のバカと同じ倫理的な誤り

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20090314/1236998502


「尚更そうした批判に対して再批判が出来るような回路を議論の中に仕込んでおいた方がいい」とのサジェスチョンはありがたいのですが、でははっきりと書くことにします。端的に申し上げて、否定神学をもって肯定神学を批判することくらい安易な批判はない。肯定神学の不可能がMidasさんにおいて自明の命題であるとして、CrowClawさんにおいても同様ですか――と私は訊いてきたわけですが、「社会の防衛の為に「正義」が要請される局面は有り得る」という言葉から察するに、CrowClawさんにおいても肯定神学の不可能は自明の命題なのでしょう。


で、「間違っていない正義」を目指すリベラリズムが肯定神学である以上、否定神学とは原理的に相容れないことでしょう。ラカンジジェクのと言うまでもなく、ロールズとローティの対立の構図でした。「誤解」と言って質問に答えないことも結構ですが、私が訊いているのは「リベラルと自己規定するCrowClawさんにおいて「間違っていない正義」を目指す発想はないのですか」という確認です。


ないならないで構いません。しかし、サヨクサヨクによるサヨクのためのサヨク批判に、ローティの議論を知る私は食傷しています。そもそも私はサヨクではないので「それははてなサヨクの人に訊いてください」とwiselerさん風に端から棄却してもよかったのですが、私は誠実なので。そして代弁が趣味と稼業なので。


私は「リベラル」ではありませんが改良主義なので政治的言説においては肯定神学の立場に立つのです。「間違っていない正義」を人は目指して政治的に振舞うから「人間の尊厳」という観念は万人に共有される「べき」理念として立つ。――基本的人権のことですよ。私は自明と思っていないので。否定神学の立場から基本的人権の自明を掲げる議論を批判するなら、それは簡単でしょう。安易の極みです。


それが画餅だ、という指摘が否定神学であって、確かにラカンはそのことをセミネールにおいて精神分析として徹底的に追求しました。CrowClawさんのリクエストにもう少しお応えしてMidasさんのブックマークコメントに対して見解を述べますと、「他者の欲望の対象はない」とMidasさんは仰せで、つまりそれが否定神学であり、ラカンなのですね。私はと言えば、ないものを信じることが社会的動物の振舞いにおける形式的妥当を構成すると考えます。形式的妥当とは何か――他者危害の抑止のことです。復讐権ってのは自然権です。またしても漫画(というかアニメ)ですが、『ソウルイーター』のテーマですね。大和屋のせがれが私は好きで。


肯定神学とは「他者の欲望の対象」を屏風から出すことではない。他者の欲望の対象が存在する「かのように」振舞う、その政治的行動によって共有される観念が人間存在を外側から規定する、という立場です。要するに「画餅」という指摘はなんら意味がない。


まさかとは思いますが、CrowClawさんはジジェクの言っていることを真に受けているのですか。滅法面白いと思うし私は好きですが、「画餅」と言って何かを言ったつもりになっている人ですよね。本人もわかってやっている芸風であって、あの時代の東欧でクンデラの衣鉢を継いだから歴史的意義がある、と私は思いますが。「画餅」が人の生を致命的に左右するすぐれて政治的な世界の悲喜劇を「画餅」という認識と同時に描いたからクンデラの小説は素晴らしいのです。


否定神学は世界の森羅万象を見通す透過点ではない。そのようなジジェク批判はそれ自体がテンプレートと言ってよいくらい周知されていると思っていました。20年来の洗練された芸風に今更誰もケチは付けない。家元ラカンは、否定神学を世界の森羅万象を見通す透過点とはまったく考えなかったし、そのように用いたことはない。フロイトさえ森羅万象を精神分析において語ろうとしたのに。だからラカンは偉大でジジェクキッチュなんだと思いますが、キッチュで悪いということでもないし。


政治理念を「画餅」と指して人間世界の政治性は払拭されたか。むろん逆で、矢作俊彦風に言えば、冷戦時代のほうがよほど筋が通っていた。ジジェクは言うでしょう――人間世界の政治性を払拭するために政治理念を「画餅」と指しているのではない、人間とはそもそも政治的なのだ、と。成程それは「シニカルな立場」の範たりうるものでしょう。もちろんジジェクはあの時代の東欧においてバリバリの政治的アクティヴィストだったからその「シニカルな立場」が認められている。クンデラも然り、シニカルだのアイロニーだのとは普通そのレベルの話です。


政治理念を「画餅」と指してイスラエルの暴力は抑止しうるか。むしろ「生き延びるための血で血を洗う闘争」を(軍事的にも政治的にも経済的にも)戦い抜くべく覚悟完了しているイスラエルの剥き出しの「本音」を肯定することにしか繋がらない。そして人は死ぬ。100:1のスコアで「パレスチナ人」が。それが現在の議論であり、1月に私も書いたことです。前提ということです。


そこまで「大きな」話でなくとも、先進国では、こうした問題はいくらでも変奏されます。政治理念を「画餅」と指して、善悪判断を含む観念が万人に共有されなくなった結果、何が起こったか。個々人の痛みが個別の問題として立ち上がり、声を上げること、声に耳傾けることが政治の優先事項となった。「大きな物語の終焉」ってことです。


それは悪いことではまったくなく、あらゆる人間の解放の理念としての世界同時革命よりはよほど「マシ」で現実的かも知れません。アイデンティティ・ポリティックスの台頭は意義あることで慶賀すべきであり、個々人の個別の痛みについて当事者が声を上げること、「私の痛み」としてのその声に耳傾けることが政治の優先課題となることは、改良主義的に言っても前進でしょう。


だから、それはそれで構わないのですが、ところで世界は平和になったか。まったく逆です。個々人の個別の痛みに基づく政治は人間世界の政治性をいっそう激化させました。そして、個々人の個別の痛みに基づく政治は誰も引くことを知らないがゆえに妥協の技術ではありえない。結果、血の雨が降る。個人的に、hashigotanの一件を思い出します。


「趣味の問題」とはそういうことです。政治理念を「画餅」と指す類の否定神学はなんら世界の平和に貢献しない。それは、自明な前提です。世界の平和に貢献するために政治理念を「画餅」と指しているのではない、と戦闘的アクティヴィストのジジェクは言うでしょうが、戦闘的アクティヴィストでない者がそれを言うなら、その「シニカルな立場」とやらの根拠はどこにあるのでしょうか。優越感ゲームで他者の「無能」を指摘しているのでないなら。


「運命」とは「俺が俺に俺の行動は正しいと囁いている」という非倫理的な電波のことではありませんよね。倫理は証明不可能なので他者に言明するなら他者が認めなくては仕方ない。「絵餅」に対して「屏風から出してください」と要求することの無意味を私はよく知っているので、運命を証明せよとも運命の実在を証明せよとも言いませんが。


行為に実存を賭けることが運命を知ることとして、それが「自己都合に基づく思い込みではない」となぜ言いきれるのか。「自己都合に基づく思い込みではない」ことを知るから運命なのだ、ってのは単なるトートロジーです。ドン・キホーテも運命を生きました。風車に斬りかかるなら人畜無害ですが、人に斬りかかったら単なる人殺しです――形式的には。形式の問題ではない、というのは右翼の発想です。他者を貶める行動の根拠を「運命」とやらに帰することが倫理なら電波な殺人鬼の言い種も倫理的です。


政治理念が「画餅」で運命が「画餅」でないとどうして言えるのか。貴方の言う運命とは貴方の観念ではないか。他者と分かち合えない観念を電波と言います。「運命」を他者に主張することは電波の謗りを免れない。電波で構わないし、チラ裏で構いませんが。真善美の美は現代において他者と共有しえない、という命題は、だから美において他者を批判することは現代において原理的にはきわめて困難である、という命題とセットです。その困難を運命とやらで跳躍するなら、何のことはない、単なる典型的なロマン主義者ではないですか。――傍から見ると。


原理的に困難なことを恣意によって実現している、という話です――私がCrowClawさんに対して言っているのは。明快に換言すると、自分を棚に上げている、という話。


否定神学は森羅万象を見通す透過点ではない。そのテンプレートを「Midas氏のような批判に対して再批判が出来るような回路を議論の中に仕込んでおいた方がいい」とのサジェスチョンに従って仕込んでおきましょうか。批判テンプレートは誰かがはっきりと書いておかないと、CrowClawさんのような「誤解」を呼ぶらしいので。


はてなサヨク」を云々しておられますが、みなわかっていて言わないだけと思いますよ。「はてなサヨク」の多くは敢えてする肯定神学なので。そして私は人は真善美を目指して生きるものと思っているので。tikani_nemuru_Mさんの議論は常に真善美を目指して展開されている。肯定神学と否定神学は神をめぐる合わせ鏡なので、その意味では「誠実に受け止めて」います。――ただ。


画餅」は屏風から出ないし出せない、と否定神学の立場において事実命題を述べておられるつもりなら、肯定神学とは画餅を屏風から出すことではございません、と応えるよりほかない。そんなことはポストヒューマンな現代の人間世界を生きる誰しも承知なのであって、そのことをわざわざ他人に教えて回る貴方のその行動の理由は何?――という話ですよ。


「バカは見過ごせない」とか言ったら笑います。これは、思えばpbhさんもそのきらいがありましたが――真善美の外側で他者を批判すると、バカや「無能」を指摘する以外になくなる。そして真善美を目指した他者批判をバカと無能と指す。


真善美を目指した他者批判が倫理概念と対立することはその通りなので、だから「真善美を目指した他者批判」に対して倫理の立場から批判することはまったく妥当です。その点については、Midasさんのような言説を認めているし、その批判の視座やすぐれて倫理的なスタンスには敬意を払う。「自覚」はしていますが、自覚しているから批判をするな、という話はない。批判したら宜しいと思います。文脈的には既知ですが。


バカと無能と指しているのではなくて「非倫理的」と指摘すればいいのに、と私は思います。バカも無能も指摘して他者を説得できなければ行為をめぐる行為主体の納得問題になるでしょう。「バカと無能と指摘したことは「運命」に対する自覚の問題として私自身は納得している」ってのは自己都合の議論であり電波であって、バカな議論ですよ。バカと無能と指して回っていたら貴方が幟まで上げて立てている倫理の旗は折れます。単に説得力激減という話で、だから私は納得力を動員している。運命論は納得の回路の最たるものです。


否定神学とは倫理の旗幟を鮮明にする問題設定であって、他者をバカと無能と呼ぶために用意された「画餅」ではない。妥協の技術としての政治は失墜し、敵意の応酬を燃料とする政治が人間の本性において用意される。否定神学とは、人間の本性を当為命題を退けて暴くための修辞です。肯定神学において当為命題を掲げることを私は選択しますね――政治的に。


もちろんそれも修辞で、一切は神学論争ですが、しかし人間の行動は実在します。他害行動の結果死ぬ人間も実在します。そこから政治が発します。血なまぐさい政治が。それは抑止したいと私は思うので、政治的には肯定神学を採ります。ジジェクの議論は端的に修辞であって、それはジジェクの半分です。人間がそもそも政治的であることに対する問題意識が東欧の「悪魔的知識人」(by浅田彰)たる彼の根底にある。


イスラエル式の「やられたらやり返せ」は、つまり自然権としての復讐権は、典型的に否定神学です。それを肯定神学と誤解する人も、本邦の死刑論議では散見されるのですが。否定神学において起動する自然権が存在するからあらゆる自然権否定神学的とは私は思わない。基本的人権を肯定神学として取り扱うことに、政治的な改良主義者の私は同意するのです。もちろん、私の価値判断です。


肯定神学の不可能を指摘し、不可能に気が付かない愚か者の不見識を嘲笑っているMidasさんはジジェクのデッドコピー、というのが私の見解です。「画餅」と指摘することが肯定神学の不可能を指摘することと同義と考えることは愚かしい。否定神学において特定他者の無能を指摘することがそもそも愚かしい。典型的に「アイロニカルな没入」であり、要するに為にしていることだからですよ。「自分と本来的に無関係な他人」の不見識について「嘲笑って平然としている」自身の欲望については、精神分析はどのような解を示していますか。「運命」「倫理」を掲げて正当化せよ、というのは全然否定神学的ではないですね。


倫理とは、フロイト的な「運命」やラカン的な「他者の欲望」から、自身が自身であることそして自身の欲望を切り離す行為であり、決断であり、賭けであり、投企です。「運命」とやらとずぶずぶになって挙句他者に及ぶならそんなのは倫理ではない。当然、肯定神学も否定神学も「神学」に変わりはなく神学論争の結果うんこ投げ合うことは宗教戦争の範疇ですね。価値判断に基づく世界観の問題、ということです。「肯定神学の不可能」は事実命題ではない。人間存在にまつわる当為命題の一切を退けることの欲望は、精神分析ではどのように記述されるのですか。

Midasさんは、元厚労相高官を殺害した男を評して「これが典型的な右翼」だと書いていました(http://b.hatena.ne.jp/Midas/20081123#bookmark-10951495)。ナショナリストとは、自身の辿った「歴史」の結果としての「趣味」の代わりに、より大きな「歴史」の主体になることを選んだ人間のことです。それがその人自身の「運命」によるものなのかは判断できませんが、彼らの主張するパトリにはしばしば明確な嘘が含まれています。誰も国に抱かれた経験のある人間などいないからです。


自覚なきロマン主義と自覚的なロマン主義とどちらが「マシ」か、という定番の問いに対して左翼なら、どちらもろくでもないしそもそもロマン主義がろくでもない、と答えます。なぜなら、いずれにせよ主体の行動とその結果ひいては他者と世界に対する政治的波及は抑止されないからです。(石原慎太郎のような)文学というロマン主義に決して逃げなかった村上春樹は流石と思います。「敢えてするコミットメント」が「最悪」なのは、対外的なエクスキューズとしてそれが機能するときです。


CrowClawさんは自覚的なロマン主義者だったのですか、というのが現在の私の疑問です。――元厚労省高官を殺害した男が「典型的な右翼」であるなら。情念に基づく他害行動が「敢えてするコミットメント」というエクスキューズにおいて結局抑止されないなら、そんな自覚は端的に政治のノイズでしかない。政治においてはノイズでしかないことを、後生大事にエクスキューズしてみせるから、ロマン主義ロマン主義たる所以です。実存だの決断だの賭けだの投企だのと行動主義に対して主観的な自己都合を繰り延べて、「政治」という観念を自分の電波の養分にする。


私は好きですが――吉本隆明が微妙でもあったのは「政治は共同幻想である」という言説が電波の自己正当化の格好の餌になったことです。そしてあるべき政治は失われ、しかし現実に政治は存在し、人が死ぬ。あるべき政治を否定するのが否定神学であることは結構ですが、しかし現実に政治は存在し、人は死にます。あるべき政治とは、人死にを減らすための共同体の合意です。吉本隆明においては、共同体の合意に関わらず、人は勝手に生きて勝手に死ぬ。あるべき政治の完全に欠如した、しかし現実に政治が存在する、北朝鮮ジンバブエという国家を私たちは知っています。

はてなサヨク」を理想という世界宗教の信者と誤解した挙句「はてなブックマーク」を通じてその崩壊の鐘を鳴らし続ける炭鉱のカナリアに対して、理想とその崩壊という世界宗教の信者の近親憎悪を見るのは、つまり知的な旧世代の自同律的運動を認知することは、類推を超えて穿ちが過ぎるでしょうか。


その「炭鉱のカナリア」はMidas氏ですか、それとも氏の「デッドコピー」たる私のことですか?前者ならそれこそ「ファン」の台詞とは思えないですし、後者なら端的に誤解です。上記したとおりですけども。


もちろんMidasさんのことです。「それこそ「ファン」の台詞とは思えない」というCrowClawさんの発想がわかりかねますし「シニカルな立場」を主張する人がそういうナイーブなことを言うものかと思いますが、私の問いにはほぼ答えておられないし、為にする修辞なのでしょう。そもそも〆の修辞疑問ですが「類推を超えて穿ちが過ぎるでしょうか」という問いに対して「それこそ「ファン」の台詞とは思えない」とはまるで「応答」の体を為していませんね。恣意ですか、それとも「無能」ですか。棘はお互い様ですが、何も言っていないに等しいレスを返している手間があったら内容ある応答をしてください。最後に、村上春樹のスピーチについて。

文学的想像力に基づく隠喩であり、政治的発言ではないという前提において、村上の言っていることは正しいと思うし、自身のブクマでも支持を表明してきたつもりです。


ただし、あの発言を政治的発言と見なすなら、hokusyuさんの言っているように端的に言ってbullshitなので、mojimojiさんのように「政治的にも価値を見出せる」とする立場には明確に反対です。彼が彼なりに誠実なのは分かりますけど。そうした場合、私はむしろ氏を批判していたtmsigmundさんや金光翔さんの立場に共感します。私自身は村上スピーチを政治的なものだと「見なしていない」ので、彼らに同意するわけではないのですけれども。


ああ、その伝なら私の見解はmojimojiさんに近いです。小説家村上春樹は、ホラとしてホラを吹くことには意義がある、なぜならそれは膠着した政治的な対立を卵の問題へと還元しうるからだ、と「エルサレムで」述べているので。そして、その意見に私は賛成するし、「エルサレムで」そう述べたことに深い敬意を払うので。


エルサレムで」そう述べたことには意味/価値がある。ホラであれ「ホントの話」であれ、単なる言説の問題ならどこで言おうと同じことで、村上春樹が「エルサレムで」言ったことには政治的な意味/価値が歴然と存在します。村上春樹の行動は政治的な行動です。その政治的行動の動機を「エルサレム行きに反対されたから行くことにした」と「ホントの話」と断って述べているから、あのスピーチは面白い。まるで彼の小説のように、行動と発言が、外形と内心が、相互言及的な入れ子構造になっている。


非政治的なスピーチを世界一政治的な場所で政治的な注目の中述べ、しかしその政治的行動を非政治的動機から行ったと言明するから、小説家村上春樹は一筋縄では行かないのであって、そしてその行動の一切合財に、政治的な意味/価値がある。「あの発言を政治的発言と見なすなら、hokusyuさんの言っているように端的に言ってbullshit」というのはメッセージの(形式でなく)「内容」をしか見ない発想であって、メッセージとは行為であり、行為に対する言及の構造の総体です。それが私の見解で、mojimojiさんも大筋ではそう考えておられるのだろう――と私は思っています。