権力と顔


はてなブックマーク - toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


先のエントリでも少し触れたが。靖国問題もそうだけどfinalventさんはこういうことについては市民社会の「べき」を貫徹するリベラルな人なので、政治家小沢一郎に対する評価とはなんら関係ないその「べき」論はまったくその通りと私は思う。ただ――「べき論」を言ってよいなら私は死刑なんて即刻廃止すべきと思う。ただし、個別の事件に対して「べき論」を主張することには躊躇する。かくて「べき論」は私において脱臼し続けるのであるが。なので、少し「べき論」を離れて書いてみる。


最初に、政治にカネがかかることに対する是非の判断がある。是として、ではカネの渡し方に法的なルールを課しましょう。「ルール違反」認定が東京地検特捜部の恣意に左右される、というのはその通りなんだけど、では誰が認定するのか。カネの渡し方に法的なルールを課すことを是とするなら、そのルール違反について認定するのは誰か。「誰」という問題ではないから法です――というのが原理的な議論。もちろんそういう話ではない。形式論に基づく恣意的なルール変更を社会通念の問題、と見なすなら話は早い。検察は空気を読まないようで読む。世論という空気を。


法的な「ルール違反」を手続きとして市民が認定しましょう、という話なら、捜査の経過を注視し、正当な手続きとしての裁判の結果を待つよりほかない。私が裁判員制度に賛成なのは、法的なルール違反の認定に市民が直接に関わることに手続的な意義があると考えるからだ。むろん、それが単なる「法的なルール違反の認定に市民が直接に関わる」ことのアリバイになってしまったら意味がない。そして、大政治家をめぐる刑事裁判が市民の認定に堪えない不当な手続きを踏むとも思わない。いずれにせよ、政局にはなんら関係ない。小沢が一国の総理になりうる人であろうがあるまいが。


無罪推定は原則であって、立証責任は検察にある。会見で公的に嫌疑を否定した小沢一郎が裁判の結果も待たず公党代表の座を退くなどとんでもないことと私は思う。市民社会においては裁判と選挙は別の問題であって、現に鈴木宗男は再当選したし、田中角栄については言うまでもない。刑事被告人としての田中角栄が再選し続けたことこそ、日本における三権分立の証明ではないか。――もちろんこれは建前という欺瞞の極み。


三権分立のひとつの要諦は、司法の政治に対する独立と私は理解している。政治権力からの司法の独立性。それがひっくり返って「司法権力」という話になるのは、そう言われて仕方がない点が外形を眺めても一目瞭然に存在するからであるが、しかし「司法権力からの民主主義の独立性」という話なら、田中角栄に思いは至る。あのときの新潟3区の意地について、当事者の証言を聞いたことがある。天晴れと心から思う。個別の政治家や米中絡んでの政争というか血みどろの暗闘に対する評価の話ではない。政治権力としての司法の話。


立花隆が回顧しているが、田中角栄に手を突っ込むとき、最高検に至るまで検察の緊張と覚悟は相当のものだったろう、と。もちろん「政治権力からの司法の独立性」などという「べき論」は昔も今も心許ない。四半世紀の、あるいは平沼騏一郎以来の実績の上に緊張と覚悟は胡坐をかいて弛緩しているかも知れない。だが、渡らねばならないルビコン川がある。


――だから、それが政治的判断であり政争であるという話だが。検察は政治レベルの判断をする。政治レベルの判断を行う主体が顔の見えない権力であること。日本においてそのことが司法の独立性と同義であることの、実質的な意味。


日本においては、事実上、司法権力が顔のない権力としてあることが「政治権力からの司法の独立性」を担保している。そして、そのことは日本司法の文脈にある。だから、状況は両義的で、民主党検事総長の聴取を検討することはその意味ではわからなくもないけれど、しかし司法の政治に対する独立という原則についてどう考えておられるのか、という。


そして現在、顔を持った権力と顔のない権力が表舞台でぶつかれば、顔のない権力が勝つ。少なくとも、顔のない権力に有利なように(法的な!)ルールは設定されているし土俵は出来上がっている。日本が官僚大国であることも、「マスゴミ」が第四の権力であることも、つまりはそういうことだ。


民主党をめぐるマスコミの報道姿勢がこれまでどうであったか知らないが、比喩と厳に断るが、小沢一郎に汚れなしとは誰も思っていない。「誰も」とは「国民の誰も」ということ。小沢は、国政の汚名を濯ぐことに尽力したようには、自身に対する汚名を濯ぐことに根本的に関心なかったと思う。それは秘密主義ということでもあったし、またそのことが小沢という政治家の男を上げてきた。泥を被ることに躊躇ない男を見込む、小泉純一郎がそうであったように、それが民主主義の政治であり、そのことが顔を持った権力を名実ともに作り上げる。そのことには是非も功罪もある。顔を持った権力の危険を憂うことは必ずしも杞憂ではない、が。


顔を持った権力が顔のない権力に潰されることのない日本を、finalventさんは望んでいるのだろうかと思った。顔を持った権力としての政治家がきちんと立つことのできる日本を。その市民社会を。だから――小沢一郎司法権力がルビコン川と見込んで致し方ない政治権力と思いますが、という私が当初覚えた違和感は、的外れなのだろう。その願いに、私は賛成する。


日本において、歪みないことを目指すがゆえに顔のないことを司法の原理において肯定し、顔のない権力として司法権力があることが、それこそ歪みである。名実ともに顔を持った権力を、民主主義は孕み育む。モグラ叩きのごとくそれを叩き潰すのが東京地検特捜部のお仕事であるが、原理において顔を持たないからこそ、法的な「ルール違反」は市民の認定という手続きに晒される必要がある。それは、結果オーライということではない。政治権力という顔を、顔を持った市民が選ぶとき、顔のない権力が棹差すなら、それは横車であり、成程クーデターに等しい。


顔のない裸体たち (新潮文庫)

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