Nobody's Fool


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090309/p1

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090309/1236540261


学費未納に対する卒業証書不授与措置と、1歳児死亡に発するマンナンライフ訴訟。この辺りの議論を拝見して、思った。


公教育とは社会契約に属する問題で、その社会契約概念は少年法を用意する。子供は社会的に半人前という話。公教育という社会契約の主体は子の扶養義務者であって、扶養義務者が自己都合で社会契約を放棄したときその子にペナルティを課す、という話にはならない。論理的には。


規範とは、扶養義務者が自己都合で社会契約を放棄したときその子にペナルティを課す(=「親の因果が子に報い」)、ということではあるまい。『エミール』を著したルソー先生が聞いたら怒り狂うだろう。慣習としての規範を糞と思ったから、ルソーは社会契約概念を主張した。問題は、そんなルソー先生が今で言うところの正真正銘のDQN親であったことにある。そして現在、社会契約概念はDQNに横領されもする。そのことに苛立つ善意の市民もある。

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バイクのメットインに1歳児を入れて買い物に出かけた結果子供を死亡させた夫婦がいた。遺体を遺棄したため、当然逮捕された。予見可能性は社会通念を参照して見積られる。バイクのメットインは社会通念に照らして論外であっても、凍らせた蒟蒻畑はそうではなかった。もちろん、日常的なネグレクトなり「虐待」の有無も考慮される。


「餅は?」「パンは?」「米は?」が私にとってよくわからなかったのは、予見可能性は社会通念に照らして判断されるからで、その点において餅やパンや米と蒟蒻畑は違うだろう。単純に、フルーツ蒟蒻は餅やパンや米ほどにはメジャーな食品ではない。


予見可能性が社会通念に照らして判断されるから、社会は通念の精度を高めるべき、つまり常識をアップデートすべき、という話はわかる。そのためにもこうした訴訟について徒に非難すべきではない。誤った訴訟であったとしても、誤った訴訟であったことが、常識のアップデートに貢献する。


法が「認識していなかった」という態度に対して寛大なことは、小沢一郎の一件を見るまでもなくその通りであるが、だからこそ社会通念上の問題になる。国策捜査云々ではなく、東京地検特捜部が自ら社会通念を塗り変えようとしていること、また(堀江・村上のときそうであったように)法の番人たる検察がそれを実際に為しうることが問題と――たとえばid:finalventさんのような――本件について東京地検特捜部に対して批判的な人は言っている。小沢云々という文脈の問題ではない。小沢擁護という文脈からfinalventさんの一連の発言を批判/揶揄している人はなんだろうと思う。話がそれた。


犯意の有無は刑事司法の要諦としてある。だからこそ犯意の有無について「社会通念」に照らして問われ判断される。犯意の有無に拠らず結果責任を問うべき、と考えることは結構だが、刑事司法において問うべきと考えることは、とんでもないことである。大野病院事件の教訓について、私たちは知っているはずだ。


「虐待」概念の拡大は危険なことで「親や近親者の無知で痛い目に遭った」が虐待なら、この世は被虐待児であふれかえる。かつての被虐待児と、現在進行形の被虐待児で。もちろん被虐待児は救済さるべき対象である。そのことが何を意味し、結果するか。


かつて「アダルトチルドレン」概念を批判したり笑った人が「親や近親者の無知で痛い目に遭った」を虐待と見なすことに賛成するなら、それこそ私は笑う。もちろん、バイクのメットインに1歳児を入れて買い物に出かけることは虐待である。それは、犯意の所在について社会通念上判断しうるからで、夫婦が愚かなDQNだからではない。

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凍らせた蒟蒻畑を1歳児に与えることの危険性について「認識していなかった」ことが問題なら、為すべきは予見可能性に対する社会通念の精度を高めることであって、そうして初めて、予見可能性に対する祖母の「認識していなかった」を責めうるし、あるいは追求しうるし、告発しうる。順序が逆であって、予見可能性に対する社会通念の精度を高める前から祖母の「認識していなかった」を責めるなら、それはどの筋からの追求なのか、単なる私怨ではないか。私怨でまったく構わないが。


常識の欠如を嘆いて誰かを責めるなら楽で、常識とは社会がアップデートすべきもの。アップデートに合意してから欠如を責めるべきであって、常識の崩壊を前提して誰かの欠如を責めるなら、それは為にしていることだ。


三者が責を問うなら、それは社会的な筋に由来すべきで、個人の無知の問題ではない。「馬鹿なの?死ぬの?」と人は冗談か煽りで言っていると思っていた。多くの偽科学批判批判に対して私が批判的なのは、社会における常識のアップデートの必要に合意しないにもかかわらず「個人の自由」を寿ぐからだ。愚行権とはそういうことではない。


「虐待」の定義に犯意の有無を含まないなら、凍らせた蒟蒻畑を1歳児に与えることの危険性について「認識していなかった」ことは即座に虐待だろう。法的には犯意の有無が問われるのが「虐待」なので、祖母は立件されなかった。社会通念上、予見可能性が自明とは見なされなかったからだ。社会通念上、予見可能性が自明と見なされなかったことから、メーカーの責を問う遺族の訴訟が、単なる責任転嫁とは私は思わない。


社会通念上、予見可能性が自明と見なされなかったことは、マンナンライフの責か。否として、少なくとも祖母ならびに当該の家族の責ではない。「社会通念上、予見可能性が自明と見なされなかった」から祖母は「虐待」として立件されなかった。「社会通念上、予見可能性が自明と見なされなかった」ことの責を問うなら、それは私たちが責を負う社会通念の問題であって、常識に欠けた愚かな祖母の問題ではない。


凍らせた蒟蒻畑を1歳児に与えることの危険性について「認識していなかった」ことを個人の馬鹿や常識の欠如として問うことも結構だが、「虐待」という言葉の背景に付き合って感情論を述べるなら、それでは死んだ子供は浮かばれまい。家族は何よりもそう思っているだろう。馬鹿は根絶できず、常識の崩壊が自明であるとして、しかし馬鹿の根絶にも常識のアップデートにもコミットしないまま道義的な責を誰かに対して問うなら、負のドミノをしかもたらすまい。

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私は米倉涼子様のファンなので『モンスターペアレント』というドラマを見ていた。基本的に性善説のTVドラマであったが――思ったことがある。現在、人の親は誰かから自身の落ち度を責められることに脅えている、だから(先手を打って、かどうかは知らないが)学校を責める。教師を責める。そして「モンスターペアレント」と呼ばれる。落ち度とは「子育て」をめぐる落ち度のこと。


問題は、人の親が誰かから「子育て」について自身の落ち度を責められることに脅える現在と、私たちが人の親を「道義的に」責める口実を山ほど持ち合わせていることだ。落ち度なき子育てなどない。そして尋常な人の親は、人の親としての自分が誰かから責められることに脅える。


子育てに過失なき人の親などない。どれほど尋常な親であっても。私は虐待されなかったが、現在生きていることが当然とも思わない。「親や近親者の無知で痛い目に遭った」が虐待なら、私も「虐待」されたことになるが。で、それは誰が得するのか。


ひとたび事故が発生したとき、そしてそのことが扶養義務者の過失を含むなら「道義的に」親は責められる。だから道義は糞であり、それを制度化した規範は糞であると、250年前ルソーは思った。人の親は人の親であることにおいて道義的責任が発生する。当然のことだ。


その「道義的責任」が人の親であることの重荷であり、心ならずも背負わされる重荷を人間の泣き所と考えていたルソーは女たちに産ませた子を片端から捨てた。もちろんそれは現在では単なるDQNであるが、人の親に対して、人の親であることの道義的責任を第三者が問うことには、社会的な妥当の有無が伴う。道義的責任を第三者が問うために「虐待」概念を拡大するなら、そのことには私は賛成しない。


私たちは、道義的な責めを受けることに脅えて、だから誰かを道義的に責める。子供の出来が悪ければ学校の責任。教師の責任。『モンスターペアレント』は、そういうドラマだった。道義的責任が存在するとは、そのことを第三者が責める余地が存在するということ。


「個人の自由」とは、個人の馬鹿や個人における常識の欠如を、責めるために存在する概念でもあった。「そんな格好で夜遊びしているからだ」。いわゆる「自己責任」とはそういうことだった。私たちが、善意の第三者から道義を責められることに脅える、オブセッションにまみれた社会では、個人を道義的に責める言説は、負のドミノを倒すことにしか貢献しない。それが歪みなき善意に発するものであったとしても。


道義的な負い目の存在しない人の親はいない。だから人の親は、子から道義的な負い目について責められるとつらい。「誰がお前を育てた」と自己正当化したくもなる。確かに、それはとても残酷なことだ。「産んでくれと頼んだ覚えはない」が何より残酷なのは、つまりそういうことだ。完璧な人間はいないし、完璧な人の親はいない。そのことを、人の親はよく知っている。人の親であることは、そのまま道義的な負い目を抱えることでもある。そのことを第三者から指摘されて愉快な人間はいないだろう。にもかかわらず他者にそれを指摘することのその理由が、訴訟の不当性を示すためなら、同意できない。


道義的な負い目の存在しない人の親を、人はモンスターペアレントと呼び習わすのだろう。その理解は誤っている、道義的な負い目の存在ゆえに、人の親はモンスターペアレントと化すのだ――というのが米倉涼子様主演のドラマだった。


むろん、それは性善説なTVドラマの偽善かも知れない。しかしそれが「だいたいあってる」のなら、人の親の道義的な負い目について強調することは、オブセッションの更なる強化という負のドミノにしか役立つまい。そして人は個人の馬鹿を、常識の欠如を、道義的な観点から責める。「人の親として」と。「正論原理主義」な誰かが、自分の道義的な負い目を突いてくる前に。

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身内の不幸は身内で処理せよ。『普通の人々』のように。身内の不幸を社会や法という公共の利益に属する場に持ち出すな。日本社会はずっとその慣習で丸く収めて幸福にやってきたのだから。――という主張に私は同意できない。日本社会はとっくにその慣習では幸福にやっていられなくなったのだから。家族が個人という単位へと還元されたとき、扶養義務者の自己都合による社会契約放棄に対して被扶養者にペナルティを課すことが堂々と主張される現在にあっては、不幸が再生産され続ける。システムのアップデートを、考え方のアップデートと共に迫られている。


人の親であることの道義的な負荷がいっそう強調される。それが「個人の自由」を掲げる新自由主義に牽引されてきた現在かも知れない。個人の自由と規範のアップデートを同時に主張する議論の存在は、不思議ではない。そして個人の自由と規範のアップデートを同時に主張するとき、法的なペナルティへと議論が及ぶことは、なんら不可解なことではない。そのようなアップデートに、私は賛成しない。


個人の自由と規範のアップデートにおいて、法的なペナルティを主張する人が、他者に絶望していることは違いない。モンスターという他者に。自身の内なる恐怖が他者への不寛容を生むとは、現在クライマックスの『ソウルイーター』のテーマそのものだなと、敵役を演じる古川登志夫の声に懐かしさを感じつつ思う。


ところで私は、先日初めて蒟蒻畑を口にしたのだが、買いだめのうえ、野田聖子を擁する政党には絶対投票しないと決意した。なので野田議員はただちに民主党に移籍してください。お願いします。


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