誰が為に鐘は鳴る?


承前。⇒卵の側に立つということ - 地を這う難破船


id:CrowClawさん、お返事ありがとうございます。レスのスピードについてはお気になさらないでください。私も、まとまった時間が取れたときに書いているだけです。早速。

(前略)私は例のエントリーにおいて「代紋商売の解体を「新しい秩序=法」において主張」したつもりはありません。そう読める要素が十二分にあったことは認めますが、ここにおいても私の立場は「シニカル」で中途半端なものだった、と考えるのが前段と照らし合わせて妥当ではないでしょうか。というか、自分ではそう思っていたのですけれども。


例えばソフト販売の携帯が徐々にオンラインに移行するだけでも、ゲーム業界的には相当大きな「革新」が齎されるはずだと思うのですが(それが上手く行ったらの話です、念のため)、それは何も「代紋商売の解体」を意味するものではないでしょう。むしろ、場合によってはそれらの強化を齎すはずです(ipodで成功したアップル社のように)。


ですから、ビジネスの革新の話は結構なのですが、サジェスチョンと称して他者の見識を批判する者の立場が「シニカル」であることは「話にならない」のです。資本主義経済に対して「シニカル」であることはよく存じ上げています。資本主義経済に対して「シニカル」であればこそ、イリーガルな集権に対して法的な合意へと戻るべき、という現在に私は賛成です。


「イリーガルな集権を抑止するためにこそマジコン販売禁止に対しては疑問符」それがwiselerさんの主張と私は思っています。むろん、そのことは盗人猛々しさを擁護することではない。wiselerさんは「マジコン擁護はしていない」と再三仰っていますが、その通りです。つまり、盗人猛々しさについて擁護しているのではない。

(前略)もっとも、例えばガザ問題について本気でイスラエルを批判しようと思うならハマースの側に立つしかないわけですし(これもMidas氏が述べていたことのはずです)、今回の件についても、本気で任天堂他の「代紋商売」を批判しようと思うならマジコンを擁護する以外に無いでしょう。しかし、今回の話はそういう問題だったのでしょうか?


少なくともwiseler氏は「マジコンを擁護する」ためにあのエントリーを書いていたわけではありませんし、勿論「代紋商売」を批判するために書いていたわけでもありません。それは私についても同様です。ここも誤解があると思うのですが、本件について「体制=代紋商売」を見るロジックには誤りがあるのではないでしょうか。私は今回の件であえて「体制=システム」を一つ挙げるなら、「はてなブックマーク」の名前を出すべきではないかと思うのですが。


wiselerさんが第一に危惧しておられたのは「マジコン販売禁止」が別の、それもイリーガルな代紋商売を生む、ということでしょう。イリーガルな代紋商売の悪質性についても。その点に対する反論はありました。どのみち代紋商売へと返される。ハッカーの論理と盗人猛々しさの分岐点は、カネが代紋へと集約され権力を構成する過程です。


そして、カネが存在する限り人の営みは代紋を要請し権力を構成する。マルクスも喝破したことで、だから社会主義は人為的に人間存在を再編成する設計主義として構想され実現されました。それが地上の地獄であったか知りませんが、マルクスの尻尾が現在もなお資本主義経済に対して「シニカル」であるのは、カネの存在それ自体が人の営みを代紋商売という権力へと集約するからです。カネは天下の回り物と、自由主義者は口では言う。口先だけでないことを証明するために新自由主義は台頭しました。


だから、CrowClawさんが資本主義経済に対して「シニカル」であることは構わないのですが、そのような観点に基づく議論はwiselerさんの主張とはあまり関係がないと私は思います。どのみち代紋商売へと返されるにせよ、マジコン販売禁止が、別の、イリーガルな代紋商売を生むことについて危惧しておられたのだから。


ゆえに論点は、代紋商売の是非ではなく、合法/非合法の区別と私は思っていました。私は「体制=代紋商売」とは見ていません。「体制≠代紋商売」です。天下分け目の関ヶ原がありえない世界において、代紋商売とは遍在する権力の別名であって合法/非合法の問題ではありません。確かに、警察が合法マフィアであるなら暴力団は非合法の警察でしょう。法に対する市民社会の合意についてうっちゃてよいなら。


そもそもガザ問題については、「国際社会」は事実上パレスチナ国家を承認しており、現在のイスラエル国家が承認していないだけのことです。当然それが大問題です。現在のイスラエル国家がパレスチナを国家と承認しないことが白燐弾使用含めた一連の圧倒的な暴力の理由になっている。そのことが第一義的に問題と私は考えていますが。合法/非合法の問題と、1月に書いています。

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だから私は「壁と卵が対立しているなら、卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」とは口が裂けても言えないし、エルサレム賞の受賞スピーチで他人が口にするその信条にこの日本から喝采するなら代償行為以外の何物でもない。村上春樹がどれほど立派であっても、そして深く尊敬していようと、だからこそ他人の行動に自分の不可能のケツを回してはならない。


それはsk-44さんが「ファン」だと公言しているMidas氏の言と照らし合わせるとずいぶん奇妙な主張だと思います。彼はこう書いていたはずです↓

違う。いいかげんなことを言うな。白燐弾と同時にロケットにも言及してる。体制(集団)と個人では何があろうとも個人を支持すると当然のことを述べてるだけ。イスラエル側でもパレスチナ側でもない。政治利用はやめよ
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20090216#bookmark-12143838


成る程、「体制=壁」を批判するために体制の側に立つ「個人=卵」を壊そうとするなら、それは―好意的に解釈しても―ハマース的なテロリストの振る舞いでしょう。(後略)


「Midas氏の言と照らし合わせるとずいぶん奇妙な主張」とはどういうことですか。当たり前ですが、私の意見はmojimojiさんともMidasさんとも違います。壁を「正義」でなく「体制」の隠喩としてCrowClawさんは論じておられた、ということですか。なら、私はCrowClawさんの主張を読み違えたうえで論駁してしまっていたようです。pbhさんの件について言及をされていたので、CrowClawさんは「正義=壁」と見なしてそれを卵の側に立って批判しておられると思っていました。


はてなブックマークについても1月から2月にかけて見解を書きました。「体制=システム」と考えたことはありません。つまり「壁」と考えたこともありません。原理的にも実態としても、はてなに体制は存在しません。村長は存在しても、というのは冗談です。


あるいは空気は存在しても。そしてその意味で、山本七平の議論は正鵠を射ていたとも思うわけですが。私の原理的な理解では、「正義」と「体制」は相反します。原理を捻じ曲げるのが日本社会で、はてな村もまた日本社会の縮図、という話なら、大筋で同意します。


mojimojiさんへのレスとして書きましたが、私の見解では、資本主義経済が「体制=システム」であるなら小説家村上春樹は完全に「体制=システム」の側です。もちろん、本人の「つもり」の問題でも「自覚」の問題でもない――唯物論的には。唯物論は倫理を排除します。それがスターリン・マオへと至ったことは言うまでもない。だから村上春樹という個人の倫理がクローズアップされる。擁護論として。そして反サヨクの議論において。


村上春樹が資本主義経済という「体制=システム」に対して「シニカル」であることは公知の事柄です。だから「シニカル」であることには特筆すべき意味も価値もない――少なくとも政治的には。ということだと思います。村上春樹はまったくクンデラではない。それは、たとえばhokusyuさんのような、Midasさんが「敵対」しておられる「はてなサヨク」に多く見られる主張ですね。

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他者の認識の欠如を、認識の欠如と指摘することは非常に強い主張です。にもかかわらず、そのように他者に対して指摘する人に限って、自身の批判を当然の議論と思っているし、自身のスタンスをイノセントと思っている。そういうのを、啓蒙の暴力と確かアドルノは言いました。


それは確かにそうです。しかしながら、「社会の約束事」を守るという立場のsk-44さんならば、個人として他人に悪口を言うような暴力と、不特定多数の他人を低脳呼ばわりするような暴力と、ブックマークのコメント欄で集団でよってたかって一人を非難するような暴力とを、程度問題において区別するような議論には賛成すべきなのではないでしょうか。少なくとも、私のブコメにおける批判はそうした認識の上に書いているつもりです。


不特定多数に対する不見識の指摘に対して、不特定多数から不見識を指摘された。「おまえらはわかっていない」と言って「おまえら」から「おまえがわかっていない」と返された。そして対話が成立しなかった。原理的にはそういう話です。


起点となったwiselerさんのエントリは、地裁の判断と、その判断を支持する見解に対する批判としてあり、批判の内容が不見識を指摘するものであった以上、自身の不見識について指摘を被ることは致し方ありません。


運用に基づく被害実態と被害に対する利益の法的な保護について辞書的な定義に基づいて議論しても仕方がないのです。そのことに意味があると考えるから「辞書に載っている」という説明になる。無知とかそういうことではなく、何についてわかっていないかがわかっていない、という不見識です。


対話が成立しなかった理由は何か。対話は類推を含みます。類推が端から断定ひいては非難なら問題で、確かに白燐弾論争のときwiselerさんを批判していた「はてなサヨク」の一部にそういう向きがあったことを私は否定しません。しかし類推を一切排除するなら対話は成立しない。事実上対話を排除して「おまえらはわかっていない」と言うなら「おまえがわかっていない」と返すよりほかない。そして自身は他者の意図を類推し公言する。「何も考えていないのだろうか」と。


なおCrowClawさんの主張は、不正行為に基づく被害利益の法的な保護をめぐる議論に対して、法的な保護への見識を欠いて為されたものでした。「シニカル」な認識は結構ですが、不正行為という社会的合意に疑問符を付しておられるのですか。


「「社会の約束事」を守るという立場」ではなく社会とは約束事であるという立場の私においては(なので、社会主義は論外)、本質論と形式的な妥当は別の問題です。形式的に妥当な応酬が為されていると理解していますが。形式的な妥当において醸される空気が糞である、という意見には同意します。その空気こそ、個人を潰す諸悪の根源であるなら。ところで私の理解では、リベラリズムとは空気の肯定ではありませんよね。


正義の精度と粒度を高めるべく、20世紀後半以降のリベラリズムは膨大な議論を積み重ねてきました。そのこと自体が行き詰っており唯物論的にはDQN大勝利の現在においてまったく机上でありインテレクチュアルの自同律的運動である、とは東浩紀小谷野敦も言うことで妥当な見解ですが、「だから」正義の精度と粒度を高めるべく重ねられる議論を嗤う、という話はない。嗤う者の醜悪と滑稽が存在するだけと思っています。そもそも「インテレクチュアルの自同律的運動」の結果として形成されたリベラルな議論の地平に対するフリーライドと思います。はてなブックマークでMidasさんがやっていることはそういうことです。だから悪い、という話ではありません。


Midasさんのブックマークコメントを引用しておられるので述べますが、私は、意見は大いに違うけれど、村上春樹の受賞スピーチについてmojimojiさんがいいかげんなことを言っているとも政治利用しているとも思わない。CrowClawさんはどう思っておられますか。私はCrowClawさんの「意見」が聞きたいのです。「シニカルな認識」などではなく。また「私のシニカルな認識」という自己主張でもなく。「シニカルな認識」は自分の分でお腹一杯。

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そして壁と卵が対立するとき必ず卵の側に立つ人が、壁という正義を穿ちえないがゆえにそれを恃む卵を間違いと嗤うなら、倫理とは便利なものと思うよりほかありません。認識の欠如として他者を批判することは、壁という正義を穿ちえないがゆえにそれを恃む卵の間違いを嗤うことです。壁と卵が対立するとき必ず卵の側に立つ人が、それをする。


Midasさんもブコメで書いてますが、間違いはなにも正義の対立項ではありません。そして、いつの世も他人を虐殺するのは「間違った正義」の担い手です。


第一に。比喩にマジレスしますと、近代以降「間違った正義」と「国家」の結婚なくして「虐殺」はありえません。ポストモダンにおける「虐殺」の様相がユーゴ紛争であるとしても。「いつの世も他人を虐殺するのは「間違った正義」の担い手」こういうことを人は容易く口にしますが、ヒトラーと突撃隊がいくら「間違った正義」を掲げていようと「国家」がそれを承認しなければホロコーストは引き起こされませんでした。付け加えると、マルクスレーニンでも可)の思想とヒトラーの思想を同列には扱えないと私は思いますが。


国家とは「体制」であり「代紋」でしょう。ただ――まことに左翼のごとき言い種ですが――近代国家は常に合法的です。「体制」や「代紋」に対して合法/非合法の区別を問わないことは、比喩の効果であり、隠喩の問題です。村上春樹が「体制(集団)と個人では何があろうとも個人を支持すると当然のことを述べ」るためには巧妙な隠喩を駆使し問題を「本質的な次元」へと還元する必要がありました。彼が自ら述べている通り、それが小説家という「プロのホラ吹き」の役目だからです。


体制と集団はイコールではない。それを「The System」という概念においてイコールで結ぶから、隠喩の機能であり、文学的想像力なのです。そしてイスラエル国家とイスラエル国家が承認しない「パレスチナ国家」のハマスは、同列に付される。イスラエル国家が「パレスチナ国家」を承認しないから、ガザ侵攻は引き起こされたのです。


第二に。フランス革命以来の「間違った正義」が人を殺してきた歴史を反省し、「間違った正義」を排除するために、正義の精度と粒度を高めるべく、20世紀後半以降のリベラリズムは膨大な議論を積み重ねてきました。Midasさんがそのことを一切合財批判することはわかりますが、CrowClawさんもそうなのですか。「間違った正義」を排除するべく正義の精度と粒度を高めてきた20世紀後半の知的営為を全否定するなら、CrowClawさんにとってリベラルとは何を指すのですか。またその限界とは。

さらに言うなら、私はwiselerさん以外の人間が本件の当事者だったなら、果たして今回のような行動に出ていたかどうかは分かりません。彼(彼女?)とは元々論敵として知り合い、特に親しくなったわけではありませんでしたが、奇妙な縁でお互い議論を交わし続けてきました。私は前回pbhさんの件で(彼と私の仲は正直険悪だったので)何も出来なかった後悔もあり、今回氏の側に立つことに決めたのです。


私も氏も、多くの数ある「卵」のひとつに過ぎないですし、もし「なりふり構わず」選ぼうと思うなら、助けを必要としている「卵」は他にもたくさんいるはずです。しかし私は、その中の特定の個人を助けることを選んだ。その人のためと、何よりも自分のために。


私にとって「何があろうと卵の側に立つ」とは、そういうことです。非常に自分勝手な話ではありますが。


正義の問題でも倫理の問題でもなく「趣味」の問題である、という話ですか。『BLACK LAGOON』で鷲峰雪緒を救うべくロックがバラライカに対して言い切ってみせたように。改良主義の私は左翼ではないので、つまり理想とその崩壊という宗教に入信した覚えはないので、それこそアドルノ的に、理想が不可能であることは議論の前提です。だから、正義の問題とは「俺が信じる正義」でいいと思います。あるべき正義ではなく。


PCもまた、大いなる理想が崩壊して生まれた、改良主義的な公共財としての正義でした。公共財としての正義に対して、各々「自分が信じる正義」を持ち寄れば宜しい。だから「趣味」の問題で構わないと私は思います。「趣味」の問題から他人の不見識を指摘することにはまったく賛成しませんが。


wiselerさんにも、CrowClawさんにも、Midasさんにも「自分が信じる正義」があると私は思います。相対化しているのではない。ミス・バラライカのような理想とその崩壊という宗教の信者に対してだけ「趣味の問題」という返しは効く、という話です。日本においては典型的に世代の問題でもありますが。


「趣味の問題」と返して、相手が信者でなければどうなるか。「俺は「趣味の問題」として痛い学生を嗤いますが何か」ということになる。実際、そういう人もおられることでしょう。そのとき正義を問わずして何を問うのか。正義を問うとは「俺の信じる正義」を主張することによって「貴方の信じる正義」を問うことです。「シニカルな認識」を嘯く人間の胸にある正義をノックすることです。ラカン的に申し上げても、あらゆる正義を信じない社会的動物はいない。むろん、その正義とは「他者の欲望」に過ぎません。

当たり前ですが、上記の理屈は「間違った正義」の担い手なら虐殺してよい、という事を意味しません。


それがCrowClawさんの信じる正義と、私は思います。その正義には私も同意です。「趣味の問題」として、殺人鬼を殺すことに賛成する人は枚挙に暇がないし、アウシュヴィッツ解放後にナチス親衛隊員を「個人的に」処刑して回っていた現在のイスラエル元高官は、そのことについて反省を問われて、感情の問題としてそれは当然であった、と述べました。「趣味の問題」とは、要するにそういうことです。だから「正義」が要請されると私は思います。感情と正義は時に相反します。ゆえに社会主義は忌み嫌われたのだと思いますが。

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エクスキューズに担保される批判を人は割り引いて聞きます。大仰なエクスキューズに担保されて「ラディカルな」批判が示されるとき、人は割り引いて聞くに決まっているし、「ヘタレ」という批判もありえます。

それを聞き流すことが見識であることと同様に。つまり、相違する見識は正しさなど水洗に流す。それでよいか、という話なら同意します。


これも「程度問題」のような気がするのですが、「割り引いて聞く」ことと「無視する」ことには大きな開きがあるのではないでしょうか。sk-44さんの立場は結局、「聞くフリだけして無視する」というものに見えるのですけど。それならば、Mさんの方がまだまともに相手をしているだけずっとマシでしょう。


よくわからないのですが、ブックマークコメントに対して反応を返さないと「無視する」ことになるのですか。引用部について私の表現が不足だったようなので補足しますが「それでよいか、という話なら同意します。」とは「はたしてそれでよいのか、よくないのではないか、という話なら同意します」という意味です。「それでよいか」は反語だったのですが、言葉足らずであったならお詫びします。


マシ云々がどういう話かわかりかねますが、「まともに相手をすべき」という話と解して述べるなら、「おまえらはわかっていない」と、殊更に「わかっている私」を強調して主張するならそれはエクスキューズです。「おまえらはわかっていない」という主張が既に「わかっている私」を含意するのだから。にもかかわらず大仰にそのことを強調するなら「わかっている私」としての主体をウヤムヤにするエクスキューズをしか意味しない。


「わかっている私に言わせればおまえらはわかっていない」と、含意でなくそのまんま書くって、まともに相手すべき批判ですか。「まともに相手しないでください」というエクスキューズかと思っていました。にもかかわらず公然と他人を嗤うのだから、苛立つ人もいるでしょう。


「わかっている私」を「証明」したければ、そう人を納得させる内容を書くことです。場合によっては「わかっている私に言わせれば」を人は了解する。つまり、CrowClawさんの見解とは相違して、私はMidasさんのブックマークコメントにあまり「わかっている私」を納得したことがない。


伺いますが、わかっているとかわかっていないとか、あるいは意見に対する同意不同意とか、好意や尊敬を左右する基準たりうるのですか。おためごかしで書いているのではなくて、私は千万人といえども吾往かんMidasさんのファンです。そして、Midasさんの「おまえらはわかっていない」という批判が実質的に何であるか、という話です。


はてなidがMidasさんの言っておられることは、少なくともダイアリはともかくブックマークコメントにおいて言っておられるその内容は、私にとって文脈的に既知なので反応しようもない。万一、啓蒙だの教育的配慮だののつもりなら、相手を間違えているようにしか見えないし、それは「はてなサヨク」に対する批判全般においてそうです。私は赤尾敏先生と思って「納得」しています。赤尾先生のことは尊敬していました。


内容的には、理想という宗教の信者に対してする悔い改めの辻説法でしかありません、Midasさんのブコメにおける一連の批判は。現在の「はてなサヨク」に、その宗教の信者がどれだけいるか。確かに、ポストモダニズムとは理想という世界宗教に対する格好の解毒剤であって、その歴史的意義も存在します。しかし浅田彰が恐竜扱いされて、本人もそのことを自覚し率先してそう名乗る現在です。かつてのCrowClawさんが理想という宗教の信者であった、とそういう話なのかも知れませんが。

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間違いが正義の対立項ではない、とは何が仰りたいのか。むろん対立項ではありません。「壁と卵」を「正義と個人」と私はパラフレーズしました。このとき壁としてある正義とは、要はイデオロギーのことです。村上春樹もそれを意図していると思います。私の意見は「正義とイデオロギーは必ずしも一致しない」です。村上春樹は一致すると考えているでしょう。年寄なので。


正義を外れることが間違いと見なされるとき、「間違っている」卵を人間存在の本質として原理的に擁護する。それが村上春樹エルサレムで述べた「ホントの話」の趣旨です。Midasさんが言っておられる「間違い≠誤り」とは「私は正誤の問題として他者の認識の誤りを指摘しているのであって、イデオロギッシュな断罪は絶対にしていないし、糾弾は認めない。」という話です。それがエクスキューズであると言っているわけですが。


確かに、そのエクスキューズにおいてMidasさんは「断罪」も「糾弾」もしていません。記した通り、正誤の指摘において他者を嗤うことはまったくイノセントではない。倫理とは自身の無垢ならざることを知ることであって、自身の批判を正誤の問題と規定して断罪や糾弾の蓋然に触らない態度は倫理的です。価値判断として、そのような批判態度は糞という話を私はしています。


自分は「間違い≠誤り」を区別しうると考える者が、他者の不見識を全方位的に嗤う。理想とその崩壊という宗教の信者でない者にとっては、同意する筋合と筋道の存在しない世界観であって、善悪の指摘としての「間違い」の指摘は妥当な行為です。宗教戦争に「正しさ」なし、というポスト冷戦言説には同意はしますが、まったく新しくないですね。矢作俊彦の小説は好きですが。そして、目覚めよ悔い改めよは、大きなお世話です――「倫理的」には。


全共闘世代の小説家村上春樹は『ダンス・ダンス・ダンス』までの小説がそのものであったように、理想という宗教の信者に対してその崩壊の音を告げる役目を、小説家として果たしてきました。――「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。」その鐘の音は、プロのホラ吹きの磨き抜かれた隠喩をもって、エルサレムで鳴らされたのです。世界中に。

だから、卵の側に立つ倫理は、壁を恃む他の卵を憎む醜悪と、同時に存在する。その醜悪を「ゲロ以下の臭い」と感じる人も多くいます。


私がおおよそ他者一般に対してあまりに強い憎しみを持ちすぎているのは事実ですし、それが他人から見て醜悪に見えるのはわかります。しかしながら、貴方自身語っておられるように、倫理とは美しく聡明なものでなければいけないというわけではないのではありませんか。少なくとも、私は私自身の倫理を曲げる気は今後ともありませんよ。自制はしますけれども。


「おまえらはわかっていない」と他人に言うとき同時に自身の倫理を主張しますか。Midasさんが「無視」されているのなら、そういうことです。「趣味の問題」なら一切合財納得します。以前話題を呼んだ、城内実前議員のブログエントリに対して誰かが言っていましたが、信念とは便利です。理想という世界宗教は、エルサレムは知らずこの日本におかれてはとうに崩壊したのに。理想という世界宗教は、むろん社会主義とイコールではありません。


「俺は本気で腹が立ったからお前を殴る」はまったく倫理ではありません。だから、人は「貴方は間違っている」と言う。それは糾弾の部類ではありません。「シニカルな認識」については私とCrowClawさんは共有しうると思いますが、さて、wiselerさんの展開した議論に対してどのように考えて自身の倫理を主張しておられますか。


議論の内容の問題でないなら、成程「趣味の問題」です。私はミス・バラライカではないので納得する理由にはなりませんが、それがCrowClawさんの信じる正義と思うので一切合財納得します。理想とその崩壊という世界宗教の信者でない者は、たいそう多い。それが視界に入らないなら論外で、視界に入ったときそれを不見識と処理するなら倫理という概念を主張することをやめてください。


「私は私自身の倫理を曲げる気は今後ともありません」とは「自分は趣味の問題から他者の不見識を不見識として嗤うことをやめない」という話ではありませんよね。少なくともこの件については、不見識はどちら、という話です。倫理というか「趣味の問題」は結構ですが、為にする議論で他者を貶めることは勘弁していただきたい。ばれているので。そして私の定義では、そのような行為は倫理からもっとも遠い。


はてなサヨク」を理想という世界宗教の信者と誤解した挙句「はてなブックマーク」を通じてその崩壊の鐘を鳴らし続ける炭鉱のカナリアに対して、理想とその崩壊という世界宗教の信者の近親憎悪を見るのは、つまり知的な旧世代の自同律的運動を認知することは、類推を超えて穿ちが過ぎるでしょうか。


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