卵の側に立つということ


承前。⇒代紋と泥棒(廃人の歌について) - 地を這う難破船


id:CrowClawさん、大変丁寧なお返事、ありがとうございます。再応答として。

「認識が両義的でありアイロニカルであることはわかっているつもりです」の段について、私は文字通り「両義的」で「アイロニカル」なつもりで書いていたのです。つまり、ご指摘のように「代紋商売の限界」について指摘して「代紋商売は糞」と言いたい訳ではなくて、どちらともつかない極めて中途半端な立場を(意識的に)取っていたという事です。それがsk-44さんのような読まれ方になるのは不自然なことでも何でもありませんし(むしろ真っ当とさえ思う)、無意識下のことまでは私自身にもよくわからないのですが、本件について「代紋商売は糞」「社会契約は永遠の嘘」という主張は、私が意識的に提示したかったものではありません。


そうではなくて、また立場の中途半端を批判したいのでもなくて、「両義的でアイロニカルな認識」において他者を批判するとき陥る陥穽の話を私はしています。自戒を込めて、ということではありますが。

故に、「金融屋の本質がウシジマ君であるとして、闇金消費者金融を区別することに同意ですか不同意ですか」という問いについては、「場合による」と述べるくらいしか答えようがありません。ここではっきり、不同意だ、と答えるならばわかりやすいのでしょうが、私自身の中にもそう答えることについての迷いが(隠し切れないほど)あるということです。

1点目に関連したことですが、私は「無法」を正当化したかったわけではありません。sk-44さんには単なるレトリックにしか見えなかったかもしれませんが、私は件のエントリーで「新しい秩序=法が必要だ」と主張していたはずです。これは別に目くらましの嘘っぱちではありません。


CrowClawさんが無政府主義でないことは存じ上げています。ブックマークコメントからは、CrowClawさんが私の比喩に対して「ヤクザvsテキヤ」と問題をパラフレーズしておられるように窺えました。合法/非合法の問題ではなく、ノモス的権力に対するノマド的抵抗の様相として。確かに、かつてハッカーの論理とはそういうものでした。しかし、それが盗人猛々しさと区別し難しいとき、一義的に法へと立ち返った。それが現在ではないでしょうか。


ハッカーの論理と盗人猛々しさの区別を難しくしたのは、なによりも技術とインフラの進歩に基づく不正行為のカジュアル化でした。悪党の最後の砦は愛国心だけではありません、佐藤亜紀の『ミノタウロス』ではありませんが革命も同様です。革命無罪で盗人猛々しさを肯定するのでないなら、つまり中南米ならざるこの日本において盗人の都合が資本主義社会の矛盾によって肯定されるレベルにないなら、ハッカーの論理と盗人猛々しさの峻別を法的に取り扱うことは妥当解であり、その妥当解がgeekという概念をこの規制まみれの国において一般化させた。私はそう考えています。


任天堂云々でなくノモス的権力に対するノマド的抵抗の意義について述べている。そう私は受け取りました。ただ、代紋商売の解体を「新しい秩序=法」において主張することは、相当に強い主張です。それがきわめて強い主張であることを知っているから、世界の選択としてそのことを述べておられる。私は、それが世界の選択とは思いません。CrowClawさんの問題意識であり、世界観と思います。


ハッカーの論理が盗人猛々しさを肯定するようなことはあってはならない。やむなく麻薬が基幹産業の貧困国が存在するから先進国は麻薬を受け入れるべき、という議論は成立しません。GHQ財閥解体ではあるまいし、代紋商売の解体を「新しい秩序=法」において主張することは、現在の議論においてはまったく極論です。むろん、極論で悪いという話ではありません。他者の認識の欠如を咎めるような話ではないということです。にもかかわらずそのように論じるのは――以後のCrowClawさんの主張と連関することと私は思います。

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(前略)ただ、2点を除いても、今回私がこのような行動に出たのはそれなりに理由があってのことなので、言い訳じみていますが簡単に説明させていただきたいと思います。

sk-44さんもご存知かと思いますが、先日pbhさんという方がはてなダイアリーを退会されました。原因について、ご本人は「はてな」上での出来事とは何ら関係ないと仰っていましたが、退会直前に彼がどんな立場にあったかは説明せずとも分かると思います。


wiselerさんは本件で、複数人のブックマーカーから露骨な罵倒や嘲笑を受けていましたし、私が知る限りMidas氏以外で彼を全面的に擁護していたブックマーカーは一人もいませんでした。ymScottさんに関しては、元々他人をむやみに嘲笑するような人ではないので、私の言いすぎもあったと思いますが(このコメントを投稿した後ブコメを訂正する予定です)、gadgetmanさん及び彼のコメントにスターをつけていた数人については、正直なところあれだけ言われても仕方ないことをしていたのではないか、と思っています。


村上春樹の話なら、壁と卵が対立しているなら、卵がどんなに間違っていても卵の側に立つのが倫理のはずです。正しさを求めて壁の側に立つのが正しいとは私には思えませんし、一部の人々が嘲笑しているほどwiseler氏の理屈はトンデモでも破綻していたわけでもなかったと思います。


pbhさんのことは存じ上げています。あのときCrowClawさんとMidasさんがどうコメントしておられたかも。CrowClawさんがMidasさんの何に惹かれたか、わかる気がします。壁と卵が正義と個人であり、正義と個人が対立するとき、そして正義において、また正義を恃む個人の暴力によって、個人が潰されるとき、「為にする殊更な逆張り」といくら揶揄されようと常に卵としての個人の側に立つMidasさんの倫理的なスタンスに、惹かれたのでしょうか。私も、そんなMidasさんのことが好きです。Midasさんが「はてなサヨク」を批判し始めたことは必然でしょう。しかし。


先のエントリの繰り返しになりますが、村上春樹が「壁と卵が対立しているなら、卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」と言うとき、忘れてはならないことがあります。村上春樹は、特定他者を批判を目的として批判したり嗤ったりしない。それが大国の政治家であっても虐殺を引き起こした独裁者であっても、です。自筆原稿流出事件の際にも、故安原顕についてきわめて抑制された筆致で記述していました。


「卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」とは、そういうことです。自身を深く傷つけた、今は亡き安原顕の側にも立とうとする、ということです。間違っている卵を批判を目的として批判したり嗤ったりするなら、卵の側に立つという言明は、倫理ではありえない。あのスピーチを取り上げて壁という正義を、そしてそれを恃む者を批判する論者は、時にそのことがわかっていない。


だから私は「壁と卵が対立しているなら、卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」とは口が裂けても言えないし、エルサレム賞の受賞スピーチで他人が口にするその信条にこの日本から喝采するなら代償行為以外の何物でもない。村上春樹がどれほど立派であっても、そして深く尊敬していようと、だからこそ他人の行動に自分の不可能のケツを回してはならない。


「卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」という信条を持ち合わせるなら、ましてそれが倫理であるなら、そしてそのことを公言するなら、間違っている卵を嗤うことは自ら公言した信条に対する背信です。あるいは、壁という正義を批判して、正義を恃んで卵を割る者をその間違いについて批判するためか。倫理において正義を批判するとは、確かにそういうことです。


その意味で、はてなidがMidasさんは「壁と卵が対立しているなら、卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」人かも知れないと私は思います。が。

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「両義的でアイロニカルな認識」において他者を批判するとき陥る陥穽とは何か。たとえばwiselerさんの議論について述べるなら、他者の認識の欠如を批判するとき、同様に他者から自身の認識の欠如について指摘されうることは当然で、その指摘に対して立場の相違を勘定することなく自身の主張を繰り返すなら、それは議論の手前です。他者の認識の欠如を、認識の欠如として批判することはとても強い主張です。当該の問題について低能と指摘しているに等しいからです。


そして、認識の欠如に対する指摘としてのその批判は成立しないので、認識以前に意見を述べてください、と指摘されて、あくまで認識とその欠如の問題と投げ返していたのはwiselerさんと私は思います。そのような議論を望んでいると。


任意の問題について、認識の欠如を認識の欠如として批判することは、他者を当該の問題について低能と指摘するに等しいことです。御承知の通り、私もすることです。強い主張であることを、知っているか否かです。


だから、元記事のような批判へと至る。⇒はてなブックマーク - 「何のためのマジコン販売禁止なのだろうか」を短くまとめろと言われたので - ls@usada’s Backyard


たとえば、「箇条書き」とは主張の論理構造を一目瞭然に可視化させるべく明快に順序立てて記述することです。「私が主張していること」「私が主張していないこと」と連関なく羅列するものではそもそもありません。まして羅列された相互の主張が相反する要素を含み、かつそのことに記述者が疑問を覚えていないなら終了です。箇条書きの意味もなく議論以前に差し戻されるしかない。何のための箇条書きか、という話。


私が嫌うのは、他者を低能と指摘するに等しい主張をしておきながらそうではないと主張して自身のスタンスとしてのイノセントを信じることです。そしてそのことを直截に指摘されると「個人攻撃」と処理する。


他者の認識の欠如を、認識の欠如と指摘することは非常に強い主張です。にもかかわらず、そのように他者に対して指摘する人に限って、自身の批判を当然の議論と思っているし、自身のスタンスをイノセントと思っている。そういうのを、啓蒙の暴力と確かアドルノは言いました。

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認識でなく意見を問われる事柄について、認識の欠如として他者を批判するCrowClawさんのスタンスに、私はMidasさんの刻印を見ました。むろん、CrowClawさんも、またMidasさんも、自身の批判を当然の議論と思っているわけではないし、自身のスタンスをイノセントと思っているわけでもない。そして、そのことを自ら示すべく用意されるエクスキューズは他者から逃げ道と見なされる。

「「妄想」「廃人」と自己規定してその政治否定は完結する」のはいいのですが、ではその「廃人」の言葉を廃人でない人間はどう受け止めたらいいのでしょうか?妄想は妄想として聞き流すのが「正しい」のですか。


認識の欠如として他者の低能を嗤うことのエクスキューズとしてその高踏的な自己規定がある、と私は思っていました。それが、自身の批判を当然の議論とも自身のスタンスをイノセントとも思っていないMidasさんの倫理と。上から目線とかそういうことではなく、上であれ下であれ、自らこしらえた落差ある足場に立って発言する、ということです。


Midasさんに対して批判的な人は、何よりそのエクスキューズに苛立っているのだと思います。平場で殴り合うことができず、見上げるか見下ろすか、二者択一の対応しかないからです。準匿名的な言論では、落差を自ら強調しなければフラットな地平に自動的に整列です。たとえば、はてなブックマークという校庭で。

tikani_nemuru_M  反論がいっさいできずに、ブクマで石を投げるだけのMidas陛下にエサをやってほしくない/(後略)

はてなブックマーク - 代紋と泥棒(廃人の歌について) - 地を這う難破船


私は、tikani_nemuru_Mさんが認識の欠如として他者の低能を嗤うところを見たことがないし、決してエクスキューズを作らない人であることを知っています。対立の文脈さえ読まずに判官贔屓のごとく卵の側に立つことは、確かにそれは倫理的態度ではありますが――そもそも壁に対する無力に立ちすくむことが倫理であり、なりふり構わず卵の側に立つことが倫理であるなら、その通りです。何の間違いもありません。山田風太郎の『幻燈辻馬車』のように。



そして壁と卵が対立するとき必ず卵の側に立つ人が、壁という正義を穿ちえないがゆえにそれを恃む卵を間違いと嗤うなら、倫理とは便利なものと思うよりほかありません。認識の欠如として他者を批判することは、壁という正義を穿ちえないがゆえにそれを恃む卵の間違いを嗤うことです。壁と卵が対立するとき必ず卵の側に立つ人が、それをする。

トリックスターとしてのラカンに倣って言うなら、Midas氏の言は妄想は妄想でも「さておかれぬ妄想」だと思いますし、sk-44さん言われるところの「社会の約束事」の外で言論を展開している人物からの批判について、「社会の約束事」を守りたい人間がすべきことは、「約束は大切なのだ」と改めて言う事ではなく(そんなこと初めからわかりきっているのですから!)、「約束」を成立させている社会の条件について改めて問い直すことなのではないでしょうか。


sk-44さんが指摘するところの私の立場の「欺瞞性」や中途半端さは正鵠を射ていると(私自身でさえ)思いますが、「欺瞞」を退けることによって得られた(リベラル派としての)「美しい魂」が、彼が展開するような言説に対してまともに応答するための回路を塞いでしまっているということはありませんか。彼が「はてなサヨク」を露骨に批判し始めたのは確か昨年の後半あたりからだったと思いますが、それに対する当初の反応は反論でも動揺でもなく「無視」が大半だったはずです。それはああいった言説を「所詮妄想だから」と取り合わない態度と近似していたのではありませんか。というか、今でも彼の批判する大半のブロガーと彼はディスコミュニケーション状態にあるわけでしょう。それは何故だと思いますか?


「それは何故だと思いますか?」書いてきた通りです。エクスキューズに担保される批判を人は割り引いて聞きます。大仰なエクスキューズに担保されて「ラディカルな」批判が示されるとき、人は割り引いて聞くに決まっているし、「ヘタレ」という批判もありえます。倫理において正義を批判する立場はひとつの見識であるし、私はMidasさんのファンです。ただ、人が割り引いて聞くことは当然と思います。エクスキューズに取り巻かれた成立しない「主体」に対して真面目に論駁する人はいない。ケムール人と対峙しているようなものです。


自身の価値判断の問題としてでなく「事実」として価値の反転を提示することも、その担保として自己を高踏的に規定することも、価値の反転に気付かぬ時代錯誤の輩に「事実」を伝えることも見識と思います。それを聞き流すことが見識であることと同様に。つまり、相違する見識は正しさなど水洗に流す。それでよいか、という話なら同意します。


「壁と卵が対立しているなら、卵がどんなに間違っていても卵の側に立つ」人が、穿ちえない壁の前で壁を恃む卵の間違いを嗤っているなら、その点において人は割り引いて聞くでしょう。村上春樹は、壁を恃む卵の間違いを直接には批判しないし、決して嗤いません。直接には批判しない代わり、村上文学がある。誰よりも壁を恃む卵を憎んだ君は誰よりも壁に見放された君だ。倫理とはそういうことです。だから素晴らしいのです。

まあ、私が斯様な言説を受け止めようと努力したところで、そんな才能は無いのかもしれませんし、彼にしてみれば私も数いる「敵」の一人に過ぎないとは思いますが、私自身としてはそうやって「リベラルの限界」を身をもって示せれば満足なので、それ以上のことは特に望んでいないのです。


そのような倫理において「リベラルの限界」が見出されることは至極当然でしょう。ただそれは、誰よりも壁に拒まれた魂が誰よりも壁を憎むことによって生じる倫理です。だから、卵の側に立つ倫理は、壁を恃む他の卵を憎む醜悪と、同時に存在する。その醜悪を「ゲロ以下の臭い」と感じる人も多くいます。


自身もまた持ち合わせるその醜悪に対して、村上春樹は誰よりも警戒的でした。「ゲロ以下の臭い」をダダ漏れにしないよう注意を払い、スタイリストであり続けた。聡明とは、そういうことです。倫理的であるとは必ずしも美しいということではない。村上春樹がそうであるように。ちなみに。

ちなみに、私の「スタンスの変遷」について、Midasさんは殆どその原因になってはいません(むしろ、変遷後に彼に引かれた、と言う方が近い)。変化の決定的な原因になった人物は、一時はてなでも有名になったので、sk-44さんもご存知なのでは?と思いますが、既にその人もはてなを去ってしまっているので、その点について多くを語る意思は今の私にはありません。


存じ上げています。はてなを去っていましたね。


ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ