「尊厳」と「自由」で矛盾してるよ


by ASIAN KUNG-FU GENERATION 特に深い意味はない。


直接的暴力のみが暴力だと思ってました。 - halt.

在特会は悪くない、ということになりました。 - halt.

僕が差別と戦って、それで暴力が無くなりますか? - halt.

クズも馬鹿もお互い様 - 地下生活者の手遊び


佐藤亜紀氏が『終結宣言』で「偏見は人を殺す」と繰り返しているのを拝見したとき、この際なので「もちろん偏見は人を殺すが、偏見が人を殺すたびに表現の自由を制限していてはきりがない」とはっきり書こうかと思ったが、やめた。色々な意味で火に油だ。大惨事だ。――hokusyuさんが言われるところの<あること>とは、つまりそのように言い切ることなのだが。そしてmojimojiさんが指摘した「ご都合主義」もまた、そのことだった。

結局のところ、このような誤謬は「表現の自由」至上主義者がなんとか<あること>を回避しようとしているために起こるわけだが、そのことによって彼らがどんどんドグマの中にとらわれているのは実に皮肉といわざるをえない。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091008/p1


なぜ「きりがない」かと言えば、当然、欧州の「実例」を挙げるまでもなく、こと性差別と性犯罪については、この国にあっては、昨日も今日も明日も明後日も、100年前もそして100年後も、毎日のように偏見は人を殺しているので、偏見が人を殺すたびに表現の自由が制限されるなら、まったくもって際限がないし果てしがない。結局、人類社会の達成である表現の自由とその価値は骨抜きにされる。


いや、際限がないものでも果てしがないものでもないか。こと性差別と性犯罪について偏見が人を殺すことが問題なら、この国にあっては差別的な性表現を一律規制し、つまり差別的な性表現と差別的でない性表現を峻別のうえ(誰が峻別するのかは知らん)前者を規制し、ポルノは一切規制し、いや差別的なポルノと差別的でないポルノを峻別のうえ差別的なポルノを規制し(「差別的でないポルノ」というのは端的に語義矛盾と私は思うが)、大島渚若松孝二神代辰巳田中登も、もちろん川端も谷崎も源氏物語も国が責任持って発禁にし、結局のところ峻別は困難なので市場から性表現と性表現に類する表現を一掃すれば、昨日や今日のことはもはや取り返しがつかないが、明日明後日偏見が人を殺すことは幾許か食い止められるだろう。――んなわきゃない。


別に私は投げやりになっているわけではない。なお、念の為に明記しておくと、佐藤氏はそういう話をしていたのではもちろんない。


なぜ「んなわきゃない」かというと、偏見の醸成は表象とその商業的流通をのみもってされるものではない。野宿者に対する差別的な表現ならびに表象はこの国の市場では事実上自粛されている。少なくともそのような表現ならびに表象はbroadcastした際に社会的な非難は免れない。にもかかわらず、昨日も今日も明日も明後日も、野宿者は襲撃され時に殺される。青少年に偏見を植え付けているのは、親であり、社会であり、級友であり、この国の政治であり、ひいては経団連である――とまで言うと亀井静香と同類になるが。


そして、自粛と自重の結果、野宿者という表象が商業的に流通する表現から一掃される。差別的な表現に対する社会の非難の結果表象から消えた野宿者は、しかし現実に存在し、そして今日も明日も明後日も襲撃され時に殺される。それが社会の含意であり、いつだって社会はそのような二枚腰としてある。社会が要請する表象におけるスポイルと、下部構造において社会が維持する差別は、同じことの裏表であり、結託する「永遠の嘘」でもある。


「偏見は人を殺す」という命題がレトリックとは私は思わない。つまり、それは差別の何であるかを指し示す記述である。ただし「偏見は人を殺すから表現規制致し方なし」という文字列は無理筋と言うほかない。法理においても、現実問題としても。しかし、「偏見は人を殺す」という命題がレトリックとは私は思わない。フォークナーの『八月の光』ではないが、差別とは、殺された人がいるとき、特定個人を下手人として裁くことのできない現象のことを指し示す概念であるから。『サンクチュアリ』然り、フォークナーが描き出したその現象は修辞を駆使して文学として切り取られた一枚の美しい画ではたしてあったか。フォークナーにおいてはそうであったかも知れないが――私はここで中上健次のことを思い出す。


佐藤氏が引いた欧州の例では、また野宿者襲撃についても、人を殺した下手人があって、彼らは法に則り裁かれる。しかし、彼らに野宿者を、あるいはムスリム女性を殺させた偏見がどのように醸成されたか、それは社会が社会を名乗る限り、社会の課題としてある。文学の問題ではない。しかし、少数者の小さき声でもある文学は私たちにその在処を指し示してみせる。文学にはそのような機能もある。


人の死に際して、特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象を、そのように規定するのは、あくまで現在の日本国の法である。そのような現在の法規定にまがりなりにも合意することは、その法規定が及ぶことのない、人の死に際して特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象を、どのように処置するか――ということでもある。言い換えるなら、特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象による人の死を、法理の外側で、社会はいかに贖うかということ。


法規定においてそれを贖うなら、欧米のように、ヘイトクライムを厳罰化したり、ヘイトスピーチを規制することになる。しかし、人類社会の達成である表現の自由とその価値を守らんとする私たちは、法理の外側でそれを贖うことを選択した。そして、特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象による人の死は、スルーと無視と不可視化によって贖われた。「そのような問題は公共の課題ではない」と。すなわち、現在の日本国における法規定とその範疇の確認である。


あるいは「その死は本当に差別という現象がもたらした死なのか?」「偏見は人を殺すという命題はレトリックではないか」「この文章をプリントアウトして病院へ行くと楽になると思います。差別されて死ぬのは単にメンヘルの症状なので長く続けると人生を毀損します。まずはカウンセリングを受けてみてください。楽になり、人生豊かになりますよ」という際限なきダメ出しである。


挙句の果てに、昨日も今日も明日も明後日も100年前も100年後も偏見が人を殺すだろう「現実」の確認である。かくて「偏見は人を殺す」という命題は骨抜きにされ、人を殺す偏見の存在と偏見を醸成する無数のファクターに対する批判的認識もまた、骨抜きにされる。少なくとも、公共の課題とはされない。


公共が課題としてあるとき、法規定の及ぶところと及ばないところの線引きは社会合意の要としてある。すなわち、法規定の範疇の画定それ自体が、市民合意された社会を盾とした、法という暴力ひいてはその執行者との取引とその結果としてある。むろん、その取引は常に暫定的である。線引きは常に揺れ動き、恣意的であり、現実の力学に容易く左右される。「例外状態」をその極限として、シュミットは論じた。


市民合意を前提とした社会の概念は、法という暴力とその執行者が手にする「秩序」という正統性の矛に対して、法規定の範疇の線引きをめぐって取引するための正統性の盾としてある。――思想的に、リバタリアンならそのようには考えないだろうと思う。しかし、当然これは自己批判を込めて言うが、自業自得というか、自らが目を切ってきたものから復讐されるというか、このインターネットにおける規制論の台頭とはそういうことでもある。


harutabeさんのエントリでブックマークコメントが引用されているKIM625さんは、以前、私のエントリに対して次のようにコメントしていた。

KIM625  問題はいつまでたっても是正されない差別があること。だから強い言葉で勧告もされる。/たぶん、まだまだ続くお話。/そろそろsk-44氏の解決案も読んでみたい。まさか現状維持ではすまんだろう。/分割線入れた。

はてなブックマーク - 「個人の尊厳」の贖い - 地を這う難破船


「解決案」ね。そうですね、「現状維持ではすまん」のであるからして、日本中の男性が私のようにポルノを一切必要とせず、ウクライナ21と屠殺解体映像とプラネットアースをズリネタに用いるようになればいいのではないですか。日本中の男性がウクライナ21と食肉処理場の資料映像でマスターベーションするようになれば、女性も男性の欲望に対して「なにそれこわい」と恐怖を覚えることはなくなるだろうし、そもそもズリネタとしてポルノが要請されることもなくなり、需要の壊滅的激減の結果公的に流通することもなくなるでしょう。牛や豚の人権を云々する人も流石にいないだろうし。繰り返すが私は投げやりになっているのではない。


要するに「解決案」などないということ。東京都青少年問題協議会という電波の巣窟ではそのようなものが想定されそれについて「建設的な」議論が交わされているようですが。「解決案」というのは官僚ひいては官憲の発想です。この期に及んで「解決案」ですか、と私が些か呆れたことは事実です。


なぜ呆れたかといえば、「解決案」などないというのはこういうこと。日本中の男性がウクライナ21と屠殺解体とプラネットアースで抜くようになった暁には、それらはポルノと措定され、プラネットアースはこのうえなく猥褻な視聴者の劣情を刺激する有害番組に認定され、ウクライナ21は素人のハメ撮り動画と同程度に規制され、屠殺解体される牛や豚に対する性的視線と共に食肉産業従事者はいっそう差別されることになる。


プラネットアースをポルノとして規制し、ウクライナ21を素人のハメ撮り動画として規制し、食肉産業をいっそう「世間様」から峻別するのは、当然、お国の官憲です。別に出来の悪いSFを述べているわけではない。ズリネタはズリネタとして公に認知された以上ポルノとして有害映像としてお上に規制されるものです。「秩序」の矛を振りかざす法という暴力は、ひいてはその執行者は、その正統性においてポルノの「有害」を根拠に規制する。それがズリネタとして共有される以上、プラネットアースも食肉処理場の資料映像も「ポルノ」です。お上においては。


対して、市民合意を前提とした社会の概念が、法規定の恣意を掣肘する常なる線引きをめぐる取引のための正統性の盾として掲げられる。しかし。


斯様に理論的にも循環し現実にもいたちごっこである以上、そのグルグル回る暴力と暴力の円環を――『ちびくろサンボ』ではないが――バターになってしまう前に断ち切り、切断するのは、「私」の主体的な判断であり、なればこそ「われわれは個々の暴力について、「不断の思考と実践」をおいていくしかない」というのが、たとえばhokusyuさんの言っておられることです。要するに、それが個別利害ゆえのことであれ正義の問題と考えてのことであれ、理論的な循環と現実におけるいたちごっこに棹差したいなら、私たちには必然的に「決断」を伴う判断が要請されるということ。


むろん、それは下手をすれば「例外状態」を容易く召喚してシュミットになりかねないし、私自身は「神的暴力」などそもそも信じない。暴力は常にこの社会において法と秩序という擬制を纏う。その擬制を剥ぎ取ることが暴力それ自体に可能か、と問うなら、私は新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』を思い出して涼とする。いたちごっこに棹差そうとしたところで、「私」の「決断」を伴う主体的な判断は、暴力と暴力の円環に飲み込まれてバターとなるだけのこと。そしてそのような断念の場所から「不断の思考と実践」は問われる、という話ではある。


別の言い方をするなら。自らがバターの一部でしかないことを認識しそこから抜け出したいと願ったとき、グルグル回る暴力と暴力の円環に棹差し断ち切る「私」の主体的な「決断」を伴う判断と、それに伴う「不断の思考と実践」が要請されるということ。それもまた、果てなきバターの流れの只中で心というか人間の自覚らしきものを持った不幸なバターの一部としてあえなくもがいた挙句――バターから抜け出すことなどそもそも不可能である以上――いずれ溺死する顛末にすぎないかも知れないが、その「もがく」ことに価値を見出さないで何に価値を見出すのかと私は思う。要するに、端からバターな私はいいかげん現在の商売から足を洗いたいと考えているというのが個人的な事情だが。どこにも出口はないし、誰の願いもかなわないにせよ。


斯様に「不断の思考と実践」とは、「決断」を伴う「貴方」に対する主体的な判断の要請ではあるが、「私のするように決断し判断せよ」ということでは当然ない。「私は、そして貴方はバターのままでよいのか」という問いかけと呼びかけが、根底にある。tikani_nemuru_Mさんが言われるところの「個人の尊厳」というのもそういうことなのだが。


暴力と暴力の円環というグルグル回るバターから「人間」の姿形を掘り出したのは、かつて神だった。神は死んだので、「私」の主体的な「決断」を伴う判断とそれに伴う「不断の思考と実践」が取って代わった。たとえばMidasさんが指摘するように――ここに決定的なエラーがある、というのはその通りだが、しかし、主体的な「決断」を伴う判断と「不断の思考と実践」なくして、私たちは暴力と暴力の円環というグルグル回るバターから「人間」の姿形を掘り出すことはできない。掘り出す必要はない、ということならそれで結構だし、そもそも掘り出すことはできない、というのもその通りとは思うが。


そしてそれは、グルグル回るバターのとめどなき流れから、自らを「人間」として掘り出し自他と区別せんとする常に暫定的な営為さえかなわない、ということでもある。その営為の「人間」性を、20世紀の欧州の思想家たちは延々と言挙げ肯定的に位置付けんとしてきた。シュミットもハイデッガーも、だが。


暴力と暴力の円環というグルグル回るバターから、常に暫定的に、自らを「人間」として掘り出し自他と区別するための鑿として「不断の思考と実践」はあり、その鑿は「私」が「私」という「人間」であるために、主体的な「決断」を伴う判断を下す際に振るわれる。――もちろん以上は、シュミットやハイデッガーの議論でもあり、つまるところ彼らの歴史的な轍を踏まないよう注意、ということではあるが。そして、歴史的な轍を踏まないことは、グルグル回るバターから「人間」の姿形を掘り出すことの不可能をよく承知することかも知れないが。私たちをその一部として包括し馴致する「グルグル回るバター」を「神話的暴力」とベンヤミンは定義した。


「主体的に参加せよ」というメッセージの矛盾について指摘していたのはid:z0racさんだったと思うが、サルトルにおいては主体性は「参加」によってしか贖われないので。だから私はサルトル好かんのだが、とはいえ「私は、そして貴方はバターのままでよいのか」という問いかけと呼びかけが「大きなお世話」であるなら、暴力と暴力の円環というグルグル回るバターのとめどなき流れの中で、常に暫定的に、自らを「人間」として掘り出し自他と区別せんとする誰かの営為の足を引っ張ることもまた「大きなお世話」ではある。z0racさんがそうしているということではもちろんない。


畢竟それがもがいているだけのことにすぎないとしても、そのもがく姿を傍から指して笑うなら、あるいは引いてみせるなら、私たちは「人間」であろうとすることをいいかげん諦めてバターの一部としてグルグル回る暴力と暴力の円環を律儀に構成すればよい。心など要らないし要請されない。私は、佐藤氏も、またtikani_nemuru_Mさんも、このような問題意識と思ってきたし、だから5ヶ月に亘り延々とやってきた。


なお、「決断」を伴う判断の問題とはmojimojiさんは考えておられない、ので、hokusyuさん自身も強調されているように、mojimojiさんの見解はまた違う。その「決断」を伴う判断は、たとえば昨日も今日も明日も明後日も偏見が人を殺しているとき、法規定の範疇の線引きをめぐって取引した結果として、私たちの手元に残されている、パンドラの箱でもある。パンドラの箱を開けたときに最後に残るもの。それは全権委任法の成立かも知れないし、私の頭には『ザ・ワールド・イズ・マイン』のあの終幕が、どうしても浮かぶ。いずれにせよ、「決断」を伴う判断から「解決案」という発想はもっとも遠い。その「解決案」という発想こそ官僚主義の最たるものです。正直、KIM625さんが何をどこまで考えておられるのか私にはわからない。


さて。欧州の「実例」を挙げるまでもなく、こと性差別と性犯罪については、この国にあっては、昨日も今日も明日も明後日も、100年前もそして100年後も、毎日のように偏見は人を殺しているので、偏見が人を殺すたびに表現の自由が制限されるなら、まったくもって際限がないし果てしがない。そして、暴力を憎む人が偏見を憎まないことの理由は私はわからない。


私は三島由紀夫ではないが「生まれてから一度も暴力に反対したことがない」し、三島由紀夫が論じたように、結局のところ問題は暴力の正統性であってその正統性を国家が体現し独占しているから刑法175がある。そのことに棹差すなら「決断」を伴う判断を私たちは免れないし、『さまよう刃』ではないが、個別の自力救済に対しても「決断」を伴う判断に際して「不断の思考と実践」を免れはしない。――「殺す」ことを私たちが選ばないなら。「殺すってのは倫理じゃねえ……覚悟だ」というのは『ザ・ワールド・イズ・マイン』で色々な意味で天晴れな死に様を遂げる警察官僚が切った啖呵でしたが。つまり、殺すなら考える必要はない。不断の思考も実践も要らない。


そして、近代市民社会は公共における偏見のbroadcastを否として合意され、その合意において法とその執行者は公正を旨とし市民によって使役されている、すなわちその暴力の正統性が贖われている、という建前になっている。この建前において、ヘイトスピーチ規制は法規定の範疇の線引き次第であり、線引きをめぐる「決断」を伴う判断を市民は免れない。


むろん、この国に限らず、歴史的にも警察機構とはそういうものではない。だから憲法理念の再三の確認は肝要だが、しかし、法の執行者における不公正は暴力の正統性について私たちに「不断の思考と実践」を喚起する契機でもある。それは、法規定の範疇の線引きをめぐる取引のため要請される「決断」を伴う判断を私たちにおいて涵養するプロセスでもある。


昨日も今日も明日も明後日も偏見が人を殺していることについて貴方はどう考えるか、という問いを、表現の自由について論じる際に持ち出されたとき、私はこう答えるだろう。人類社会の達成であるその価値ゆえに、表現の自由を「偏見が人を殺す」ことにおいて法規定しないなら、それは社会の課題である、社会合意において法規定の範疇をそのように線引きした社会の、と。それもまた「決断」を伴う判断ではある。そしてもちろん「偏見が人を殺す」ことに対する「不断の思考と実践」を伴う判断でもある。


「決断」を伴う判断を下すのは、合意された社会の構成員である貴方であり、私である。社会の課題であることに対する絶望ゆえに法規定の範疇にそれを含める――「決断」を伴う判断が既にあったことを私たちは知っている。なれば、私たちはその絶望を雪ぐような「決断」を伴う判断に否応なく迫られる。「不断の思考と実践」の結果、法規定の範疇に「偏見は人を殺す」という命題を含めないとするなら。それは、単なる日本国における法規定とその範疇の確認をもってされることではない。つまり、必ずしも法理に限定された問題ではない。


つい先日気が付いたのだが。

ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリのコメント欄に涌きだした連中*1の反応を思い起こしてみるに、「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対して腰がめっぽう重い親方日の丸と、コメント欄に涌いて出た連中は共犯関係にあるのではにゃーかと思ったんでにゃ。

おサルの世間の真正性 - 地下生活者の手遊び


とtikani_nemuru_Mさんが言われるところの「ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリ」のブログ主氏が私のエントリにコメントを付していた。

manysided  めんどくさ 表現の自由はもともと民主主義達成の為につくられた。それが逆ベクトルに働いているなら無意味だということに気付かない人に何言ってもムダ。ムダムダムダ。好きにすれば。巻き込まないでくださいね。

はてなブックマーク - 生き延びるためのペテン - 地を這う難破船


表現の自由はもともと民主主義達成の為につくられた。それが逆ベクトルに働いているなら無意味」という話は措き(というか散々書いた)、一読して思ったことは、「巻き込まないでください」も何も、そちらのブログのことは佐藤氏が言挙げなければ私は徹頭徹尾スルーするつもりだったのだが、ということだった。「性犯罪被害者が声をあげた」ことは問題ではないし「コメント欄に涌きだした連中の反応」もまた問題ではない、問題として存在しない、と。「好きにする」というのはそういうこと。「声」の存在を、またその「声」が封じられようとすることを、一切合財ひっくるめて、無視黙殺すること。かくて社会はつつがなく運行する。グルグル回るバターは磐石。あるいはその回転の速度をいっそう増して、改めて壮大な惨事を引き起こすだろう。


「徹頭徹尾スルー」して論じられる人類社会の達成である表現の自由とその価値。ひいては自由民主主義とその価値。その「ご都合主義」に気が付くことは殊更「不断の思考と実践」を必要とすることではない。問題は、それを問題と考えない人、あるいは考えたくない人にとっては存在しない。それを問題と考えないための目隠しに知的存在である人間は事欠かない。ジジェク先生もそんなことを言っていたような言っていなかったような。