「法に逆らうな、売春婦」


――出典はクリント・イーストウッドの映画『チェンジリング』。映画館でこの台詞を聞いたとき、まことにイーストウッドだなと思った。脚本を彼が書いていないことはもちろん知っている。


排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。


つまり、そういうことなのだが。そして、そういうことであることがわからない人は、どれだけ説明してもわからないのかも知れないとは思う。以下、mojimojiさんに対する批判ではない。


イーストウッドの映画には、毎度のごとく、法の側、秩序の側に立つ者であることを利用して、他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディストが登場する。あるいは偏見を公然と詳らかにする、自らを法を遵守する市民と規定する者が登場する。その、カテゴリーの意図的な反転はイーストウッド監督作の面白さであり、それはあたかも『ダーティーハリー』において彼自身が被った非難に対する30年を掛けたアンサーのようでもある。


前者の典型が『許されざる者』における、あるいは『目撃』におけるジーン・ハックマンであり、そして『チェンジリング』におけるジェフリー・ドノヴァン演じるロサンゼルス市警察の警部であり、コルム・フィオール演じる市警本部長であり、そしてロサンゼルス市長であり、またジェイソン・バトラー・ハーナー演じる連続少年誘拐殺人犯、であり、エイミー・ライアン演じる「売春婦」に向かってタイトルの台詞を吐く精神病院の医師である。彼の役目は、警部の意を受けて、警察組織にとって都合の悪い――「従順」でない――「女」を「責任能力」「告訴能力」無しとして「精神病院」に監禁虐待し服従させること。


そのような「男たちの健全な社会」の犬である、権力に組み込まれた泥人形の彼は、法と精神医学を背負い理性的な顔をして、「責任能力」「告訴能力」の「付与」を意味する退院を条件に、アンジェリーナ・ジョリー演じるクリスティンに対して服従を意味する法的書類への署名を強要し、病院内で「反抗」する「売春婦」だった女に対して「法に逆らうな」と宣う。


電話交換手の職を持ち女手ひとつで息子を育てる「堅気」であったクリスティンは、「売春婦」であった彼女と、抑圧と服従に抗する者として「連帯」する。そしてジョン・マルコヴィッチ演じる牧師らと共に、ロサンゼルス市警察が体現する、法と秩序という正統性のもと権力を行使し「責任能力」「告訴能力」の有無において他者の口を塞ぎ「反抗」の意思を奪おうとする、健全で理性的な男たちが構成する社会の暴力と闘う。


はてなブックマーク経由で拝見した記事があった。


はてなブックマーク - 被害女性に知的障害、裁判所「告訴能力なし」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


「告訴能力」か。法とそれに基づく秩序とは、国家の正統性において贖われる、よく訓練された暴力以外の何物でもなく、問題は、少なくとも我が国において、1920年代のロサンゼルス市警と同程度に、よく訓練された暴力の執行とリンチの執行の区別はなんら明瞭でない。国家において市民合意が欠如するなら、それは――『HERO』で木村拓哉が体現したように――執行者の意識の問題でしかない。


木村拓哉演じる久利生検事は梅沢富美男演じる刑事に言う――「俺たちは人を殺せるんだよ。ほんのちょっとの、保身や欺瞞で。そういう力を俺たちは持ってるんだよ」。それが、法の執行者であることの、すなわち秋霜烈日のバッジを身に付けることの、重い責務であると。正しくエリート意識と思うが――然らば、執行者の意識が「他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディスト」のそれであったなら。それは――国家における市民合意の欠如をゆえとすることだろうか。秋霜烈日の中心には、紅色の旭日があり、菊の白い花弁がある。


そもそも、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性は、ひいてはその正統性を贖うものとしてある国家は、よく訓練された暴力という最大の権力に組み込まれた泥人形を際限なく生産する装置でしか、じつのところ、ない。そこには日の丸がはためいている。だからこそ、私たちは、クリスティンがそうしたように、「法に逆らうな、売春婦」と宣う泥人形の取り澄ました顔から日の丸を奪還する必要がある。


奪還した日の丸を、焼き捨てるか、掲げ直すか、それはその後の話。まずは、権力の行使による他者への抑圧と恫喝と懲罰と服従の要求という蹂躙の快楽を社会性の行使と錯覚する、この世界にありふれた泥人形から日の丸を剥奪することが先決。クリスティンが映画の最後に口にする「hope」とはそのことであり、その言葉と、彼女の堂々たる笑顔に、かつてロサンゼルス市警で警部の部下であった、少なくともサディストではない刑事は、シャッポを脱いで敬意と共に彼女を見送る。


逮捕され法廷に引きずり出された連続少年誘拐殺人犯は、常に彼の顔に張り付いている卑屈な笑みを浮かべて、傍聴席のクリスティンに言う。警察に逆らうなんてすごいや、と。そして彼は哀れに吊るされる。法とそれに基づく秩序という、社会におけるこのうえない正統性を纏った、国家が贖うよく訓練された暴力において。


連続少年誘拐殺人犯に脅され否応なく協力させられていたいとこの少年は、自分も加担した凄惨な暴力の記憶に耐え切れなくなって刑事に告白し、かつて自分が埋めた少年たちの骨を掘り返しながら泣き崩れる。前述の刑事は「もういいんだ」と慟哭する少年の頭を抑える。そして、クリスティンを精神病院へと収容させた警部は、議会の公聴会で弾劾されその地位を奪われたとき、空虚で神妙な表情を見せる。俺は何を間違えたのだろうか、俺は何か間違っていたのだろうか、と。


クリスティンに対して「母親」としての「責任」を問うてみせた法と秩序の執行者は、自身の錯誤について考えるが、わからない。彼は、それが社会における正統な行為と権力の行使を法と秩序の名においてガラガラポンしていたことの結果であったことも、自身が権力に組み込まれたありふれた泥人形であることも、気が付いていないし、たぶん警察を追われてなお死ぬまで気が付かない。


それが、理性的な男たちが構成する社会で健全に生きるということであり、権力の行使による他者への抑圧と恫喝と懲罰と服従の要求という蹂躙の快楽を社会性の行使と錯覚するこの世界で人が文字通り公私混同して生きるということでもある。警察組織で生きるということは、かつて概ねそういうことでもあった。現在進行形かも知れないが。


泥人形にも心はあるのだが、それは連続少年誘拐殺人犯の卑屈な笑顔と同様、彼の顔に常に張り付いている歪で、そして空虚な表情が表すものでしかない。ジェフリー・ドノヴァンの巧さは言うまでもなく、よく知られた早撮りによって、この歪な、しかし空虚で未決定な表情を捉えるのが、カメラの背後に回った練達イーストウッドである。


イーストウッドの映画はいつもそうなのだが――ここに描かれるのは、法と秩序の側に立つ者も、法と秩序において裁かれる連続少年誘拐殺人犯も、コインの裏表の同じ救われない泥人形であるということ。そして、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性は、ひいてはその正統性を贖うものとしてある国家は、よく訓練された暴力という最大の権力に組み込まれた泥人形を際限なく生産する装置でしかないということ。


芥川の箴言ではないが――「わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。」映画における連続少年誘拐殺人犯の哀れな死は、そのことを指し示している。「無数の種子を宿している、大きい地面」の存在を。「一本の木の枯れることはきわめて区々たる問題に過ぎない」。その大きい地面を、蹂躙の構造と呼ぶ。 


権力を自明とし服従と従順を是とする彼らは「反抗」など思いもしないし、自身の所持する権力による他者への抑圧と恫喝と懲罰の快楽を、社会性の現れと錯覚している。いや、それは錯覚ではない。「大きい地面」としての蹂躙の構造があるとき、蹂躙の快楽は、社会的な快楽としてある。あるいは蹂躙の享楽は、社会的な享楽としてある。そこに「無数の種子」が宿る。まことに「一本の木の枯れることはきわめて区々たる問題に過ぎない」。21世紀の我が国の法と秩序の執行者は、1920年代のロサンゼルス市警のことを云々できたものではさしてない。


この世界は、国家の正統性において贖われたよく訓練された暴力という最大の権力に組み込まれた泥人形たちによって、殺し殺され、支配し支配され、抑圧し抑圧され、恫喝し恫喝され、懲罰を加え加えられ、服従を迫り迫られ、蹂躙し蹂躙される、そしてそのことを社会的な快楽として涵養する、暴力の円環そのものとしてある。暴力の円環から生じた泥人形はやがて哀れに吊るされ、暴力の円環という無へと飲み込まれていく。


この世界はリンチという文化――剥き出しの暴力を陶冶する擬制によって成り立っている。人は、暴力の円環から生じて、暴力の天秤の中で生き、暴力の天秤の傾きにおいて時に殺し殺され蹂躙し蹂躙され、その社会的な快楽を大なり小なり我が物とし、暴力の円環という無へと飲み込まれていく。そこに救いはない。個人としての救いも、人格も、尊厳も。私は蹂躙を享楽とする理性的な男なので言うが――そのような健全なる社会を作ったのは、理性的な男たちだろう。


斯様な暴力の円環から脱出する道はあるか。それを体現するのが、監督イーストウッドの映画における俳優イーストウッド自身であり、『チェンジリング』におけるアンジェリーナ・ジョリーであり、エイミー・ライアン演じる「法に逆らう」「売春婦」であり、そして何よりも、おそらくはこのまま個人としての救いも人格も尊厳もなく暴力の円環へと回収されるだろう連続少年誘拐殺人の「共犯」の哀れな少年の慟哭に対して、束の間刑事が差し出した掌だろう。


むろん――映画の結部においてアンジェリーナ・ジョリーの「希望」という言葉にシャッポを脱いで敬意を表する刑事が、慟哭する少年の頭に添える掌と、かつて暴力の天秤の傾きにおいて否応なく自分が埋めた少年たちの骨を掘り返し、そしてまた暴力の天秤の傾きにおいて刑務所へと送られる救われない少年の泣き崩れる姿は、紙一重でしかない。


その紙一重において、ヒトが人間であること、人間が人間としてあること、個人が個人として尊厳を持ち人格的に自律することを、暴力の円環という「わたしを造り出した」「無数の種子を宿している、大きい地面」に対する否として、人間の意思の問題として、すなわち蹂躙の構造に基づく社会的な快楽に耽溺しないこととして、過酷なまでに問うのが、監督イーストウッドである。そしてそのくせ尊厳を剥奪された「犠牲者」という表象に萌えているのもまた監督イーストウッドなのだが。


つまり、剥奪された尊厳の贖いという等価交換とその不可能が、イーストウッドの認識の根底にはあり、彼の映画は「等価交換とその不可能」がもたらす人間の悲しい宿命を多く結末とする。なぜか。「蹂躙の構造に基づく社会的な快楽に耽溺すること」もまた「等価交換とその不可能」がもたらす人間の必然であるから。だからこそ意思が問われる。過酷なまでに。


暴力の円環においてあらかじめ剥奪された尊厳は、別のもので贖われる。その「別のもの」が、暴力の天秤を揺り動かし、そして結局は暴力の円環を補完する。概ね人は死ぬが、そして概ねその死に救いも人格も尊厳もないが、一切は「わたしを造り出した」暴力の円環という無に回収されるということでしかない。「大きい地面」へと。そして種は撒かれる。決して均衡することのない暴力の天秤がまた揺り動かされる。


その死に救いや人格のようなものがあるのなら、それこそが個人の尊厳であり、その顛末を『センチメンタル・アドベンチャー』や『マディソン郡の橋』や『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』や硫黄島二部作で彼は描く。しかしそれは享楽だろうと、サディストの私は思うが。


つまり、問題はそういうことなのだが。「法を遵守する市民」という概念の政治性というのも、そういうこと。貴方が法を遵守する市民であることは、同時に「法に逆らうな、売春婦」という、法とそれに基づく秩序の執行者による確信犯的なリンチを尻押ししていることでもある。これは構造的問題。そしてこの国での現在進行形での問題。蹂躙の問題とは、そういう問題。そもそも、法とそれに基づく秩序の執行者においてカテゴリー措定がリンチの格好の口実であり彼らがそれを確信犯的に利用していることの問題です。


ガザ侵攻の際に、国際法の条文を云々する議論があったので、「立件されない暴力は犯罪ではない」というのは何も言っていない、と書いた。撤回し訂正する。「立件されない暴力は犯罪ではない」という言明は「何も言っていない」のではない。「いじめ」やリンチやそれを引き起こす蹂躙の構造に対する価値中立を偽装した相対化の方便を言っている。ひいては国家とその原理的問題を相対化している。かくて話は無限後退する。無限後退の結果、「法に逆らうな、売春婦」というリンチの口実は前進する。思えば、そうしてパレスチナも国際社会の非難を浴びたのだった。「法に逆らうな、テロリスト」と。


そもそも――「暴力」とは価値中立な言葉ではない。そして「犯罪」が立件の問題なら形式論にも程がある。ま、『ミスティック・リバー』ではないが、立件されない暴力は犯罪ではないので、暴力とその帰結は一切合切川に沈めるに限る。生者はその円環に蓋した鍵を手に「法を遵守する市民」として生きる。いずれ暴力の天秤に復讐されるだろうが、そのときはそれもまた川に沈めてしまえばよい。すべては法の外側で。


殴られたのはネットで有名な日本人だった - キリンが逆立ちしたピアス


私が「はてなサヨク」にカテゴライズされていた。「反日シナ人」と言われた気分(´・ω・`)。したがって「はてサ上等」と言うべきところ。しかし、私が「保守主義者」と再三名乗って言わんとしたことは「そういうことではない」ということです。以下、font-daさんに対する批判ではない。


反日」を措定する者がいる。措定の背景には「日本」という想像の共同体がある。だから、そのような想像の共同体を脱構築する。その理路はあります。しかし、排外主義の問題は、想像の共同体を脱構築することによって掣肘されるものではない。なぜなら、つまり問題は上に述べてきたようなことなので。よく訓練された暴力という擬制としてのリンチがこの国にあって法を措定することの問題です。そのとき、「国民」「非国民」とカテゴリー措定して「非国民」を物理的に排除しようとする人々があることは、とんでもなく問題。


「非国民」というカテゴリー措定がされるとき、日の丸を手にした者たちのリンチが引き起こされる。そのとき尊厳などという観念は木の葉のごとく吹っ飛ぶ。そもそも尊厳の観念は木の葉のようなもので、だから私たちはその木の葉を平気で踏む。木の葉を踏み踏まれることをして社会性の涵養と私たちの社会では呼んでいる。「蹂躙の構造に基づく社会的な快楽に耽溺すること」がそのようなことであるとき、木の葉を丁重に扱うことが、この社会にあっては、どのように担保されるか。


日の丸がレイシストの尻押しをしていること、法とそれに基づく秩序の観念がレイシストの尻押しをしていること。有形力の行使を伴うリンチを背景にそのことが問われているとき、日の丸の政治性を括弧入れすることや、法治の価値を説くことは、尻押しの問題を棚上げするためにされる物言いでしかない。――私は保守主義者ですが。


nationの脱構築は、もちろん結構なことですが、排外主義の掣肘のためにされることではない。効き目もない。法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家に対する負のカテゴリーを措定すること――それ自体がリンチそのもので、集団での有形力の行使のトリガーたりうる。だから、そのような「負のカテゴリー」を引き受けることに「覚悟」が問われる。そのこと自体がひっくるめて問題。


nationを脱構築して「法に逆らうな、売春婦」という物言いは減るか、あるいは「脱構築」されるか。否、です。在特会にあっては、排外主義の問題と言うよりも、「法に逆らうな、売春婦」という、蹂躙の構造に基づく社会的な快楽の帰結と私は思っている。その社会的な快楽を、文明は数千年かけて洗練させてきた。結果、法を遵守する市民は政治概念たりえなくなる。ユートピアなのか、びっくりするほどディストピアなのか。保守主義者としては慶賀すべきことか、頭が痛いことか。「後衛の位置から」という話はないものではないですが。


「覚悟」が問われることそれ自体が問題。そのとき、レイシストが、あるいは法を遵守する市民が措定する「負のカテゴリー」を引き受けること。その「覚悟」は、何に対して、また誰に対して捧げられるべきものか。――そのような話をfont-daさんはしておられたのだろうと私は思っている。だから、問題は、「ウヨ」「サヨ」を措定する法を遵守する市民としての貴方。そして私。


「暴力反対」と「反日上等」は全然違う。日の丸を手にしているのは、そして国家の法に逆らう者をカテゴリー措定した挙句眼前の暴力に対して「どっちもどっち」と鼻をつまんでいるのは、市民たる私であり、貴方。「法に逆らうな、売春婦」「法に逆らうな、テロリスト」「法に逆らうな、不法入国者」「法に逆らうな、反日シナ人」「法に逆らうな、サヨクとウヨク」という社会的な快楽の行使そのものとしての物言いを尻押ししているのは、法を遵守する市民と自らを規定し、斯様な自己規定を他者に対して「法に逆らうな」と強要し、そしてそのことの露骨な政治性を臆面もなく否定し、挙句日本人として日の丸に敬意を払い天皇を敬愛することの正統性を説く、そんな私であり、貴方。


建前は建前として(たとえば刑法175条を擁する――この国を法治国家と本気で思っている人はまさかいないと思うが)、法治国家の建前に同意することはむろん構わない。猥褻物の頒布は違法だから検挙された側にも同情できない、とかわざわざ口にする人があったら私は自主的な公安シンパと判断するが、そしてそれが「法を遵守する市民」と自らを規定していたなら笑うが、そして畢竟市民とはそういうもので、法を遵守する市民であることにおいて平気で他人や身内を密告するものだが。だからショーン・ペンは罪を川に沈める。


しかし、それが、「国民」「非国民」とカテゴリー措定して「非国民」を物理的に排除しようとする人々の剥き出しの暴力に対して「暴力反対不法入国反対日本の法は守るべき」なら、そんなのは結果的にレイシストの尻押しでしかないし、悪党の最後の砦を守ってやっているにすぎない。むろん、そのようにして、悪党の砦は法を遵守する市民によって十重二重に取り巻かれて守られているのだが、砦に籠る悪党にその意識があって市民の側にその意識がないなら困る。それでは「善良な市民」そのものではないか。


これは、よく訓練された暴力という擬制としてのリンチがこの国にあって法を措定することの問題。nationの脱構築の問題では第一義的にはないし、そもそも憲法理念が歴史的な法の措定と整合していないことの問題。よって、自由民主主義政体の日本にあって、国家の正統性は事実性の問題でしかない。国家の正統性を歴史伝統に拠るのが保守、とは私は言いたくない。


日の丸を手にしているのは、そして自覚なきままその柄で誰かに懲罰を加えているのは、匿名性に基づく多数者の暴力を潜在的に行使しているのは、ひいてはそれらが顕在化した姿としてのリンチ上等の現在の在特会をあらしめているのは、私であり、貴方。よく訓練された暴力という擬制としてのリンチが法を措定する「先進民主主義国」にあって、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家において、レイシストのリンチを止揚しようとする――法治国家の建前を言祝ぐとはそういうことで、そのような無限後退の理路に事欠かないのも、自由と寛容を自称する社会の姿です。等身大の。


他人事を自分事にすることは、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家に対する措定された負のカテゴリーを脱構築することではなく、また引き受けることでもなく、カテゴリーを撤廃しようとすること。カテゴリーを撤廃して残るのが個人ということ。個人に依拠するということ。「反日上等」ってのはそういうこと。もちろんそれが難しいから私は保守反動だけれど。当然、それは「国民国家の解体」と要約してしまえる話ではない。


日の丸や天皇を中心とする権力のカテゴリー措定とカテゴリー間の差別に基づく分割統治と収奪によって、かつても今もこの国は成り立ち敗戦を経験してさえ繁栄してきた。この国に限らず、国家とはそういうもの。だからこそ、他人事を自分事にすることの限界についてフェミニズムは問題にしてきたと私は考えているし、それは私も同意する。しかし、他人事を自分事にすることとその限界値は、「ネットで有名な日本人」であることや、面識の有無や友情の有無や「はてなサヨク」であることの有無、つまり、カテゴリー措定の問題ではないと私は思っているし、そういうことを先のエントリで書きました。


最後に突然綺麗事を言うと。法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家に対する措定された負のカテゴリーを撤廃することが、人類の21世紀の100年の課題だと私は思っているし、オバマの大統領就任は、そして大統領としての彼の一連の「口先」は、イスラエルアフガンetcは措き、そうしたものだった。そして何よりも、それこそが、個人に依拠するということ。それが難しい、ということを私はmojimojiさんに対して散々言ってきた気もするけれど。