2009年のピンボール


目的は手段を正当化しません - halt.

構造的暴力と個人の責任 - モジモジ君のブログ。みたいな。

http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091021/1256095792


コメント欄まで拝見したうえで――先のエントリともうひとつ前のエントリを翻すようではあるが、問題は多面的であり、改めて確認しておくべきかとは思う。トラックバックに対する私なりの大筋での応答としても。


暴力も責任も地続きなので線引きしましょう - 地下生活者の手遊び


結局のところ「他者危害」を「暴力」と言い換えるのは何のため? という話であり、それは、人権の根底にあり、またtikani_nemuru_Mさんが言われる「公権力の領域」に置かれる、他者危害禁止は「陵辱表現を脅威と感じる」ことを原理的に包括しない、というところに由来する。そのことは「純粋に技術的な」法の問題としてある、然らば――というのがmojimojiさんの見解。つまり「「(世間一般では暴力と呼ばれないところの)広義の暴力が法規制されていないのは純粋に技術的な問題」という話」をmojimojiさんはしているのでは全然ない。端的に、harutabeさんの先入見に基づく誤解と思う。


排外主義に基づくヘイトスピーチゾーニングを経た陵辱表現の商業的流通は全然違う問題である、というのが再三書いてきた私の見解であるが、mojimojiさんの議論は――いつもそうなのだけど――あたかもピンボール・マシンのように一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく。とはいえ、その「ひとつの穴」から一切を問い直すことは確かに重要で、そのとき「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由」が問われる。


それに対する反論は、hokusyuさんが言われるように「排外主義は<「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で>「暴力」ではないことを論証」することではなく、「暴力」を「他者危害」へと切り縮めた法理とその背景にある人権思想の妥当について論証することなのだが、それってエンドレスエイトだよなぁ、と私は思う。ヘイトスピーチ規制は社会的法益に多く由来する、とかこの期に及んで改めて言うことも。


人権思想が贖う他者危害禁止に抵触することではない、したがって理論的には規制の範疇ではそもそもない、と明記したのち、mojimojiさんが考える問題の本丸の在処を「「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人」に対して指し示せばよいのに、と私などは思う。つまり、そこで誤解して激越な反応を示す人がいるので(念の為に書いておくと、たとえばNaokiTakahashiさんやlisagasuさんのことではもちろんない。harutabeさんのことでもない)。「激越な反応」を引き出すための挑発的な議論なら、なるほど結構なことと思うが、根性悪いなぁ、とも感嘆交じりつつ思う。


あるいはそれが「一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく」ことの意味でもあるけれど。「一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく」ことを否とする人は、言うまでもなく大変多い。私もそのひとりではある。なぜ否とするか、それは別に、hokusyuさんが言われるように「たとえばオナニーを始めようとしても俺の中のmojimojiが俺を苛んでくるのでチンコがなえるよぅ、とか、エロ小説を書こうとしても俺の中のmojimojiが俺を苛んでくるのでリピドーあふれる小説が書けないよぅ」ということではない。法の「純粋に技術的な」話をしたいわけでもない。


要請される「真剣な思考と実践」が「法と正義の隙間を埋めるため」に「一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく」ことなら、ピンボールゲームの甲斐がない。Wikipediaから借りれば――「盤面にはさまざまな障害物や得点となるターゲットがあり、多くは自動で球をはね返す。プレイヤーはフリッパーで球をはね返しながら、できるだけ長時間維持しターゲットに当て得点を重ねる」ことがジジェク流の精神分析的な「永遠の嘘」であり文化という名の欺瞞の上積みであるなら、人は「真剣な試行と実践」をやめるよりほかない。要請された「真剣な思考と実践」以外は。


つまり、それこそが1984で、これもまたいつもそうであるしmojimojiさんは百も承知でそうしているのだけど、mojimojiさんの他者に対する要請は端的にダブルバインドを意味するものなのだが、ただし、その「ひとつの穴」に「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由と、そのような表現を必要とする人たちの自由」があるなら。要請がダブルバインドであることは致し方ない、とは言える。つまり、「真剣な試行と実践」の前提としてそのように考えるなら。


なお、私は両者が両立しないとは思わない。陵辱表現を脅威と感じることは単にメンヘルの症状なのでその文面をプリントアウトして病院(ry あるいは、そのような表現を必要とすることは単にメンヘルの症状なのでその文面をプリントアウトして病院(ry ――だから、xevra先生が万事快調にプリントアウトテンプレをかましておられるこの社会にあっては「両立」するその自由は、本当に「自由」なのか、というのが「mojimojiさんが考える問題の本丸」。なお、xevra先生のことは私は嫌いではないし流石にこのことについてはxevra先生はそういうことは言っていない。はず。


「暴力」を「他者危害」へと切り縮めて達成される社会の自由は、暴力の脅威に晒されそのことに怯えることを「プリントアウトして病院(ry」へと切り縮めて達成される社会の自由でもある。そのことが、憲法理念に規定された法が達成する社会の自由の帰結としてあるとき、その自由を言祝ぐことはアイロニカルなものにならざるをえない。自由の掲揚それ自体がダブルバインドそのものとしてある。そのことをmojimojiさんは衝いている。ダブルバインドを欺瞞するな、と。佐藤亜紀氏も衝いていたが。


そして「「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人」は誰しもアイロニカルだろうと、私などは思うが。つまり、少なくともこの国にあっては、ほかなる選択肢などない。私に言わせれば、「「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人」を批判する多くの人は、そのことを誤解している。佐藤氏も、tikani_nemuru_Mさんも、含めて。いや、後述するが、ダブルバインドを欺瞞していることにさえ気がつかない人もいるのだろうが。


よしながふみの『大奥』の話題をはてなブックマークで拝見した。私が思うに、『大奥』は精緻に構築された(メタフィクションならぬ)メタポルノで、つまりポルノがポルノであることに対する作家の問題意識をこそ主題としている。そのような、ポルノがポルノであることに対する問題意識は、よしながふみに限らず多くのいわゆる「ボーイズラブ」作家が――おそらくは否応なく――持ち合わせるものであり、あるいは現代にあってポルノをポルノとして構築せんとする多くの作家が持ち合わせるものでもある。その点で、現在の「二次元」における陵辱表現はポルノがポルノであることに対する作家の問題意識に裏打ちされた――メタポルノでもある。レイプレイがどうかは知らん。


「表象は読み解かれなければならない」とは、現在の陵辱表現における、そのポルノがポルノであることに対するメタメッセージを受け手の側で補完することで、しかしテキストにおけるメタメッセージの補完に対して懐疑的であるだろうtikani_nemuru_Mさんと「表象は読み解かれなければならない」という命題について相互的な了解に至らなかったことはそういうことだろうと私は思っている。これは、別に批判ではない。


『大奥』はきわめて洗練されたポストモダンなポルノで、抑圧と差別と権力構造とそれに基づく個の蹂躙なくして欲情と官能が成立しないことを、作家はこれでもかこれでもかとあくどいまでに読者に示し続ける。それは、「ボーイズラブ」作家だったよしながふみの明晰で、しかし倒錯してもいる一貫した問題意識だったろうし、かくて作家はそれをそのまま主題として、すなわち私たちの欲情と官能とその一切が差別に由来することを――私たちがあまり直視したくはないだろうエロスの構造を――剔抉すると同時に腕によりを掛けたエロティックな表象として描き出してみせる。そのような作品に大賞を与えた手塚治虫文化賞の見識には敬意を表する。念の為に描いておくと、「劣情」を喚起するのがポルノであって、胸やら尻やら性器やらを出すのがポルノではない。


メタポルノとは、欲情の喚起と欲情の構造を受け手に対して同時に提出する作品のことで、かつて吾妻ひでおはそうした作品を散々描いていた。『吾妻ひでおは萌えの始祖ではない。』という増田を拝見したが、それはその通り。もっとも、それはそれで(吾妻ひでおが、あるいはよしながふみが達成したような質的水準は措き)陳腐な話ではあるが、しかし、オタク文化とは何かと問うなら、斯様な欲情(あるいは欲望)の構造についてのメタメッセージを作品の側でなく受容する側が補完し、同時に欲情(あるいは欲望)する二枚腰の文化のことなので、そのような文化を理解せずして単に陵辱表現とその商業的流通を陵辱表現とその商業的流通として論じるなら、片手落ちは免れない。


そして、欲情の喚起と欲情の構造を同時に提出することが受け手において「萎える」ことかと言えば、享楽を甘く見てはいけない、「吾妻ひでおは萌えの始祖ではない」が、吾妻ひでおが描く「少女」という文字通りの空虚な表象に性的な意味でイカレた人もその享楽的な世界観をこそ欲望した人もゴマンとあったことを私たちは知っている。


少なくとも、それこそエロゲをプレイせずともインターネットを適当にクルージングしていれば明々白々な、欲情(あるいは欲望)の構造をめぐるメタメッセージの顕在化を踏まえずして陵辱表現とその商業的流通を論じることはできないと私などは思う。tikani_nemuru_Mさんに、そしてmojimojiさんに、そのような視座はあったか。これは批判でもある。tikani_nemuru_Mさんは「文化」について言挙げておられたけれど、つまり文化とはそういうこと。表象を読み解くとは、まず第一に、受容する側でメタメッセージを補完すること。それは「挿入されて『おにいちゃん』と言ってよがる8歳児とかいねえよ」ということでもある。


欲情することと欲情の構造について承知すること、欲望することと欲望の構造について承知すること、それらは同時に可能なことであるどころか、現代人の(あるいは変態紳士の)嗜みでもあり、また私たちの欲情と欲望に否応なく伴う哀しい必然である。その「哀しい必然」を「罪」と呼び換えることはなるほど可能だが、その一切合財がたとえば私自身にとっては享楽であったりする。そして、このような認識がない者のことをDQNと言い、つまり自身の欲情の構造とそれが差別に由来することを知らないかあるいは開き直った馬鹿は現実に強姦する。こういう話。現実に強姦する馬鹿のことは、流石に『獣は檻に入れとけ』タグをもって処するよりほかない。そのことを私刑の応酬よりマシと私たちが考えるなら。


なお、欲情の構造の解体を他者に及んで試行する者のことを普通はスターリニストと言い、個々人の欲情の内実を倫理的に問うことはそれこそ非倫理的行為でありまた端的に無神経で、欲情の構造について指摘することはむろん結構だが、そんなのはこの議論に関心持ち合わせる陵辱表現愛好者にとっては自明のこと、他人をあまり侮らない方がいい――というのがかつて私がmojimojiさんに対して指摘したことだった。むろん、mojimojiさんは他人を侮っているのではない。そして、以上述べてきたような文化の二枚腰こそ、洗練され陶冶され社会化された暴力の擬制そのものではあるが。文化というのはそういうことで、しかし私は文化大革命を是としない。


暴力は擬制として社会に眠らせるに限る、それは洗練であり社会化であり陶冶である、と考える私は保守主義者だが、しかしそれはmojimojiさんに言わせれば居直りそのものだろう。暴力の洗練、暴力の社会化、暴力の陶冶。それこそが「もうひとつの江戸時代」を舞台に『大奥』が描いた、抑圧と差別と権力構造とそれに基づく個の蹂躙、ひいてはそのことにおいて起動される私たちの欲情と官能の構造そのものなのだから。そのように享楽をシステムとして現代社会は駆動する、と述べたのがフロイトだった。


そして現在、世界のあらゆる先進民主主義国で、擬制は崩壊し、終焉を迎えている。それは歴史的な移民政策の帰結と言えることでは必ずしもないし、当然日本も例外ではない。しかし結果、排外主義が火を吹き、あらゆる社会的少数者に対するヘイトが燃え上がり、「直接的暴力」と動員は公共の往来へと溢れ出る。これをして歴史の終わりと、フクヤマ先生は宣ってくれるだろうか。


つまり、斯様な状況という前提のうえに、すなわち覚束なくなった文明の足場に、自由民主主義社会を自由民主主義社会として改めて確立することを至上命令として、たとえばヘイトスピーチ規制といった欧米社会の度重なる現在の選択はある、ということなのだが。そしてそれこそが「法と正義の隙間を埋めるための、真剣な思考と実践」とその帰趨であり、幾らかは意図せざる結果だった。この日出る島国に暮らす人々の憲法理念に規定された自由民主主義社会は、いつまで暢気でいられるだろうか。あるいはとっくに。


深夜のシマネコBlog:二次元規制反対派は、アグネス・チャンの人権を守れ!


趣旨は当然至極として。かくもアグネス・チャンが的にされるのは、彼女の存在と言説が絵に描いたような「善」の表象としてあり、かつそれが官憲の現実政治に利用されている、ということに由来する。そのことをアグネス・チャンは反省せよ、とはもちろん思わない。しかし、だから「アグネスは中国の人権侵害についてはスルーですか?」といった無茶苦茶でしかもヘイトの定石としての、露悪した言説が出回る。


それは表象であって、彼女の実存のことは知らない。というより、以前も書いたが、彼女は本当に児童に対する性的搾取を世界から根絶したいと考えているのだろうし、それが偽善ならこの世界に確かなものは何もない。実際、この世界に確かなものは何もないし、それはポストモダニズムがもたらした教訓ではあったが、斯様な「この世界」に対して、たとえばレヴィ=ストロースはtikani_nemuru_Mさんが引いた文章を著した。しかし。


現在の世界にあって、政治とは偽善を為すもので、そのとき偽善と偽善は衝突する――2005年の、また2009年の総選挙ではないが。そして、2度の総選挙がそうであったように、表象としての偽善に覆い隠された下部構造で個別利害が衝突し、事態は文字通り民主主義的に決する。しかし。ポピュリズムの問題とは、民主主義がもたらした概念としての「大衆」が表象としての偽善を偽善と知りながら偽善も善と信じてしまうことで、それこそが「永遠の嘘」である。そのとき、リアリストを自称する保守主義者が偽善を為すものとしての括弧付きの「政治」を説き、下部構造で個別利害が衝突する現実の世界について露悪してみせる。そして二言目には中国が持ち出される。それが、ある種の保守における典型的な言説であることは言うまでもない(これも念の為に書いておくと、sionsuzukazeさんのことではもちろんない)。


アグネス・チャン批判とは、民主主義的に偽善を為すものである政治が善の表象を立てることによって非民主主義的に現実政治を行うことに対する批判である。それはFOXテレビオバマ政権批判テンプレと何が違う、ということではあるが、問題は、民主主義的に偽善を為すものである政治が善の表象を立てることによって非民主主義的に現実政治を行うことが、国家の増長と官憲の専横と同義であること。児童に対する性的搾取の根絶、というアグネス・チャンが主張する掛け値なしの善が、官憲と官僚と国家主義者の現実政治に動員されているということ。


これは定石でもあるし、当然、アグネス・チャン個人を批判しても詮無い。アグネス・チャンの言説を批判すべき、それは赤木氏の言われる通り。そもそも、「アグネス・チャンコロ」だの二言目には中国中国と口走っている批判者に述べてきたような認識があるのかさっぱり心許ない。ダブルバインドを欺瞞していることにさえ気が付かない人というのはいて、それはDQNなのだが。


そして――斯様な偽善と偽善の衝突する民主主義政治という「永遠の嘘」の中で遺棄されていくものがある。それは、直接/間接に性的に搾取される児童であり、「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由」であり、そして、「そのような表現を必要とする人たちの自由」である、というのが、アグネス・チャンの主張であり、mojimojiさんの主張である。いや、もちろん「そのような表現を必要とする人たちの自由」についてアグネス・チャンは主張していない。だから私たちは再三主張している。かくて話は冒頭に戻る。


「他者危害」を「暴力」と言い換えるのは何のためか。――「児童が間接的に性的に搾取されることもまた、暴力だから」。それを修辞学と私が言い切れないのは、別に私がレトリカルな文章を書くからではなく、述べてきたように、民主主義政治が偽善と偽善の衝突する永遠の嘘であることを知るからだけれど、同時に「しかし、そのことは人権思想が贖う他者危害禁止の範囲の拡大を意味しない、当然公権力の領域にも置かれない」と私が言い切るのは、別に理論的帰結からではなく、「偽善も善」という永遠の嘘が下部構造における国家主義者の現実政治を覆い隠すことを知るからでもある。


偽善と偽善の衝突する民主主義政治において掛け値なしの善の表象が立てられるとき、国家が下部構造を規定し、それと同時に高級官僚は現実政治のメシウマを狙う。それは、永遠の嘘を知り尽くした者たちの常套手段であり、だからこそ、私たちは偽善と偽善が衝突する民主主義政治に善を幻視することなく永遠の嘘を永遠の嘘として維持しなければならない。これが「かのように」ということであり、それは当然欺瞞に満ちているが、民主主義政治に善を幻視する錯誤を排するならそうするよりほかない、と考えるのは私が保守主義者だからだろう。浅田彰が最初に言ったことと思うが「偽善」対「露悪」とよく言う。政治的に両者は結託した不毛な共犯関係にありマッチポンプでしかない、と。しかし実態は、もう少し込み入っている。


掛け値なしの善の表象に対して「掛け値」を指摘して回る露悪が、アグネス・チャンに対する批判非難誹謗中傷が持つ「意味」であり、だから「児童に対する性的搾取の根絶」という掛け値なしの善の「掛け値」を指摘するために、アグネス・チャン本人に対する個人攻撃が採られる。「掛け値なしの善」と私は皮肉で言っているのではまったくない。しかし、「児童に対する性的搾取の根絶」という表象としての主張に「掛け値」を指摘するべく、発言者本人のポジションという「掛け値」を言挙げる言説には、まことに事欠かない。「アグネス・チャンコロ」と言わなくとも。そしてそのような、言説における「掛け値無しの善」に対して発言者のポジションという「掛け値」を言挙げる言説は、アグネス・チャンに対するそれに限らず幾らもある。


そういう話で、それは――戦略云々以前の――駄目駄目な話と私は思うし、彼女がその実存においても児童に対する性的搾取の根絶を望んでいるだろうことは流石に察しが付く。問題は、それが永遠の嘘において国家主義者の現実政治を覆い隠すことであり、つまり問われるべきは個人とその信念に基づく行為の帰趨とそれをもたらす構造であり、要は構造的問題そのものである。それが差別というシステムそのものであることも。撃つべきは構造であり、個人やそのポジションではない、しかしそれを撃つのは、行為の帰趨について「真剣」に「思考」し「実践」する諸個人である。mojimojiさんもtikani_nemuru_Mさんも、言っておられるのはそういうこと。それはそれで、スターリニズムパターナリズムと隣接する話ではある。私の思想的立場が永遠の嘘を永遠の嘘として時に是認するように。いずれ改めて書くつもりだが、文化とは永遠の嘘の最たるもので、しかしそれは絶対に必要だから。