時の過ぎゆくままに


はてなブックマーク - じかん げんしゅは ちこくする ひとに めいわくが かかるので やめて ください - やねごんの にっき

「関口君。世界中が皆同じ時間の流れの中にいると云う状態は果たして正常な状態なのだろうか?」
「何を云っている?」
「僕は――厭だ。」
「厭?」


鉄鼠の檻』 京極夏彦


三島由紀夫はたいそう時間に厳格な人だったそうな。彼においては――そういうことを絢爛な日本語でいちいち説明するのが三島という人だったが――娑婆は約束なくして回らないので。「娑婆は約束で回っている」ではなく「娑婆は約束なくして回らない」と考え言明するのが三島という人だった。そこには彼の他者と自己に対する根本的な不信がある。約束が存在するかのように振舞わなくては、私たちにおいて約束は存在しない。そのプロトコルを破棄することは人間であることを破棄する獣の行為である、と。にもかかわらず、プロトコルを破棄しておきながら自身を人間と信じ込むふしだらな輩とその盲を許す他者不在の日本社会を彼は嫌った。


彼にとって信の問題は、第一にプロトコルに対する律儀さとしてあり、そしてもちろん彼はそのことにも嫌気が差していたから晩年において東大全共闘との討論会に見参して新左翼学生に対するシンパシーを表明した。つまり、彼はそれでも人を信じたかった。人を信じることはかくも難儀なことか、と彼のようには潔癖でない俗物の私は思う。


三島由紀夫においては、時間が存在するかのように振舞わなくては、私たちにおいて時間は存在しない。彼において時間は自明でなかった。この世界はなんら寄る辺なく拠り所もなく、いかようにも変容する不定形な溶解物である。そう考え、というよりそう信じ、溶解物であることを欺瞞するリベラルな戦後社会を唾棄した人が、自身の肉体に否応なく降りかかる老いをどのように考えたか。そしてよく知られた(公言してもいた)彼の女嫌いが顔を出す。世界に対する女の無根拠な信はその肉体に時計を宿していることに由来する、と。


三島という人にとって、与信は約束それ自体にしか存在しなかった。それでも人を信じたかった人が、「男と男」という、あるいはホモソーシャルな間柄においてしかそれを見出そうとしなかったのは、彼個人のセクシャリティミソジニーに由来することでは必ずしもない。信を約束それ自体にしか与えない社会は、他者の存在に対して私たちが提出した回答である。明晰な三島はそのことを自覚していたにすぎない。


三島が唾棄した「他者不在の日本社会」はその崩壊の足音を遠くに聞いて、信を約束の履行でなく約束それ自体に置くことによって「他者」の登場に適応した。つまり、崩壊に備えた。結果、それは崩壊を先送りにした。その崩壊の先送りが、かつて構造改革と呼ばれ新自由主義と呼ばれた。良くも悪しくもドメスティックな話ではある。私は鳩山由紀夫の「口先」は嫌いではない。「口先」に信を与えはしないので票を投じはしなかったが。


信を約束の履行でなく約束それ自体に置くビジネスはあるいは「合理的」なビジネスで、そのようなビジネスを私はしていないが、結構なことと思う。信を約束の履行でなく約束それ自体に置く教育が「合理的」な教育か私は知らない。私が「合理的」な教育と考えるのは帳尻を合わせることを教えることで、なぜなら娑婆は「約束なくして回らない」かも知れないが約束で回っているのではなく帳尻合わせで回っている。それは、信を約束の履行に置くこと。エリート校は今でも概ねそうだろうし、それをかつては「一高」的であるとした。つまり、三島由紀夫は明晰だったが、あるいは明晰であるがゆえに、不器用な人だった。


しかし、彼の場合は致し方ないかも知れないが、明晰であるがゆえに不器用な人が「娑婆は約束なくして回らない」と考えることは悲しいことだと思うし、特異な作家でもない人々が揃いも揃ってそのように考える社会は、危ういとも思う。全体主義の契機とは殊更には言わないが、そのようにして成立している社会は――lever_buildingさんの言葉を借りれば――「そのような ルールに よって たもたれた 「ちつじょ」は じつは あんがい もろい ものなのかも しれません。」そして同時に、それが現在の「しはい」を贖うものであるならば。信を約束の履行に置くことは、他者を他者として諦めたうえで、関係性を築くこと。コミュニーケションとは、本来的にそのようなものだった。もちろんそれは「合理的」ではない。だから娑婆で肝要なのは帳尻を合わせること。


私の経験的な認識では、イズムとしてのグローバリズムと世界の選択としてのグローバル化は相違しており、その相違ゆえに相互補完の関係にある。浜松市を見るまでもなく、ことこの日本社会においては、グローバル化とは下部構造における「合理性」なる概念の困難という現実のことでしかないのだが、その困難に「信を約束の履行でなく約束それ自体に置く」ことにおいて対処するのがイズムとしてのグローバリズムであるだろう。それは、小泉構造改革の帰結としてあるかつての新自由主義だった。そのことは端的にはリスク管理の問題としてあるが、合理性の名においてリスク管理を「迷惑」の問題として教育するのが文明の選択なら、確かに文明社会における教育とはそういうものではあるが、欺瞞以前に、それはそもそも現実に適していない。陸軍大学の天保銭養成ならそれで結構だが。


つまり、そこに約束の主体はない。国家システムや経済システムやイデオロギーの外側で交わす約束を、つまり人と出会うことを三島由紀夫は夢見て、おそらく彼の主観においてそれは叶わなかった。明晰で潔癖で不器用な人間においてそれが叶わないことは致し方のないことでもあるが、しかしそれは悲しいことだろう。


「娑婆は約束で回っている」はそもそもなんら自明でないし、その自明でないことがはっきりしてきたからこそ人は「娑婆は約束なくして回らない」と考える。というより、そう人に「教える」「説明する」ためにそう考える。私たちが相互に、あるいはグリニッジ標準時に自らの時計を合わせるように、それこそが文明と「合理性」のマトリックスであり当然私たちはその恩恵を被っているが、任意の文明が――どのように成熟した文明であろうと――下部構造を陶冶しえないこともまたとうにあきらかになっている現在、「約束も守れない」「まともに読み書きもできない」他者に対して任意の文明とその達成をもってすることの困難あるいは無力を私たちは自覚するべきだろう――三島由紀夫が死んで40年が経とうとする現在。


信が、文明の粋でもある約束の観念それ自体に、そして「洗練」された言語に、存在しないとは言わない。いや到底言えない。しかし下部構造は、もはやそれを存在させようとはしない。「合理」と言うなら、それを知ることこそ「合理的」である。そして教育が、(あるいは任意の)文明の粋を伝えることなら、「迷惑」を説くことは、なるほどこの国の文明の粋を伝えているだろう。半世紀前に三島が身をもって生きたアイロニーは、そこには欠片もないが、丸谷才一が今なお身をもって生きているアイロニーが、そこには存在するのかも知れない。私は丸谷先生のことも好きだし尊敬しているが。そしてだからこそこのようにしか書けない。


京極堂は昭和28年の日本で「厭」と言った。半世紀後の日本においてそれを言う必要がなくなったなら、たとえば山本夏彦がそうであったように、そのことをこそ「厭」と言う人があるのだろうが、そしてそれは当然のことだけれど、安心してよいことには、必要は全然なくなっていない。長く冷戦の存続した日本社会という「明慧寺」の、すなわち「戦後」を規定し牽引した妄執によってフリーズされたタイムカプセルの「時が――流れてしもうたッ」のはつい最近のことだから。あるいはこの数ヶ月の。閣僚が「文化大革命」と口走った昨今、タイムカプセルを溶解させた張本人である小泉純一郎小沢一郎、そして安倍、福田、麻生という人々のそれぞれの妄執について思いをめぐらせつつ、そんなことを思う。


「迷惑」の問題なら、誰にも迷惑を掛けずに生きている人間などいない。だから「迷惑」とは筋合の有無の問題で、誰にも迷惑を掛けずに生きている人間などいないことと、筋合なき(と自らが考える)誰かに迷惑を掛けずに生きていくべく心掛けることは両立する。そしてそれは、自身の死活問題でないとき、他者に要請しうることではない。なぜなら、「筋合」の範疇の画定こそ、現在の社会思想の喧々諤々としてある。


「筋合」の範疇の画定をめぐる喧々諤々をすっとばし、倫理として偽装された規範の欠如を死活問題として他者としての未成年者に説くことが教育なら、野宿者がいっそうの偏見にさらされることは教育の帰結にすぎない。「筋合」の範疇を地方自治体や国家に措定する限り、財政の逼迫を盾に自他の死活問題として「迷惑」を敷衍した概念を言挙げることにおいて、福祉受給者に対する非難と、些か見世物のように現在報道されている「事業仕分け」は、区別が付かない。


そして同時に、我が国の予算編成が「自他の死活問題」であることが明瞭に可視化されたことなど、これまであったろうか。その不可視が国家の機能だった。斯様な擬制の転回が民主党政権に可能なら、「友愛」は「口先」だけではなかったことになる。とはいえ、つまりその可視化とは、革命に付き物の断頭台のことではあるのだが。


むろん私は、「自他の死活問題」であるという問題設定がミスリードであり、その可視化とはつまり断頭台の見世物でしかないと考える。そしてそのことは、不可視のための機能である擬制としての国家が私たちにおいて要請されていたことを結論する。かくて、沖縄の基地問題はずっと不可視化されてきた。民主党に票を投じなかった私が現政権をあまり批判する気になれないのは、そうした自己批判が先に立つからなのだった。


村上春樹の達者な比喩を借りるなら、「筋合」の範疇を任意の「壁」に措定する限り、私たちは「卵」と出会えないし、約束を交わすことも叶わない。他者を他者として諦めたうえで、関係性を築くことも、そう努力することも。約束を交わすことは「筋合」を越えること。それが本来的にはコミュニケーションで、その不可能を知り自他にプロトコルを説きながら、しかしそれを夢見た三島由紀夫を、ロマン主義者のアイロニーと片付けることは私は今でもできない。lever_buildingさんのエントリと繋がる話かわかりかねたので、直接リンクしませんでした。