御法度を生み出すもの
⇒なぜ僕が美少女戦士になりたかったのか? - 地下生活者の手遊び
⇒異性愛というありふれたヘンタイ(再追記アリ - 地下生活者の手遊び
「大島渚テーゼ」と私が勝手に呼び習わしている観念があって。「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」という。そして、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちは、殺し合う代わりに社会を作った。現行の社会を。その秩序ある社会を、ホモソーシャルと言う。あるいは国家を。それは、男たちの都合により、愛し合うことと殺し合うことを忌避することによって成り立っている。その「都合」を、オブセッションともポスト近代な現在では言う。
別に大島監督がそういうことを説いていたわけではない。ただ「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」ことを――その代替物として構成された現行の社会の安全装置を映画を通して外してみせることによって――幾つかの大島作品は指し示し、男たちの根底的なオブセッションを暴き出した。
もちろん私は、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちの宿命を享楽したいと考えるとてもわかりやすく社会的な男なので、愛し合う代わりに殺し合う男たちの禁欲的であることと暴力的であることの表裏一体のエロスに酔うわけだが――つまり、後述するが、現在では、愛することってむずかしく、愛し合う代わりに殺し合うこともむずかしい――それ違うだろう、と『御法度』に対してかつて突っ込んだのが浅田彰だった。
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tikani_nemuru_Mさんのエントリは、その構図について指摘したものと私は傍から思っていた。「愛し合う代わりに殺し合わなければならない」男たちが殺し合う代わりに築き上げたホモソーシャルな社会秩序。そのようなものを必要としない、オブセッションから解き放たれた存在として、プリキュア的な空想の美少女が措定されているのだろう、と。つまり、愛し合う代わりに殺し合うことも殺し合う代わりに秩序ある社会を築き上げることもなくただ愛し合うことのできる存在としての、空想の美少女。
「なぜそれが空想の美少女でなければならないのか」という問いは当然ありえる。そしてそれに対する回答は「自分は異性指向の♂だから」ではない。いや、宮崎駿はそういうことを言ったが。女性にとっては辟易する話だろうとも思う。私が思うのは、「愛し合う代わりに殺し合わなければならない」男のオブセッションに辟易している♂もいるということ。tikani_nemuru_Mさんもそのひとりだろうということ。そして、オブセッションのツケを空想の美少女に回しているのが現在の「萌え」という想像力の中心的な有り様としてあるということ。
愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちが殺し合う代わりに社会を作り順応の名においてその秩序に加担することを、ある方面の専門用語では去勢と言う。斯様なオブセッションに対する忌避は、そのツケを空想の美少女に回して、そして彼女たちは殺し合う必要も秩序ある社会を作る必要もなくただ愛し合う。その「愛し合う」ことを、tikani_nemuru_Mさんは「目的とはあくまで友情そのものにある」「勝利だの目的だのに回収されにゃー関係」と表しているのだろう。そのとき性愛が回避されるのは、tikani_nemuru_Mさんがたまたま異性愛者だから――というのがtikani_nemuru_Mさん御自身による説明。
そしてそのことが反転すれば「愛し合う代わりに殺し合わなければならない美少女」が空想の存在として現れる。斎藤環がそのことを指摘したのは10年前のことだった。かくて現在、オブセッションに対する忌避のツケが現実の女性へと回されて「三次元女はデバッグ」発言になる。オブセッションを忌避する男たちは、時に、現実の女性に秩序ある社会の構成物を見ている。自身が忌避するオブセッションを。現実の女性を秩序ある社会の構成物としているのは、そのオブセッションそのものなのだが。
「男にとって女がめんどくさい生き物なのは不変の事実」とTwitterでつぶやいて炎上していた人があったが、オブセッションを「宿命」と変換して涼とする私のような御都合主義な男ばかりではこの世はない、男にとって男がめんどくさい生き物であることが不変の事実であることが耐え難い♂が大勢いる。
処方箋は、言うは易しという意味では簡単で、つまりそれはテンプレートでもあるが、オブセッションに対する忌避のツケを現実には存在しない空想の美少女に回している暇があったら「♂として貴方が、殺し合う必要も秩序ある社会を作る必要もなくただ愛し合え」ということになる。そしてこの処方箋は、当然のことながら、同性愛の勧めでもホモフォビアに対する糾弾でもない。秩序あるホモソーシャルな社会が排除してきたもの、その存続のために排除し続けているものについて、それが何であるかということも含めて、考えるということ。「非モテ」というのもそういう話だと私は思ってきた。
つまり、秩序あるホモソーシャルな社会が排除してきたもの、その存続のために今なお排除し続けているものは、「♂としてただ愛し合うこと」それ自体なのだ。性的指向の如何に関わらず。
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tikani_nemuru_Mさんは御自身の「ホモフォビア」について御自身で再三「確認」しておられるけれども、そういう話ではないと私は傍から思っていて、つまり「ただ愛し合うことをなぜ貴方は同性に対して忌避するのか?」ということは、異性愛/同性愛といった――それ自体が大雑把な括りであることは別として――性的指向とその「多様性」に帰されることではない。
ただ愛し合うことを忌避することの理由が「異性愛/同性愛」とそのマジョリティ/マイノリティとしての数の多寡の問題であるなら、つまるところ個人の性的指向の問題なら、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちが殺し合う代わりに築き上げた秩序ある社会、すなわち差別的で抑圧的な社会を裏書する話でしかそれはない。「聖ジュネ様にでも御降臨願うしかないの?」とflorentineさんがブコメでつぶやいておられたけれども、そうなのだろうと私も思う。
ただ愛し合うことが「貴方」にできないのは、性的指向の多様とその衆寡の問題ではない、ただ愛し合うことを困難にしている、この秩序ある社会を形成したオブセッションと、それが排除してきたものの問題。「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」という観念は、今なおこの社会を規定し、秩序の名において「ただ愛し合うこと」の排除さえも規定している。空想の美少女を、すなわちデバッグされた「女の形」を、そして言うまでもなく現実の女性を、供犠とすることによって。
その供犠はそもそも歴史的なミスリードなのだが、そのミスリードに責を負っているのは、当然、ツケを回している側と、ツケ回しを引き起こす現行の秩序ある社会と、ツケ回しを裏書するテンプレートな言説である。
オブセッションに対する忌避の結果としてあるデバッグは、現実の女性を蚊帳の外とする。ホモソーシャル秩序という蚊帳の。この入れ子構造を考えるとき、その出口のなさについては頭が痛い。私のような、自らが男性であることについて不当に自信に満ち溢れている手合いには、何も言えないことであったりする。
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だからこそ、これは皮肉な意味でも言うのだが、ジョン・レノンは『Imagine』を『Woman』を『Stand By Me』を『Happy Xmas (War Is Over) 』を歌ったし、かつて忌野清志郎が言ったように「愛することってむずかしい」。あ、佐野元春だったか。『イングロリアス・バスターズ』を堪能してきた私のアレな世界観は、誰しも愛し合う代わりに殺し合わなければならない、というもので、だから、秩序ある社会が至上命令であることには同意せざるをえない。そしてその秩序が、ヘテロセクシャリズムの別名であることは、むべなるかな。
結局のところ、多少頭のいい「アーリアン」は、誰しもクリストフ・ヴァルツ演じるランダ大佐のような意識を抱えて、「忠誠」も「名誉」も紙屑と見なし、そして結局のところ自身に付された「渾名」にさえ辟易して、己の快楽原則に従って、ランダ大佐のように処世するのが現在の日本である。その処世にツケが回るところが「多少頭のいい」「アーリアン」であった彼の認識の欠如でありありふれた錯誤であったが。
誰しもただ愛し合うことは、私においては、殺し合うことと同義であるが、その世界観が、私の性的指向に由来するものか、私は知らない。だからこそ、性的指向とその如何に関わらず、愛は行き違うものであり、また行き違うべきなのだと、私は考えているが、しかしその行き違いにおいて待っているものは、言うまでもなく、剥き出しの暴力である。ジュネはそこまで描いた。オブセッションとは、暴力の陶冶の別名でもあったから。
空想の美少女が、デバッグされた「女の形」が、そして現実の女性が、供犠とされるのは、そのような剥き出しの暴力を陶冶する秩序ある社会と国家の暴力が要請すること。つまり、出口も救いもない話ということだが。当然私はリベラリストではない。――tikani_nemuru_Mさんはこのようなことを言っているのではないか、というフォローのつもりだったが、フォローになっていない気はする。批判というより、自己批判であるだろう。こういうことについて処方箋を必要としない自分自身のアレさ加減についての。
参考リンクのようなものを置いておきます。⇒浅田彰【「御法度」をめぐる御法度】