「事実であろうと、なかろうと」


furukatsuさんのブックマークコメントについて手短に。


工作員発見 - apesnotmonkeysの日記

革命的非モテ同盟跡地

furukatsu 歴史, 思想  そこが理解できないんだ。70年前死んだ中国人のことを本気で思うことは出来ない。よっぽどkanonの方が実感があるんだ。現実の政治問題としてのポジショニングは理解出来るけどね。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090601/1243838801

id:furukatsu氏は「言論の自由を盾にエロゲーへの法規制に反対する人たちって、やっぱ現実の性暴力のことなんかどうでもいいと思ってるんだ」という印象を与えるために努力しているようです。

工作員発見 - apesnotmonkeysの日記


それ以前の問題で、誤読されているとは思いました、が。私は「70年前死んだ中国人のことを本気で思」っているのではない。ただ、本気で思っている人がたとえば海の向こうにいる。その「私」と「貴方」は70年前の史実が結んでいる。私たちが、この世に生を受ける以前の歴史的過去を知ろうとすることの意味は、そういうことで、ゆえに学問は市民社会のものとしてある。なので、そもそも「実感」とかそういう話ではない。


ところが、南京事件についての議論らしき何かを見ていると、話が逆になっている。70年前死んだ中国人のことを本気で思うことができない私たちがいて、海の向こうに本気で思っている人たちがいる。それが政治で、政治である以上カマトトは不要、と。たぶん宮台真司を最悪に読むとそうなるのだが。そしてここには、山本七平の影がある。Apemanさんが批判しておられるような。


念為 - Apeman’s diary


racismに関しては七平無罪を主張したい私だが、いくら脳内演算しても無理筋な強弁になるという具合なのでやめる。問題は「事実であろうと、なかろうと」という言葉で山本七平が何を示唆したか。歴史的憎悪は理非を超えるという話を彼はしており、そして「理非は問題ではない」と結論する。だから歴史的憎悪の言説を「安易に聞き流してはいけない」。日本人に対して向けられた歴史的憎悪の言説を日本人は「安易に聞き流してはいけない」。そう、迫害の歴史とホロコーストを経たユダヤ人が仰っています、と。この山本言説については、当然批判されねばならないが、もちろん私は読者なので沈黙する。


歴史的憎悪は理非の問題ではない。それが七平言説の前提で、結論が「安易に聞き流してはいけない」なので、取扱注意な話であることは違いない。で、少なくとも山本七平は歴史的憎悪の存在に自覚的だったが(なおさら悪い、という話は措く)、理非を中国の政体にツケ回して、学問的成果の最適還元回路としての市民社会という考え方を忘れる人が少なからずあることを改めて思った次第。


七平読者として言うなら、政は歴史的憎悪を鎮めるためのプロトコルであって、理非不在のツケを政治に回すと、復讐される。七平のそれはヘイトスピーチだろ、という指摘には特に反論はない。復讐とは、理非不在のツケが戻ってくること。つまり歴史的憎悪の精算を迫られることなので、清算を迫られたとき政治を主張することは、空手形を切っているだけで、憎悪の清算は一向に進まない。憎悪の清算は、責任や倫理の問題ではない。私は七平読者なので言うが、復讐を避けるためだ。一億総懺悔による清算こそ理非不在のツケを政治に回した結果で、ツケは早々に戻ってきた。


歴史的憎悪を鎮めるためのプロトコルに理非の追求としての学問は貢献している。史実を追求しそれを知ろうとすることが「70年前死んだ中国人のことを本気で思うことができない私たちがいて、海の向こうに本気で思っている人たちがいる」ことの、近代的な精算だから。そしてポストモダンな世界では、七平の陥穽に落ち込むことは容易い。――だから。

だからと言って、この問題についての学問的研究に価値がないとは思いません。真実を探求しようと言う行為はそれ自身単体で価値のある行為であると考えます。

革命的非モテ同盟跡地


それは違います。いや、「真実を探求しようと言う行為はそれ自身単体で価値のある行為」ですが。


70年前の虐殺に基づく歴史的憎悪のツケを市民社会の負債と考えない人がいることは構わない。個人的な実感の不在をもってツケを一億総懺悔レベルの政治に回すことも構わない。しかし歴史的憎悪は存在する。その点について、私は山本七平に同意する。だから、一億総懺悔のツケが市民社会の負債へと転じて、在特会が生じる。


学問的成果としての史実が史実として共有される市民社会は、憎悪の負債の清算を目的とする。その清算が永遠の暫定決済であるにせよ。政という、歴史的憎悪を鎮めるためのプロトコルは、政治家の専売特許ではない。歴史的憎悪は理非の問題ではない、だから「事実であろうと、なかろうと」「安易に聞き流してはいけない」それが山本七平の結論だった。


理非を差し込むことが、事実を追求することが、憎悪の処方箋たりうるか。無理です。だから、理非の介入と事実の事実性をプロトコルとして尊重する市民社会が、憎悪の安全装置として要請される。こうした普通の話が通らないから高橋哲哉のようなハイブロウな議論が要請される、ということだと私は思っている。


理非の追求をスルーして、学問的成果の最適還元回路としての市民社会を放棄して、挙句「事実であろうと、なかろうと」なら憎悪の清算を一億総懺悔の政治に回した半世紀前となんら変わりない。茶番としての反復でしかない。憎悪の政治的清算の上意下達は、民衆をなんら掣肘しない――殊に、敗戦を経験せず戦争の記憶さえ知らない民衆は。かくてインターネットにヘイトスピーチが横行する。


学問的成果の最適還元回路として民主主義と市民社会はある。市民社会というプロトコルを失って学問が民衆と乖離するなら、つまり事象に対する学問的アプローチが政治的存在としての民衆と乖離するなら、偽科学もトンデモも陰謀論ヘイトスピーチポストモダンアーキテクチャとしてのインターネットに集合知としてあふれ返るだろう。


もちろん、そのことは学問の責ではないが、梅田望夫は疲弊する。だから、評論家は大衆社会にこそ必要、という話で、そして梅田氏が旗を降ろしたことも氏の資質からして当然、というのは余談。中国の政体は致し方ないとして、政治問題を理由に「事実であろうと、なかろうと」と理非がスルーされ、市民社会の不在において学問的成果が最適還元されることもなく歴史的憎悪の清算も政治任せの茶番でしかない日本は他国のことは言えない。「だから」復讐を恐れている。中国の動向に、北の核に、「在日」に。


強姦ゲーム流通の人権侵害が「事実であろうと、なかろうと」規制は、あるいは規制断固反対は、可能か。それは筋悪。だから、tikani_nemuru_Mさんは「回り道」をしている。ヘイトクライムに言及している。


性犯罪の暗数を指摘することは、具体的な人権侵害を不可視化するシステムとして機能する差別構造について、人権侵害と改めて指すこと。そのことには同意するし、そしてそれは「事実であろうと、なかろうと」ということではない。――と書くのは一連の「回り道」を拝見して、私自身の反論の杜撰についても思ったため。


強姦ゲーム流通の人権侵害について「事実であろうと、なかろうと」規制することも「事実であろうと、なかろうと」規制断固反対することも、筋が悪い。「なにそれこわい」で表現規制されてはたまらない。しかし、具体的な人権侵害を不可視化するシステムとして機能する差別構造の百年河清について、具体的な人権侵害の被害者――つまり性暴力に日常的にさらされる者――が指摘することが「なにそれこわい」と読み換えられる社会それ自体が、百年河清の証明ではある。


「事実であろうと、なかろうと」「安易に聞き流してはいけない」と表現の自由を掲げることが、tikani_nemuru_Mさんの議論に対して「よかった、人権侵害の事実はなかったんだ」と結論してしまうことなら、それにも私は乗れない。もし、消費社会において欲望が自由なら、私たちは、差別構造の百年河清を忘却すべきでない。罪とか責任とか道義とか倫理とかそういう話ではない。


ポストモダンにおける欲望の放恣な自由が百年河清の忘却と等価交換されるとき、表象流通に対する人権概念からの指摘を表現の自由において「事実であろうと、なかろうと」「安易に聞き流してはいけない」という立論が成る。それは、自由の八百長だ。自由などそもそも八百長だ、という立場もあろうが、勝敗が操作される八百長でスる人はいる。そして、歴史のツケは、百年河清を先送りしてきたことのツケは、現在私たちの手元にある。「表現の自由」「言論の自由」が、ツケを更なる未来へと先送りするべく切られた空手形にしか見えないことが、私にもたまにある。