「ローゼンメイデン問題」/終わらない近代の「国家」と「民族」


論争傍観者を自称する人間についての二つの問題 - Close To The Wall

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「あった派」と「なかった派」の間で中立、というのは意味がわからない。政治的中立、ということか。「と学会」と「トンデモさん」も政治的対立を繰り広げているのだろう。イデオロギーについて知らないからイデオロギー・フリー、ということではない。知らないことすなわち自由であることか、否、知ることこそが自由への経路ではある。然りて達する「メタ・イデオロギー」こそが、現在の日本社会における「問題」であるとするなら、「南京事件」をはじめとする戦争犯罪の議論において問われるのはそのことだろう。


もう10年は昔のことになるだろうか。小林よしのりが描いていた。本が手元にないので大意。祖父たちを貶め卑しめようとする輩になぜ貴様は同胞であるにもかかわらずそのようなことができるのかと問うたところ相手はかく答えた、俺とは関係ないから、前の世代がやったことだから。言葉を失った。――事実であるかは知らん。


ところで。「なかった派」がトンデモに走る理由が、小林氏が示したようなことであるなら、すなわち祖父たちを殊更に貶め卑しめんとするべきではない、かつ国際政治問題である以上中共のイデオローグに容易に迎合するべきではない、ということであるなら、あるいは民族的蔑視ゆえのことなら、頭は痛いがわかる。


共同性の認識に拠り国際政治を標榜すること自体が、国内向けの議論である。共同性の不在証明が、民族を単位とするがゆえに、他民族に対する差異の強調を言挙げ、ひいては蔑視的な言説へと帰着することを、残念に思う。


「俺とは関係ないから、前の世代がやったことだから」と考えている人は、公言することなくとも、多い。実際。「関係ある」のだろうか。「国際政治問題」であることを措き、すなわち「被害当事国」の民の声を措き、自身の内的な問題として問うたとき。70年前の、知らん人間がやったことである。「70年前の知らん人間がやったこと」に対して自身は責任を負う、と考える者は、まだしも、であるかも知れない。「責任」の処し方が相違すれども。


国家と国民が一致しない国なのだろう。「被害当事国」もまた。私は中国とは中国共産党のこととはまるで思っていない。斯様な二国間の「国際政治問題」と、自身の個人としての認識はかかわりない、と考える人は在るだろう。「加害当事国」において。


「国家」観念が共同性において担保されるとき、共同性を自身において解除する者が、現行の「国民」たることを否とすることは容易にあろう。それを新自由主義新保守主義という。共同性を前提するとき、小泉純一郎個人の問題は、国民において、ひいては自身においてかかわりなきことである。


国家と国民が一致しない国において、すなわち、イデオロギー・フリーであることが易き現在の日本において、「国民」として国家にかかわることはときに他人事である。まして。70年前の知らん「国民」がやったこと、については。日本において戦前と戦後が連続していることの実相とは、戦前と戦後を別物と、すなわち切断されていると、考える人が多いゆえのこと。


ローゼンメイデン問題」というものが在る。私が名付けた。麻生閣下のことではない。何のことか。私は教科書検定制度廃止論者である。昨年のこと。一連の議論において、印象に残った記述が在った。強調原文。

まあここまでの話をまとめると、なにやらいろいろと不都合を申し立てられているようなのだがそのなかに私自身にとっての不都合であって心を改めたりすべき事由というのがまったく見出せないので、いや私はあなた方がそういう生き方を選択する主体性というのを尊重したいからどうぞお仲間で気持ち良くなっていてください私は邪魔しませんから、感覚も達成目標も主語の範囲も共有しない相手に無理に文句付けようとしなくていいんじゃないですか、ということなのである。つうか私沖縄にも沖縄人にもコミットメントないしさ、自分の議論と「ぼ、ぼ、ぼくがローゼンメイデンがこんなに好きなのになぜ君は見ようともしないんだあああああ」とかいう主張との違いがあるかどうかについてもう少し自覚的な方がいいんじゃね? て感じ。このコミットメントを強制し得るかって問題も昔書いたな。まあそのレベルの議論を経てから何か言ってください、ということで終わる。

on performativity - おおやにき


「日本国民」である限りにおいて南京事件をめぐる反歴史修正主義にコミットすることは「日本国民」であることの責務か、それとも「ローゼンメイデンを見る見ないは個人の自由」であるか。日本国民が日本国民であることにおいて南京事件をめぐる反歴史修正主義にコミットすることは、ローゼンメイデンファンがローゼンメイデン愛を謳うことと同じことであるか。知らないことについては言及するな、という話なら、私が初音ミクについて触れないことと同じだ。むろん、そういう話ではない。偏愛はコミットメントでなく、愛は公共の問題ではない。


日本国民が日本国民であることにおいて南京事件をめぐる反歴史修正主義にコミットすることが、ローゼンメイデンファンがローゼンメイデン愛を謳うことと同じことである社会。それが現在の日本社会である。つまり。政治的な問題とはすなわち趣味の問題であり、政治的な問題が趣味の問題へと全面的に還元される、ということ。「イデオロギー・フリー」である、とは、斯様な状況において示される言辞。政治的な問題が趣味の問題へと全面的に還元されうる、とする立場を「メタ・イデオロギー」という。「シニシズム」の蔓延する世相とは、そのこと。


自分で書いておくと、私は斯様な「傾向」と親和的であるが、また、かかる世相を風通しのよいものと考えているが、とりあえず、政治の問題と趣味の問題は区別しておけ、と思う。とはいえ。「シニシズム」を否とする立場においても、政治の問題を趣味の問題として捉えている光景にはときおりお目にかかる。

左派(右派にもいるが)のダメなところのひとつは、自分と同じ考えを持たない人たち、自分と違う価値観にしたがっている人たちの「センス」を馬鹿にしまくる(自覚はないのかもしれないが)ことだと思う。「石原を支持するやつはダメだ」ってなことをすぐに言っちゃう。時には石原本人を批判するより楽しげにそう言っちゃう。「石原的なものはなぜ危ないのか」と説いてるはずが(説いてないわけじゃないんだが)「石原の危険性がわからないやつは云々」になってしまう。主義主張とか考え方、物事の進め方のまずさ、その立場にある者としてどうかの指摘をしていたはずが往々にして、「そういう主張をする」人の人格とか人としてのセンスがどうこうという話になってしまう。

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070404/p2


ということで。当時、石原慎太郎の趣味の問題について書いた。「石原は趣味が悪い」が結論であった。そして、そのような石原氏の趣味に人が惹かれ得ることも。すなわち、石原慎太郎において趣味と政治は一致し、かかる石原氏の資質をこそ人は支持する、と。趣味化する政治。趣味が悪いことを私は悪いこととは思わないが、趣味化する政治については。


石原氏のオリジナルな審美主義をめぐって淡々とインフォするよ。 - 地を這う難破船


サブカル好きのオタクとしては、政治の問題を趣味の問題として捉えることは日常ではある。


政治の問題が趣味の問題へと全面的に還元される社会において、政治の問題と趣味の問題を区別せよ、と一義的には言わざるを得ない、ことが問題だろう。韓国人の女の子がニコニコ動画にアップした動画を作成者が韓国人であることにおいて政治的に弾劾するべきではないと。


「趣味の問題は一義的に政治の問題へと還元されないしするべきではない」斯様な、「メタ・イデオロギー」という政治的態度がオタクの綱領であり矜持であり知性であった。然りて現在、宮台先生がサブカルチャーについて嘆く。世代的な「メタ・イデオロギー」の政治綱領が矜持が忘却された現在において、イデオロギーはネタとして消費され、ネタはベタとして回帰する←今ココ、であると。


「メタ・イデオロギー」はイデオロギーの認識的な抑圧を前提的な条件とする。「政治」からの「イデオロギー」からの「趣味」の自由。その政治性とイデオロギー性。イデオロギーは認識における抑圧的な装置であるが、自身において斯様な条件なきとき、「中立」を「優越感ゲーム」の道具とするなら、それもまたイデオロギーでしかない。趣味と政治の結託という。イデオロギーならず、事実として、趣味と政治は結託する。そのこと自体に、私は批判的ではある。が。


以下。大屋氏が言われる「そのレベルの議論」について。

「虐殺=あった派もなかった派もどっちもどっち」と信じつづけたいひとは、この現実を見てもらいたいですな。で、この「オズ」氏をきっちりフォローできる否定派を捜してきてください。

メタ・メタ・メタ…ゲーム - Apeman’s diary


――それでは。少し「フォロー」を。

罵言というのは相手の心にダメージを与えないと意味がないわけである。基本的には相手を怒らせるために使われるものだろう。しかしこれをお読みの方の多くもそうだろうと思うが、「お前朝鮮人か!」と言われて私が逆上し、「違うわ! 日本人じゃ!」なんて言い返すことはありえないわけである。そりゃもちろん、税関で「お前は韓国人か?」と聞かれたら「日本人だ」と答えるけどさ(笑) 最初に「罵言」に「 」をつけておいたのもそのためで、ウヨさんたちが一生懸命工夫を凝らして思いつくフレーズというのはちっともこちらのハートに突き刺さってこないのである。

否定論者のヘイトスピーチを考える - Apeman’s diary


「民族」を単位とする共同性の相。日本において、設計主義的な国家観念は、ひいては国民概念は、上意下達としてしか現れることなく、共有されることない。「同胞」と書いて「はらから」と読む、ということ。文化は個別である。文化の個別性において、「民族に内在する条件」を問うべきでないことはいうまでもない。文化の個別性を規定するのは任意の文化における歴史的なコンテクスト、すなわち歴史的条件である。


民族 - Wikipedia


民族主義」とは、近代の観念であり情念である。否、現代的な「民族」概念自体が、近代の産物である。任意の文化において「歴史的なコンテクスト」として在る、長年に及ぶ「民族」間の憎悪が、殺し合いを殺戮を引き起こした。「ユダヤ人」が「ユダヤ人」であることにおいて、迫害されることのリアリティが、日本においては判り難い。むろん。かつて三国同盟があった。『アドルフに告ぐ』において描かれたような事情が。


日本の開国と近代化に際して、政治的に朝鮮が軽んじられ、「朝鮮人」が、ひいては「支那人」が蔑視されたことを、言って詮無いことだが残念なことと思う。近代において発生した日本における「民族」観念はひいては「民族主義」は、民族自決五族協和を王道楽土を八紘一宇を、ひいてはアジア主義を、志向した。私たちは白人ではなかった。契機は、愚かなる事変を戦争を経て、永遠に頓挫し流産した。むろん。大日本帝国が悪い。


帝国陸軍のそして関東軍の問題は措く。帝国陸軍の専横と暴走の責を戦後日本の国民が負うべきか。回答。他国の民にとっては、まして「被害当事国」の民から見たなら、同じ。私は中国とは中国共産党のこととはまるで思っていないしまして人民解放軍のこととは一切思っていないが、南京事件をめぐる中国批判者は、どのように考えているのだろうか。


南京における虐殺の存在と中国共産党批判とは直接にはかかわりない。現在の中国に言論と学問の自由無きことを除いて。幸いにも、現在の日本において、帝国陸軍を批判することと原爆投下に対して怒りを示すことは両立する。もし。「民族」観念が介在していたなら、それをこそ批判するべきだろう、現在に及ぶ、普遍的な問題であるから。


日本の開国と近代化に際して勃興した「民族」主義。歴史は、たとえば北一輝らの描いたようには推移しなかったし、構想が無理筋であったこと、多く欺瞞であったこと、いうまでもない。戦後日本において、近代の副作用として在る「民族」主義の桎梏は、隠蔽され表向き無きこととされた。講和を経た戦後の島国において、「隣人」として在る人たちの「民族の相違」は、歴史的な事情において、ときに、あるいは多く、軋轢を描いた。差別が在ったこというまでもない。日本帝国主義の欺瞞と破綻において、現在における東アジア関係が導かれもした。


現在、近代の光と負債を、効能と副作用を、生きる私たちは、「民族」を単位としてその運命を悲しみを受容し引き受ける。無数の「はらから」たる「同胞」の死の後で。フランス革命的な「同胞愛」が機能しない歴史的条件において、「民族」を単位とする共同性の相において、「同胞=はらから」の死を、相互に悼むよりほかない。


任意の文化における「歴史的なコンテクスト」として在る、長い、前近代段階における「民族」間の憎悪。それを、近代において、「人種」概念において、再帰的に厳格に構成し規定し「精緻化」し、「種」と一致した国家を単位とする、システムとテクノロジーとしての、つまりは20世紀の近代イデオロギーとしての、選別と殺戮を、すなわち虐殺を、行ったのが、ナチスドイツ。近代には、常に光と負債が在り、効能と副作用が在る。


任意の文化における「歴史的なコンテクスト」として在る、長い、前近代段階における「民族」間の憎悪が、「民族の問題」として再帰的かつ「本質的」に構成され規定されたとき、すなわち、私たちが混血であることを顕にする近代、否、20世紀において、自他の「本質的」な再構成と再定義の需要が兆したとき、「民族」観念が「民族の問題」が「民族主義」が生れる。近代において生じる「民族」主義が自己純化を志向し排除へと自動化する限りにおいて、「同胞=はらから」をその死と不幸を不在証明に、「民族」の相違は選別と衝突の理由となる。


そして。近代国家を介して、20世紀のシステムとテクノロジーイデオロギーとして動員されたとき、「最終的解決」が生れる。ナチスの科学主義の問題とは、そのこと。共同性の相において担保されていた「はらから」を、自他の選別を、彼らは科学的に担保しようとした。共同性の観念を方法的な科学が保障する。ゆえに、国家社会主義なのであるが。いうまでもなく、学問は国家から自由であって然るべき。国家の国家的な要請を学問が担保するべきではない。私は教科書検定制度廃止論者である。


日本において、長い、前近代段階における「民族」間の憎悪が、所在したかと問うなら、世界史的に比するならかかる憎悪が熾烈を極めること比較的少なかった。むろん「島国」における「長い」鎖国があり、「異民族」ならざる被差別者が在った。それが、「任意の文化」における「歴史的なコンテクスト」。他所よりまし、ということであるはずがない。


近代において呼び覚まされたものが在る。一切の諸観念が。そして現実の帝国主義が。虐殺が。「民族」を単位とする共同性の相もまた、近代国家の所産である。「民族」を単位とする共同性の相が、「国家」を介して、どれほどの戦争を殺戮を引き起こしたか。半世紀前のことでも、「野蛮な世界」のことでもない。


民族浄化 - Wikipedia

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=8568


事実上近代の只中にある私たちは、いまなお、「民族」を単位とする共同性の相において、「国家」を介し、殺し殺される、選別し選別される、蓋然の内に在る。緊張が所在する。西欧においてそうであるように。


近代は、その光と負債と共に、効能と副作用と共に、いまなお終わることない。斯様な歴史的段階論においては、90年代的なポストモダンシニシズムに、安易におもねることには――私もおもねりがちであるけれども――賛成しかねるし、一方、近代の多く原理に拠る光と効能をのみ是として、人間存在に拠る必然としての、その負債と副作用を棄却することにも、賛成し難い。かつて、フランクルは記した。

わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

夜と霧 新版

夜と霧 新版


近代に発する「民族」を単位とする共同性の相を、国家を介して、問い続けること。共同性の相に由来する、「民族」を単位とする差異の観念を、棄却するのでなく、問い続けること。「歴史的条件」においてしか差異は所在しない。日本の「歴史的条件」が現在に及んで所在すること。その忘却。シニシズムとは、忘却することではない。ミラン・クンデラは、忘却してなどいなかった。


「同胞」概念を、革命の理念に拠って採用するか、「はらから」の意において採用するか。「はらから」に対する愛とは公共ではない。問題は、あらゆる意において現在を貫く。近代の光と影たる、国家と民族の分かち難い交錯として。

つうか私沖縄にも沖縄人にもコミットメントないしさ、自分の議論と「ぼ、ぼ、ぼくがローゼンメイデンがこんなに好きなのになぜ君は見ようともしないんだあああああ」とかいう主張との違いがあるかどうかについてもう少し自覚的な方がいいんじゃね? て感じ。


「沖縄にも沖縄人にもコミットメントない」のは結構なことではあるけれども、唯一「国家」にのみ依拠して「民族」を単位とする共同性の相を捨象されても。斯様な「共同性の相」になど「コミットメントない」のだろう。ただ。


「共同性の相」在ることは、そのことが「国家」において交錯しときに「国家」を貫いて直交することは、功罪は措き歴史的事実であり、かかる歴史的事実を、近代は近代である限りにおいて捨象し得ない。「共同性の相」とは、リアリティにおいて、「父祖たち」のことであり近親のことであり戦友のことであり、また「沖縄人」にとっては、一義的には、戦場と化した沖縄を生き延びた人たちと、死んだ人たちと、その子や孫たちのこと。


「はらから」として在る「同胞」概念は、選別の前提において残酷である。私は沖縄人ではないし、なりえない。その残酷に対して、国家が介するとき、かつ、共同性の相において構成された国家が公正であるとは言い難いとき。


コミットメントとは、自身に責の所在する不正を自身が自身であることにおいて否とすること。「日本国民」も「世界市民」も措く、「主語の範囲」を問うなら「私」でしかない。「ローゼンメイデンファンがローゼンメイデン愛を謳うことと同じことである」はずがない。愛は公共でないからこそ素晴らしい。


大屋氏の示す立場を「右より」と思われても普通に困るので、一連の南京事件の件を機会に言及した次第。むろん。法学者として、かく考えることは、妥当であるかも知れないとは思う。


――であるからして。現実の20世紀の虐殺に際して「民族」の話を持ち出す限りは、このくらいのことは最低限前提してください、「狩猟民族」とかそういうことではなく、というのが「オズ」氏が展開した「議論」に対する「フォロー」。近代において右曲がりである、ということは、レイシズムと親和的であるということ。親しいからこそ批判しなければならないのであるが。


Apemanさんの言の伝でいうなら、「罵言というのは相手の心にダメージを与えないと意味がない」「基本的には相手を怒らせるために使われるもの」であるからして、「お前レイシストか!」と言われて私が逆上し、「違うわ! レイシストとは誹謗もいいところだ!」なんて「言い返すことはありえないわけである」。「レイシスト」と言われたところで「ちっともこちらのハートに突き刺さってこないのである。」


率直に言って。左翼からレイシストと指摘されて動転するなら、認識が足りない。「イデオロギー」についても「レイシズム」についても思うのだけれども、知らないのだろうか。なら「フリー」だの「嫌嫌韓厨」だのと、歴史的な概念をもてあそぶべきではない。


夏目漱石に『満韓ところどころ』という「旅行記」がある。全集で読んだ。私は好きな作品だ。というか漱石なら何でも好きなのであるが。青空文庫に在った。関心在る人は参照願いたし。


夏目漱石 満韓ところどころ


レイシズムヘイトスピーチは、非文明的な野蛮人の行為と人は思う。否。それは近代の病であり文明人の桎梏であり陥穽である。ゆえに、近代の知識人においても払拭すること難くもある。「歴史的条件」の話ですらあるいはない。知ることは大事だ。「文明人」である私たちが、なぜ中国に「朝鮮」に対してときにレイシズムをもって応じるか。その来し方行く末について考えることは、南京事件を現在において考えることと、かかわりなきことではない。