muffdivingさんのアンサーに応えて/自分の苦しみの固有性


http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080108/1199805521


id:muffdivingさん。丁寧なアンサー、有難うございます。応えたく思います。

少なくとも。その人の「繋いだ手」になれなかった私には、望まれたにもかかわらず、なることを結局は望まなかった私には、望まれたがゆえのその人の、育ちと半生の告白と再三の愚痴を、一般論としてしか処理し得なかった私には、斯様な御正論を、自分がそのようにしたから、自分がそうであったから、という理由をもって、述べる資格はない。傍らで身体を寄せたその人に。述べるべきではない。


それは、単に、「自分がそのようにした」ことを、その結果在る現在を、すなわち、長じて「いい大人」になって、自身の手で、奪われた自身の生を、奪い返したことを、少なくとも自身がそう思っていることを、相手に示して「いい顔」したいだけのことでもあるのだから。


自身が自身の奪われた人生を誰かから奪い返したことを、すなわちニーチェの説く境地へと至ったことを、未だ「精神的に」「大人になれていない」人に対して、示したいだけのことであるから。


 まあ、そこまで穿った考え方はしてねえんだけどな。
 てか、俺自身、自分の生を奪い返したなんざ思ってもいないし。他人に対していい顔する気はさらさらねえんですが。てか、他人に対していい顔したいんだったらもっと言葉遣いも優しいわけで。
 根本的に他人に対して結構淡白っすよ、俺。「はてな村」の馴れあいなんざ糞食らえだと思ってるし。
 ただ、自分がこうやって切り抜けたってことを書き示すのは、切り抜けた奴の義務だとは考えてるけどね。それをどう受け取るかは読んだ人次第って話で。他人がどう受け取ろうが知ったことじゃねえよ。


「muffdivingさんは私ではない」と記した通り。muffdivingさんならざる「私」の話です。私が私自身をそのように「穿った」という話。ただ。muffdivingさんは、そのように考えることはないのか、とは、思っていた。それは。「私の話」において、私は、私なりに、「相手のことを考えて」「言いかけてやめた」、ということを意味します。私は。muffdivingさんが、「相手のことを考えて」言っている、と考えていました。


「hahsigotanのことを考えて発言する」つもりなど一切ない、という人はいました。私もブコメにて突っ込まれた。むろん無問題です。「この件について発言するならhashigotanのことを考えろ」などという抑圧があって然るべきではない。Masaoさんのことがあった当時、「Aさん」と後に判明する人に、私は何かトラックバックでDisられた憶えがある。おまえらはhashigotanのことを先ず第一に考えていない、と。それもそうかな、と思って普通に納得しました。

 その辺は俺も意識してるっていうか。所詮自分の生き方は自分の生き方で、他人の人生じゃねえし。俺ができるのは「俺はこうやって解決したよ」っていう方法論を書くだけで、別に他人にどうしろこうしろって説教する気はさらさらねえんだけどね。あくまでも自分の感情に基づいて、いいものはいい、頭にくるもんは頭にくるって書きなぐってるだけだし。書いた方法論をどうするかは読んだ人しか判断できねえわけで。


muffdivingさんが「説教する気はさらさらねえ」のは知っています。

 まあ、役に立ってりゃそこまでグダグダになってねえわけで。別に他人に何かを強制する気は俺にはねえっすよ。


「他人に何かを強制する気は」ないことも、知っています。

「私が私であること」に上下や貴賎はない。個人が、幸せを求めんと、自身の欠落を埋め幸を得んと、その人なりに苦闘することの、「その人なり」であることに対して、その、傍からは愚かで滑稽にも映る苦闘に対して、上下や貴賎を付けられる人間は誰もいない。仮に愚かしかろうとも滑稽であろうとも、それが私的な模索である限りにおいて、傍において非難されるべきとは私は思わない。軽蔑されるべきとも。


 別に俺は貴賎付けてる気はさらさらねえんですがね。


「上下や貴賎を付ける」というのは、価値判断含めた論評を行う、ということです。

クズは居るし外道は居る。質の悪い手合いは居る。「気を付けろ」とは言える。言うだけは。その人の人生に他人は誰も責任を取れない。そのことは本人も承知して、そのうえで私的に苦闘している。苦闘の過程をネットで「その人なり」に公開することは、本人の勝手。その人の私的な人生に対する姿勢を、嫌いな言葉であるが「生き様」を、それが公開されていることを理由に、頼まれもせず公にジャッジメントすることは、少なくとも「大きな御世話」ではある。私も同様ではあるが。


 俺の意見は、この辺はちょっと違うんじゃね?と思いますね。
 自分で好き好んで公開してるわけで、それについて外から何言われても、「公に公開してる以上しょうがねえ」というスタンスです。俺。公開されたくねえ、言及されたくねえんだったらSNSがあるわけですし。
 少なくとも俺はそういう使い分け方をしてますね。公に晒すってことはそれだけのリスク抱えてるわけで。

私がそのようにしたから、し得たから、他人にそれを言える、ものではない。少なくとも、言うには資格が要る。「ネガティブ」な人に、その心的構造の事情を了解してなお、自分も「ネガティブ」であったが幸を得んとするなら前向きに生きるよりほかない、と、私的なかかわりもなく言う資格は、ない。資格が要ることを、親密圏のさして機能することなきブロゴスフィアにおいて人は忘れるのだろうか。


 じゃあ、何もいえないわな。俺は公開した以上言及があるのは当然っていうか、文章を誰もが見ることのできるblogにアップした時点で、文章は一人歩きするわけで。言われたくなきゃ晒さなきゃいいだけの話っすよ。
 てか、俺は奴がやらかしたことについてトラウマは言い訳にならねえって終始一貫して書いてるんだけどね。
 別に誰かに何かを強制しなきゃいいだけの話だし、俺は強制してねえけどな。


この点については。ブコメにも在りました。

2008年01月08日 b:id:kameda007  抜けているのは「公開している」ということだと思う。公開するのには、少なくても「意思」が必要だ。公開したものを目にした他人がどうするかは自由であり、反論も誤解も簡単にそこから生まれて当然。資格など


いうまでもないことです。相互言及の自由。Webの大前提にして大原則です。「むろんWebにおいてそのことは無問題」と記した通りに。「資格」とは何か。私は、他人の色恋沙汰に対して傍から言及するな、とはまったく言っていないし思わない。当たり前。


「禁止」「命令」などできるはずがないし、「褒められないこと」とも別に思っていない。「大きな御世話」を私は幾度もやっている。「hashigotanのことを考えない限り」傍から言及するべきではない、とも言っていないし思わない。私が言っているのはそういうことではない。


「正論の暴力」という話があった。私はそれに類することは記していない、が、かかる言辞において、何が問題とされているかはわかる。


個人の人生の問題を一般論に拠って処理するべきでない、ということです。

てか、俺は奴がやらかしたことについてトラウマは言い訳にならねえって終始一貫して書いてるんだけどね。


そのことも知っています。そして、そのことについてはいうまでもなく私も同意します。「正論」です。そして、Masaoさんの言挙げは措き、かかる「正論」が暴力として機能する、ということではない。私は「正論」という言葉をネガティブないし皮肉な意をもって用いているのではない。


正論とはなんぞや――「どうかと思う」とのこと - 地を這う難破船

――id:tasoiさんへ(社会性と共同性とか) - 地を這う難破船


――「公開した以上言及があるのは当然」。


muffdivingさんが記し「公開」している、muffdivingさんの「数少ない大事な人間」とmuffdivingさんとのかかわりについて、たとえば「どっちもどっちだよな」、とか、私が「言及する」ことを、私は「喧嘩を売る」とイコールと認識します。むろん、当該のエントリを読んで、そのようなことは私は思わない。では、他なる内容なら、率直に論評を記してよいか。自己規制に過ぎませんが、原則、私は否とします。「私事」である限りにおいて。「大きな御世話」であるからです。


私は、年末、自分がブログに記したことについて、おまえは淫行条例違反の犯罪者か、とリアル友人の問い合わせを受けましたが、ネットの、リアルについて知らん誰かから「言及」されたならスルーします。そして。「トラウマ」も、経験則も、言行の「言い訳にはならない」。


記したような私の私的事情を示して、他人に対して「俺の苦しみがお前にわかるか」と問うても、わかるわけがない、それこそリアル友人であろうとも。わかることは「苦しいのはお前だけじゃない」という認識。だから、言わない、私も含めて、多くの人は。他人に対して、自分の苦しみを、自分が意識せずとも不可避的に拘泥してしまう自身の心身の事情を、徒にぶちまけたりはしない。


それは、はたして善きことなのか、という疑問が在る。自身の私的な心身の苦しみを、外側から見えない限りにおいて、人は呑むべきなのか、と。そうではない。自身の私的な心身の苦しみを、外側から見えないその苦痛と孤独を、人は、せめてネットにおいてぶちまけるべきだろう、少なくとも、その営みが抑圧されて然るべきではない。


私は、一貫して、そう考えている。だから「チラ裏」を肯定したし、「オナニー」を肯定したし、最初の言及記事から、一貫して、「擁護」を示してきたし、個人の、私的な、小さく隠された人生を、声を、悲鳴を、個人であることにおいて、映し出すブロゴスフィアに、そして彼の人のブログに、惹かれてきた。というのは私の事情だけれども。


個人の人生の問題を一般論に拠っては処理し得ないこと。そのことに、hashigotanをめぐる、一連の件の要点が在る。


hashigotanが「想像力が欠けている」とするなら、すなわち「相手の立場に立って考えることができない」とするなら、それは、hashigotanにとって、自身の人生は、自身の「欠落」は、自身の「欠落」に規定されて在るとする自身の人生は、置換不可能であるから。そして。いうまでもなく、置換不可能です。


「この私の不幸」は「この私の不幸」でしかない。むろん、それは特権的なものでもない。「この私の不幸」は「この私の不幸」でしかなく、それ以上でも以下でもなく、そして決定的であり動かし難い。「正論の暴力」とは何か。任意の個人の「この私の不幸」に対して、自分自身の、あるいは他なる人の、「この私の不幸」をもって、任意の個人の「この私の不幸」を相対化してしまうこと、結果的にも。


hashigotanの「この私の不幸」に対して、その言挙げに対して、示し得ることは、「苦しいのはお前だけじゃない」でもなく、自分自身の、または他なる人の「この私の不幸」でもない。少なくとも、それは、役に立つ立たない以前に、回答ではない。


「奴がやらかしたことについてトラウマは言い訳にならねえ」という指摘や、その「やらかしたこと」の内実についての批判。「想像力の欠如」や罵倒癖や言論におけるダブルスタンダードに対する突っ込み。それは妥当と私は思うし、まして「正論の暴力」とはまったく思わない。


「正論の暴力」とは。「この私の不幸」という固有性を、「苦しいのはお前だけじゃない」という一般論へと解消してしまうこと。欺瞞のもと、「この私の不幸」という固有性を、公的に抹殺してしまうことにおいて、「暴力」であるということ。


「苦しいのはお前だけじゃない」は正論ではあるけれど、一般論でしかない。そして、個々人の人生は、その固有の問題は、欠落は、一般論として解き得るものではない。「この私の不幸」という意識は、一般論に解消し得ない。


他人が抱える「この私の不幸」という固有性の意識など、他なる固有の人生の問題を欠落を、「この私の不幸」を、抱える自分にとっては、関係なく、知ったことではない。そのように考えるなら、言及するべきではない、とはむろん言えないし思わない。しかし。


当人が示す「この私の不幸」に対して、自分自身の、あるいは他人の「この私の不幸」を示すことによって、当人の「この私の不幸」を相対化し、また「苦しいのはお前だけじゃない」という一般論として解消してしまうことが、当人にとって「暴力」として機能することを、知らないなら、あるいは、「暴力」として機能させないための私的な関係性の模索を志向するのでないなら、それは、「資格」がない、ということ。


――hashigotanは、その「暴力」だけは、決して振るっていません。本人の認識のうえにおいて。換言するなら、「そういう気はない」と、いうこと。


「他人が抱える「この私の不幸」という固有性の意識など、他なる固有の人生の問題を欠落を、「この私の不幸」を、抱える自分にとっては、関係なく、知ったことではない。」とは、幾度も記しています。そして、そのことをもって、多くの人は、hashigotanを「想像力に欠ける」「相手の立場に立って考えることができない」として、年齢にもかかわらず「大人になれていない」として、批判、否、非難してきた。私はそのように認識しています。斯様な状況に対して、そもそも私は批判的でした。


むろん、「暴力」を行使したかった、ということならわかるし、そう公言した人もいた、私は過去の経緯を知るので、そのことはわかる。ただ。muffdivingさんは。一連の事態が「気になった」ことにおいて、私と同様と思っていました。私は、この件については、muffdivingさんと個別には見解の一致する点(精神科受診についてや「メンヘラ」と接する際の心構え等)がいくつもあった、けれども、立場が相違したゆえ、言及しなかった。


固有の「この私の不幸」という意識は、置換し得ないし、自身の固有性を、人生の置換不可能性を、意識において規定する。いうまでもなく、それは「自分は特別」と考えることではない。「苦しいのはお前だけじゃない」とは、個々人が個々の固有の「この私の不幸」という意識に規定される、ということ。かかる意識が、個人の孤独を規定する。


ニーチェが説いたことは、固有の「この私の不幸」をこそ肯定して自身の生を自身のものとして生きよ、ということ。「苦しいのはお前だけじゃない」と一般論を示して、固有の「この私の不幸」を条理へと還元してしまうことを「弱者の論理」と彼は言った。


hashigotanは、はてな村の「注目の的」かも知れないし、また他人を敵味方として判断するかも知れない、けれども、少なくとも「馴れ合い」を好んでいる人ではないですよ。彼の人は、「共感」を求めたとして、その不可能性を知っている。自身の固有の「この私の不幸」という意識において、孤独しかありえないと。それこそ一般論として、その通りです。


「想像力」「相手の立場に立つ」というけれども、それは、多く「共感」を前提/基盤として成立する。そして、あなたが笑えば私も笑う、世界も笑う、あなたが涙すれば私も涙する、世界も涙する、という類の――それは素晴らしいと皮肉でなく思うしむろん私もそれに拠って立っているけれども――「共感」が、個人の固有の「この私の不幸」という意識に拠る孤独を覆い隠し得るわけではむろんなく、そもそも両立する。本村洋氏に対して、私たちが容易く「共感」し得ないことと同様に。


そして。「共感」が、個人の固有の「この私の不幸」という意識に拠る孤独を、覆う世界において、はたしてかくあってよいか、という問題意識が、私をこの件へとかかわらせてもいる。それがなければ「手を引いて」います。


私は「幼児期に性的な虐待を受けた」ことはない。私はそのような女性を実際に知るし、muffdivingさんも知るかもしれない。あるいは。私が知るその女性は、頭割られたり、半殺しにされたり、刃物向けられたり、追い込みかけられたり、したことはないかも知れない。「幸福にも」。そして。そのいかなる事実も、誰の「この私の不幸」も、hashigotanの、そして私や他なる人々の、「この私の不幸」という固有性を、補完することはない。できない。


解放されたアウシュヴィッツの被収容者が、あるいはベトナム帰還兵が、事後抱え続ける固有の孤独とは、また自身の固有の不幸を孤独を他に理解され難きものと見なすことは、そして「外側から見えない」それを表出することなく呑むことが珍しくもないことは、固有の「この私の不幸」という意識の作用の、明瞭な極として在る。社会や政治の問題としてのみ問い得ることではない。そして。


アウシュヴィッツの元被収容者が抱える「この私の不幸」という意識に規定された固有の孤独をもって、他なる「この私の不幸」という意識に規定された固有の孤独を、云々し得るものではない。「この私の不幸」という孤独は、個を単位として隔絶して在り、定量化も容易な相対化も、むろん量を質へと転化させることも、できない。


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上記映画において、同じ戦場の同じ場所にて同じ地獄を体験した同郷の戦友たちにおいてすら、彼らが個々抱える「この私の不幸」という固有の孤独は、シェアされることも共有されることもない、結局のところ。「体験しなかった者たち」のそれと、個々の隔絶において変わることがない。

 つーか、虐待受けてる奴って、オマエさんだけじゃないって。自分の苦しみばかり特別だと思うなって。


「虐待受けてる奴って、オマエさんだけじゃない」です、むろん。でも。「自分の苦しみ」は「特別」です。誰にとっても、本人にとっては。その「特別」を誰も他に強制できないことを含めて。個人にとっての苦しみの「特別」が、かかる「特別」を他に強制し得ないことが、個人の内的な固有性を、ひいては個をかたちづくる。誰においても。


hashigotanの「俺の苦しみがお前にわかるか」は、「わかりえない」ということを示すために、言挙げされている。「自分の苦しみを特別と扱え」とは、hashigotanは言っていない。「自分の苦しみの固有性と、それに由来する自身の個を尊重しろ」と言っている。対するに、「虐待受けてる奴って、オマエさんだけじゃない」と記すことは、hashigotanの、その苦しみの固有性を、ひいては個を、剥奪し抹殺することと同じことです。hashigotanがhashigotanであることを、奪っていることと同じこと。


私が思うことは、そういうことです。


かつての子供たち - 地を這う難破船