「その人なり」であること。


http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080105/1199631962


http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080107/1199717545


最近の経緯は知っている、特にコメントはない。他人の色恋沙汰を囃しても何も出んだろう。現在進行形であるならコメントのしようもない。言及する気もなかった。ただ。上記記事の応酬については、思うところがある。正直なところ。muffdivingさんとはやりあいたくはない。好きだから。


自分語りを改めてするべきだろうか。折に触れ散々書いてきた。サバイバーであることそれ自体が発言を保障するわけではない。むろん。被虐待経験者が被虐待経験者として、性暴力被害者が性暴力被害者として、公に発言する権利はあるし、その権利は断固守られるべき。そして。id:hashigotanにおいて、その権利が侵害されているわけではない。


私は、自身の性的嗜好の他者毀損性を知ることにおいて、公の発言を志向することがある。男女関係における自身の罪の意識が、私の公的発言には基底として在る。私が、hashigotanが示し、反響を呼んだ、言説としての問題提起に対して、かかわったひとつの理由。むろん、読者であったこともある。


事態の推移において、領分を逸脱したことをシマッタとも思った。だから。言説の問題としてのみかかわらんと再度線を引いた。個人が、幸せを求めんと、その人なりに苦闘することに対して、何を言っても詮無い。私信を幾度も送り実際に会わんとする人物のほうが、無鉄砲であれ真摯であるかも知らんとは思う。ひとのことを言っているのではない、ブロゴスフィアが個人の私的な生に幸を与えるかも知れないことを、私は、信じてはいる。


自分の私的な人生はかくかくであった、かかる人生に規定された自身の私的な価値観はしかじかである。そのことを特定個人の私的な人生と、人生に規定された個人の私的な価値観に対して、当為命題として示すことの、不毛とは言わないが、限界を、私は、思う。私自身の私的な人生から、人生に規定された私的な価値観から、思う。


個人の私的な不幸は、本人にとって、相対化不可能であり交換不可能である。私は長らく不能で、私はそもそも直接的な性行為には関心がないから構わないけれども、ひとがそれを求めたときに応えられなくなってしまったことは、そして私がひとに対して自身が求めることを求めてはならないことは、ときおり悲しく思う。そのことを、私は別に不幸とは思わない。


30の齢は近い。15年かけて、他人との性的なかかわりのなか苦闘し諦め続けて、慣れた。かかる私の私的な事情が、私の価値観を幾らか規定していることは、否めない。他人と共に生きることを志向せず、他人に深入りすることのない、自身の人生において、肌を合わせることに類する幸福を、幸福と見なし得ない、その価値観を。


私は。斯様な私の私的な事情と来歴において、かつそれに規定された自身の私的な価値観において、hashigotanに説けることが何かあるとはまるで思わない。私は男であり、コミュニケーション欲求の低い人間ではあるが「非モテ」とは言い難い。他人と直接的な性関係を持つことを不可避的に規制しているに過ぎない。かかる事情が私自身の女嫌いの因であることは事実であるが。


性関係ないし恋愛関係において、双方がフィフティ・フィフティであることなどないし、「対等に尊敬し合える性関係/恋愛関係」というのはない、と私は考えるけれども、否とする人は在るだろう。任意の、あるいは私的な一切の、人間関係において「かくあらんとすること」は、当為命題として示すことは、むろん無問題であるし、肝要なことだろう。当事者間の前提的な合意が存するなら。


対人関係においてその距離感においてノンバランスであることをもって非難に該当することとは私は考えない。非難し得るのは、当事者として在る、リアルな人間関係の所在する者だけだろう。換言するなら「大きな御世話」である、ということ。――そうした認識はあるのですか。hashigotanに対して「先に言及した」のは、muffdivingさんだった。常に、一貫して。


むろんWebにおいてそのことは無問題。ただ。muffdivingさんは、hashigotanに対しては、「自分はこう思うし、そうしてきたし、だから現在の自分が在る」と記す。muffdivingさんにそうした意図在ったのなら――それは、少なくとも「hashigotanに対しては」役に立たない。


サバイバー。muffdivingさんが自身をかく規定しているなら。私も「サバイバー」だ。仔細は省く。いまは元気もない、ネットで「柄の悪い」言葉遣いや振舞いはしない。というかできない。御行儀よく慇懃無礼に偽装していたら、ヤンキー嫌いの善良な市民、とか、想定外の誤解をかつて被ったので書くことにした。


誰しも「サバイバー」であるかも知れない。そもそも誰しも「苦労人」です。「その人なりに苦闘」している。そして。個々人の不幸は苦労は苦闘は、その人のものでしかない。

自分に女が居なかったらどうか
女を抱ける体がなかったらどうか
考えてみてくれよ


俺はそれでも薬を飲まずに生きているんだ
苦しいんだ
この地獄の苦しみがわかるか


幼稚園児で虐待を受けて
昆虫のように扱われておまんこを虐められて
その苦しみを引きずりながら
誰の胸にも飛び込めないまま孤独に生きる俺の苦しみが
女を抱けるお前にわかるか


私には。わからない、としか言えない。それ以上のことは言えない。わからないのだから。かつて記してきたことを仔細なエピソードに及んで改めて記せばよいのだろうか。「苦しいのはお前だけじゃない」と。


muffdivingさんが、他人の発言を批判する際に、発言者の「生き方」「人生」「リアル」に絡めて批判することがある。私はHipHopのことは詳しく知らない。修辞と思っていた。そうではない。


むろん。リアルなダチなら、あるいは知人なら、つまり対面の成立する関係にある相手なら、そうした「意見の提示」は、「助言」としても、可能だろうし、私もやることがないでもない。でも。hashigotanは、そうではない。にもかかわらず「生き方」に「人生に対する姿勢」に指摘は批判は及ぶ。再三。それは。何かしら「気になった」からと思うし、ゆえに私もかかわった、こうして再三。みな「気になって」いるから、現在も一挙手一投足が注目を受けている。たぶん。そのことに、一連の件の、要点が在る。


異なる話であるけれども。


そこが微妙なところだろうな - finalventの日記

 弾さんみたいに社会的な成功者、というか内心は違うだろうし、その内心の部分で私なんかと共通的な世界観や人間観はあるだろうと思う、そういうスタンスからは、それは、なんというか身内的な近さのある人への言動としては有効かもしれない。
 でも、公的な場への言動としてはほぼ無効なのではないか。
 そしてそうした無効さが、反面では歪んだかたちで成功のノウハウのようなものに固まりつつある。


11月に、次のような議論を示した人が在った。「欠落」を、その「不幸」を、数量化し得るなら、自身ならざる「欠落」を有した、自身より「不幸」な人は幾らも在る。世界において、歴史において死者において。斯様な認識のフィードバックにおいては、自身の固有の欠落を不幸を唯一的なものとして見なし、示すことは難しい。


私の見解において、それは、間違っている。


自身の固有の欠落は不幸は自身にとって唯一的であり、私的な欠落において不幸において自身の人生とは相対化不可能にして交換不可能であり、かかる唯一性が相対化不可能性/交換不可能性が、個人において、世界の不条理の感受として在る。対するに、条理をもって応じることが、少なくとも当人にとって意義あることか。


私は、ネットの言論において、メンタルな議論をしても詮無いと考える。「精神的に調子悪いんじゃね」的な言挙げは。世界の不条理が個人の私的な生とその唯一的な欠落という不幸の相において現れるとき、そのことを示す言行に対して、「私の生」「他人の生」をもって、その固有の欠落を不幸の相をもって、相対化し交換可能なものと偽装することは、少なくとも当人にとっては、残酷なことだ。


私はニーチェは好きだ。が、ニーチェの説いたようには生き得ない人が、すなわち、決定的かつ唯一的な欠落を不幸の相を基点として、「ありえたかもしれないほかなる人生」を、他人の生に対して見出す人が、在るとき、ニーチェを当人に対して説く類のことは、すなわち、人生にリセットボタンがないことを受け容れて自身の一回性の人生を誰のものでもない自分自身のものとして生きよ、とは、言えない。私自身が、そのようにして生きているとしても。


私はmuffdivingさんではないし、muffdivingさんは私ではない。私もヤンキーな質は残る、失うものなきことはいうまでもない、が、愛する者が奪われたなら報復も辞することない、という発想は一貫してない、そのことが、私をかつてのダチや仲間内から遠ざけ、孤独にもした。否、私は最初から孤独で、孤独を何より愛する離人的な人間だった。私は、そのようには人を愛せないし、愛せなかった。失うものがないのも当然のことだ。それは私の欠落であり不幸であるかも知れないが、私にとってはどうでもよいことだ。それが、私であるからだ。


id:REVさんに御返事(自身の立場と感情を括弧に入れること) - 地を這う難破船


「私が私であること」に上下や貴賎はない。個人が、幸せを求めんと、自身の欠落を埋め幸を得んと、その人なりに苦闘することの、「その人なり」であることに対して、その、傍からは愚かで滑稽にも映る苦闘に対して、上下や貴賎を付けられる人間は誰もいない。仮に愚かしかろうとも滑稽であろうとも、それが私的な模索である限りにおいて、傍において非難されるべきとは私は思わない。軽蔑されるべきとも。


クズは居るし外道は居る。質の悪い手合いは居る。「気を付けろ」とは言える。言うだけは。その人の人生に他人は誰も責任を取れない。そのことは本人も承知して、そのうえで私的に苦闘している。苦闘の過程をネットで「その人なり」に公開することは、本人の勝手。その人の私的な人生に対する姿勢を、嫌いな言葉であるが「生き様」を、それが公開されていることを理由に、頼まれもせず公にジャッジメントすることは、少なくとも「大きな御世話」ではある。私も同様ではあるが。


昔。「運がなかった」と傍らで繰り返す人の、自身の相対化不可能/交換不可能な人生に対する愚痴、を聞きながら、思った。言いかけてやめた。


自分の人生が誰かに――その人にとっては幼き自らを虐待した親であった――奪われたと思うなら、奪われ続けている、いまなお「本当の人生」を自分は生き得ていない、と感じるなら、「運がなかった」とこの私に愚痴を言うより、長じて「いい大人」になった、自身の手で、誰かに奪われた自身の生を、「本当の人生」を、奪い返せ。それしかない。私がそうしたように。ミスチルも歌っていた。腐敗のムードをかわして明日を奪うんだ、と。


いまは、そう思わない。そのように思った自分の浅慮を思う。その人の「人生を奪った」とされるその人の親は、音信不通であるらしかったが、そのようななことではない。


Mr.Childrenの詞は、直前にかく歌われる。――繋いだ手を離さないでよ。


少なくとも。その人の「繋いだ手」になれなかった私には、望まれたにもかかわらず、なることを結局は望まなかった私には、望まれたがゆえのその人の、育ちと半生の告白と再三の愚痴を、一般論としてしか処理し得なかった私には、斯様な御正論を、自分がそのようにしたから、自分がそうであったから、という理由をもって、述べる資格はない。傍らで身体を寄せたその人に。述べるべきではない。


それは、単に、「自分がそのようにした」ことを、その結果在る現在を、すなわち、長じて「いい大人」になって、自身の手で、奪われた自身の生を、奪い返したことを、少なくとも自身がそう思っていることを、相手に示して「いい顔」したいだけのことでもあるのだから。


自身が自身の奪われた人生を誰かから奪い返したことを、すなわちニーチェの説く境地へと至ったことを、未だ「精神的に」「大人になれていない」人に対して、示したいだけのことであるから。


私がそのようにしたから、し得たから、他人にそれを言える、ものではない。少なくとも、言うには資格が要る。「ネガティブ」な人に、その心的構造の事情を了解してなお、自分も「ネガティブ」であったが幸を得んとするなら前向きに生きるよりほかない、と、私的なかかわりもなく言う資格は、ない。資格が要ることを、親密圏のさして機能することなきブロゴスフィアにおいて人は忘れるのだろうか。