「のりしろ」のない社会と「帰るところ」のない世界


http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080116k0000m040171000c.html

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痛いニュース(ノ∀`) : 「ご飯が食べたい」 空腹のホームレス、市役所で非常用の乾燥米を渡され死亡 - ライブドアブログ

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ディテールがわからないことにはなんとも言えない。事件は会議室ではなく現場で起きている、とは、状況の処理は文脈依存であり原理原則の問題ではない、ということだろう。関東軍もそういうことを言ったらしい。善意が善へと帰結せず悪意が悪へと帰結しないことにおいて、善意の有無を問うは空しい。


社会的な最適化、ひいては、社会的存在としての最適化の結果だろう。現行において社会的存在のスペックに「人間性」は含まれない。ホームレスはホームレスでしかない。他なる認知のありようもない。私は鼻が馬鹿であるから匂い全般がわからないのだが、臭い、というのは厭われるものらしい。マザー・テレサであることをこの社会において自他に対して求めることはできない。


日本にはカトリック的な共同体が広くは無く、地域共同体を離れた寄る辺も帰るところもなき都市生活者の互助組織が育まれることもさほどなかった。東京の街は人間はいうまでもなく排他的である。リリー・フランキーの『東京タワー』に描かれたような世界は人たちは意識は、そこら中に在った。


私の両親もまた、高度経済成長期に地域共同体を離れた寄る辺も帰るところもなき団塊世代の都市生活者であったが、彼らの友人知人の、同じ境遇の者に、創価学会員は多かった。両親は、左翼と、プロテスタントに馴染んだ人、であった。私の育った公団には、いうまでもなく学会員が多かった。両親は学会的な濃密な人間関係を厭っていたが、また折伏と選挙の時期を疎んでいたが、学会を、またそこに帰属する人を、そのことを理由に、両断することはなかった。


親族とのかかわり薄く地域社会なく互助組織なき東京の片隅にて根無し草として育った私は、いかなるコミュニティにも帰属し得ない典型的な近代個人主義者となった、が、それは、私が「強い」からではなく、また経済的に恵まれていたはずもなく、典型的な核家族の中で不仲な両親の孤独を見て育ったからでもなく、単に、そのようにしか生きることができなかったからだ。意志は、決定事項の反照として現れる。


昨年のことだが、観た。オタール・イオセリアーニは贔屓だ。1934年生まれ。


http://sachiari.jp/


イオセリアーニに乾杯!

イオセリアーニに乾杯!


楽しく素敵な映画であった。不自由な近代個人としての自らを悲しくも思った。別に酒が好きでないからではない。亡命者イオセリアーニは筋金入りの反国家主義者である(一方、喪われた祖国グルジア=ゲオルギアに対する筋金入りの愛国者でもある)。誰しも祖国なき亡命者であると彼は規定している。ゆえに、歴史的な文化伝統に支えられた個を単位とする文化的な連帯こそグローバルな世界においてクリティカルに政治的である、と説く。つまりは、旨い酒が飲める奴は、その教養ある奴は、みな友であり同志であると。しかし。教養とは歴史的な文化伝統の背景と存続なくして育まれるものでないと。「野蛮人」をこそ彼は厭う。


現代社会において、社会的存在として最適化されることそれ自体を、歴史的な文化伝統に拠る教養在る筋金入りの政治主義者イオセリアーニは否とする。グローバルな世界を国家を否とするのは共に旨い酒を飲める同志との連帯であると。つまり、彼は「現代社会」それ自体を否としているのだが。


「社会的存在としての最適化」が「小さな政府」を志向し新自由主義を志向する。小泉という人は好きであるがその政策は大筋では支持しかねる、と私はかつて書いた。「社会的存在としての最適化」が及ぼす帰結を前提しなかったはずがない。所謂自己責任論が典型であるが、経済の問題は容易に社会の倫理規範へと及び、政府の施策の問題は容易に個人の生活信条へと及ぶ。


小泉純一郎は一流のイデオローグであった。「社会的存在としての最適化」に際して郵政公社は無用の権益の長物であった。彼は国家主義者でも愛国者でもなかったがゆえに、国家をこそ「社会的存在として最適化」、すなわち適正化せんとした。国家は社会より小さい、かくあるべき。


「社会的存在としての最適化」を政府は規範的に奨励した。そして、話は転倒するのだが、私は「社会的存在としての最適化」を是とすること、社会規範についても国家についても同意である。私もまた。国家は社会より小さい、かくあるべき、と考える。国家が国家であることの自己意識を国民に対して規定するべきではないと考える。なので、かつての小泉参拝の問題化自体に関心がないといえばない。


他なるフォロー一切なく、「社会的存在としての最適化」志向が、長期政権の政策として全面的に浸透した結果、到来する事態については。前提しえた。かくて。「歴史的な文化伝統」の復権を主張する後継政権が後始末に当たるも、「国家が国家であることの自己意識を国民に対して規定する」ことのスターリニズム性が、「社会的存在としての最適化」という新自由主義の洗礼を十分に受けた国民に受け容れられるはずもなく、安倍政権はその国家主義性ゆえに瓦解した。そして政権政党は原点回帰した模様。


私は市民主義者ではある。反国家の個を単位とする連帯を志向するなら、蟷螂の斧であれ、イオセリアーニの説くスタイルしかない、とは思う、が、現代社会は日本人は反国家志向であり、かつ、歴史的な文化伝統のその批判的/批評的な政治性は知ったことでない、とする。橋本治の『ひらがな日本美術史』とか読まれているのか。


ひらがな日本美術史 7

ひらがな日本美術史 7


そして。一国単位の設計主義は、ヒトラー政権ではないが、経済や国民生活が向上する類の御利益なき限り、民主主義下の国民に現実に唾棄される。安倍政権が終わったように。振り返るに、かの郵政選挙とは、一種の文化大革命であった、と飛躍を承知で私は思う。


社会的存在としての最適化が是とされる社会において、国家に帳尻を回すことは、簡単ではあるが、矛盾だ。社会的存在としての最適化が是とされる社会において人は「市民」として日常を生きているのではないし業務を処理しているのではない。「最適化」と合致しないからだ。「市民」が一義に抽象観念である限り、社会的存在としての最適化の解が「市民」でないことは違いない。世界の選択、否、社会の選択である。


先日、というか、しじゅう見かけるが、帰宅時の電車内にて「非常識」な言行に及ぶ「臭う」人物を誰も「市民」となど認識しないし、私たちとて「市民」であるはずもない。「市民」観念を解除してなお誰しも「人間」である、とは言える。「市民」観念を解除して問うことが「例外状態」に際して要請される。つねこれ例外状態なのである。


バズワードを故意に用いるなら。「人間力」。


制度は「のりしろ」の所在を前提して敷設される。「のりしろ」とは、狭義かつ端的には、人的な応接の余地。臨機応変とは、融通無碍とは、制度を文脈依存的に恣意的に運用することでは必ずしもない。制度の、原理原則の、「のりしろ」を、人的な応接が埋めること。応接の拠り所は、かつて広義のコミュニティであり共同体意識であった。


丸山眞男的な意において「市民」であることは人的な応接の拠り所として難い。既に。祖国なき亡命愛国者のイオセリアーニは「市民」概念を信じていない。かつ、イオセリアーニが描くヨーロッパにおいてフランスにおいて「市民」概念は既に機能することない空理空論でしかない。「個人」概念もまた。イオセリアーニの世界観において、としてもよい。


人間は「民族」を捨象し得ない。「国家」を信じ得ない政治的な亡命者が「市民」概念を信じないことは、至極妥当だ。イオセリアーニをリスペクトしイオセリアーニがリスペクトした、共にソ連から亡命した同世代の監督、亡きタルコフスキーがそうであったように。


「人間であること」とは。その力とは。すなわち。グローバルな世界と国家において制度の「のりしろ」を埋め社会的な最適化の原理を横断する資質は。丸山的な「市民」であることにおいて、またコミュニティの共同体の構成員であることにおいて、担保されない。人間を、そのスペックにおいて「普遍」として捉えたとき、歴史的な文化伝統の個を単位とする所在が、すなわち教養が、担保する、とイオセリアーニは言っている。いうまでもなく差別的でもある。文化は文化である限りにおいて差別的である。――であるから。


国家が社会に適正化されたとき、人間が「人間」をいかなる単位において「普遍」として定義するか。ホームレスはホームレスでしかない、も、ホームレスは人間だ、も、同じこと。「普遍」なきとき、一切は「差別的」だ。「普遍」が抽象観念として、主義としてしか、成立しなくとも。国家が社会に適正化されたとき、かかる「国家」に要求して詮無いとき、問われることがある。人間性の普遍は「個人」において内在的には問われない。


近代個人としての私は、端的に共同体を否として国家を介して個人として生きた。友人から本を借りるより図書館から本を借りて年少の時を過ごした、ということ。本を読む友人自体が当時は少なかった。恋人に看病されるよりは国民健康保険に頼ったということ。


長じる頃、既に国家が「頼りにならない」こと明白であった。国家を介することなく、コミュニティに帰属することなく、「個人」として生きる、という無理筋をいまなお続けている。私のように意識することなく、その無理筋を続けている私と同世代の人間が、膨大に在ることはいうまでもない。


私は資質においてコミュニティに帰属し得ない、決して。自身の近代個人性を不自由と思う。斯様な不自由な、国家を介することなくコミュニティに帰属し得ない、『東京タワー』に描かれて在るような、現在の「近代個人」が、寄る辺なく帰るところなく資本なく経済的保障なき自身の生を不本意とするなら、その責は国家に所在するのでもむろん当人に在るのでもなく、歴史的必然に規定された私たちの社会にこそ在るのだろう。地獄を見に行く以外にない。