「公共」というキルトは「世界の選択」を包摂しない

2008年09月20日 b:id:zzz029  自由に生きる(死ぬ?)権利と、人間らしい生活を与える義務の対立?

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――「対立」はしていません。両立しうるということです。


ブックマーク経由で拝見しました。


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私がよく利用する地域図書館の玄関にも張ってありますよ。記憶する限りだいぶ以前から、その近隣にあるもうひとつのよく利用する図書館についても同様。同一の自治体の図書館ですが。ちなみにどちらでも洗面所で歯磨き髭剃り洗髪している人は利用するたび見る。むろん同一人物ということではない。しじゅう色々な人がいる。私が利用し始めた数年前からずっとそう。そういう人を見なかったときはない、と言ってさして誇張でもない。別に山谷の近くではない。


毎度のことであろうがなかろうが私は気にも止めないし気にもならないので、また私に事情あるように人には事情あることを知っているしその事情が心ならずも結果的に可視化される人もあることを知っているので、加えて消化吸収器官の稼動に難ある私は内臓方面から些か臭っていることが多い、らしいので(面と向かって指摘するのは交際相手と親族くらいで、つまり私的かつ直接的な接触多く遠慮なく親密な間柄ということになっている/いた者くらいだが)、そうした光景に顔をしかめる利用者があることが、発端となった報道を拝見しても実のところよくわからなかった、が、私は自分の鈍感を知っているし両津勘吉並みに無頓着な野郎の単身生活も長く女の部屋に寄ったり居ついたりするたび内臓がアレなのだからもっとマメに下着洗えとダメを出され、そして何より嗅覚が無きに等しいことを知っている。ちなみに、私が利用するその図書館の洗面所には大きな張り紙も張ってある。トイレットペーパーを持ち帰らないでください、と。


私の事情は衣服に衛生概念に挙動に反映されないということ。物理的な事情については言うまでもなく、精神的な事情が衣服衛生挙動に反映される人はいて、それを普通は病気と精神医学は規定する、雑に言うなら。私も不眠症と鬱とクスリやらかしてバロウズライフだった頃は風呂シャワーどころではなかったし――外出もろくにしなかったが。マジで一日中カウチに沈んで動かず脚のつま先眺め続けて日が暮れ夜が明けた――精神的な事情が直截に行動に反映されがちな年頃には狂人扱いもされていた。不当な扱いだったとも思わない。


「あぁ」で済ませてそうした事柄を「私たちの図書館」における大いなる問題と思わなかった私の発想はあまりにも悪い意味で「民間」的なのだろう。つまり、人を見たら泥棒と思うのは民間の常識なので――府知事という行政府の長がこのところ連呼しているように。そして自分が「直接」損しない、いや、損した気分にならない泥棒の事情は察してやるのが人間の良心であり大人の度量であると思い込んで日々の人でなしの罪滅ぼしをしているつもりになるので。痛みも負担もなく。ライブラリアンに付される業績評価を鑑みることもなく。


私はid:rajendraさんのライブラリアンとしての文字通りの正論に同意するけれど、「図書館ホームレス問題」として言挙げされたそのことを問題と思うなら「私たちの図書館」の問題として取り組んでください、「公共」というキルトの破れ目やほつれを現場のライブラリアンに徒に彌縫させる類の主体的意思なく無責任な対処両方でなく、という提言については、少なくとも「図書館ホームレス問題」について一利用者としての「私は」そもそも問題と思っていなかった、ということになる。問題と思う人がいるのだろうと思っていたしそのことが悪いとはまったく思わない。私が他人の臭いと衛生観念に無頓着なのは私の事情であって。


図書館でホームレスが居眠りして私の座る席がなかろうとも、しゃあないかいちおう自分は若いし、と「私は」思うだろう。別に自分が善人と言いたいのでも寛容を誇っているのでも差別意識がないと強調したいのでもない。その逆。善人とは究極的に他人のことがどうでもいい人のことではなく寛容とは無頓着の謂ではなくそしてそれこそが差別意識を顔に出さないためのライフハックであるかも知れない。つまりは私の事情なので他人には他人の判断があるだろうと思うしそれが妥当性を欠くこととも思わない。一利用者としての私はそういう見解になる。要は「公共」の問題ということ。

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物事の正当や妥当を判断するには抽象レベルの思考が必要、というのはつまりそういうことで、たとえばそのときカントが召喚される。再三書いているが、私は唯一自分を基準にして物事をジャッジすることが、それこそ妥当と思わない。一方、カントは知らんが、つまり人権の神学とその議論には関心ないが、物事の正当や妥当を判断するには社会レベルの合意形成が必要であり必須、という認識が存し提示されることはむろん妥当である。が。


その「社会レベルの合意形成」が抽象レベルの思考において、カントに基づく人権の神学あるいはジジェクのごとき人権の否定神学に照らして、不適当な結果を示しかねないことが明白な時勢であり世の趨勢であるとき。人権の神学は自明であり、超越論的な定言命令が人間存在を規定する、あるいはジジェクのように、それは不可能であるからこそ希求されるものであって不可能性ゆえにその自明は示され続けるし示され続けなければならないのである、と論じられることはそれこそ「自明」なことだろう。


ルソーがかつて説いた一般意思に依拠するとき、その特異な論理の実装において必然的に内在する「かのように」について措きうることではない。そして、その「かのように」ははたして私たちに得をもたらすか、徳はもたらすかも知らんがそれで今日の飯は得られるか、という「社会レベルの合意形成」が為されている過程が現在。


張り紙に戻ると。さすがにリンク先ほど露骨ではなく、「著しく汚れた衣服」という文面はないが、異臭と酒の臭いについては入館を御遠慮くださいとの明記が「注意事項」としてある。そしてその文面は、座席での居眠りや携帯電話での通話や大声や走り回ること等のその他の注意事項と箇条書きとして併記されている。つまり、他の利用者にとっての迷惑行為の一環であると。

2008年09月21日 b:id:nekora  むしろ他の図書館も貼るべき。コインシャワーの相場は200円。カップ酒と同じ。

はてなブックマーク - とりあえずね、これだけはやっちゃいけないと思う。 東京の某図書館! ...... - 図書館 - yumenokiroku - はてなハイク


他の図書館にもとっくに貼られてますよ、というのは措き、リンク先のことは知らんが私が知っている事例におけるその張り紙が間違っているかというと、ライブラリアンとしてはそれで正しいと私は思う。居眠りや携帯での通話や大声や走り回ることと同様に、「他の利用者にとっての迷惑行為」であることはおそらく疑いえない。リンク先の方のように「どういうつもりでこれ貼ったのかちょっと聞いてみたい」と思うこともなく(聞くまでもない)、問題と思ったこともない。いつも眺めて図書館に入っているのだから。


私は鬱まっしぐらの頃も当時の自宅の近所にあった図書館(現在利用している図書館ではない)は利用していたが(なにせ不眠なので)、異臭云々に類する張り紙はなかったが心の中でゴメンナサイと詫びながらいつも通り書架直行直帰で本を返して借りていた。図書館には物心付いた頃から散々世話になっていたし予約取り寄せ等使い倒していたので、返却にはなるたけ遅れたくなかった。衣服の洗濯は一時の同居人に任せていたが、酒は飲みまくっていたので。余談だが懲りて鬱不眠が完治しクスリが抜けてからはまるで飲まない。


なぜ内心詫びるかというと、当然のことながら私の私事としての事情は私以外の人間には、ひいては私以外の図書館利用者には関係のないことだから。そしてむろん、当時の私は若く帰る部屋も寝る屋根も身の回りを世話してくれる人もあったのだから。私の私事を理由に見ず知らずの他人に迷惑をかけることは不義にして不本意と私は思っていたし思っているが、しかしそのことを私以外の他人に対して適用することも不義と思っているし、不本意きわまりないことである。


自身の私事を理由に見ず知らずの他人に迷惑をかけることを不義とも不本意とも思わない人のことを一般にDQNと言う。私事すなわち私的な事情を理由に見ず知らずの他人に迷惑をかけること負債を負わせることを不義でありまた自身にとっても不本意と私たちは多く思ってしまっている。むろんそれは日本人の徳目として誇ってよいことだ。


しかし。翻るに、ホームレスの物理的困窮は私事であり私的な事情であるか。そう言いきりうるか。ホームレスの物理的困窮を私事と見なすのは私たちの社会の意思か。ひいては、ホームレスの物理的困窮を私事としないために私たちの社会は存するべく今なお合意されているのではないか。それが、私たちの社会における最低限綱領ではなかったか。日本国憲法25条とは、それが存置されてきたのは、つまりはそういうことではなかったか。

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言うまでもなくカントはきわめて重要だが、そしてジジェクは嫌いでないのだが、私はこのことについては人権の神学にも、またラカンジジェクに代表されるカントに対する根源的批判としての否定神学にも、あまり関心が持てない。憲法において人権の神学を自明と立論することも、また自明に存する個々人の人間としての権利を「請求」でなく希求することの原理的正義にも、関心が持てない。それは正しいのだけれど、私の認識と見解に基づく立論としてはそうではない。


私たちの社会は社会であることにおいてホームレスの「健康で文化的な最低限度の生活」に対して責任を負う、ということだろう。私たちは憲法においてそのように明示的に合意してきた。私たちの社会が社会であることの、最低限綱領として。さもなければ「私たちの社会」が「私たちの社会」であることに意味はない。「私たちの社会」という概念はヤメ、という話ならそれは見識でありひとつの立場だけれど。


そして翻って、私たちの社会は「ホームレスの健康で文化的な最低限度の生活に対して責任を負う」社会であることの合意において、もたなくなっているのだろう、誰のせいでもなく、歴史的な条件の推移すなわち「世界の選択」において、あるいは「歴史的必然」として。対するにカントひいてはジジェクのごとき超歴史的な神学、と言わずとも原理的な旗幟なくして「ホームレスの健康で文化的な最低限度の生活」は守られないと考える人もいる。それは正しい。


「世界の選択」に抗するとき、ホームレスの健康で文化的な最低限度の生活が守られることは、自明でなければならない。言論の戦線において。そういうことなので、別に「人権」を盾にして恫喝というか威嚇しているわけでも、自身にとっての正義を主張しているということでもないのだけれど――「自明」という立論は。正義とは公共の基盤としてある概念だから。


歴史的条件を含めて、条件付することは条件における留保を可能とする。あるいは人権が「世界の選択」「歴史的必然」であったとして、そうである以上「世界の選択」「歴史的必然」において留保されうることは変わらない、そしてそれは現在進行形で起こっていることである。理論云々以前に、ドラスティックに。知は言説は現実を後追いで規定し時に規定に際して結果論として肯定するとはよく言ったものである。成程、人間の人間らしい生は人権は留保なく肯定されなければならない。それが正義である、ということでなくして公共の基盤はどのように守られるだろう。


守られる必要などない、というのは見識でありひとつの立場だけれど、ホームレスの生存権は守られる必要などないが「私たちの社会」において合意に基づき規定される公共の基盤は守られるべきである、というのは二枚舌どころか滅茶苦茶である。そしてその滅茶苦茶が、ドラスティックな現実として在り、かつ支持されているのが現在であり、そのことが公立図書館において無理が通れば道理の引っ込む典型として集約的に現れている、ライブラリアン(´・ω・)カワイソス、というのが私の理解における「図書館ホームレス問題」の要諦。言うまでもなく、無理を通しているのはホームレスでもたとえばRomanceさんでもない。

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2008年09月19日 b:id:REV  「「それなら貴方の家に泊めろ」に類する個人の率先的な負担という議論には意味がない。」 「図書館勤務者」は個人ではないので率先負担の対象として意味があるのですね。わかります。

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――HALTANさんの議論に対する批判ではないと厳に断るけれども。興味深く議論を拝読していたところ記してあったので。

(2)図書館にホームレスの生存権の保障(具体的には施設の目的外利用の黙認)を要求するのは簡単だ。言うだけならタダだからね。問題はあなたはそれが出来ますか、というだけの話。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080921/p1


私は現在住所不定も同様の生活で特定の自宅と言えるものは無きに等しいのだが(別にホームレスではない。本来の住居が塹壕と化して住む体を為していないので商売関係と知人関係と実家をローテーションで転々しているという話)、では貴方がホームレスを自宅に泊めたり置いたりできますか、と問われたなら私の返事は即答で、そのホームレスが可愛い女の子ならヤンデレだろうと訳ありまくりだろうと万難を排して泊めます。


さすれば私も蝶のようにあるいは糸の切れた凧のように飛び回ることなく自宅に戻る気になるでしょう。その娘が本や本や本やビデオテープを焼討してカビとダニと蜘蛛とゴキブリの繁殖した部屋をきれいさっぱり片付けてくれることでしょう。手塚治虫の『ばるぼら』みたいな娘なら全世界を敵に回してでも匿います、そう、ルルーシュとC.C.のように! 野郎と、可愛くもなく若くもなく宇宙人でも未来人でも異世界人でも超能力者でもない、要するにただの人間には興味ありません。ノーサンキュー。ホームレスなら等しく平等に泊めろなどとそんな無茶な、私は罪滅ぼししたつもりになりたいだけであって人間はとは言わないが私は差別するから。


――むろんそれを「差別」とは言わないのであって、差別とは公共において問われる問題であり公共概念なきときそれに抵触する「差別」もない。なくなる。なくなるというのは「問題」とされなくなるということ。差別とは公共の問題であるがゆえに「問題」なのであって、そして公共圏が私圏の存在を規定し私圏の領域における個人の裁量を担保する。その担保なき政体を○○と言う。○○にはスターリンでもヒトラーでも代入してください。


私は大真面目に言っている。個人の率先的な負担とはつまり個人の裁量ということ。私圏の問題であるということ。それでも「個人の率先的な負担」であることは変わらない。赤塚不二夫だってタモリでなければあれほど上京を世話しなかったろう。私は面食いだが身体目当てというのは性的な事情からもない。タモリも「俺のマンションに住め」といきなり言われて当初赤塚をそちらの趣味と疑ったそうな。むろん実際には有名な話、上京したタモリを自分のマンションに住まわせて赤塚自身は仕事場に泊まっていた。タモリはその恩義を忘れることなかったというのはそれはまた別の話。というか、私は呆れられるし立錐の余地もないし諸般の事情ある物件だから自分の自宅に泊めないだけで、ホームレスでないにせよ事情ある人の布団と屋根を自分にできるなりに手配もする、商売の事情から。


そして、個人の裁量に委ねうることでないからこそ公共というのがあり行政とその執行機関がありひいてはかく合意された私たちの社会があるということ。かく合意されたというのは、個人の裁量、換言するなら利害と好き嫌いと気まぐれとしての私圏を規定する公共概念を社会の構成員の合意に基づく最低限綱領として成文化して規定しその実現のため行政とその執行機関を存置しているということ。


REVさんの皮肉に即して言うなら、「個人」としての「図書館勤務者」が「率先負担」という個人の裁量を傍から強いられないためにこそ、私たちの社会が最低限綱領として規定する公共のもと綱領の成文に基づく「健康で文化的な最低限度の生活」をホームレスにおいて実現するため行政とその執行機関が存する。行政官としてのライブラリアンに対して行政官であることを理由にホームレス救済のため個人として率先負担すべき、という主張がこの件について為されていたか私は寡聞にして知らない。行政は公共とその実現において社会におけるその存在の「自明」を規定する、という前提なら説かれていたとも記憶するが。


そして言うまでもなく、「健康で文化的な最低限度の生活」をホームレスにおいて実現するための行政とその執行機関は公立図書館ではないし、公立図書館であるはずがない。念の為に付すると、Romanceさんが、あるいは他なる論者が「提案」していたのは、「健康で文化的な(ryをホームレスにおいて実現するための行政とその執行機関と、事実上のホームレスの行き場所になってしまっている公立図書館との、行政的連携ということ。


かかる「提案」に対する実現可能性としての行政的連携の難については指摘されていたと記憶する。それこそ問題と私は思うが、それは「ライブラリアンが汗をかけ」という話ではない。職掌を外れた率先負担を説いていると故意に解する人があることは了解しました。というか、ライブラリアンが汗をかくことによって解決が志向される話でもない。たとえ行政官としての全ライブラリアンが職掌を外れて汗をかこうとも。


つまり、ホームレスにおける生存権の実現に際して行政的連携の難を市民は容認しているという話。容認していないのなら結構なことです。私が容認するのは公立図書館においてホームレスやその悪臭を気にしないからです。むろん、そのような私の考え方が間違っているということです。一利用者としてライブラリアン(´・ω・)カワイソスとしか思ってこなかったのもまた私の人非人ゆえかも知れませんが。私は自分の飯種についてまず書かないしブログに書いても詮無いとしか思わないので。


「健康で(ryの全国民における実現は、公共において規定された行政の為すべき仕事であることは違いない。そのことそれ自体について否なら、つまり公共において規定される行政の使命に対する怠慢とするのでなく社会の成員の要請の結果と考えるなら、つまり行政サービスの機能論として解するなら、そしてそのことに私もまた同意するのだけれど、しかしそのとき最低限綱領に対する合意は良くも悪しくも建前においてさえも破産し、公共財としての国家の暫時的な解体へと傾斜するだろう。


そして事実、社会の成員の意思に基づき最低限綱領は暗黙に更新され公共財としての国家は暫時的な解体を志向されている。「健(ryの全国民における実現を現在の日本社会は合意しない、歴史的条件の推移すなわち「世界の選択」に即して――と。「ネオリベ」云々の話にしたくはないのだが。


私が思うに、人は自身において自明として他者により保障されたものをしか自明と考えない。私自身も同じく。普遍を志向するとはつまりそうしたアポリアをこそ「自明」とすること。以下のymScottさんの見解に全面的に同意する。

ウヨを理解できないサヨは「お上」とか「妬み」とか「差別主義者」とか、その辺の概念取っ払って「被害妄想」っていう視点で見てみれば、ウヨの弱者保護叩きの大抵は理解できると思うんだ。


年金にしろ生活保護にしろ、「どうせオレが死にそうになってももらえないんだろ」というのがベースにあるからこそもらってる人間を叩くわけで、そこで「自分の首を絞めてる」とか言ったって届くわけ無い。最初からそのセーフティネットが自分を救うなんて思ってないんだもの。


他の例で言えば山口母子殺害や痴漢冤罪で弁護士や痴漢被害者叩くのも「どうせオレは弁護されないだろう」「自分はいつでも社会的に抹殺されうる」という感情の発露であって痴漢を擁護したいわけではないし、ホームレス叩くのだって「どうせオレがホームレスになっても誰も助けてくれないだろう」「自分がホームレスになったら野垂れ死にが当然」という感覚の発露。


その辺を考慮したらまた反応も変わると思うんだがなぁ。

http://d.hatena.ne.jp/ymScott/20080911/1221125964

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2008年09月21日 b:id:REV  「俺は煙草を吸いたいだけだ。他の利用者に出て行けと言っているわけではない。曲解だ。埋められない隔たりだ。不快感至上主義だ」という話かな。

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「図書館ホームレス問題」という立論がそもそも議論の転倒であり錯綜の因である。そのことに私は同意するが、がというのは、「図書館をホームレスに明け渡せ」とも「臭いホームレスをホームレスであることにおいて図書館から排除するな」とも「生存権が脅かされているホームレスには目的外利用であるか否かに関わらず図書館を利用する権利がある」とも、まして「臭い迷惑利用者が臭いまま図書館を利用する権利を一般利用者は認めて異臭については耐え忍ぶべきだ」とも誰も言っていない、少なくともそのように主張されていはしないと、私は思っている。


憲法25条においてホームレスに生存権としての「(ryは保障されており憲法において成文化された最低限綱領としての社会的合意のもと公共として規定された行政とその個別の執行機関は連携してその実現に当たって然り、と考えるとき、「図書館ホームレス問題」における行政的な連携の困難に際して最低限綱領としての社会的合意が危ういなら。あるいは終わっているなら。


最低限綱領として規定された公共の概念的由来について――事実性としての社会的合意の暗黙の推移に抗するため――改めて明示的に論ずるとき、概念的由来において自明として社会契約の原理を強調しない限りは、事実性としての社会的合意の推移どころか、成員資格以外の請求適格条件に基づく社会再契約という来たるべきディストピアに対抗しえない、という話と私は思っていたので、煙草の話という発想はなかった。わけでもない。


むろん、仰っておられることは「わかります」。言うまでもなく公立図書館は公共圏です。臭い奴が迷惑であり他なる利用者の意向においてお引取り願いうることに異論ない。「迷惑」の線引きとその恣意性を云々する問題とも思わない。ただ「公共圏」の規定に合意することは公共概念に合意することであって、そして公共概念は何のために存するか、ということ。


むろん、一義に他者危害を掣肘するために存する。そして、ホームレスの放つ悪臭が一般利用者に与えうる危害と、悪臭を理由に公立図書館においてホームレスに対してお引取り願うことが悪臭を放つ部類のホームレスに与えうる危害を、天秤の問題として公共に問う代入解が、生存権という概念として在る。公共が担保する人権という天秤に量るべく。生存権は自明である、という立論に、私は必ずしも同意するものでないけれど、その必要と妥当はよくわかる。敢えて言うなら「戦略」としても。


悪臭を放つ部類のホームレスは生存権が脅かされている、と立論するとき他者危害を掣肘する公共概念は、公共圏たる公立図書館において悪臭を理由にホームレスに対してお引取り願うことを掣肘しうる。もっとも、これはあるいは小谷野先生の立論と似通っていなくもないけれど。喫煙が「健康で文化的な最低限度の生活」に直結する依存的喫煙者の生存権、という種類の。


加害者被害者の問題ではない。他者危害を公共概念は認めないという話。そして、そのときライブラリアンが「図書館を図書館として本当に必要とする人」のために判断し行動することは、当然のことであって正しい。


公共概念に基づく他者危害の否において、公立図書館という公共圏の侵害と、ホームレスにおける生存権の侵害が、コンフリクトする。すなわち所謂「諸権利の衝突」に類する問題ということ。悪臭を理由に公立図書館からお引取り願うことがホームレスにおいて即生存権の侵害たりうるか、というのはその通りだけれど、そもそも論として、ホームレスにおいて物理的に生存権が侵害されていることこそ自明であって、それはライブラリアンや一般の図書館利用者に帰しうることではむろんないが、そのことが私たちの社会の選択であることもまた違いない、「世界の選択」ではなく。つまり「世界の選択」に事態の帰趨をアウトソーシングするのでなく。


ゆえにこそホームレスの生存権は「自明」である、そして任意の社会において、公立図書館という公共圏の維持が物理的に生存権が脅かされている人間が人間らしく生きる権利に優先するのなら、それは御都合主義としての公共であり、利己的に簒奪される公共概念である――という立論はその通りと、私は思う。「船上パーティー」とは言わないし、誰かを責めることには関心ないが。私は人間が人間らしく生きる権利を必ずしも自明とは思わないが、公共概念なくして人権を保障する国家という公共財は規定されないと思っている。そして人権において公共概念が導出されると思っている、ルソーに拠り。


人権を自明とする原理的な議論に私は必ずしも与しないが、公共を概念として規定することには与する。公共概念を規定する政体において公共を自明と考えないなら、それが所謂「不快感至上主義」ということ。「不快感至上主義」とは、自身の私圏や私事において物事の正当や妥当を判断しうるとする、抽象としてのメタレベルなき発想のこと。そして。


「社会レベルの合意形成」に基づき抽象としてのメタレベルが廃棄されて物事の正当や妥当が――すなわち「リソースの有限」や「財源の有無」において――判断され政策的にその正当と妥当が実現されるなら、公共は自明でないし、すなわち国家にも市民社会にも意義がない。一切は空手形でしかない。そして腐敗権力の巣窟となるのではないでしょうか、公共概念に事欠く自称多民族国家、中国のごとく。


社会的な最低限綱領としての合意のもと公共において規定された国家が、公共の実現を志向せずそのことにより公共の自明が綻びると共に憲法の条文が建前としての意義を失い空文化するとき、私たちの社会は最低限綱領も画定すべき公共も失う。そのとき「私たちの図書館」という概念もまた言辞を改めることなく不快感至上主義に簒奪される。迷惑は迷惑であり迷惑利用者は迷惑利用者である、そのことに私はまったく異論ない。それと問題は別として、という話と、ずっと思っていたし、思っている。

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無意味に美しくまとめるなら。「公共」というキルトは私たちが皆で織り上げるしかない。破れ目やほつれを繕うことも。キルトに包むべき「人権」という至高の理念のために。ひいては諸権利のために。包むべきキルトなくして至高の理念は形なき画餅であり屏風の虎でしかない。一休さんではないが、では人権を批判するので題目の人権を実現させてください、というのが私の見解だろうか。実現に遠い人権を至高の理念として批判してどうするのだろうということ。実現されてから批判すれば宜しい。


「公共」というキルトはもはや要らないし諸権利のプラクティカルな実現に際しても役立たない、というのも見識であるし、「公共」という理念先行のキルトなくとも人権ひいてはホームレスの生存権は保障しうる、というのも見識である(ドラッカーの立場はこれに幾許か近い)。しかし、「公共」というキルトに包まれるべき諸権利はプラクティカルに選別される、公立図書館という公共圏は悪臭ひいてはそれを放つ人間の撤去において選択される、というのは見識でなく自身の利害の正当化に過ぎない。


むろん、利害とその正当は主張さるべきであって「公共」というキルトはそれを包摂するために存する。だから、悪臭を放つ人間の利害とその正当の主張もまた包摂される。「公共」とは諸権利のプラクティカルな選別の大義名分ではない。諸権利のプラクティカルな選別が悪いということでは必ずしもないが、しかしプラクティカルな選別の大義名分として召喚される「公共」とは、グロテスクなものである。往々にして。