「水伝」と「図書館の中」と「外」


はてなブックマーク - 幻影随想: 関東地区女性校長会が激しくやばい件


前置。私は所謂文系人間でトピックを詳しく追っていたわけでもないが、「水からの伝言」というのは、善悪判断の根拠を自然科学というか自然界に委託している時点で終了、と思っていた。似非科学とは、そういうことでしょう。善悪判断の根拠は人間界にしかないし、人間界を煎じ詰めれば善悪判断の普遍的根拠は疑わしいので人は自然界とその解剖器たる自然科学に頼る――善悪判断の普遍的根拠を。流石にナチスを引き合いに出す気はないけれど、真善美を自然科学で正当化する、現代においてかくも人は真善美を欲しているか、真善美の不可能ゆえに、という感想を私は抱く。時代精神として存する、人間界を煎じ詰めた結果論の副作用に対する冴えた処方箋、か。


真善美を希求する人はかつてはもちろん、現代日本でも在って、そのこと自体はむろん無問題であるし嗤われるべきことでもないけれど、真善美の話を社会科学や自然科学で語るから、布教活動に類することであるとしてもややこしい。あまつさえ社会科学や自然科学に真善美を要求する。カントは真善美を解体した。カント以降、倫理判断において前提としてある根拠は失われた。それを判断の事後において見出されると考えたのがカントの普遍概念で、ルソーを端折って言うならそれは人権概念を担保するひとつの論理ともなった。


そして私が思うに、カントは困難であるだろう。判断の事後において普遍として倫理判断の根拠が見出されることはなかったと、美学は措き、大量死の世紀を経て人は思っているから。だから現代において、人は「前提としてある根拠」を、判断の事前に構築せんとしている、歴史学を社会科学を自然科学を御都合主義に拝借して。真善美に奉仕するそれが歴史学でも社会科学でも自然科学でもないことは言うまでもない。


「前提としてある根拠」をその判断の事前における構築を反動として排するなら、私たちの倫理判断は常に無根拠である。そしてカントのようにはそれを普遍へと至りうる道徳的判断と借定しえないとき、無根拠な倫理判断は常なる自他の問いへとさらされ、問い返しへとさらされ続ける。倫理的には善悪は無根拠である。ゆえに決断主義が称揚されるのかは知らんが、釘を刺すべきは、善悪の無根拠を理由に肯定される決断は倫理的ではないということ。というか、それはDQNの開き直りでしかない。倫理判断とは普遍的根拠なき善悪を普遍概念としての善悪として模索する行為であるから。

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何を言っているかというと。人権が自明でないということは、善悪の無根拠を理由に善悪を善悪として模索しないことではない。カントも言った通り、模索の果てに普遍として根拠は示されるから。最初に参照さるべき規範としての真善美があるのでなく。真善美を根拠として示される倫理判断とは、マッチポンプに過ぎず倫理判断ではない。人権が自明でないから、善悪を概念として白紙撤回してよいということではないし、共同体規範を善悪の代替物とすべきでもなく、ひいては公共圏における迷惑を善悪の代替物とすべきでなく、あまつさえ自然科学や社会科学を善悪の代替物とすべきことではまったくない。自然科学や社会科学を代替物として説かれる善悪を現代の真善美と言います。


私は、人権という言葉では些か外れるのだが敢えてその言葉で言うなら、公共圏とは人権の実現される場所と思っている。少なくとも、アレントでも構わないが、概念的な由来において「実現されるべき場所」であることは違いない。「公共圏としての公立図書館は人権の実現されるべき場所ではない」という立論は、立論としてだけれど、成立しない。言うまでもなく、人権を実現するべきは職掌としてのライブラリアンでなく、その公共圏を利用し公共圏としてのその理念にコミットする者全員です。「だから」図書館における人権の疎外は認められることではない、言説としてはそうなる。むろん、公立図書館を無料貸本屋と考える利用者が利用者の大半であるとき、かかる言説は現実に成立するはずもない。ひょっとしたら、私もそう思っているかも知れない。


それがはたして「人権の疎外」であるか、という議論は可能です。ただし、図書館の外においてあらゆる「人権の疎外」が自明の状況としてある者について、図書館の中に限定された「人権の疎外」の有無を論じることは、少なくとも片手落ちではあります。つまり「図書館の中」における「人権の疎外」のみを論じライブラリアンや一般利用者の責を論ずる議論もまた、片手落ちです、言うまでもなく。公立図書館の中と外は、公共圏であることにおいて繋がっている。公立図書館の機能論に即して「図書館の中」における「人権の疎外」を問題提起の段階で棄却することは、やはり言説としては片手落ちです。

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2008年09月23日 b:id:REV  「まして「臭い迷惑利用者が臭いまま図書館を利用する権利を一般利用者は認めて異臭については耐え忍ぶべきだ」とも誰も言っていない、少なくともそのように主張されていはしない」そうは受け取らなかった。

はてなブックマーク - 「公共」というキルトは「世界の選択」を包摂しない - 地を這う難破船


私はid:REVさんのことはそのスタンス言説皮肉含めて好きなので。改めて言葉を綴ってみます。私は近代個人主義者なので、あらゆる個人が個人として等しく相互に尊重される世界を肯定しますし、それを私たちの社会において実現さるべき最低限綱領とも考えます。私はアクティヴィストではないので生活の外部では些細なことしかしませんが。


あらゆる個人が個人として等しく相互に尊重される世界のため私たちの近代社会は国家システムとして実装され稼動していると理念的に考えるとき、政体に限ることなく、それがたとえば「人権」という最低限綱領ということです。であるとしてなお、国家システムとして実装されて稼動する近代社会は等しく尊重さるべき個々人の位置をシステム的に規定し、そのときシステム的に規定された個々人の位置とそれに基づく利害の相違において衝突が発生する。


カフカの小説のようにそのとき衝突を無いことにするのが社会主義国家ですが、自由主義国家においてはドラスティックに可視化される諸衝突の調停と決裁のため政治があり民主制下の選挙がある。つまり、小泉政権であると。そして郵政選挙を経て国家システムがガタガタに死にかけたとき、国家システムとして稼動する近代社会の理念的な近代性もまた瓦解するということです。もともとそれは張子の虎であったのかも知れませんし、そのことについてかつての新自由主義政策に帰責する気はまったくありませんけれど。そして小泉以降の政権は瓦解に直撃されているということです。


――システム的に規定された個々の位置において国家システムとしての近代社会の実装にコミットする個々人とその利害について、デカルトフーコーデリダな、何やら超越論的な位相と崇高な理念に基づいて疎外の悪を一刀両断する人がいて、言説がある。ごく雑駁にですが、REVさんの問題意識の一端を、私はそのように理解しています。そして、そうであるならそのことについては私は同意するのですけれど、ということです。


REVさんが「そうは受け取らなかった」のが私の発言についてなのか他の人の発言についてなのかはわかりかねますが、「臭い迷惑利用者が臭いまま図書館を利用する権利を一般利用者は認めて異臭については耐え忍ぶべきだ」とは主張されたことはなかった、たとえばRomanceさんにせよhokusyuさんにせよ、私はそう考えています。


ちなみに現実問題を措いた原則論としては公共圏において「権利」はあります。体臭は喫煙とは違うので。ホームレスの体臭問題を依存性喫煙者の喫煙問題と同一に論じることは必ずしも簡単でないというのが私の考えです。私は一連の議論において提案されていたコインシャワーの設置に賛成しますが実現が容易でないことを知っています。なお公共圏における喫煙規制の最大の根拠は現在の日本においては受動喫煙に伴う健康被害です。そして、「権利」を振り回して他者とその迷惑への配慮を省みない人のことを、一般にDQNと言うわけです。DQNは違法でないから取締れないからこそ、DQNが「DQN」として問題になる。そのことについては私もそのように思います。


「異臭については耐え忍ぶべきだ」とは主張されたことはなかったというのは、「人権」という補助線を引いたとき耐え忍ぶべきは異臭であるか異臭を伴う生活であるか、ということです。当たり前のことですが、異臭を伴う生活に耐えている者があるとき公共圏において異臭は耐えて然るべきこと、という話ではありません。言うまでもなく、「人権」という補助線を引くなら耐え忍ぶべき異臭も異臭を伴う生活も同時に撤去さるべき、というのが理念解です。


異臭を伴う生活において「生存権」が脅かされていることは違いない。だから「生存権」という補助線が引かれる。そして「生存権」は「人権」に包摂される。疫学は衛生観念は肝要です。異臭を撤去して異臭を伴う生活が撤去されないとき、それは図書館の中にとっては漸進的改良ですが、図書館の外においては漸進的改良ですらない。たらい回しだの問題の先送りだの「快適な図書館」という船上パーティーだのという話ではありません。というか、私は疎外論に類する観念にも政治概念としてのアナーキズムにも賛成しません。


「図書館の外」の問題について「図書館の中」に責を負わせるべきでないように、「図書館の中」の問題を公立図書館の行政サービスとしての機能論に即して限定的に論じ「図書館の外」の問題についてホームレス支援者の問題提起に対して棄却するべきでは必ずしもないということです。言説として。なぜなら「図書館の外」の問題が「図書館の中」に反映されているのが、現在の状況であるから。そしてそのことにむろん「図書館の中」は関係も責任もありません。「図書館の外」の問題に「図書館の中」もまた否応なくさらされており聖域などではまるでなくまして快適な船上パーティーであろうはずもない。それは、一利用者としての私もよく知っていることです。個人的に気にしなかっただけで。


繰り返しますが、図書館の中と外は繋がっています。公共圏とは「神聖なる空間」のことではありません。悪所を結果する空間のことでもないように。「だから」「図書館の中は外の問題について責任の一端を負うべき」とは、現に外の問題に行政サービスとしての機能論もへったくれもなくさらされている「図書館の中」に対して、ましてライブラリアンに対して、私は言えるものではありません。ただし、「図書館の中」は外の問題の反映としてある、例外なく、ということです。「図書館の中」を行政サービスとしての機能論として論ずるとき、外の問題の反映を外の問題と限定して論ずるなら、そのようなことは私も含めて都市部の図書館利用者にとっては多く既知の事柄に過ぎないということです。


私は無関心ゆえかダメ出せるような御立派な身分でもないと思うからか事情あることが瞭然の人に対して率先して傍からダメ出そうとは思いません。あきらかに一方的な暴力沙汰とかなら別ですが。そして公立図書館の機能論と目的論に即して、たとえば公共空間としての電車内のような「図書館の外」で出さないダメを「図書館の中」で出そうとも思いません。そして行政サービスとしての機能を逸脱してダメ出すことがライブラリアンの仕事ともまったく思わない。


ダメ出す機能が行政サービスとして要請されているなら、制服ないし私服の警察官を「図書館の中」に配置すれば宜しい、という話ではむろんない。では「図書館の中」に臭い迷惑利用者が徘徊する現状について、行政サービスとして要請される機能とは何か、私たちは何を要請するか、利用者間の自力救済が暴力沙汰を結果するなら、そういう話になるのが論理的には筋だろうと、私は思います。「図書館の中」で発生した問題は「図書館の中」で処理すれば宜しい、という事実上の図書館遺棄の発想が、ライブラリアンの職掌を外れた個人としての率先負担を帰結している以上は。

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冒頭の「水伝」絡みに戻るなら、私は倖田來未好きですがかつての物議を醸した発言については、まぁそういう馬鹿な人は子供つくらない方がいいよ、と優生学的な感想を皮肉として持ったものですが、むろん馬鹿な人が子をつくることを私たちの社会は肯定します。馬鹿な人が子をつくることを是として、馬鹿な人もその子も、あらゆる個人が個人として等しく相互に尊重される世界のために理念的な近代社会は国家システムとして実装され稼動している、政体に限らず。それが、たとえば人権の、ひいてはそれを実現する公共の、意味であり意義です。意義についてたとえば小谷野先生は些か批判的なようですけれど。


臭い迷惑利用者としてあるホームレスも、またそのホームレスが馬鹿なDQNであったとしても、あらゆる個人が個人として等しく相互に尊重される世界のために、理念的な近代社会は国家システムとして実装され稼動している。そして、システム的に規定された個々の位置において国家システムとしての近代社会の実装にコミットする個々人がある。加えて、そうした個々人とその、システム的に規定された位置に基づくやむなき利害を、最低限綱領として合意された近代社会のため、国家システム的に規定された位置の疎外性を批判する一方、最低限綱領の達成に足りないと叱咤裁断総括粛清思想改造下放文革キリングフィールドする21世紀の前衛党がある。文字通りの社会システム論においては、後者もまた社会システムにおいて適当に機能する一部に過ぎないのですけれど。


国家システムとして実装されて稼動する近代社会は等しく尊重さるべき個々人の位置をシステム的に規定し、そのときシステム的に規定された個々人の位置とそれに基づく利害の相違において衝突が発生します。社会主義ならざる自由主義国家において、ドラスティックに可視化されもする諸衝突の調停と決裁のため政治があり民主制下の選挙があります。実装としての国家システムにおいて稼動に即して最低限綱領が機能しない、あるいは空文として有名無実化する、そのとき「私たちの近代社会の最低限綱領を確認せよ」と叫ぶ言説のbotもあるということです。社会システムにおいて機能的に包摂されて。


私は、人権を超越論的な定言命令とは必ずしも考えませんが、近代社会の国家システムとしての実装に即してプログラムされた最低限綱領とは考えます。立ち上げてエレガントに動かない不具なプログラムはOS環境に即して改良さるべきでしょうが、しかし最低限綱領としての人権プログラムは言わばインターフェースです、グローバルな経済活動に規定された社会と一般意思概念において規定された国家の。OS環境との齟齬において国家システムの作動を阻害するウィルスとして廃棄すべきとする意見には賛成しません。それは端的に国家主義だからです。人権という最低限綱領なき国家はOS環境すなわちグローバルな経済活動に最適化されることを選択肢ともするでしょう。国家システムを近代社会の理念に即した実装たらしめんとする最低限綱領なきとき、私たちはグローバルな経済活動に対する個人の個人としてあらんとする抵抗拠点、否、防波堤を失います。なんか本当に左翼言説のbotみたいなこと改めて書いていますが。そしてIT不案内なのでテキトー書いてます御容赦。


つまりマカーの戯言ということですねわかります。左翼とはマカーというテンプレートな話です。私は左翼ではありません、が、マカーの戯言が妥当と思わないでもありません。Windowsユーザーを、ゲイツに踊らされ洗脳され飼い慣らされた犬よ豚よクソ奴隷よとDisることには関心ありませんが。与太は措き。


超越論的な審級はない、少なくとも疑わしい、おそらくはREVさんもそのように考えておられると私は勝手に考えますが、そうした見解には私は同意します。他人の思考や発想や言論を明示的に類型処理したところで詮無いことと、パラフレーズマニアの私は自己批判を込めて思います。確かに、ある種の言説はbotかも知れませんが、私には時にREVさんの言説もそのように映ります。半ば故意にしていることと、私は判断していますけれど。

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馬鹿な親が子を殺したと聞きました。馬鹿を馬鹿と断じて終わらないために、私たちの近代社会は建前としてであれ最低限綱領を設定しそのために――たとえば福祉や社会保障という――国家システムをあたかも擬似社会主義のごとく構築し、そのためシステム的に規定された個々の位置において国家システムとしての近代社会の実装にコミットする個々人がある、と私は考えています。そして社会主義どころか必然として世界資本主義にさらされてきた現在の日本において国家システムの動作不良に覿面に直面した戦線の困難を、公共圏概念などつゆ知らないケアマネージャーを近親に持つ私はよく知っています。


馬鹿なホームレスが異臭を放って図書館に居座るように、馬鹿な親が子を殺すことを、私たちはむろん止められませんし止める筋合もあるいはありません。倫理判断は無根拠です。しかし馬鹿を馬鹿と断じて終わらないための、最低限綱領とそれに基づいて構築された国家システムとしての理念的な近代社会と、生活を時に度外視してその現在進行形の実装にコミットする個々人の志の在処については、そしてそれが有名無実化した建前に依存する現実否認では必ずしもないことについても、私たちは知っています。死にかけている国家システムと共に瓦解した、国家システムとして稼動する近代社会の理念的な近代性のもはや不可能な再構築を正義面して言挙げる事実上の反動に意味は知らず意義がないことも。


どのようなことであれ、馬鹿を馬鹿と断じて終わることに、そしてそのような「私たちの近代社会」に、私はあまり関心が持てません。私自身は乱世歓迎の立場なので、なら生活のため勝手にやらせていただきます、ということになります。チャンドラーの小説のごとき、根拠なき倫理判断に基づいて。ルールを破ることに慣れており躊躇しない人間が、加えて善悪なき決断主義者が、つまり馬鹿でないDQNが総取りするでしょう。御破産したウォール街のグランカンパニがそうであったかは知りません。むろんそのことは馬鹿の馬鹿を否定しませんが、私たちが馬鹿と断じるその相手には、誰も否定できないしすべきでない事情があることくらい、私たちは知っているはずです。それが、根拠なき倫理判断であるか私たちの社会的合意であるか。あるべきか。

私の個人主義 (講談社学術文庫)

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