ひとふでがきの覚え書き


「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ? - 想像力はベッドルームと路上から

本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去


自明云々は措き、理論的には人権概念は脱構築できない。カントなので。で、哲学理論の外部において事実性として「脱構築」されかねないことに対する危機感が、「脱構築」しうるものと「私は」「貴方は」認めるか認めないか、という「主体的な」問いとその分岐へとスライドしてしまうものか。むろん、サルトルにおいてはそれは正しいけれど。


脱構築」しうるものと認めることそれ自体が人権概念に鑑みて後退であり時に体制順応主義を帰結する、というのはゼロアカは知らんがその通りだけれど、人権は超越論的な定言命令であるからし脱構築しうるものでない、というのが理論的な応答として限定されることも確か。ゆえに「財源が無いなんて言ってられない」のはその通りで、そして財源は当該社会の構成員の意向に依存する。


だから社会の構築における理論的な基盤を構成員間においてその主体性においてつね確認しなければならない、というのは正しい。日本国憲法を参照することも。むろんそのとき「権利は戦って勝ち取るものだという意識」が歴史的経緯において問われもするだろう。問うのは往々にして為政者であったりするのだが。手続論は知らん。死刑だってホームレス排除だって手続論として正しいということになるだろう。「公共の福祉」というのは為政者にとって便利な言葉で。

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私は学としての法に疎いが。憲法の条文というのは、統治権力に対する命令と同時に、命令する主体たる市民社会においてそれは、折口信夫を真似て言うなら空虚な容器であって、容れ物の中身を満たすのは私たちの主体的意思であって私たち次第である、ということになる。そして、はたして容れ物は満たされているか、満たされたのは別の中身でないか、私はそういうふうに考えている。


改憲論や9条の話をしているのではまったくない。簡単に言うなら、基本的人権についてさえ、満たされている現在の中身が理論の外部をミックスしたカクテルであることこそ自明であって、対するに容れ物の中身における理論的純化を志向することが必ずしも容れ物を尊重することか、ということ。


法の支配において法律とは建前である。すなわち、現実に必ずしも対応させて変更さるべきでないのが法、ことに憲法であって、換言するなら、法に即して現実の不整合を適正化することもまた必ずしも妥当と言い難い。ホームレスは実態として遺棄されて構わないということを言っているのではむろんない。


満たされている現在の中身が理論の外部をミックスしたカクテルであることに対して、容器の中身における容器に即した理論的純化を志向するか、カクテルにおいて理論を分別し改めて提示するか、自身の言説としては、私は後者を選択する。カクテルであることの自明を理論的応答に限定して「否認」することには賛成しない。hokusyuさんがそうであるということではむろんないが、明示的に否定してみせることはそのように傍から受け取られかねない、ということを諸反応を拝見して改めて確認した次第。


言うまでもなく、中身がカクテルであろうがなかろうが憲法という理論的容器の必要と価値は変わらない。理論的容器の内容物における「混ざり物」を明示的に是非を伴って分別することは必要であって、理論的容器の本義を理由にその行為自体を批判することには私は賛成しない。


なぜなら、理論的容器の内容物において「混ざっている」ことこそ私たちの社会的現実であり、マルクス言うところの社会的諸関係であり、またその価値であって、歴史的段階論に即して「混ざり物」を除去し私たちの社会的現実を理論的に純化することが原理的に志向するところであるとして、それすなわちポルポトとは私はまったく思わないが、「混ざりうる」ことを前提してあらゆる法は制定され憲法理念は規定されている。と私は考えている。


「混ざり物」の是非分別こそが批評的営為というものであって、少なくとも「歴史的段階論に即して「混ざり物」を除去し私たちの社会的現実を理論的に純化すること」は、私の興味ある方面で言うならたとえば建築についてかつて散々言われ批判もされてきたことではなかったか。私は石山修武のファンで。


建築がみる夢

建築がみる夢


ゼロアカは知らんが、理論的容器の内容物において「混ざっている」ことが私たちの社会的現実であって、その「混ざっている」社会的現実を理論的容器の本義において裁断するのでなく、個々の「混ざり物」の分別とそれに伴う是非判断において逐一解剖していくことが批評的な営為であり意義のあること、として東浩紀は一貫して活動してきたと私は思っている、正しく『批評空間』の衣鉢を継いで。つまり、私は私の問題意識においてこの議論について敢えて言うならinumashさんに一票、ということ。

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「共和国憲法に同意する者がフランス国民である」というかつての共和国政府の大義に倣って私は日本国憲法に同意する。形式的にはそういうことになる。しかし共和国政府の大義がそれをまさに大義名分として彼の国における宗教問題や移民問題を「問題」化させひいてはEU憲法国民投票否決を結果したこともまた論を俟たない。これも、理論的容器に対するミックスされたカクテルとしての内容物の問題であって、むろん人種宗教がミックスされているという意味でなく、寛容を説く無神論者の理論的容器に不寛容という内容物がミックスされているという話。


不寛容という内容物は文化的相違という社会的現実を方便とする。彼の国における「アラブ人には話が通じない」と本邦における「ホームレスには話が通じない」は、時に相似を描く。私が本邦において問題と考えるのは、「文化的相違」という社会的現実を方便として、寛容を説く平和主義者の理論的容器に不寛容という内容物がミックスされ時にそれが公然と「文化的相違」ならまだしもそうではない「価値観の相違」において個人の問題として正当化され結果それが貧困問題を棄却するべく機能すること。生きるも死ぬも他人の主体的選択でありその帰結でありそれこそ自明でありゆえに御勝手、と。


ホームレスについて改めて言うなら。端的に言うと、かつて日本において共同体から離脱する自由と野垂れ死にする自由はイコールだったのであって、つまり共同体から離脱することとは野垂れ死ぬことを、よく言って自ら受け容れることだったのであって、かつて著名な歌人俳人や詩人さえ半ばそうであったように自身の末路から逆算されて初めて共同体からの自由があり、渥美清本人も言っていることだが「とらや」がいつまでもあって長命する「寅さん」などというのはありえない。


で、野垂れ死にの末路から逆算されて初めて共同体からの自由があることに対する否として近代以降において私たちは社会を形成したのであって、そもそもが明治の知識人に発する人権概念の成立とはそのことと――すなわち近代都市社会の成立と――パラレルとしてあり、反共同体としての理念的な社会と人権概念がパラレルとして成立した以上、共同体からの自由が野垂れ死にする自由をイコールしないために人権概念と対としてある社会が戦後憲法において規定されていることを25条文面等が結果的にも指し示す限り、例外はない。「歴史的経緯」を鑑みるなら私にとってはそういうことになる。


「にもかかわらず」社会的責務の有無において例外が規定される、というのが「ホームレスをガス室に」の要諦であり、それは現在を事実性として規定する風潮の要諦でもあるだろう――多くおおっぴらには口に出さないだけで。「社会的責務を果たさんとする意思の有無」において例外が規定されるとしたのが当該の議論であったが。


反共同体としての理念的な社会の形成を前提とする人権概念とは、つまり理論的容器において私たちの主体的意思に即したコミットのもと内容物を満たすということであり、さもなくば実際問題として理念的概念としての人権は保障されず実現もされないのだが、はたして理論的容器の内容物は常なる自明にして社会的現実の必然として、社会的諸関係の結果として、理論の外部がミックスされている。人間はその諸活動は理論的存在でないからして当然のことではあるけれど。

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理論的容器において人権は超越論的な定言命令であるが、その社会的実現に際して、社会の構成員の主体的意思に即したコミットにおいて理論的容器の内容物を満たすとき、社会的責務の有無において例外が規定されもする。それが容器と内容の対として理念的に構想された、すなわちルソーが信じた社会契約のひとつの実際的帰結としてある。むろん、それは「社会的責務の有無」という方便に基づく属性転嫁としての差別以外の何物でもなくルソーが聞いたら卒倒するに決まっている。


それは一般意思の実現としての憲法に規定された社会のパラドキシカルな帰結であり、かかるパラドックスは理論的容器と社会的現実の相違において避けがたく存するがゆえに、社会契約としての一般意思の個別要件に即した確認が肝要。日本でもフランスでも。なぜなら、それが理論的容器の咎でも責でも瑕疵でも問題でもないことこそ自明であるから。「人権の自明性」とはそういうことと私は思っている。


ここまでが自明の前提(ということに私の中ではなっている)。対するに、自明なる容器の正当と容器なくして内容なきことを理由に内容物の容器に即した限定と捨象、すなわち理論的純化を志向する言説に私があまり賛成できないのは、少なくとも日本において反共同体概念として理念的に容器と内容はパラレルに存するのであって、必ずしも容器と内容は、すなわち普遍理念と社会的現実は、一般意思概念において唯一整除さるべきでないと言説においても考えているから。つまり、前衛党的発想にあまり賛成しないということ。左翼でないから当然だが。


そして、理論的容器の内容物はとうに入れ代わっているだろうということ――グローバリゼーションという、単一の社会に規定されない外部条件に即した私たちの価値観の否応なしの変化と共に。そのとき理論的容器は骨抜きにされる。骨抜きにされてなお理論的容器を一目瞭然の残骸としないため「かのように」を演じる、あたかも明治憲法を制定した為政者のごとき現代知識人、すなわち文化資本の所有者もあるだろうし、あるいは「沈黙の申し合わせ」としての「かのように」の申し合わせをぶちこわさんと露悪する人もあるだろう。貶めて言っているのではない。


私が切実に考えるのは、社会が人権に先んじると規定するとき「社会的責務の有無」という方便において属性転嫁としての差別が論理解として発動すること。「ホームレス」の選択的な問題とするということはそういうことだから。誰かが言った通り、『詭弁論理学』の確認から始めなければならないのかも知れない。論理解は倫理解に優先しない、そうすべき命題がある。

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人権を目的論ならざる方法論とするべきでない、という文字通りの正論については、「かのように」の申し合わせより方法論としての人権を説くことが、理論的後退であろうが妥当と私は思う。hokusyuさんが「かのように」の申し合わせを是としているということではない、ということはinumashさんも追記において明記していることと思う。


「かのように」の申し合わせとはそれが外部条件において骨抜きにされたときそのことを示唆したところで空手形を振りかざしているようにしか見えない。とうに換金できなくなっているかも知れないのに。換金法を示すべきとinumashさんは記していると私は読んだし、繰り返すがhokusyuさんが「かのように」の申し合わせという空手形を振りかざしていたわけではないけれども、手形が換金されることは必ずしも自明でない、少なくとも「かのように」とその申し合わせを排さないことには自明たりえない。私はそう考えている。そのことがhokusyuさんの言説に向かうべきとも思わない。


付け加えるなら。あのとき私は批判的な言及記事を記したと記憶するが、所謂「チベット騒乱」に際するinumashさんの問題提起はわかる。左翼でない私にあの件について左翼批判する筋合はまったくないしその気もないし批判さるべきとも思わないことは当時の記事と変わらないが。あの一件は、日本のインターネット利用層において残骸ともなりかけていた理論的容器の再生する契機であった。要するに、理論的容器はその実現のため本義に即して大々的に要請された。


むろん、ニーズと対する提供の問題ではない、というのは文字通りの正論である。しかし存在を規定されるがゆえに死にかけていた容器は私たちの社会と言わずともインターネッツにおいて召喚されあるいは新たに息を吹き込まれ再生するかも知れなかった。吹き込まれるのはレイシストの息であったかも知れないが、要請された本義については相違ない。


容器はその自明のゆえに死にかけている、自明を自明としないことから、最大限に美しく言って「アクチュアルな」問題意識において容器は再生の契機を得る。かも知れない。知れなかった。私たちの、あるいは利己的で御都合主義で差別的な動機に基づく容器それ自体すなわち容器の本義への主体的なコミットにおいて。そのこと自体を否とすることも、むろん見識であるが。

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なお。言説としての「ホームレス擁護」とは社会の理論的機能すなわち本義として問われるのであって、「それなら貴方の家に泊めろ」に類する個人の率先的な負担という議論には意味がない。社会の社会であることの本義を問うているのであって「貴方の正義」を問うているのでも「私の正義」を主張しているのでもないから。


言い換えるなら、「ホームレスになる自由」とは私圏の問題であって、「ホームレスがホームレスであることにおいて野垂れ死にする自由」とは公共すなわち反共同体概念としての理念的な社会の問題であってそしてそうである以上そのような「自由」は認められないから。


私自身の前提については、過去に幾度も書いてきたので略するが、私圏の問題であるからして他人に適用しうるものでないしすべきでもないことを私は知っている。つまり、公共すなわち反共同体概念としての理念的な社会において人権は留保なく肯定さるべきに決まっている。そして、理念的な社会は目指すべき社会であることは違いない。人権とは私圏において問われる問題でなく個人において問われる問題でもない。換言するなら、私圏あること個人あることそれ自体が公共を保障する概念とその別名としての人権の機能としてある。私がそれを肯定しないはずがない。私は発想が女衒入っているが、人身売買は悪と思っている。

ですから、hokusyuさんが過去自らが蓄積してきた思考をもって、『ホームレスを支援することは自明だ』と結論付けることに関しては特に疑問はないのです。


しかし、それをそのまま他者に向けることは出来ない、と僕は考えます。『ホームレスを支援することは自明だ』という表層的な同意を得ることはできるでしょう。しかし、その内実、『自明性』の中身までそんなに簡単に共有できるとは思えません。


重要なのはその『自明性』の中身です。それを「自明」だとする背景・文脈の部分。『ホームレスを支援することは自明だ』という意見に同意している人達の中ですら、その『自明性』がきちんと共有されているのかどうか、僕は疑問に思っています。上にも書きましたが、その中身が共有されていないからこそ、現実的な選択を行う際に奇妙に捻じ曲がるのではないでしょうか。


というinumashさんの言葉に同意したので記事にしました。『ホームレスを支援することは自明だ』と考える私の「「自明」だとする背景・文脈」について。きちんと共有されうるものかは知らない。「俺理解」ではそうなっている、という話ですね。毎度のことながら。自分自身について人権が「自明」であると、個人的な事情から私はつゆ思ったことがないので。そしてそのような私の発想を、他人に敷衍すべきとはまったく思わないので。殺したり殺されたり死んだり死なせたりすることをこそ自明と思う人は『殺し屋イチ』の登場人物でもなければ実際にはあまりいないだろう。私がサディストであることは私の事情に過ぎない。

メモランダム 古橋悌二

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