命短し恋せよ乙女


http://d.hatena.ne.jp/kajuntk/20080913/1221306304

ホームレス問題を、少しだけ現実的に考える。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は

まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき)


タイトルは本文とほぼ関係ない。今更ながら。なぜホームレス問題が労働の是非問題へとスライドしているか意味がわからなかったのだけれどしかし意味はよくわかるのだった、ということについて少し。


趣旨として、人間の尊厳は自明ではない、人権概念において自明とすることはトートロジーでしかない、ということと思う。それこそ自明のことと私は思うが、そしてそのゆえにこそ、トートロジーに対する態度問題が問われると思うけれども、フランクル先生言うところの態度価値として。


で、態度価値を全面的に肯定しているにもかかわらず市民性すなわち社会へとコミットする態度に限定して肯定するかのごとく文字列を並べるから、アイロニーとそこにひそむ痛切さのような何かを読み取る人は読み取る、ということになる。


人間を人間と規定してくれていた神様が死んで以来、人間の規定は分岐した、人権と、社会に。冷戦が終了しグローバリゼーションが全面化する時代において、市民社会の名のもとに両者が呉越同舟していた幸福な、あるいは欺瞞に満ちた糞な時代は終わって、人権と社会は、「人間」の規定においてコンフリクトを起こし挙句デッドロックへと至っている。


そのとき人権の旗幟に立つことは人間をその尊厳を下部構造において留保する社会の事実性を超越するものでなく、人権概念とは時に人間をその尊厳を上部構造において留保する社会的方便に過ぎない。という話であるとき、つまり尊厳概念に対する認識が相違している。本来的なる人間性に対する、上部構造の抑圧性を指摘し排撃すること、それはニーチェの生涯を貫く言論営為であり、すなわち負と見なされ抑圧される人間性を正として全面的に肯定する試みであった。

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「人間の尊厳」とその有無を外在的条件において求める発想と、「人間の尊厳」を内在性/内発性において規定する発想がある。おそろしく単純化して言うなら、思想史的には前者を左翼と、後者を右翼とかつて言った。現在の話ではない。貴賎なきことは、また両者は相互補完的でもあることは言うまでもない。


なので。zarudoraさんの記事に対する反応のことだけれど、前者に拠って提示された見解に対して、ホームレスの労働意欲すなわち内在性/内発性とその個別性について指摘したところでそれ自体は妥当だがあまり意味がない。


住居なき困窮者が住居なきことを理由に公的支援を受け難いこと、公的支援の不足ゆえの民間支援に現状付いて回りもする政治的/金銭的な搾取問題、それらには住居なき困窮者に対する社会的遺棄が関係していること、すなわち政治的/金銭的な搾取性が社会的遺棄において調達されていること、にもかかわらず社会的遺棄を措いて政治的/金銭的な搾取性を批判すること。


そうした事柄と「意志的選択としてのホームレス」や「幸福の主観性」は「一義的には」関係がない。被差別者問題と同様と言っているのではない、というのは、しかしホームレスとは意志的選択でもありうるから。あるいは「意志薄弱」と結論されることと社会において見なされもするから。それが問題の要点としてある。

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近代以降の社会における労働の規範的価値を自明としてなお、困窮者に対する社会的遺棄の是非を問うことと、事実上の社会忌避者の社会参画意志の有無を問うことは、別の話です。別個に問われるべき話ということです。にもかかわらず、前者を論じるに際して後者を措きえないからこそ、zarudoraさんの記事も同様ですが、前者を論ずるに際して後者を論ずる。対するに前者を措いて後者に対して論駁するということは、すなわち前者に対して後者において条件付し留保を付しているということ。


留保のない生の肯定に私は関心がないと再三述べている。前者に対して後者において条件付し留保を付していることを言説の構造として了解しておられるかということです。そして、了解ゆえの確信犯的言説として「劇場」の幕開けたる「ホームレスをガス室に」があったということ。つまり、後者において前者は棄却される、されうる、と。事実上の社会忌避者の社会参画意志において困窮者の社会的遺棄は是とされる、と公言したということ。事実上の社会忌避者と困窮者はイコールでない以上、論理的には違えている。世の中には言っていいことと言って面白いことと言って詮無いことが(ry


「人間の尊厳」とその有無を外在的条件に求めるとき、個々人の意志と幸福の主観性を措いてすべての国民に等しく「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を付するべく人権を普遍理念として志向する国家において尊厳は希求されるし、希求さるべく当該国家の構成員は人権の旗幟に立つ。


尊厳を個々人の内在性/内発性において希求するとき、それは幸福の主観性に基づく意志的選択としてパラフレーズされる。すなわち、人間の意志とそれに基づく選択が尊厳の在処であるがゆえにそのことが社会あるいはそれに対する参画と反し対立し結果遺棄はおろか廃棄されようとも尊厳が損なわれるものでない、と。市民であることと人間であることは相違するがゆえに尊厳とは人間に、その、時に反社会的な意志と選択に、付託される。


というふうに考えるなら思想的にかつての右翼なのだけれど、そうではなくて、以上を、生存の条件にして「人間」の存続の基盤としての社会の都合として論じるから、裏返る。市民でない人間は人間ならざるがゆえに人間性を公的に剥奪され遺棄されて致し方なし、と。簡単に言うなら裏返しのヒューマニズムであって、裏返しぶりがベタであるがゆえにSF的な、生存と(比喩的な)種の存続の条件として要請される「市民」において剥奪され遺棄される「人間」のその尊厳のひいては人間性の悲しみ、といったものを受け取る人は受け取りもするのだけれども。


間違っている、ということではない。「市民であることと人間であること」を理想的には一致させるために人権の遵守を市民社会に要請する、すなわち困窮者に対する社会的遺棄を当事者の社会参画意志の有無を措いて問う、という考え方もある、という話。それは理想的な市民社会の構想論である、嗚呼ポルポト、というのはポルポトは知らんがその通りだけれども、外在的条件においてであれ内在性/内発性においてであれ、あるべき規範に準拠して現在の社会を、あるいは個人を批判するとはそういうことであるしその点については右翼も左翼も相違ない。現在に準拠してあるべき理想としての規範を懐疑するのを保守と言う。繰り返すが貴賎はないし相互補完的でもある。

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「人間」を規定する人権と市民社会の幸福な結託結婚と紐帯が破れて亀裂が顕になったとき、裂け目からナチ的なるものがすなわちガス室がびっくり箱のように飛び出す、人権なき社会において「市民」の名のもとに不寛容が可視化される。そういう話であるなら、それはその通り。尊厳を唯一市民社会が規定するとき社会参画意志なき者は人間に値するか。ということでガス室が召喚される。


意志の有無というか自称観察者の主観に基づく精神性においてクズを規定し社会に対する還元性において「人間」を規定し、人権が尊厳を普遍的に規定する概念としてではなく社会に対する還元性において「人間」を規定する御都合主義として濫用されていると上部構造と下部構造を区別せず指摘し、加えて自ら規定したクズのクズなる意志においてさえ尊厳は内在するが「市民」でない以上社会的遺棄は致し方なしと説く。


「劇場」という名の自分で勝手に作ったルールに基づく出来レースとしての言説すなわちきわめて誘導的な擬似問題以外の何物でもないと私は思うけれど、オートマトンというのはそういうことかも知れない。私の見解は、同意するとしてそのことと外在的条件において人間の尊厳を言わば公義として希求することの妥当とは、関係がないですね、という。

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社会をダシに他者の生殺与奪を説くな、という反撥に対して、他者のひいては個人としての「人間」の生殺与奪は既に社会に掌握されているのであってそのことに従順たらんとすることが「市民」であろうとすることであって「市民」たらんとする限りその「責務」から逃れることはできない、斯様なSF的な悲しみにおいて構想される個人としての人間の尊厳とは何か、うん、それ無理、という話であるとして。


上記の構造を自身の規定する前提として「市民的責務」の外部において尊厳を問うとき、内在性/内発性を旗幟とし生真面目に主張せざるをえない、しかし個人の意志さえ生殺与奪を掌握する社会に選択として強制されるなら。つまり、きわめて唯物論的な「市民的責務」と普遍理念を自称する人権という上部構造の二重拘束において、私が私であることとはその幸福とは人間であることとはその残骸とは。『ファントム、クォンタム』とはこういう話でしたか、私は詳しく知らないのだけれど。


そのようなパロディに対して私が思うに、人権と社会が乖離して二人三脚がコケたことは、あるいはそれが端から糊塗と彌縫を重ねてきた欺瞞であったかも知れないことは、そして「市民」であることの実際的な困難と倫理的な苦衷は、生活と正義が相反することは、皆知ってる、そして到来したのは人権知ったこっちゃないの建前なき市民社会で、むろんそれはキモチ悪い人権派が正義の閾を徒に上げたがためにシニスム的な空転をもたらしたということでもあるが、そう知って改めて足首の紐を結び直そうと考えることは誤りでも愚策でもない。


つまり、人権と社会を「市民」であることにおいて媒介する三位一体の再構成が革命の神学であろうとも、たとえば19世紀ロンドンの産業社会においてディケンズが怒り涙したことはそのこととは少し違う。ディケンズ的な怒りと涙において世俗化された神学に可能性を見出す、それが左翼ならざる私のスタンスではある。かも知れない。


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社会的必然において、あるいは世界システムの出力として、遺棄され排出される者の尊厳を、生活と正義が相反するこの社会と世界において、誰がどのように実装するか。実装の方便として人権は存する、その方便が既に「使えない」なら、サテどうするか。方便を方便と書き立てて意志と選択において精神性を云々する健全な議論に私はやや閉口しないでもないので、それが枕であるなら、サテどうするか、については、結論が大麻の奨めとか脳に電極刺す奨めとかその類の話でないなら、つまり尊厳と幸福を区別したうえでの議論なら、傾聴すべきことでしょう。


尊厳と幸福に貴賎はないけれど、区別すべきとは私は思っている。尊厳はもう無理だから幸福で行こう、という話なら状況認識としてはあまりに自明でイロハのイです。つまりアウシュヴィッツにおける態度価値の問題です。『小公女』にある通り、女の子は身分財産に関わらず誰もが小さなプリンセスであるということに私は異論ない。セーラは最後は富豪に引き取られるけれども。

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http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20080908/1220877507


最後に。sjs7さんは、社会をダシに他者の生殺与奪を説くな、という主張において、なら「君」が「俺」を殺せと言っているのであって、論駁の一環であって決闘宣言でも、よろしいならばオフ会だ、でもないと思うのだけれど。加えて、社会をダシにしていること同様、ということでもない。他者の生殺与奪を社会をダシにして説くことは一見論理的に見えようともまったく倫理的でないがゆえに「人権」が社会の方便であることを指摘するための「方便のための方便」に過ぎない、という話なので。対するに傍から通報、というのはにゃんとも、ではある(過去の経緯は知っているが措いて)。


言説が倫理的でなかろうと構わない、というのは見識だけれど、「方便のための方便」で構わない、というのは釣り師の見識です。釣り師で悪いとは私は思いませんけれど。「社会をダシにして」とはつまり主観とそれに基づいた個人的な私見が混ざっているということなので、それすらも「劇場」のため用意されたテンプレートであるとして、つまり主観がどばどばと注ぎ込まれた括弧付の「社会」において他者の生殺与奪を妥当として説くことの実態を論者の内在性/内発性において示したいのか、それとも個人的な私見に基づいて問題を擬似問題化した挙句他者に善悪の彼岸としての是非を突きつけることの意味を知らしめたいのか。言いたくないけれど、既視感覚える話。確信犯的に極端に再演すれば斬新というものでもない。


私も両義的な記事を書きますが。私の釣りは崇高な意図に基づいた意義ある釣りですと自分で言うのはにゃんともです。態度価値を人権にも社会にも市民であることにも換えて全面的に肯定することが、崇高な意図でないとは私は必ずしも思わないのですけれども。


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