ハローマイダーリン急行


彼女がいる人に質問です。 彼女が欲しいです。 彼女が欲しいが、… - 人力検索はてな

http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20080908/1220866568


入力検索の質問を目にして思ったことには。

仕事がある人に質問です。仕事が欲しいです。仕事が欲しいが、得られない人が足りないことは何でしょうか。具体的、現実的に詳しくお願いします。その回答を参考にすれば仕事が得られるようにお願いします。


という質問に対して、「具体的、現実的」な一般論として答えるなら、足りないのは学歴、職歴、資格、と並べるよりは、まずはハロワに行ったら、若い人なら専門施設もあるし、ということになると思う。つまり「仕事が欲しい」という限定された問いに対して一般論として答えるなら、ということ。ハロワに行く服がない交通費がない、という問いでないなら、かつスペック不明なら、行動の問題ではないか、と言わざるをえない。むろん公的機関が「彼女」を斡旋してくれるわけではない。安価な公共売春施設という話でもないらしい。結局は「行くハロワがない」という問題なのかなとは思う。つまり、「出会いの場」が。そして、コネ就職は論外ということ。


現代において恋愛とは個人の自由な趣味の問題であるが、そしてそのことが地域共同体あるいは会社共同体的な結婚斡旋システムを破壊してもいるが、そして恋愛資本主義が覿面な新自由主義擬制として全面化したのだけれど、要は勇気が自己責任。恋愛とは国家が要請するものではないが、その国家が少子化を憂いてもいる。そして個人の自律に基づく資本主義社会は恋愛を要請しているらしい。恋は仕事のサプリということで。


さて、社会の要請に基づいた新自由主義擬制に対するセーフティネットとしての、仕事を斡旋するハローワークのような、(建前としてであれ結婚は関係なく)「彼女」そして「彼氏」を斡旋する公的機関の設立を求めたとき、たとえばフェミニストは反対するだろうか、ってするに決まっている。突っ込みどころを挙げればキリがない、かつ、ハローワーク偽装派遣の温床ともなっているように、偽装彼女/彼氏すなわち売買春の温床となるに決まっている。しかし私がときどきそういうことを思うのは、「彼女が欲しい」と考える男性と同程度には「彼氏が欲しい」と考える女性も多いから。むろん公共機関が仲介するわけにもいかないので、世に結婚相談所や出会い系サイトは栄える。

■■■


「彼女」を斡旋するハローワークなきとき行動を云々することはつまりナンパの奨めということにしかならないのかなと思う、テクニカルな話としては。私もよく表題を茶化すように引用してしまったが、『要は、勇気がないんでしょ?』という名記事(とは私は思っている)の構造と実質について、mojimojiさんの言及記事を拝読したせいかも知れないが、改めて考えてしまった。


欲望あるいは達成目標が自身にとって明確であるとき逡巡の公言に意義はない、少なくとも自分自身にとっては意義がない、という趣旨の記事であったのだけれど、そのこと自体はその通りとも思う。つまり、欲望あるいは達成目標が自身にとって明確であるならば。そこに迷いと曇りがないなら。すなわち、逡巡とは勇気の有無の帰結するところであると。


guri_2さんの元記事において登場する「男友達」が実質的に説いていたことは以下。「彼女が欲しい」を「出会いがない」と原因転嫁的に言い換えるべきでない、「彼女が欲しい」という自身の欲望あるいは達成目標が明確であるなら、そこに迷いと曇りがないなら、行動の選択肢は無数であって、逡巡の公言とは原因回避ならびに責任転嫁の代償行為でしかない。


そのことに記事中のguri_2さんは得心してしまうのだけれど、しかし「男友達」の実質的な主張としての、自身の欲望あるいは達成目標が明確であるとき行動の選択肢は無数でありかつそれは最短距離であって為されない行動の代償行為たる逡巡の公言は排除さるべき、が妥当な正論であるとして、それは以下の二点の限定において成立する正論である。


自身の欲望あるいは達成目標が自身にとって明確であって迷いや曇りなきこと。加えて、逡巡の公言が代償行為であることに疑いないこと、つまり、公言される逡巡とは為されない行動の代償行為でしかなく逡巡それ自体は欲望あるいは達成目標の明確なる自身にとっては迷いや曇りの反映ではないこと。そして、逡巡の公言とは迷いや曇りの反映の言語化ではないこと。


逡巡の公言が行動を阻害する。それは、欲望あるいは達成目標の明確性に対する自身の迷いや曇りを棄却するところにおいて成立する括弧付の正論である。むろん、自身が棄却することそれ自体は構わない。が、主張としては危うい。


欲望あるいは達成目標の明確性に対する自身の迷いや曇りが逡巡を生み、ひいてはタスクの処理に際してその言語化が伴う。そのこと自体は幾らもあることで、つまり人はぶつくさ言いながらも仕事をこなす。対するに手を動かせコード書け、と応じる世界があることは言うまでもないが、宮崎駿もそうであるように、それなりに社会化された人はぶつくさ言いながら手を動かすものである。恋愛というのもそういうものと私は思っている。というか。手が動かなくなったらそれなりに潮時。


そのことは大事なことなので。欲望あるいは達成目標の明確性に対する自身の迷いや曇りが逡巡を生み、ひいてはタスクの処理に際してその言語化が伴う、そのことに対して、欲望あるいは達成目標の明確性に対する自身の迷いや曇りそれ自体を手が止まる原因として棄却すべきとmy businessの外ですなわち一般論として説くことは、そしてそのことが支持されることは、それなりに危険なことではある。社会的動物としても。


そして、私が興味深く思うのは、恋愛絡みの話にそうした立論が適用されること。なぜか。給料も約束も関わらない世界において、自身の欲望あるいは達成目標の明確性に対する迷いや曇りは棄却される理由がない。すなわち、自身にとってその欲望や達成目標は必ずしも明確でないということ。たとえば「彼女が欲しい」「そのための出会いが欲しい」というそれは。


そうした話ではないか。「彼女」を斡旋するハローワークなきとき行動の欠如あるいはそれに際する逡巡とその正当を指摘するほか「彼女が欲しい」に対するアンサーはない。「彼氏が欲しい」女性は世にあふれている、だから、guri_2さんの記事に登場する「男友達」の指摘は正しいということにもなる。つまり、「仕事が欲しい」に限定された問いにおける仕事探しと同様に、選り好みとかそういう問題でないのなら。つまりそうした問題を棄却してしまうのなら。むろん、近代において、向き不向きにおいて選り好みするから仕事なのであり、相性において選り好みするから男と女なのである。そして、選り好みしていたら普通はナンパ師にはなれない。「なりたくねえよ」は正しい。


正しいというのは、つまり、「なりたくねえよ」という自己規範が行動の逡巡をもたらすのだから、そして給料も約束も関わることのない自身にとっての欲望あるいは達成目標の明確性は自分しかわからないのだから。行動に際してそれらを棄却するという発想が普通におかしい。ナンパ師にはなりたくないから「彼女」が欲しいのだろうに。棄却しなければ宜しい。


「彼女」という聖杯のためぶつくさ言いながら出会いを探し求めることはまったく悪いことでもダサいことでもない。あるいは、Twitterで彼女が欲しいとぶつくさ言っていると出会いがあるのかも知れない。いや私はTwitterのことはよく知らんが。現実解としては、「彼女」を斡旋するハローワークの設置を公約する政党に次の総選挙で投票することしかないのではないか。あるいは自分で公約して立候補するか。誰かそうするでしょう。まぁ、なんだ、急がば回れハローワークではないのであるからして、ハローマイダーリンとか、そういう機関名で。

■■■


以下蛇足。葡萄は酸っぱい。そのことを知るからみな説教したがるのだろう。既婚者が「君もそろそろ結婚しないと」とか言うアレ。俺と同じ気苦労を味わえ、と足首の鎖を自慢して。女という鉄球に繋がった鎖が足首に嵌っていることを名誉と思う因果な存在であるらしい、時に男は。それはマザコンと言わずとも母親問題の擬制として、8 1/2的主題の相としてある。


グイドのように汚れちまって久しい私は、それが何より厭で、ただ同じ風景を黙って眺めていられる相手が「欲しかった」。むろん性愛とはそういうわけにはいかない。そして多弁な私は、宇多田の歌にあるように、オレンジ色の夕日を隣で見てるだけでよかったのに口は災いの元。同じ方向を決して見ることのない人としか私は付き合わなかったし、付き合っていない、そして互いの欲する矢印は延々とズレる、まるでゴダールが描く愛のように。性分なのだろう。欲しいものは手に入らないようにできている。「彼女」はあっても自分の欲する人ではないというのは人を殺伐とさせる。自己陶酔は措き。

ひねくれ非モテや去勢非モテが大勢いる今時、めずらしく素直に「恋愛したい」とお金まで払って質問してる非モテに「好きな人ができてから」ってひどすぎだろjk。アドバイスするなら「好きな人ができる方法」まで教えるべきだし、できないなら無視するか、身近な人に聞け、ネットでやるなと罵倒するほうがよっぽど誠実だと思う。

http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20080908/1220866568


「好きな人ができる方法」――か。アドバイスたりうるとは毛頭思わないが、雑かつ抽象的に答えるなら、自他に方便を用意すること。異性と関わらざるをえないような状況を自ら設定する、あるいは他人に設定させること。つまり、関わることにプライベートでない、すなわち自身の意思感情とは関係のない理由を公式に付する。その理由に継続性を付加する。


「誘う」ことができなくとも、別件に「かこつけて」親しくなる人たちはいるし、別件に「かこつけて」あわよくば親しくならんと企図する人はいる。もっとも、職場におけるセクハラの要因たりうるし、水商売の女性/男性に敢えて本気になる客が多い理由でもある。しかしうまくいくこともある。「誘う」ことのハードルが自身にとって高いなら、そして異性全般とプライベートに関わることのハードルが自身にとって高いなら、心ならずも仕方なくという事情を自他に公式に付すること。つまり、方便をもって異性と関わること。言うならば、

1.「誰かを好きになること」 
2.「その誰かに対して、(たとえ不出来不完全とはいえ)自分自身が関わって良好な関係を構築していきたいと願う」 

「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠


の、2.を1.に先行させること、「誰か」は誰でも構わず、「願う」は方便に隠すこと、意図的かつ人為的に。物事は形としての関係性から。自身の感情は後から付いてくる、ことがある。恋愛であろうとも。抽象的と言ったが、それは私が現在の交際相手とそういうことになった経緯でもある。むろん私は端から企図していたのでなくて結果論であって仕事関係の縁の成り行きにおいてそう自他に理由を付していたし先方も公式の方便を無茶なことにも利用していた。その点において暗黙の共犯ではあったが、結局は先方の誘惑に押し切られた、というのは言訳だけれども、えらく年下の娘と付き合っていることの。


言うまでもなく、恋愛とは勇気の有無の問題ではなくて、フラグの問題である。設定においてフラグの立つ蓋然は用意される、それが必然であるならエロゲだが、蓋然であるとき世の中は男女は案外とエロゲ的でもあったりする、特に若いうちは。設定はフラグに先立つ、設定がフラグの蓋然を用意する、その設定を自身で構築すること、あるいは誰かが用意すること、社会的な必然の名のもとに。社会的に保証された方便を先行させて異性と関わること。


それは多く実態としてヨゴレな話ではあるが。権力が利用されるときセクハラたりえるし、金銭が使用されるとき「色恋」たりえるように。権力なく金銭なき者がいかにその設定を社会的正当性において構築するか、関係性における方便の調達に知恵を使うことは、たぶん「誘う」ことや異性全般とプライベートに関わることよりは、ある傾向の人にとって容易いだろう。


貶めて言っているのではない。別に私の事例が特異ということでもなく結果論として多くの男女は無意識あるいは意識的に方便を利用し使い回して彼氏彼女という関係性へと至っている。端から意識かつ自覚して回すということ。惚れたはれたが不得手で、本気より方便を先行させた方が欲望あるいは達成目標に近いならそうするが吉。本気があって方便があるのでは必ずしもない。方便の後から本気は付いてくる、かも知れない。方便ならざる本気の保証は社会もできない。


具体的には書かないが、選択肢は無数だ。そして、「誘う」ことや女性全般とプライベートに関わることより――すなわち「要は、勇気」を出すことより――方便という社会の保証の遵守を得手とする者にとって、相対的に適した選択肢たりうる。欲望あるいは達成目標が、迷いや曇りを抱えつつも、自身にとって明瞭な輪郭を持ち合わせているなら。という条件付であるが。言うまでもなく、見合いとはその一環でありかつて大本命であった。欲望あるいは達成目標と行動を方便において架橋すること、本気は後から付いてくるか知らん。付いてきたならおめでとさん。


恋愛において生身にして個人であることは必ずしも一切に先んじるものではない。方便において男女は括弧付の個人として適切に関係しうる。そのとき方便を取っ払うことにおいて生身の個人が獲得されるとは必ずしも言えない。社会的存在としての人間において、生身を自己にも他にも糊塗するために方便は存する。方便のもと私圏として規定される自我の断片的溶解と侵食を恋愛と呼ぶとき、そこに発する感情を方便に先行すると人は時に一般化して考えるが、そうでない。むろん先行もする、が一切ではない。つまり、感情教育とは何か。


「惹かれ合う」ことを私は否定するものではないし信じていないわけでもない。しかし「惹かれ合う」ことは本人にとってスペシャルであろうと汎用概念ではない。スペシャルを汎用概念化したうえで機会の平等を説くことが欺瞞を含むことは言うまでもない。なお情操とその涵養は平等でない。にもかかわらず恋愛に機会平等のみを説き行動に駆り立てることが、残酷なことであることは違いない。恋がしたいと彼女が欲しいは違うと私は思っている。貴賎はない。