船上の手術室(パーティ会場で生まれた子供)

痛いニュース(ノ∀`) : 「マジメな子を取りたかった」 合格圏内でも、願書受付時の服装・態度悪い受験生22人不合格→校長謝罪…神奈川・神田高校 - ライブドアブログ

はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「マジメな子を取りたかった」 合格圏内でも、願書受付時の服装・態度悪い受験生22人不合格→校長謝罪…神奈川・神田高校

神奈川県教育委員会は28日、県立神田高校(平塚市)で2004、
05、07年度に行われた入学試験で、内申書、学力試験、面接の
総合的な成績順位は合格圏内に入っていたのに、願書受け付け時の服装、態度などが悪く入学後の生徒指導が困難と判断した受験者22人を、選考基準に従わず不合格にしていたと発表した。


本来、私はこんなの教育の敗北でしかないと思っている。選考基準上合格圏内のどうしようもないやつをどうしようもないと思うなら、受け入れてそう教えればいい。この世は選考基準の体裁を取り繕う場所ではないと。しかし、それは産科医療問題について、こんなの医療の敗北でしかない、と第三者が言ってのけるようなものであることを知っている。つまり、腐ったミカンは隔離するべきだし、職業としての公務員には職責の範囲があって過当を求めうるものではない。熱血には見当違いというものがあり、見当違いは時に自身の権力の隠蔽を含む。

記者会見で渕野辰雄校長は、「先生方の生徒指導の負担軽減とまじめな子を
とっていきたいという思いだけだった。大変申し訳なく思っている」と陳謝した。


そして、そんな職責過当に対してほっといてほしいと、茶髪ピアスの中学生だった私は思ったろう。私はほっといてくれる私立の進学校に中学から行った。もっとも、教師がほっとくということは先輩諸賢がほっとかないということで、ルールのない世界には掟がある。それがわからない奴はどちらにせよ損する。ピアスひとつにも根回しするか筋通すのが中学生で、親父に半殺しにされるのが中学生で、だから私は一刻も早く大人になりたかった。子供の世界などろくでもないと思っていた。掟よりルールがマシと現在では思っている。

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id:NOV1975さんが大変真摯に論駁しておられたので、改めて読み直してみた。


「なぜそんなに払ってそんなに働いてもらわないといけなくなったか」と: la_causette
勤務医の所得水準と勤務弁護士の所得水準: la_causette
自治体の財政と医療: la_causette
QOLの向上に資する所得水準の上昇と,単にプライドをくすぐるだけの所得水準の上昇: la_causette
医師以外の職業を馬鹿にしすぎるのでは?: la_causette
勤務医とアニメーター: la_causette
予算に限りがある現実社会では,頭数の問題と給料の問題は切り離せない: la_causette


……率直に申し上げて、何を論じておられるのか。一般論として、むろん人間は金は欲しいに決まってる。市場原理の必然に即して勤務医は割の悪い「ビジネス」をしている。公共が要請するインフラストラクチャーであるがゆえに貧乏人の相手しているのだから。社会インフラを公共リソースにおいて充当する議論に対して、市場原理に即した金銭欲を問うことは、なら首尾一貫して市場原理を適用するか、あるいはシステムとして社会主義化するべきですね、という話にしかならない。逃散とは、市場原理に即して医師が行動するということです。それでよいのか、と。市場原理に即した結果の廃業も含むとき、それでよいのですか、と。問われているのは誰か、ということです。国民皆保険はなぜ存在するか。


アニメーターを引き合いに出しておられるけれども、その伝で言うなら、それは現在開業医に対して自身をダンピングせよと言うに等しいことです。業界団体の市場に対する故意の供給抑制が不当な価格を維持している、という立論でないなら。ならば逃散は市場と一致する社会にとって歓迎すべきことですね――そのような立論なら。市場原理と社会インフラを同じこととして考えるからそうなる。


市場原理を前提して医療を社会インフラと認める限り、公共リソースにおいて充当さるべきであって、公共リソース投入を望むなら医療関係者が襟を正すべき、と正す襟の存在を前提に言っておられるとは思うけれど、正す襟ありきのそうした議論は最近よく見かけるとは思った。社会インフラと合意された存在に対する公共リソース投入について他人の正すべき襟を指摘する、私利私欲を問題とする議論。新しい皮袋に入った社会主義、とは言わないけれど。

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戦犯、とはむろん比喩的表現のはずだけれど、本気で戦犯がいると思っている人が世の中にはいる。かつて東京裁判において裁かれた戦争犯罪人は「B級」「C級」のそれと相違して、戦争の指導責任を問われた。「責任を取らせる」とは、かつて連合国がそうしたように、言うなれば時に超法規的だった。「被害者」が国民にあるとき政策の責任を取らせることは常に超法規的だった。こう言ってよいなら、2.26事件のように。なぜなら、政策の責任を法的に取らせることはできない。むろん、結果責任であろうと政治的責任はある。


――だから、政治の責任は政治で、政策の責任は換わる政策で、法的に取らせることのできない責任は政治的に、選挙できっちり取らせて「オトシマエ付ける」よりほかない。そして、共産党社民党に投票する気が毛頭ない私は来たる政権選択選挙に際する自身の選択に頭を痛めている。


はてなブックマーク - 麻生首相とホテルBar|デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba


橋下知事について記した前記記事と重なるけれど、私はこの方は好きだしこう言うのも当然でこの方の見識と思うけれど、代表制の理念はかくも骨抜きにされているか、というのが「正論」とする多くの反応に対する感想で、フランス人が幾人もの女を愛したミッテランをフランスの利益代表者と認めたことと、日本人が明治以来の近代化を背景に銀のスプーンをくわえて生まれてきた麻生太郎を日本の利益代表者と認めるか否かということは、問題としてまったく違う。


別にフランス人は恋が好きで女好きとかそういうレベルの話でなく、家族を超克しうる「愛」の観念をトリコロールを掲げる革命の国の人々は近代化を経て得るに至った、ということ。ミッテランは複雑な政治的履歴を持ち合わせた左派政治家でもあった。デヴィ夫人がそう見なしたように、日の丸を掲げた日本の近代化は日本人にとって銀のスプーンを銀のスプーンとして受容させた。つまり露骨な身分主義として。そのことの是非は措き、古色蒼然たる銀のスプーンの観念は代表制の理念と整合するか、という話。


むろん理念は措き実態とは整合しうる、それは「グローバルスタンダード」でもあって、かつ近代化後進国のスタンダードである。そして、古色蒼然たる銀のスプーンの観念が代表制の理念を容易に覆すのが近代化後進国のあまりに典型的なスタンダード。農村出の教師であった男が築いた共産党政権における現在の太子党のように。


社会主義は嫉妬において駆動される、という定型の批判図式がある。典型的に代表制の陥穽はあって、対するにレーニンが説いたような前衛党的な指導/被指導の発想を退けて、政治とは近代にあってなお究極的に家業の延長である、というスタンダードな結論が示される。


対するに、それが自民党的な体制既得権益の根源としてある、というこれも散々既出の批判を経て、代表性の理念に戻るとき究極的には柄谷行人が説いたごとく「くじ引きで決める代表者」ということになるけれど、それが批判にさらされまくったことは言うまでもない。ホントこの世は地獄だぜ! フゥハハハーハァー


近代にあってなお究極的に家業の延長としてある政治が、日本の政治体制の強固を支えると同時に、その権益を強固に維持している。革命に関心ない政治的改良主義者の私は、家業の延長としてある日本のマフィアな政治が国家の資源を舞台に無数のプレイヤーによるゲームの最中であることを改めて確認すると同時に、家業の延長としてあるマフィアな政治がそれ自体で選良の証明であるわけではないというごく当たり前のことを確認しておきたい。そして麻生太郎は一定の見識と胆ある政治家とは思うし、嫌いな人ではない。



中森明夫ではないが、真面目な話、私は現首相は吉田茂の孫である以上に吉田健一の甥と思っているので、discreteなホテルのバーで葉巻片手に一杯やっていても飲み方がスマートなら一向構わない。物理的にまったくdiscreteでない中央線駅前酒場が似合う人とは思わないし、それはそれで高田渡とか似合う人がいる。


で。むろん首相麻生太郎のライフスタイルは銀のスプーンと関係あるけれど、そうではなくて、つまり成育環境の帰結として政治とは別個に問われるべき事柄ではなく、家業の延長としてある政治の是非を問うとき近代化以来の吉田茂とその血脈の特別性を強調することはすぐれて政治的な事柄であり自民党的なマフィア政治それ自体を問うことであって、首相の私生活をもって印象論で批判しているということではないと思うけれど。


むろん、吉田茂の直系を自認するエスタブリッシュメント麻生太郎自民党的、というか経世会的なマフィア政治の本流に位置したことは一度もない。そして印象論で批判していたマスメディアがあったことは事実です。しかし近代化以来の吉田家の特別性を指摘することが自民党的なマフィア政治それ自体を代表制の理念に即して問うことでないわけではない。だから、吉田健一は、あるいは白洲正子は、政治に関わることを基本的に嫌った。


世襲政治の批判とは、端的に近代社会における政治が職業としてのそれでなくエスタブリッシュな家業としてのそれであることに対する批判としてある。家業としての政治とはマフィア的な政治であって自民党体制とはまさしくそれであり、維新以来あるいはその以前から日本社会がそもそもそうである以上それで回る世間があり社会があることは事実であって、対する反動としてファシズムや党人政治に対する持たざる者の子弟たる軍部の反撥ひいては暴走があったこともまた歴史的かつ世界的な事実であるとき、ルサンチマンと嫉妬において駆動される、という定型図式が機能し近代化後進国たる日本にあって社会主義は分が悪い。


しかし。それで回る世間があり社会がある以上、家業としての政治を要請するマフィア的な政治と自民党体制こそ日本社会ひいては日本国民の幸福のための最適解であり安定解である、とする見解には到底与しえないと、私の中の北一輝が絶叫している。


職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

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「責任を問う」とはそういうことで、これからアメリカがそうするだろうように、その責任は選挙をもって問うしかないと私は考えるけれど。エスタブリッシュな「家業としての政治」を、そういうものと考えるか、代表制の危機と考えるか。


「職業としての政治」が多く「家業としての政治」と一致する日本。小泉純一郎は次男を後継者としました。それは彼自身が三世である以上後援会に対して当然のことですが、代表制の理念と整合し難いとき、社会は世間はそういうマフィア的なものだ、というのはその通りですが言説としては端的に既得権益の肯定です。


社会力学の変動期にあって首相小泉純一郎は事実上のボナパルティズムに拠ってマフィア的な既得権益構造を打破しました。大阪府知事が再演しようとしているように。結果、利益循環サークルであると同時に利害超越的な紐帯を構成する幻想的談合を破壊され基盤としての共同性を失った社会は利害を調停するのでなく利害において対立するべく再編成されつつある。


自民党的な利害の調停が馴致に基づく談合であり利益循環サークルの内部での八百長であったとして、所謂「ネオリベ化」が進行するとき利害の調停は端から放擲され利害は対立するものとしてフェアな競争が社会において奨励される。そのこと自体は結構なことかも知れない。が。


社会においてフェアな競争が実現されるため投入さるべき公共リソースのために国家は存在する。新自由主義とは「政治が実現すべき公正は市場の公正において実現される」とする社会思想のことではないと私は考えるけれど。フェアな競争を実現する社会インフラとして教育はあり医療はあり福祉はあり、以上をクリアしたうえで市場の公正が政治において主張されうる。そうした条件付が小さな政府の実現を困難にすることは承知だけれど、当たり前のことを確認しているのは、フェアな競争は政策として実現されなければならないのであって、一切合財を市場に委ねてしまうことでは、少なくとも政治の役割としてはない。フェアな競争を政治概念として謳う限りは。


市場にあっては、極端には投資においてそれは自明のことだが、最終的には持つ者が勝つ。小泉氏の次男が当選どころか圧勝するだろうように。つまり、ケインズ言うところの美人投票としての市場は時に正しく寡占の傾向を示しうる。それが銀のスプーンであるという議論は、個人のライフスタイルの問題というごまかしでなく正しく本質であり、身も蓋もないのはよいけれど、身も蓋もない議論が正論であるなら、自民党体制はまったく正しいだろう。談合という八百長も、フェアな競争という市場原理を盾とする政策的な八百長も。


小泉政権構造改革が言わば経世会的な八百長を政策的に是正したことは事実です。社会力学の変動期にあってそのために利用されたボナパルティズムが日本社会にもたらした変化は決定的であって、時計の針は戻らない。歴史は不可逆であり、エントロピーは増大し続ける。


八百長で悪いということではむろんない。生活と正義は相反するし私もまた八百長を担って生きている。八百長の排除を徹底した社会を描いて社会主義の理想は成った。革命の英雄はその社会を実現しようとした。政策的な八百長を市場原理のフェアを持ち出して説明する者の言を信じるなという話。


そして政策的な八百長のもとフェアネスの(欺瞞とは言わないけれど)限定性に基づいて各プレイヤーがサバイバルするべく条件付されライフハックが尊ばれる。そしてディックの小説のごとく悲痛なのは、ライフハック記事をブックマークする各プレイヤーはむろんそのことをよく知っているし、厭というほど知ってもいる。なので、奴隷の鎖自慢を社会構造に即して指摘する、という問題意識を端的に夜郎自大と人は思うだろう。92年大統領選挙におけるクリントン流に言うなら、問題は社会の全体性ではない、自分の生活であり仕事であり、よりよき生活と仕事とその継続だよ、このバカ、と。


経済政策がホームレスの苦境に帰結するという話に私は関心ないけれど(いつの時代のどこの国にもホームレスはある。社会主義国にはいないそうだが、党見解的な意味で)、政策すなわちゲームの八百長を承知でプレイヤーとしての個人のアンフェアを指摘することは、アンフェアな個人の困窮を「説明」するためのものでしかないと思う。つまり一切承知でそう煽ってみせた人がはてなにいた通り、ホームレスは社会的個人としての向上心なきクズばかりと。


幾度も書いているが、自己責任論の問題とは、そういうこと。政策に政治的責任を負う立場の者が市場原理に個々人の困難を帰結するなら、少なくとも仕事してからにしてくれ、という話であり、生活と正義が相反する社会において幾許かの正義を胸に持ち合わせて生きる者として、私たちはそう言っていい。


市場原理の正当や神の見えざる手は政策の不十分を免罪するための理屈ではない。そして、政権の政策が不十分であることが政治家の銀のスプーンに由来するなら、まさにマリー・アントワネットであって、家業としての政治は近代社会における職業としての政治と両立しないことになる。代表性の危機とは理念に尽きる問題ではない。政治概念としての市場原理が銀のスプーンと整合してしまうこと、そしてそれが現実の市場にあっても合理解であることこそ、問題。


ケインズ再びということではない。そして私はBI(ベーシック・インカム)に原則賛成だけれど、けれどというのは、個々人の競争とその結果を絶対化するリテラルな機会平等が市場原理に即して銀のスプーンを更なるジョーカーとするだろうから。銀のスプーンが覿面に美人投票の触媒たりうるとき結果平等において市場の合理解としての銀のスプーンを排するには社会主義以外に選択なく、そして言うまでもなく私は実現可能性以前に社会主義には反対。ただし、BIの理念に対して懐疑的な人が結果平等を志向することは、当たり前のこと。


少なくとも、BIすら理念的に検討されずに謳われる市場原理に即した「フェアな競争」は、政治概念としてのそれである。以前、終風師が「「ネオリベ」とか経済以外で使う人ってただのバカなんじゃないかな」と言っておられたけれど、つまり政治概念としての「市場原理に即したフェアな競争」が規定する任意の社会観/価値観とその八百長性を指して「ネオリベ」と言うのだと、私は思っています。むろん言葉の定義でなく社会的な文脈の問題として。


八百長とフェアは対立概念としてある。八百長を排するためにフェアな競争を公に謳う者が八百長に手を染めていること、その謳い文句を真に受けて八百長をフェアな競争と信じること、あるいは八百長の中でのフェアな競争を信じること、それが、「ネオリベ化」の意味であり、帰結でした。改めて言うまでもなく、小泉純一郎は三世議員でした。そして歴史は不可逆でありエントロピーは不可避的に増大します。


ただ。八百長を知る(普通に大人は知る)多くの人は八百長の中でのフェアな競争をその限定性において、また限定性を承知で、信じており、かつそれは現在の私たちの真っ当な社会性と規範意識を規定しているので、一概に否とすることには私は関心ない。社会はその規範意識を結果的に規定するのであって、「ネオリベ化」の進行した社会において規定された規範意識が個々人の社会性とコードとしての倫理観を涵養することの意味を退けることには賛成しない。


私は結果平等は御免被るけれど、御免と言いうるには、市場原理とその帰結としての結果不平等に一元的に規定されない幸福の多様性を社会が志向する必要がある。さて、日本社会は志向しているだろうか。志向している、というのは、社会インフラを公共リソースにおいて支えるということであって、個人の自由と価値観の多様化においてホームレスになって野垂れ死ぬ自由が許容されているということではない。というか、そういう立論は出来レースにも程がある。


私が大麻合法化論に賛成しかねるのは、多くそのことを故とする。個人の自由と価値観の多様性において大麻でハッピーになる自由を許容することと、社会インフラを公共リソースにおいて支えることの放擲は、たぶん公共財としての政府においてバーターである。私は無政府主義者ではないし、むろんホームレスが存在しない結果平等を志向する社会主義は真っ平御免だ。シンガポールも。

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社会力学の変動期にあって時の首相が成し遂げた事実上のボナパルティズムがもたらした日本社会の決定的変化において、利益循環サークルの内部での談合という八百長――利害超越的な社会的紐帯の機能を果たしていた利害調停――が退けられ、政策としての利害調停の放擲のもと利害対立に基づくフェアな競争が謳われるとき、たとえばフェアな競争というゲームから脱落したホームレスを守る社会的基盤は、公共リソースとしてのインフラストラクチャーにおいて求めるに危うい。人の善意と「施し」とは別に。


利害対立に基づくフェアな競争からの脱落者はあって構わない。しかし競争からの脱落者がたとえば公共施設としての図書館において利害対立の当事者となったとき、そのことを理由に投入さるべき公共リソースはプライオリティに諮るとき危うい。


公共施設における利害対立の調停を図るため投入される公共リソースは、生存権すなわち福祉のため投入さるべき公共リソースではない。別の話が一緒くたにされたかに見えたのは、後者に対する公共リソースの投入がそもそも心許ないからであり、むろん前者も同じことであってつまりそういうことなのだが、結果として前者と後者が公共施設としての図書館を舞台に同時に問題化したとき、公共リソースの投入は前者の問題として処理される。


以前、ホームレスの一部支援者についてnijuusannmiriさんも少し言及しておられたけれど、社会的競争からの脱落者としての所謂社会的弱者の支援組織がそのやり方が時に「フェアでない」八百長であり談合でありうることは当たり前で、つまり利益循環サークルでマフィアということでもあるが、しかし利害超越的な社会的紐帯としての機能を、社会のボトム――それこそ底辺において果たしてもいた。そうでないなら、経済成長期において、バブル経済下において、破裂後の長期不況において、誰がドヤの野宿者のことなど気に掛けるだろう? 社会的競争からのアンフェアな脱落者を。


アンフェアでイリーガルでフリーライドで公金と社会資源の横領であったかも知れないが、それはかつて公共リソースとしての社会インフラストラクチャーでもあった。それらは、マネーゲームとしての金融資本主義が私たちの社会を実際において支えていたように、実際において私たちの社会を支えていた基盤だった。むろん「治安対策」としても。


その一切合財が破壊されたとき、むろんそれは社会正義に照らして正しいことであるけれど、ところでホームレスは誰が何に拠って助けるのだろう? それも価値観の多様性に基づく個人の自由だろうか。私は私の価値観に基づき個人の自由として支援活動にはコミットしないけれど、また当然納税しているが、それで終了すべき現状とも思わない。だからこうしてブログ書いている。「治安対策」については警察力のおおっぴらな導入で無問題と人は考えるらしい。人の善意と施しに頼れば宜しいというのはディケンズ時代のロンドンである。


「だから」ロンドンを倣って私たちは福祉制度を社会において構築し公共リソースにおいて充当した。その実態は時にアンフェアな八百長でありコネに基づく談合であるのだから公共リソースにおいて充当するに不適格であって社会インフラであろうと襟を正せ、というのはあるいは正しいしBI原則賛成の私は同意しないでもない、そして襟を正した結果ホームレスに対して公共リソースを投入する合意さるべき社会的根拠は構築されたろうか。貴方の家に泊めよ、が通用するのは構築されなかったことの証左だろう。唯一人権を除いては。「本当の本当に大切なこと」としての。


社会的競争からのアンフェアな脱落者が生きるためにアンフェアに公共リソースから奪って何が問題か。そう考える発想だってあった。対するに、それはアンフェアであるとだけ指摘することの空しさを私は思う。生存権が自明だからではない、「アンフェアであるとだけ」指摘することが生存の困難を結果することが、社会的競争にさらされて納税する現在の私たちにとっての、合意された社会インフラのために投入される公共リソースの意味だから。社会的競争の脱落者に対するアンフェアな経済的支援を社会インフラとして私たちは合意していない。「だから」私はBIに原則賛成なのだけれど。


なお、府知事の一連の、民間と比較する発言に顕著だが、昨今の所謂「公務員叩き」もその点に由来する。社会的競争からのアンフェアな脱落者がアンフェアに公共リソースから奪っていると。だから、この問題が「公務員vsホームレス」の構図になることだけは、避けたいと私も思う、ので改めて書いた。


人権が自明とかはてなサヨクは言うことが極端に過ぎる、と思っている人があるらしいけれど、そのことには理由がある。人権をその根拠としないなら、ホームレスに対する公共リソース投入の社会的合意を形成する根拠は調達されない、現在の日本社会にあってはどこからも。善意と施しは橋下知事言うところの民間の発想であって、公共財は善意と施しにおいて運営されているのではない。


実際には。正しいから憲法に書いてあるとして(むろんそれはフィクションであるが)、憲法に書いてあるから公共リソースにおいて充当さるべきかは、構成員の意思すなわち財布の紐に基づく。憲法に人権と書いてあるから死刑廃止すべきとは私は思わない。法律まして憲法とは建前であって、憲法に対する遵守義務が統治権力に存することと、九条問題に顕著であるように、遵守義務の閾値を国民が統治の実態に即して事実上決定していることは、対としてある。

しかし、「優先的に救わなくてもいい」というホームレスを排除したり切り捨てたりしていい、とは思わない。それを認めてしまったら、今度はボーダーラインに居る人が末端になる。その時に「もっと困ってる人が居るのだから、そっちは優先的に救わなくていい。切り捨てろ」ということにならない保証はない、という風に感じるし、その時に切り捨てられるのは、僕や僕の大事な人かもしれない。というか、その前に排除されるホームレスも、僕や僕の大事な人かもしれない。


そんなのは嫌だ。


仮に「有限なリソースでは全ての人は救えない」が正しかったとしても、末端を見捨てないよう知恵を絞ろうとする社会の方が、諦めて切り捨てる社会よりも、僕は好きだ。

ホームレス問題を、少しだけ現実的に考える。 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は


私たちはなぜホームレスに対して有限なる公共リソースを投入しなければならないか。そのことに対する社会的合意形成の根拠として、憲法に明記された人権ひいては生存権以外には、もはや何もないのだ。「本当の本当に大切なこと」としてのそれ以外には、何も。


「私たちはなぜホームレスに対して有限なる公共リソースを投入しなければならないか」それは、かつて公に問うべきでない問いだった。人権は生存権は自明であり憲法に書いてあるから。統治権力には憲法に対する遵守義務が存するから。遵守義務の閾値を国民が統治の実態に即して事実上決定するとき、そのことが「自覚」されたとき、問いはおおっぴらに示されるようになった。貴方の家に泊めよ、がクリティカルな批判たりうると考えられるようになった。問いに答える根拠は唯一、人権ひいては生存権しかない。


利害超越的な社会的紐帯をその機能的側面を無視して社会正義の観点から襟を正すべく指摘した挙句一切合財を破壊し、フェアな競争を社会正義として利害調停を放擲し対立を煽った政治が、にもかかわらずフェアネスの政策的設定を故意にか知らんが怠けている状況にあって、銀のスプーンが個人の成育環境に基づくライフスタイルの問題として処理される限りは、ほかなる根拠はない。デヴィ夫人は本質を喝破しており、その意味では成程正論です。

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医療崩壊問題に戻るとこうなる。「貴族化」と記しておられるのでそういうことと思うけれど。職業としての医療でなく家業としての医療には正す襟あるのではないか――社会主義を志向するのでなく市場原理に即してこういうことを言うと、言っているぶんにはまだしも、それが政策として反映されたらたぶん壊滅的な結果になる。


で。そういうことの以前に医療崩壊問題のひとつの要点たる長時間労働の理由を市場原理に即した金銭欲に還元するなら、首相がdiscreteなバーで葉巻片手に一杯やることそれ自体が代表制において問題と言っているに等しく、成育環境の相違に基づくライフスタイルの相違さえ認めない公式的な社会主義とそれは変わりない。


為すべきは、グローバル資本主義の市場原理に即して、私たちは何を公共リソースにおいて充当すべき社会インフラと規定するかという合意形成であって、そしてその形成された合意が、顧客の要請を前提する市場原理に基づく個人の職責過当と違法行為の摘発なら、ダブル・バインドも甚だしい。逃散するに決まっている。


顧客の要請に即して市場原理の必然としての職責過当を果たす当事者が高度専門職者であるがゆえに職責過当に即して刑事告発のリスクを背負う、というのは、そして公共リソースの投じられる社会インフラであるがゆえに顧客を選ぶことが許されないなら、それは、はっきりと言って、扱いにおいて慰安婦と同じことです。つまり近代社会における明確な職業的差別です。pimpとしての軍はいません、だから「医師が身内同士で庇い合う」というふうに映ったとしてそれは当然のことです。


市場原理の必然は個人を酷使し職責過当を注文します。公務員にあってさえも。橋下知事が言っているのはそういうことです。彼は全肯定ですが、市場原理の導入は公務員にあって当然であるそうなので。そもそも論として市場原理の必然に即してはならないから法的抑止やマネジメントや中間団体の育成が必要という話なのですが。ドラッカーが聞いたら卒倒します。苦労人、ということとは思います。


公共リソースの投じられる社会インフラであるがゆえに顧客を選べないなら、その職責過当は法的に守られるべきという議論は妥当であり主張は正当です。職責過当を要請しているのは顧客であり公共なので。つまり顧客としての公共なので。そしてそれは公共が公共として機能していないということなので。公共として機能していない公共に対して市場原理の必然に即して酷使される個人として要求すべきを要求することは妥当でしょう。つまり端的に労働問題です。


顧客の要請に基づく市場原理の必然としての職責過当に対して公共リソースによる充当と職責の過当性に対する法的な保護を緊急避難的に求めたとき、個人の意識に問題を還元して退けるなら、一弁護士の個人的見解としては構わないけれど、それはまったく政治ではないのであって、つまり言うなれば書生論に等しい。あるいはためにする議論か、社会主義的発想か。むろん医師に限らない。ライブラリアンだって同様です。今更言うまでもなく、深刻な社会問題としてのそれは、共通の基底を持つ。そして、共通の基底において問われうることは。


邪魅の雫 (講談社ノベルス)

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問題は。グローバル資本主義の市場原理に即して、私たちが何を公共リソースにおいて充当すべき社会インフラと規定するか、その合意形成を図るとき、その判断基準において事実上遺棄されるほかない存在があること。「有限のリソース」においてプライオリティの下位に位置することは当事者にとって危機に直結するが、しかしその判断基準もまたそれに基づくプライオリティの設定も、妥当性を欠くこととは私は言い難い。


なお遺棄されてはいないと時に人は言うが、その是非は措き、事実上遺棄していると同じことです。そして確認すべきは「公共リソースにおいて充当すべき社会インフラ」を構成する個人がプライオリティ下位の存在とその危機に対してプライオリティ設定の責を負うわけでは必ずしもないということ。小倉秀夫氏は、それをこそ議論において失当しておられるのではないか。あるいは、承知しているからこそ婉曲に当てこすっているのかも知れないけれども。

そして付け加えておくと、不快感至上主義者がどんなに嫌がったところで、公共施設に野宿者はやってくるでしょう。もうリソースだなんだという議論は全然手遅れであって、ただ各人が確認すべき原則があるだけです。つまり、街にあふれイヤでも視界に入る最貧困者たちを、「余計者」として殺すのか、それとも人間として愛するのか。中間はないです。


私は、暗い時代における希望は「反抗」だと思っています。「反抗」のみなもとは何か? それは、有り体に言えば「思いやり」です。本当に人間を思いやり、弱い者や「余計者」を同じ人間として愛するからこそ「怒る」ことができるのではないでしょうか?

2008-10-29


この部分に限って私があまり賛成できないのは「中間」で議論するしか余地がないと思うから。「もうリソースだなんだという議論は全然手遅れであって」がレトリックであることは承知だけれど(本気で手遅れと思っておられるならそれこそ能天気です。もし手遅れなら市民は「臭い野宿者」を実力行使して排除します。むろんそうなってはいない。裏返しの絶望には同意できません)、述べておられるような「例外状態」にあって「各人が確認すべき原則」は「正義と相反しようと生活を優先する」だと思います。


その意味では、むろんRomanceさんがそうであるということではないけれど、ホームレスを助けるすることは社会正義であってはならないと私は思っています。正義と相反しようとホームレスの生活を唯物論的=経済的に優先することであって、そもそも生活と相反する正義をめぐる議論こそそのような「例外状態」にあっては意味がない。


私は一切は生活から始まると思っています、文明人なので。文明人であろうと思っていなかったらとっくに人を殺していたでしょう。公共概念に基づく社会の常なる充当を志向するとき、生活を愛し思いやることからはじまる他人への愛と思いやりもあるということです。私はそれをブルジョワジーの規範とは思わない。私は事実としてプロレタリアートの子弟であり立身に関心ない。


階級社会の肯定が政治に反映される世相にあって、社会インフラに対する公共リソースの充当とそのプライオリティに即して妥当をボトムから論じることに意味があるかはわかりません。ただ、野宿者の生活が守られないならそれは不正義でありその不正義に対して他人の生活が優先さるべきではない、という発想は端的に、合意されたプライオリティに即して社会インフラを充当するべく公共リソースを投じる社会システムそれ自体に対する意趣返しです。人の生活ひいては生活感情が社会システムに依存することなどみな知っています。


たぶん、市民の生活とそれに即する生活感情は現在において連帯の最大の障害であり敵でしょう。そして連帯が不可能であるからこそ市民の生活とそれに即する生活感情は尊く、市民の資格において足りない者に対して、善意と施しとしてしか公共リソースの充当は贖われないでしょう。資格を問う限り市民という概念は糞であるかも知れません。


しかし、市民の生活の剥奪という正義に私が賛成し難いのは、今まさに社会正義において市民の生活とそれに即する生活感情が毀損されている職業的存在を、幾例も知っているからです。感情が真であるなら、市民の生活に即する生活感情だって真です。被抑圧者の怒りが真なら、市民としての生活を毀損され生活感情さえ勘繰りにさらされる職業者の憤りも真です。そして怒りと怒りが衝突したなら結果は多数決です。


社会システムに依存する生活と生活感情を正義に劣る生活と感情とは考えない私は、冒頭の報道に対しても教育の敗北という判断を保留しました。複雑化した社会にあって、インフラストラクチャーから個々の生活に即した充当を公共リソースにおいて諮ることに私は引き続き賛成します。むろん、そこから市民の資格なき者が零れ落ちることは知っています。死刑は執行されました。それはすぐれて政治的な状況です、遺憾なことに。吉田健一に、あるいはオタール・イオセリアーニに倣うなら、「反抗」のみなもとは、ライフスタイルであり教養であり、つまり個々の生活でした。『桜の園』のごとき田舎貴族であるよりは、都会の紳士であることを。


土曜日 (新潮クレスト・ブックス)

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