納得のコストがもたらすもの――橋下知事をめぐって

 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。


「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

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人は綺麗事を聞きたくないらしい。私も聞きたくないけれど。自分は綺麗事を言わないと公言してきた人物が知事に就任して、綺麗事を言わない政治が行われている。どのみち政治が綺麗事でないこと、そして綺麗事において守られてきた権益があることと、政治家が綺麗事を言わないことは違うけれど、綺麗事でない政治において人は綺麗事それ自体を要求しなくなった。


個人の見識と知事見解は、むかし明確に分別されていた。少なくとも分別する綺麗事が機能していた。橋下徹個人としての意見かそれとも政策に対する知事見解か。私学助成費削減をめぐる当事者見解に対していずれを述べたのか。つまり、どの立場でどのような意においてそのことを言ったのか。結論を書いておくと、その区別がないのが現在の世相であり、そのことを知っているのが橋下知事


それが個人の見識であるとして、知事は個人の見識を政策判断の根拠としたわけではない。むろん、個人の見識を政策判断の根拠として「述べる」人を私たちは求める。だからインテリが作ってヤクザが売るように、官僚が政策を立案して政治家がその正当を個人の見識において説明する。そして首相の庶民度が延々と「適性検査」にさらされる。


問題は、人が政策判断の根拠を個人の見識として導出し同様に個人の見識において導出されたものとして聞きたく考えることにある。人は、自身がそのように導出しない限り、政策判断の根拠をデータや統計や特定のイズムや費用対効果として必ずしも聞きたいと考えない。代表者としての可視的な個人の見識として聞き、容れるか容れないかを決める。


むろん、政策はそのように判断されるはずがなく、またそのように判断されると人が認識しているわけでもない。ただ、そのように聞いた方が、容れるにせよ容れないにせよ納得の負荷が低いという話。だから、知事は自身の感情を直截に主張しクソインテリに対して生活者として憤りを顕にする。主に朝日新聞日教組に。

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たぶん、千万の専門家ブログより記者会見での遺族の言葉が、世論に対して機能する力として強い。産科医療問題について遺族の負荷を問題視する意見があることはわかる、しかし遺族の言葉が千万の専門家ブログより世の人々を納得させるとき、誰も責める気はない、というその言葉は本当に強い。だから、遺族の負荷を問題とするなら、その強さの構造を問題とするよりほかない。むろん、遺族に責はない。


むかし人は綺麗事において納得しようとした、その建前自体が共有された綺麗事だったが、綺麗事が機能しなくなったときモンスターホニャララが現れ医師は人殺しと第三者のブログで罵られるようになった。綺麗事が共有されるという幻想を人が失ったとき、本音と建前の分別は葬られた。


綺麗事が共有されるという幻想を葬って人は、代表者としての可視的な個人の見識において納得することにした。直接民主制に基づく政治の、理念的かつ機能的な、ひとうの帰結ではある。


民主制は手続的正義であって、手続的正義は政策の妥当を必ずしも導出しないけれど、人が納得の負荷の低減を手続的正義に求めるとき、手続的正義は政策判断の根拠たりうると選ばれた者は強弁しうるし、政策の妥当さえ選ばれた者がその個人の見識において開陳し導出する。その強弁に即するとき公約反故は問題たりえず橋下徹個人の見識において人が納得するべく財政再建が注文される限り、知事はそのように応答するだろう。「僕はこう思う」「僕はそう思わない」と。


直接民主制は政策判断に基づく納得の負荷を可視的な個人の存在において低減させるべく機能しており、また理念的にもそうなってしまっている。可視的な個人すなわち代表者の個性が政策判断の根拠を捏造し、そのとき代表者の個人属性が政策判断の規範として機能する。つまり――橋下徹個人の見識を根拠として受容される政策として。好きな言葉でないが、ハシズムという単語の意味はわからないでもない。

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省みるに、高校生の不見識を責められるほど高校生の頃の私は見識あったろうか。「手を出さないとしょうがない」類の子供であったことを否定しない。社会の右も左もわかっていなかったし、今だってわかっていると胸を張れるものでもない。だから立候補する予定はないし、そもそも高校生の私は知事と直接話したいとは考えなかったし別に今も考えない。


個人的なことは政治的と承知で言うと、個人的なことを政治的に処理しようと考えるほどマゾでは私はなかった、昔から。むろん、個人的なことを政治的に処理しようと考えることがマゾを意味する政治が問題。しかし政治的なことを可視的な個人へと還元して人を納得させることが近代民主制の功罪含めた理念と機能とは、不見識な高校生の私も直感的に知っていたし、つまりドSの私は個人的なことについて政治に多くを期待しなかった。


それは私の事情だけれど、個人的なことについて政治に期待する発想を退ける風潮が、現在に及んで共有される綺麗事という社会的な防波堤を失い全面化――つまり「政治化」したのだろう。個人的なことについて政治に多くを期待しないことは、かつてあくまで個人の見識だった。個人の見識とはそういうものだった。個人の見識が政治化する時代と、インターネットの普及とは関係なきことでもないだろう。むろん、だからネットが悪いということではない。事態の帰趨ということ。

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直接民主制において選出された行政のトップが綺麗事を言わないということは、行政は目的論的に最適化され何でもやれるようになったということで、財政再建のオーダーのため府民は橋下氏を選んだと私は思っている。そのことをどうこう言う趣味は都民の私にはない。


政策判断における納得のコストとして民主制という手続的正義はある。財政再建を注文するため納得の負荷は橋下徹という、向こう傷を恐れない、しかし弱みを隠さない、強い個へと託された。阪大の教授に託しうるはずもなかった。当然のことと思う一方、強い個とはなんだろうと私は思う。


橋下徹という人の言動から演繹される人間的個性の負の側面について指摘したところで詮無いという感慨が私にはある。その負としての個性を個人属性に即して分かちうるものとして、人は橋下徹を人間として見なし、その属性に裏打ちされた個人の見識を受け容れるのだから。それを大阪のローカリズムとは私はまったく思わない。民主制の普遍構造と思う。泥田で土下座する光景はたぶん次の選挙でも各地で散見されるだろうし、それをもって民度を云々することに私はあまり関心ない。


苛酷を承知で財政再建を注文するとき、橋下徹というあまりに人間臭い個に納得の負荷を人は託したのだから。政策判断における納得のコストとして民主制という手続的正義はあり、財政再建のオーダーにおいて分配される痛みを納得するために、人は綺麗事を言わない男を代表者の見識として迎えたのだから。それは判断だと私は思う。

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問われるべきは、分配される痛みの不均衡とその正当不当であって、その納得の負荷まで知事個人の見識が低減せしめるなら、それは流石にまずい。個人の見識で腹は膨れないし学校には行けない、腹を膨れさせ学校に行かせるのが政治であり行政であって、腹を満たせず学校に行かせられないことを個人の見識を開陳して繕うのは、それは少なくとも政治家ではない。後期中等教育は自己責任と高校生に言う近代国家の知事は、端的に論外です。つまり、近代国家として瓦解しかけているということと思いますが。


懲戒請求煽動の一件以来、瓦解の認識にかけては、橋下氏は透徹していると思います。近代国家として瓦解しかけている日本にあって財政逼迫した地方自治体の首長は為すべきことのためいかに仕事しどう政治的に振舞うか、そのことをよく知っているとは思います。是非は措き、というか褒めてません。


後期中等教育の縮小という政策の是を個人の見識において述べる、政策を個人の見識の開陳において言わば正当化する、民主制が言葉の政治であるとは確かにそういうことでもあるけれど、それは説得力でなく納得力であって、自分の仕事を個人の見識の開陳において繕っているということでしか実体はないのだけれど。つまり、社会人としても通常はNG。しかし通常でないならラフプレーは正解か。瓦解しかけた近代国家の地方自治にあって政治に行政に反則なく選挙を経てイエローカードはないか。


言葉の政治である民主制において人は言葉に説得力でなく納得力を求めている。説得力に資するのがデータや統計や特定のイズムや費用対効果すなわち客観性であるなら、納得力に資するのは可視的な個人の見識すなわち主観性であって、つまり納得のシステムとは任意の主観性に同化することであり感情的な馴致でしかないけれど、したがって、政策に納得するための言葉を民主制において人が求めるとき、財政再建のオーダーに伴う痛みの分配を納得させるため橋下知事が本来そうあるべきでない席にあっても個人の見識を開陳することは、正解ではある。


それは仕方なきことと私は思うが、分配される痛みの不均衡とその正当不当を納得させるために個人の見識を開陳することはあまりに筋悪く、なぜなら「加害者」の主観性に「被害者」は同化できずゆえに感情的な馴致も失敗するからで、現に報道を見る限り知事と直接意見を交わした高校生たちは納得していなかった。


むろん、報道を目にした人たちを納得させるためにしたことなら、その限りでなく筋悪くもない。こと橋下知事を「加害者」と考える必要がない府外の者にとっては、容易にその明解な主観性に同化し「納得」しうる対象でもある。いやそこまで考えてやってないだろうどう見ても、という指摘はナシで。民主制に伴うある種の普遍構造の話をしております。

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喫緊の財政再建のオーダーに即して目的論的に最適化された行政は子供たちの涙に対して冷淡な行政である。それは構わない、涙の否定を存在の否定と考えてしまうのが子供の子供たる所以ではある。しかし、子供の涙を退ける綺麗事を言わない知事の背中が任意の政策を結果しているわけではむろんない、私学が人生の一切ではないから私学助成費削減が決定されたわけではむろんない、そのことは、万一そう考えている人があるならおそろしいことなので、明記しておきたく思う。


手続的正義を根拠とする強弁のもと、代表者の見識とカクテルして政策をめぐる納得はその負荷を低減されている。痛みを伴う改革や戦争や、苛酷な政策であればあるほど。正しい政策を正しく決定することが政治であるわけではない。そして、正しい政策を正しく決定する際の納得のコストを捻出するために、民主制はあるのだろう。


その捻出される納得のコストが強弁であろうとも、私はそれを必ずしも否としない。しかし、捻出される納得のコストに政策の正当が従属し、納得のコストにおいて政策の正当の根拠を人が錯覚するなら、捻出される納得のコストが強弁であることは、物騒きわまりない。納得のコストを体現する首長が政策の正当の根拠を個人の見識において捏造し続けるということだから。

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橋下氏とその府政とそれに対する百家争鳴を考えるとき、なぜか、たぶん最終的に他人事だからだろうけれど、私は村上春樹が訳した『グレート・ギャツビー』を思い出す。なぜだろう、何も似通ってはいないのに、橋下氏にジェイ・ギャツビーを思うのは。ニック・キャラウェイが描き出したそれを思うのは。破滅の結末を望んでいるのではまったくない。“So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.”

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。…そうすればある晴れた朝に――


 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)