「歩いただけで逮捕」の意味するもの

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「歩いただけで逮捕」という言葉について。つまり、任意の理由に基づくそれは思想犯扱いと同じで、公安がアップ完了していたのでした。そして任意の理由を「無届」と強弁することが「だせぇ。要は勇気が」というのは思想犯扱いを自覚せよということであって、その種の「覚悟」を他人に促すことに私はまったく関心ない。


「デモやるなら真面目にやれ」は酷と思う次第。ブログ等もそうだけれど、政治的行為の敷居を下げることに対して功罪ひっくるめて私は賛成で、右翼を名乗っていた昔から雨宮処凛氏はその立役者のひとりと思っている。そして敷居を下げてみた結果がこれだよ! なのだが、それってリアリティーツアーの主催者側を責めることだろうか。


アップ完了した公安をもって「デモやるなら真面目にやれ」は違うと思う。デモと名乗らない事実上のデモには意味がある。その結果がこれだよ、なのだが、「その結果がこれだよ!」と憤っているリアリティーツアーの当事者に対して自分たちが思想犯扱いされていたことを自覚せよ、と公安のポジショントークでもなく言うのは、酷云々は措くとしても、それこそ問題と思うけれど。「その結果がこれ」であるとはどういうことか。デモと名乗らないデモが日本では堂々思想犯扱いされるということ。それはまずいと私は思います。


無届でインターネットで告知して松濤の首相宅拝見なら、公安はアップ始めるに決まっているしそれは見通しうることで、しかし、目算が甘い、と傍から言うことをためらうのは、そのようなネットを通じた敷居の低い政治的行為に対して公安がアップ始めることこそアレだからで、雨宮氏の「歩いただけで逮捕!」はそのことを問うており、実際の事情は知らんが論理としては必ずしも「無届」の事実を強弁をもって取り繕っているわけではない。


そもそも論として思想犯たりえない人はない、思想犯とはそうした概念である、ということは措いても、堂々思想犯扱いがカジュアル化する限りさして他人事でもないと私は思うけれど。なので、ということではないが、私はオフ会にもデモにもまず参加しないし、こういうろくでもない趣旨の行事は7人の美女から誘われても断る。そしてろくでもない趣旨であるから思想犯扱いされて構わないということでもない。


デモと名乗らない事実上のデモにはそのことに意味がある。それが無届を理由に思想犯扱いされることがやばい、と雨宮氏らは言っている。「歩いただけで逮捕!」と。我が事を棚に上げ、という批判はありうるけれど、そしてそもそもそんなん言っているのは「ナイーブ」なのかも知れないが、ナイーブだから「プレカリアート」の問題にコミットしたのだろうし、私はナイーブでない雨宮氏のファンにはならなかったろう、10年前から。


思うことは。痴漢と誤認されたら人生オワタが切実な世相と社会にあって、無届デモで麻生宅拝見ツアーに繰り出している連中は好んで逮捕されたがっている物好きとしか映らないのかも知れない。私にとっても、好んで逮捕されたがっているようにしか見えないときがあるが、むろんそうではないし、問題は逮捕されたら人生オワタが切実な世相と社会にある。そのような世相と社会を変えようとして、たとえば雨宮氏らは活動している。


麻生宅拝見ツアーという無届デモが逮捕者出して当事者本望かと言えば、別に逮捕されて本望ではないだろう、当の逮捕者も雨宮氏も、ということは書いておきたく思う。というか、逮捕拘留されるというのは、けっこうオオゴトで、慣れない人なら普通に凹むことで。


最近の増田での痴漢冤罪をめぐる議論を目にして改めて思ったことには、痴漢問題を性差の問題として問うことはまったく不毛で、というのは、社会における男女間の対立それ自体を燃料とする問題を性差をめぐって解くことは無理筋と言うよりほかない。


社会における規範意識をめぐる対立の擬制として問題化する「政治的問題」が、社会ルールに即して解かれるとき社会ルールに対する規範意識の有無として解かれることは正解で、それは不毛と思う。麻生宅拝見ツアーという無届デモが、そのことを理由に「歩いただけで逮捕」されたことを解くとき、その正解は関係がない。


逮捕されない人生のために人はデモするのであって、でも逮捕されてm9(^Д^)プギャーでなくとも、対するに思想犯の自覚を促すことは、あまりに酷である。逮捕されない人生のためにデモして逮捕された人に対して思想犯の自覚を促すことは、笑うに笑えないありがちな皮肉の図式であり、その転倒には現代の政治が関与し、そしてそれは少なくとも酷だろう。


逮捕から逆算される「逮捕されない人生のために」はあまりに古典的に酷薄なもので、甘言弄せよということではないが、その種の酷を宣う根拠は自身の責に負うと、サディストだからか、私は思う。というか、私はクンデラは好きだけど、クンデラの小説ではあるまいし。


公安思想の是非を完全にうっちゃってこういうことについて是非が云々されることが私には不可解で、公安思想に抵触している限り堂々思想犯扱いされることを覚悟せよ、というのは、凄い覚悟のススメです。それこそその自覚あるのか、という。むろん私は公安思想それ自体を非としないけれど。


バンギャル ア ゴーゴー 上

バンギャル ア ゴーゴー 上

バンギャル ア ゴーゴー 下

バンギャル ア ゴーゴー 下


雨宮氏のこの長編小説は素晴らしく、そのことを知らしめたく思って私はこの記事を書いたのでした。