なぜ、それがアートであるか――Chim↑Pomの『ピカッ』をめぐって

http://d.hatena.ne.jp/knakano/20081024

http://d.hatena.ne.jp/miminoha/20081026/1224958014


まったく擁護する気も起きなかったしその筋合もないけれど(私は彼らの活動のあまりよい受け手ではない)、miminohaさんの真摯な怒りに応えたく思ったので、ちょっと書いてみます。

個人的には不快に感じます*3が,芸術としての評価は完成まで措きます。Chim↑Pomが「被爆者の気持ちを理解しきれていなかった」と謝罪し,展示を自粛したため期待は薄れましたが,まだ遅くないのでぜひ開き直り,後づけで構わないので謝罪まで含めたアートと言って欲しいところです*4。


作品は未だ制作過程にあり,Chim↑Pom によって撮影された素材すら表に出てはいない段階で,記事と市民の撮影した写真を元に芸術である,と断定している方がとても多いので,ぜひそう考える根拠を明示してください。芸術であるかどうかによって法的な扱いが異なるため,「そもそも芸術かどうか」は重要であると考えます。もちろん,「芸術家がやったから芸術」ではないですよね?


それから,「表現の自由」を守るために見えない敵と戦っている方も多いようです。広島市側(市民,自治体,被爆者団体および地元紙)には表現(創造)の自由を制限する意志がないことに注意してください。むしろ,中国新聞の記者が「表現行為をするにあたり、市民の反発を招き、逆に表現の自由を規制する風潮を生みかねないとの懸念を持ちませんでしたか*5」と今回の騒動によって表現の自由が制限されることを懸念しているくらいです。

芸術であるかどうかという判断は完成した作品をもってすべきではないでしょうか。

ピカソが『ゲルニカ』の制作過程でスペイン国民に不快感を抱かせたと,いう歴史的事実はないように思います。

いずれも絶対不可侵ではないと考えます。慎重に議論されるべきです。

芸術に優劣はない,ということですね。では,あなたにとって全ての作品が同様の価値を持つのですね。

作品が完成する前に芸術であると断定することができる理由をぜひ教えてください。

(前略)芸術であると言うなら,芸術を定義してください。

鑑賞者との相互作用が芸術かどうかに影響しないとは,驚きです。


定義をせよ、とのことなのでそもそも論としての芸術、というより「art」概念について述べるなら、第一に、「定義」という概念に還元されないのが現代における「art」であり、第二に「art」概念において優劣はなく、第三に、概念としての「art」とは完成された作品をもって判断さるべきものではなく、そして鑑賞者との相互作用が「art」概念において影響しないのは、当たり前のこと。芸術が「art」として概念化されるように、近代以降において「art」とはつね更新される概念としてあり、ゆえに「定義をせよ」という時点で、率直に言ってわかっていないということです。


問題は、そのような「art」概念が結局は社会的に規定されているとき、近代社会の道徳規範と必然的に対立する「art」の場所は最終的にいかなる位相において画定されるか、ということ。「だから」現代社会にあっては表現の自由が存在するし、公共圏概念も同様に存在します。そして、表現の自由において公的に画定された「art」概念に基づく価値をめぐる判断に即した「面白いもの」「つまらないもの」は歴然と存在します。


Chim↑Pomのパフォーマンスが『ゲルニカ』と比べうるものではないとして、そのことは「スペイン国民/広島市民に不快感を抱かせた」か否かという事実関係の問題ではないし、作品の価値が個人の芸術的判断において相違することと「芸術に優劣はない」ことは普通に両立するので、「では,あなたにとって全ての作品が同様の価値を持つのですね」というのは端的に誤解であり、このように言ってよいなら「不勉強」です。再度引用。

作品は未だ制作過程にあり,Chim↑Pom によって撮影された素材すら表に出てはいない段階で,記事と市民の撮影した写真を元に芸術である,と断定している方がとても多いので,ぜひそう考える根拠を明示してください。芸術であるかどうかによって法的な扱いが異なるため,「そもそも芸術かどうか」は重要であると考えます。もちろん,「芸術家がやったから芸術」ではないですよね?


本件について「芸術であるかどうかによって法的な扱いが異なる」ということであるなら、もちろん「そもそもart」です。『ピカッ』は。「「芸術家がやったから芸術」ではないですよね?」とのことですが、そのような問いに即して答えるなら、artistがartとしてやったことはartです。artistとは何か、自身の必然に即して活動する者です。だから「アウトサイダー・アート」が「art」概念においてある。


自分にとって面白いことを自分が面白いように勝手にやる、その本質的に孤独な営為を現代社会は「art」概念において規定し社会に位置付けました。なのでartistとは必然的に蛮人であって、たとえば自身の活動についての説明責任は本来的にない。ワタシつくる人アナタ解する人。そして縁なき人。むろん縁なき人で悪いということはない。私も松井冬子の作品には残念ながらあまり縁がない。


その責任を果たすべきはartistと近代市民社会を架橋すべきキュレーターの役割であって、今回の一件について端的に述べるなら、抗議に対して公開の会見を設置する限りは、Chim↑Pomの一連の活動を承知のうえで広島市現代美術館に現代美術として招いた学芸員が作家の意図について説明すべきことでもあったし、問題化の後に美術館側がartistに謝罪を強く促したような事実がもしあったなら、それはとんでもないことです。


artistは自分が面白いと思うことを勝手に追求してまったく構わないのであって、倫理性は「自分が面白いと思うこと」に対して示されればよい。つまり、社会のコードから切り離された自分自身の――まさに芸術的判断に対してのみ。


そうした在り方を特権的と見なすなら、近代以降の社会はそのような特権性を「art」概念に付託し、そのような特権的領域を「art」概念において結果的に画定し、時に囲い込み、対する打破の運動を経て新たに特権的領域は結果的に画定されひいては「art」概念も更新されてきた、ということです。言うなれば、概念に属する特権性において脱皮と羽化を繰り返してきました、その結果が、現在の現代美術の百花繚乱としてあります。何でもありとも言いますが。


つまり、それが人間にとっての芸術ということであり、近代以降にあっても、概念としての「人間」において芸術は欠くべからざるものであったということです。特権的領域において人間の人間である所以は担保されてきた、ということです。あらゆる人を「人間」と規定する近代市民社会にあって、人間の人間である所以を担保する芸術は、万民へと開かれました。それに伴って特権的領域自体が大衆化し、対するにアバンギャルドが云々、と続きはしますが、岡本太郎ダダetc思いきり端折って結論するなら、人間の人間である所以を担保する特権的領域それ自体は今なお機能しているし、その度重なる更新を経た最先鋭として現代美術すなわちcontemporary artは位置します。前衛概念の不可能と共に。



近代市民社会に必ずしも還元されない個の個であるがゆえの営為の特権的な場所として、すなわち人間の人間である所以を担保する領域として、人は「art」概念を社会的に位置付けました。そうした「歴史的な経緯」に基づく現在自体を見直すべき、という議論ならそれは大議論です、公共施設としての美術館の存在意義それ自体にまで及ぶ。


なので。そもそも論として述べるなら、contemporary artとは「反社会的」なものでもあり、「反社会的」なその内容において「面白い」「つまらない」あるいは価値をめぐる判断はあっても、「『反社会的』であるからartではない」は成立しない。むろん、言論の自由など持ち出さずとも、不快の表明は自由です。「artとは『反社会的』なものでもあるからその反社会性に対して不快を表明するべきではない」もまた成立しません。


そして、両者を架橋するためにキュレーターという存在が社会的に位置付けられているのですが――公共施設としての美術館にあってはなおのこと。おそろしくラフに言うなら、反社会的なものを括弧に括って社会的に包摂するため芸術という概念はあり、装置があり、たとえば美術館というフレームはあり、枠組がある。フレームの意味と存在意義について説明するべく歴史的かつ社会的な枠組を語ることがキュレーターの言葉に対して要請されているのですけれど。

どうもそのようですね。この芸術家集団は,ちょっと勉強が足りてなかったですね。


とのmiminohaさんの見解だけれど、別にartistはそのような意味で「勉強」する必要はない。少なくとも、それを外部から要請しうる人は立場は誰もいないしどこにもない。むろんartistは、比喩だが「無礼」であって構わない。「面白い」「つまらない」表現は歴然とあるし価値をめぐる判断はあるけれど、多くの現代美術家がmiminohaさんの言っておられるような意味で「勉強家」であるというわけではない。というのは蛮人としての作家は物事に対するアプローチにおいて自身の関心第一なので。その、作家としての場所から社会と向き合うことが作家の倫理なので。それでも自身の関心に基づき自身が自身の必然において面白いと思うことを勝手に追求した結果受け手にとっても面白いものを出してくるのがartistであり、作家という存在です。


しかし。以上は言うなればそもそも論に即した一般論であって、私は「この芸術家集団」が「勉強不足」を問われることは仕方がないとは思う。というのは。

(前略)「本来」無関係なものが,広島でピカと言うと原爆を指すほどに関係を持っているからでしょう。


端的に言ってしまえば固有の場所をめぐる歴史的記憶の再現を意図したとき作家の問題関心それ自体は答える必要なくとも当事者から問われうることだから。「鑑賞者との相互作用が芸術かどうかに影響しない」とはいえ、場所の固有性に対する意識を欠いて為されたことであるはずもなく。


歴史的記憶が場所の固有性を構成していることを知っているからこそ、固有の場所において歴史的記憶の言わばキッチュな再現を意図したはずであって、学芸員の示唆であったかは措き、「ゲリラ的」にそのパフォーマンスを選択したことの理由もわかりはするけれど、そうであるならこうなったとき説明は要るとも思う。さもなくば、誰かがブックマークコメントで皮肉っていた通り、アウシュヴィッツで鉤十字とかテヘランで『悪魔の詩』朗読とか期待してます、という話になってしまう。つまりその程度の手合と見積もられることになる。


コンテクストの提示をもっていちおう擁護するなら、固有の場所をめぐる歴史的記憶のキッチュな再現を「ゲリラ的」に意図することは、現在における「現代美術」の言わば陳腐なまでの正道であるし、キッチュな再現を意図して飛行機雲で『ピカッ』ってなにそれ、という見解に対して答えるなら、そのような、問題の提示とキッチュなアプローチのコンセプチュアルな二重性が現在におけるある種の「現代美術」であり、またChim↑Pomというコンセプチュアルな作家集団の一貫した活動であった、ということになります。つまり、真面目な意図と悪ふざけじみた手法の二重性として。


そして、私の見解を述べるなら、それは時にbanalで「つまらない」。真面目な意図と悪ふざけじみた手法の二重性ありきでコンセプトとしてはそれに尽きるところが時に「つまらない」。しかしここがartの面白いところ、実際に見てみるとコンセプトとして頭で解する側面に尽きないサムシングが作家の意図するとしないとにかかわらずあって、それこそがコンセプチュアルでありながら結局は体験すべき「現物」としてのartの強度を支えてもいる。たとえば「作品を制作している」ということ、その本気、それは実際に見てみないと案外わからない。


率直な謝罪は真面目な意図の結果と私は好意的に考えておきたく思います。固有の場所をめぐる歴史的記憶のキッチュな再現を「ゲリラ的」に意図した結果の反応に単純に驚いたのだろうし、それを想定しなかった自身の不明を省みたということではあるでしょう、と。とはいえ私も「陰で笑っていても驚かない」。


反応を見越してしたことと普通は思うし、反応を見越して見誤ったのは仕方ないとして、コンセプトは措き固有の場所をめぐる歴史的記憶のキッチュな再現として「ヌルい」「ユルい」「浅い」「出来が悪い」ことは違いなく「つまらない」と私は思うし、結果もし伝えたいことがあったならほぼ伝わらなかったと言ってよいわけで、そして反応を見誤ったことについて作家は「作品」をもって返すでしょう。それ待ち。


真面目な意図の結果であるとして、そもそも広島での原爆投下の「キッチュな再現を「ゲリラ的」に意図した結果の反応」に驚くことに驚くし「何も考えていなかったのか」の範疇と思うけれど。過去の活動をフォローしていなかったわけでもない美術好きとしては、単なる売名や悪意やヘイトスピーチで広島上空に『ピカッ』と書いたわけではないだろうことを、いちおう書いておきたいということです。冒頭に記した通り、私は彼らの活動のあまりよい受け手ではありませんが、ただ彼らは作家集団ではある。


なぜ、これがアートなの?

なぜ、これがアートなの?


「面白ければいい」「ウケればいい」はむろんartたりえない、歴史的にも社会的にも。そして、彼らの活動は一貫してartです。artとして「つまらない」とも時に私は思いますが、だからと言ってartからリジェクトするわけにはいかないし、彼らの活動をartと規定しそう説明してきた人たちは今回の一件をもってその作家活動をリジェクトするべきでは決してない。たとえば『美術手帖』がそこまでヤキ回っているとも私は思いませんが。むろん、議論は起こって然りです。


意図に基づく表現行為において、広島という場所の固有性を構成する歴史的記憶を担う人々を刺激したとき、悪ふざけじみた手法に対する反応を見誤っていたことについて、自身の意図から公に省みたのだろうと、好意的に解しておくことにします。つまりさしたる内実を持ち合わせない意図だったのではないか、という指摘と批判は妥当で、だから彼らは率直に謝罪したのでしょうし、自分たちの「不勉強」を認めもしたのでしょう。


私はそれこそ問題と思っている。「歴史的な経緯」と社会的な位置において規定された「現代美術」のコードに基づく「真面目な意図」などそもそも要らん、と。それは作家の必然なのか、と。「ウケるからやっている」とさして大差ない。「悪ふざけじみた手法」こそ作家の必然ならなおのこと、と。コンセプチュアルであることがChim↑Pomという作家集団の必然なら、さしたる考えなく「現代美術」のコードに則った「真面目な意図」は必ずしも要らない、とは言わないが、それは私にとって「つまらない」。


はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):ヒロシマ賞受賞作家、原爆ドーム上空に黒い花火打ち上げ - 社会

広島 Chim↑Pomの「ピカッ」はダメでも ツァイ・グオチャンの「黒い花火」はOK|世界で評価されたアーティストの作品はOKで、新進アーティストはNOなのか - 骰子の眼 - webDICE


なお。蔡國強の『黒い花火』とChim↑Pomの『ピカッ』と何が違うのかと問うとき、端的には「悪ふざけじみた手法」の有無とそうした手法に対する抵抗の存在に対する認識の有無と言うほかない。作家としてのキャリア等々を全面的に措くなら。そのとき、歴史的記憶において構成される場所の固有性に対してその歴史的記憶のキッチュな再現のためする悪ふざけはあまりに論外である、という話になりはする。けれども。


機動戦士ガンダム00』を見ていて、テーマは「戦争」であるらしいのだが、パロディやってるわけでもなし、ふざけてるなぁと私は思うけれど、むろん、おそらく作り手はふざけてはいない。歴史的記憶がその外傷が場所の固有性から切り離され一般化した表象として時にキッチュに取り扱われる時代にあって、それは真摯な戦争をめぐる表現でもあるのだろう、きっと。表象不可能性とかアニメーションに言っても詮無いし、それは富野由悠季の偉大な遺伝子でもある。


表象としての「戦争」、表象としての「ピカ」、その現実としてのキッチュな受容。挙句の「リアルな現代的表現」。だから、場所の固有性を構成する歴史的記憶を担う現実の人々に対する認識が脱臼するのも致し方ないか、と、全力で擁護モードの私は好意的に考えはする。強弁も甚だしいけれど。ディスティニー・ディーコンが言っている通り、無知は言い訳にはならない。


miminohaさんが被爆三世であることと芸術について「ちょっと勉強が足りてなかった」ことは関係がない。同様に、Chim↑Pomが歴とした作家集団であることと広島について「ちょっと勉強が足りてなかった」ことは関係がない。勉強を云々することに関心ない私が芸術の定義云々について書いたのは、Chim↑Pomの擁護以前に、miminohaさんの真摯な怒りを了解したから。洒落にならないことを洒落にしてしまうとき、その必然が問われもする。そして、そのことを説明するのは作家ではない。


作家の必然が洒落にならないことを洒落にしてしまう、表現の自由などと言わなくとも、そのこと自体は断固守られるべきです。しかし、その作家の必然について、この場合作家以外の誰かが説明する必要があるし、また状況から、ひいてはコンテクスチュアルに察しうる、作家の必然について、私はあまり擁護する気になれない。「art」は擁護するけれども。


「面白いと思ったからやる」は十二分に作家の必然です、あるいは差別意識さえも。「面白いと思ったからやる」と「面白ければいい」は違う。繰り返しますが、起こるべき議論と批判とは別に、表現の自由など持ち出さずともそれは断固守られるべきです。そして、作家がそれを面白いと思った理由について、私はわからなくもない。差別意識ではないだろうことも。そしてそれは私にとって率先して擁護する気になれるものでない、つまり、作家の必然どころか、お仕着せじみた「現代美術」のコードを前提する公式的な現在の現代美術である限りは。結果的に画定される概念が「art」だと、私は思っている。それが、単なる美術好きとしての私なりの、miminohaさんの疑問に対するアンサーです。


みる・かんがえる・はなす。鑑賞教育へのヒント。

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