鬼平についてちょっとだけ書いておきたいでござる

教育刑で犯罪抑止した世界で最初の人物は鬼の平蔵だった - 地下生活者の手遊び

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この記事は歴史的に間違ってる

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20081020204555

鬼平エントリへのネガ反応をおいしくいただく - 地下生活者の手遊び

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ちょっと時間がないので手短かつラフに(後記:手短になりませんでした)。ブコメや増田の反応を拝見して、史実というよりは鬼平犯科帳と、tikani_nemuru_Mさんの記事が主題としているだろう事柄との関連について、私なりの補足を。さいとう版も読んでる、というかそれから入った。小学生の頃にゴルゴ愛読していて。


増田氏がWikipediaを引用して言及しているエピソードをモデルに著した『妖盗葵小僧』は色々な意味ですんばらしいのでtikani_nemuru_Mさんの問題提起に関心あって読まれていない方はさいとうたかをのマンガ版で是非御一読を。女性が読まれた場合不快を覚えるかもわかりませんが。つまり、そういう内容です。脂っ気が完全に抜け切る以前のさいとうプロの筆致でねちねちぎっとりと延々と。むろん原作はぎっとりではないのですが、起承転結については、流石池波正太郎は世間通であるな、と。


Wikipediaにあった⇒葵小僧 - Wikipedia

http://www.asahi-net.or.jp/~an4s-okd/private/bungaku/bunoni012.htm


鬼平犯科帳 4 (SPコミックス)

鬼平犯科帳 4 (SPコミックス)


真面目な話、むろんこれは池波先生の作家としての手腕であるけれど、創作としての『妖盗葵小僧』を読んでいただければ、増田氏が引いておられる、

寛政3年5月3日(1791年6月4日)、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、処刑した。被害者に配慮し、逮捕後わずか3日で処刑している。三田村鳶魚は宣以が機転を利かせたためであり、幕府もこれを了承したとしている。このとき名刀・井上真改を用いたとも言われている。

長谷川宣以 - Wikipedia


についての得心が行くように時代小説読者にとってはなっている。つまり。

傷が癒えた後、芳之助は平蔵自らの取調べを受けたが、他の配下や盗人宿を白状しない代わりに今まで押し込んだ先での被害者の名を暴露し、その範囲は平蔵が把握していた以外に江戸や上方、中国筋まで30件以上の内容であった。


芳之助はこの自白によって被害者を死ぬまで苦しめることを考えていたが平蔵は被害者の感情を考慮し、独断で芳之助を斬首、取調べの記録も残さなかった。

葵小僧 - Wikipedia


という事情あってのこととされるから。そして、たぶんにtikani_nemuru_Mさんの問題提起に絡んで重要なのは、自称葵小僧の「自白によって被害者を死ぬまで苦しめる」ことができる社会にあって鬼平が「独断で」「被害者の感情を考慮」して「芳之助を斬首、取調の記録も残さなかった」措置を行ったこと。つまり、江戸社会とはそうした社会であったということ。賊に手篭めにされたと人に知られた女房が生きていけない「世間」が厳然と存在したということ。


だから、葵小僧の被害者は、押し込み強盗に遭った商家であったにもかかわらず、強姦被害を世間に知られることを恐れて、死者が出ない限り奉行所に届出ようとしない、あるいは届出るとしても万事内密を懇願するところばかりだった。ゆえに、葵小僧の犯罪の総数は取調まで把握されることがなく、そして観念した葵小僧は取調において進んで「今まで押し込んだ先での被害者の名を暴露」することによって「被害者を死ぬまで苦しめ」て、これまで器量の悪い己を蔑んできた(と彼が思い込んできた)「女」に対する最後の復讐を遂げようとして、鬼平に阻まれる。

そのかわり、彼はこれまで押し入った先で犯した女の名をぺらぺらしゃべった。芳之助は冷笑を浮かべ、あきれている平蔵を見た。すべての犯行を白状したとなれば、自分に犯された女たちや、その家族たちにも一応の調査が行なわれるはずだ。そうすればひた隠しに隠していた彼らの恥辱が白日のもとにさらされることになる。(ざまあみろ)芳之助の冷笑に、長谷川平蔵は冷笑で答える。ぎょっとする芳之助。


「おい。いいかげんにしろ。この長谷川平蔵を甘く見てはいけねえぜ」「なんだと」「お前がしゃべって気の毒な女たちのことは、この場限り、俺の胸の中へしまいこんでおく」「そんな馬鹿な。それでも手前は御公儀の役人か」「お前は今夜死ぬのだ」「なに、なになに」平蔵はこの夜のうちに葵小僧の首をはねてしまう。処刑があまりに簡単に行なわれたことに「あまりに独断すぎる」という批難の声が高まったが、長谷川平蔵は平然と反論する。「われら火付盗賊改方は、無宿無頼の輩を相手に面倒な手続きなしに刑事に働くお役目。このたてまえをもってこのたびの事件を処理いたした」

http://www.asahi-net.or.jp/~an4s-okd/private/bungaku/bunoni012.htm


そして、現在本が手元にないのでうろ覚えだけれど、独断で事件の一切を「闇へと葬る」「墓の中まで持っていく」強権的処置を行った鬼平に対して、葵小僧の被害に遭った女たちは、その亭主や家の者や親族は「涙を流して喜んだという」。


賊に手篭めにされた女房や娘はまっとうな堅気としてもはやありえなかった、そのようには世間で生きていけなかった、人はそう考えてしまうものだった。江戸社会とはそのような狭く息苦しい社会でもあった。そしてその、公然と嵌められた自明の枷の中で人は自身の分をわきまえて幸を得ようと辛抱を重ねる。そのことを知る平蔵は、葵小僧の被害者たちの今後の幸のため、葵小僧の首と共にその狼藉の一切を「闇へと葬る」「墓の中まで持っていく」。


成熟しきった18世紀後半の江戸社会とは、そのような社会であり、世間であった。現代日本もたいして変わらないではないか、という見解については措き。端的かつラフに言ってしまえば、江戸とはガチガチの箍が嵌められた管理社会でもあって、そのガチガチとは、封建体制下の神なき世俗社会であることの表裏でもあった。


鬼の平蔵だから鬼平と呼ばれるのであって、無法者に対して鬼が臨むのは前近代の刑事警察にあっては自明。にもかかわらず、というところが鬼平という物語の肝。長谷川平蔵とは、斯様な江戸社会の刑事警察機構最凶の火付盗賊改方長官という役職にあって、人生ののりしろが滅法少ない窮屈きわまる管理された共同体的都市社会江戸を見通し人の幸のため時に独断を通した男であった。


作品中において、葵小僧の首と共に一切を「闇に葬った」「墓の中まで持っていった」平蔵の独断専行は、官僚組織幕府において非難されるが、引用の通り、平蔵は火付盗賊改方の役目ゆえの裁量を主張して押し通す。むろん、小説職人池波正太郎は作中で何がしかを声高に主張するわけではない。


近松やあるいは勘三郎が演って話題の夏祭浪花鑑ではないが、というか成熟期の江戸時代を舞台とするそうした話は同時代後世共に尽きないけれど、封建体制下にあって世間の法が厳格に機能し刑事行政がそれを裏打するする神なき世俗社会にあって、堅気と文字通りのアウトロー=out lawはヒヨコの雌雄のごとく区別され結果として覿面に処遇相違した。


若気の至りで多少ぐれることと、結果的にせよout lawすなわち法の外に位置してしまうことは、江戸にあっては明確に違い、そして後者は人生オワタ\(^o^)/と同じことであった、江戸にあっては。つまりきわめて抑圧的な社会であった、法においても社会規範においても――いや、体制下の法と社会規範の共謀において。


つまり、江戸の刑事行政は、罪人の処置において世間とその中での限定された生を前提とした。達することないなら入墨所払流刑以下死罪であった。堅気として己の分をわきまえて世間の法の中でまっとうに生きる限りは是とされ、しかしそれを外れると石持て追われる。江戸という社会、すなわち都市や村落を基盤とする共同体それ自体から。そして、ガチガチに箍が嵌められた共同体的社会に張り巡らされた強力な刑事警察機構がその実相をリーガルにイリーガルに管理している。言うならば、閉鎖された社会の強制力と抑圧性についてはエゲレスもまた同様の側面があった。けれども。


池波正太郎が描いた長谷川平蔵とはどのような人物であったか。

(前略)父の尽力により実家である長谷川家に迎えられてからも波津とはそりが合わず「妾腹の子」と手酷く蔑まれ、その反発から遂に家を飛び出す。


それからは本所・深川界隈の無頼漢の頭となり、放蕩三昧の日々。「本所の鬼」「入江町の銕さん」などと恐れられ、行いの悪さから長谷川家を勘当寸前になる(ただし宣雄は銕三郎を庇い、キッパリとそれを撥ね付けた)。時を同じくして剣術を一刀流の高杉銀平に学び、腕を磨いた。

長谷川宣以 - Wikipedia

「鬼の平蔵」と呼ばれる長谷川平蔵の人情味あふれる人間性と悪を許さぬ不屈の意志が見ものである。平蔵は複雑な生い立ちのせいもあり、若い頃は深川近辺で顔を知られるほどの放蕩三昧の日々を送っていた。そうした経験の数々が、火付盗賊改方長官となった平蔵の人間性に深みを持たせており、悪人からは鬼と呼ばれる一方で、部下だけではなく捕らえた盗賊に対しても友人のように接したり父親のような優しさを見せることがあり、単純な勧善懲悪ではない物語の深み、複雑な味わいを感じることが出来る。

鬼平犯科帳 - Wikipedia


鬼平犯科帳とは。封建体制下の管理された世俗社会において、まっとうに生きる堅気とそこから好むと好まざるとにかかわらず外れたならず者/ごろつき/ろくでなしを、体制において区別し後者を日陰に置くことによって維持されていた江戸の太平とその刑事行政にあって、両者の存在を架橋する、かつて盛大にぐれていたがゆえにアウトローの心持を理解する男長谷川平蔵が、悪を許さぬ一方で、悪ならざるアウトローをout lawであるということだけで断罪することなく、むしろ己の個人的魅力によって包摂せんとした、その相貌を活写した物語でもある。


アウトローとは所謂やくざ者に限らない。out lawという語義通りの意味であって、人は些細なことで結果的に法を外れることが幾らもある、特に江戸のような、世間に即した人の分が初期設定された、ガチガチの封建的管理社会にあっては。そして結果的にせよ一度法を外れた者は、人生オワタ\(^o^)/も同じであって、戻ることはきわめて難しい。それが江戸という、体制が縦横な警察機構をもって規定した世間社会であり、その刑事行政だった。


そのことに対する、静かな異議申立として、史実は措き池波小説における火付盗賊改方長官長谷川平蔵はある。悪党から鬼と呼ばれる平蔵は、悪を許さぬ平蔵であったが、法を外れることがイコール悪では必ずしもないことを知る平蔵でもあった。そして、悪ならざる法を外れた者(とはいえ彼らは決して「善人」でもない)を、己の人間的魅力において包摂し、役職に基づく権力において包摂し時に捜査に役立て、そして公的な裁きにおいて包摂しようともした平蔵であった。火付盗賊改方長官としての、己に許された裁量において。


池波正太郎によるそうした鬼平の人物造形が、史実における長谷川平蔵の以下のようなエピソードを勘案したものであったことは違いない。

青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。

長谷川平蔵 - Wikipedia

寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく平蔵は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。辣腕とも言えなくは無いが、当時の道徳的には認められるようなものではなく(もちろん現代の価値観・法においても、役人が国家予算を相場投機で殖やすのは認められるものではない)、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川某(なにがし)」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。

長谷川平蔵 - Wikipedia

池波正太郎が構想しただろう長谷川平蔵とは、封建体制下で規定された世間と法が二人三脚して堅気とout lawを区別し後者の首を問答無用で刎ねる江戸社会にあって、堅気のまっとうな暮らしを守るためある火付盗賊改方の長官でありながら、out lawの心持を理解し立場の閾においてそれを勘案しうる男でもあった。


官僚組織幕府は毒をもって毒を制するべく辣腕の平蔵を用いたが、しかし悪党に恐れられた毒は毒の意気とその疎外を知るがゆえに個人的な魅力をもって包摂せんともした(むろん捜査に重用もした)男であり、そして悪を許さない男だった。法に外れた者には時にその事情あることを知りながら、葵小僧のような確信犯としての悪党には容赦しなかった。


江戸の刑罰が苛酷であったのは当たり前。封建時代に人権概念などなかったのも当たり前。よりにもよって火付盗賊改方がそんなもん顧慮しなかったことは言うまでもなし。ただし、鬼の平蔵は体制が規定した世間に基づく堅気の堅気による堅気のまっとうな暮らしのための刑事行政においてout lawをout lawであるというだけで社会から葬らんとする男ではなかった、むしろどのような形であれ社会に包摂しようとした、己の権力と人間的魅力を用いて。 つまり、一言で言うなら、鬼の平蔵とは、封建体制下の窮屈な共同体的社会にあって、都会人であり、闊達な大人だった。小説職人の技巧によって描き出されたそれは、だから読まれ続け愛される。


葵小僧のごとき確信犯について鬼平に問うたなら堅気のまっとうな暮らしを守るため容赦すべきでなしと即答したろう。また刑事行政において江戸時代と現代を一緒くたに論じうるものでないと私は思う。tikani_nemuru_Mさんがそのように論じていたともまったく思わない。そして言うまでもなく池波正太郎は一級の小説職人であって、声高な思想家ではなかった。しかし。


out lawをout lawであるというだけで社会から結果的にせよ葬らんとする発想を、刑事行政において是正するべく試みたかつての放蕩無頼長谷川平蔵の見識は、200年を経て現在を貫きうると私は思っている。繰り返すけれど、このout lawとは語義に準ずる存在であって『R30』で使いまわされているような現代の慣用句、言説としてのそれではない。


法を世間を外れたその時点で人生オワタ\(^o^)/となる世間と刑事司法を持ち合わせる社会に、私は私自身の利害からも反対で、もし「貴方」もまた反対ならそのように社会的に手当するべきであり、所謂犯罪全体への厳罰化施策は理論的にもそうした社会的な手当とは対立するだろう。法を世間を外れたその時点で人生オワタ\(^o^)/とならぬよう、些細なことで人生オワタ\(^o^)/が法的にも世間的にも容易に導出された江戸社会において、悪党から鬼と呼ばれた平蔵は、刑事行政の執行者であった自身の立場と役目と裁量において、ならず者やごろつきやろくでなしを世間に社会に包摂しようとした平蔵でもあった。先ず第一に、己の人間的魅力によって。そして言うまでもなく、そのような存在と体制の智恵あったからこそ、江戸の太平は成った。


私はこう言ってよいなら1年前からファンなので言うと、id:Midasさんが言っておられるのは、それはつまり馴致だろうということで、間違った社会や世間や体制に馴致させることそれ自体が強制労働キャンプでありアウシュヴィッツである、というのは見識ではあります。江戸と現代は違うというのはそういうことで、封建社会にあっては馴致以外のランディングは近松のごとく死でしかないが、現代にあってはそうではない。馴致を拒む選択肢が彼岸の解というわけでもない。現代における人足寄場とはその概念とは馴致のススメでしかない、というのはわかります。


しかし、そうした概念すら危うく覚束なくなっているのが厳罰化が絶叫(おおげさ)される現在であって、今こそ私たちは鬼平をその心意気(精神、とは言いたくない。時代小説的に)を思い出すべきではないか。そのようなことを、tikani_nemuru_Mさんの長谷川平蔵への言及を拝見して勝手に思った次第です。


たとえそれが封建社会的な馴致であれ現代の私たちはそれすら忘れているのではないか、社会に対する個のランディングという発想を忘却したがための厳罰化論ではないか、と。現代の私たちがそれを忘れる現代的理由について、私は考える部分がないわけではありません。tikani_nemuru_Mさんの記事に対する批判的な反応に、最新記事に対するそれに至るまで、揚足的なものが散見されたので、そうした見解に対するいわばサジェスチョンとして記したく勝手に思った次第です。暫く読み返してないといえ、たまたま鬼平読者だったので。

新装版 鬼平犯科帳 (1) (文春文庫)

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破獄 (新潮文庫)

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