中出しの政治学

倫理学でなく。というか、中出しの倫理学政治学の違いについて。最初に明記しておくと、私もネット上で関わった1年前の一件とこのことは内実においてまったく違う話です。だから言及することにした。内実においてどう違うかについて。


「中出しハッピー!」は本当に「いい話」か? | blog.yuco.net

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意図せぬ抑圧、或いは、同調圧力の犯人はあなた自身|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20081019/1224427053


一読してのニュー速+並みの無責任な感想が「5年も中に出し続けるなら結婚しとけ」であった私はシーラカンスなのだろうか。そうなんでしょうね。むろん描写された男に対する勝手な感想であって、「おめでとう」と同程度に無責任とわかっている感想をそこで筆にするはずもない。結婚を中出しの前提と考えていなかったふたり、という話なら、御勝手にと毎度のごとく思うよりほかない。


ラフに言うなら私にとって結婚とはそういうことで、分かち合うべき未来の存在を前提した間柄であることの相互確認ということ。ただ、その相互確認を対外的に明示しない考え方はあって当然で、事実婚でなくそのように明示されないから相互確認がないというのは短絡でしかない。個人の個人的な問題、個々人の問題であるとはそういうこと。以前も書いたが――「マリッジリング」の問題として。


だから私自身は結婚という選択肢に対して至極消極的である、というのは相互確認に対してそもそも関心がないからだろう。約束のない関係ということで年若い人と付き合っているが、それは相互確認を放擲しているということであって、そして言うまでもなく関係性は相互確認を暗黙かつ自動的に形成する。口に出して暗黙を詳らかにすることが面倒至極であっても。とはいえ、双方共に事情ある多弁なふたりの間柄にあっては詳らかにされまくっているのが私の場合。見ず知らずの他人の「無責任」を咎めている場合ではない。


長く思い合う人たちにはそのストーリーがある。恋人であれ家族であれ友人であれ。そのストーリーがいかに愚かであれ近視眼であれ、任意の公理をもってストーリーそれ自体に介入することは許されない。直接に自傷他害でないなら。そして、直接な自傷他害が絡むことがあまりに多いから、人は、あるいは社会は、介入しようともする。そのこと自体の是非を一般化して問うことは、難しい。

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しかし、そういう話ではなかった。以上をもって論ずるに了となる、つまり云々するだけ野暮な「個人の問題」であったなら「いい話」と見なされることもさしてなかったろう。つまり、言うまでもなく、描写されたふたりは、結婚を中出しの前提と考えていなかったふたりであったわけではない。にもかかわらず「付き合って以来、避妊をしたことがないとのことだった」のは「彼女はもともと子供ができにくい体質だったらし」いから。


そのような前提において、というか一読思ったことだけれど、そしてこれは私の頭が腐っていてかつそういう男を実際に知ってるからだが、一般則として、「常に中出し」する男の意図にはふたつある。


ひとつは、未来の子供のため「がんばって中出し」する男。もうひとつは、女が自己申告しただろうそれを理由というか口実に中に出し続ける男。女が子を授かることを望んでいようがいまいが関係ない、未来の子供は要らない。いやいますよ、そういう男。


そして、描写された男は前者であった、ということが結果的に証明された、というのがエントリの趣旨であるとしか「私には」読めなかった。むろん、私の腐った頭と経験則が悪いのであって、エントリが悪いのでもそこに描写されたふたりが悪いのでもない。ただ私は、その文字列からは、結果オーライ、という趣旨にしか読めなかった。「おめでとう」は結果論でしかないではないか、傍観者にとっては、と。


しかしそれが結果オーライという趣旨として読まれないのは、むろん描かれた男が前者であったからで、つまり描かれた男が前者であったという前提においては、結果オーライという趣旨理解は端的に間違っている。


描かれた男が前者であった、ということが指し示すのは、結婚を中出しの前提と考えているだろうふたりが、にもかかわらず、「彼女はもともと子供ができにくい体質だった」がゆえに「付き合って以来、避妊をしたことがないとのことだった」ということであって、それがエピソードの要諦である以上、妊娠して後の結婚は結果オーライではないし結果論としての「おめでとう」であるわけでもない。


だから。妊娠して後の結婚を祝福することは別に問題ない、というか問題化するようなことではない。問題たりうるのは、5年間中に出し続けることが「彼女はもともと子供ができにくい体質だった」という理由において公然と肯定されること。そしてその肯定は妊娠して後の結婚において「証明」されること。むろん、他人が書いたエントリにおいてということ。


その、エントリの趣旨としての「証明」とは結果オーライ以外の何物でもなく、結果論としての「証明」をもって何が肯定されたかということは問われるに値することと思う。


渦中の当事者は措き結果をもってエントリで他人が総括したとき「もともと子供ができにくい体質だった」ことを理由とする5年間の中出しを肯定することになる、言論として。それはエントリに記す限りにおいては「理由」たりえないと私は思うが、その「理由」をもって5年間の中出しを肯定し結果オーライにおいて完結させるということは、つまりそれが肯定さるべき状況と環境が存する、ということになる。社会的に。


描かれたふたりは「結婚を選択しなかった」のではない。5年間の「がんばって中出し」すなわち妊娠努力の結果、妊娠をもって結婚を選択した。それがめでたいことであるか、個人レベルにおいてはそう。しかし5年間の妊娠努力の結果、妊娠をもって結婚を選択したことそれ自体を、問う人があって不可解とは私は思わない。人には事情がある、ということを知らない大人はいないと思う。知ってなお問うべきことがあるということ。

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状況最適を選択した人とその個人的な幸福を批判することと、状況それ自体を批判することは違う。ロミオとジュリエットの悲恋に涙することと、親の因果が子の恋に報いる封建的価値観を批判することは違う。後者をもって前者を批判し「ロミオとジュリエットに涙している観客には問題意識が欠落している」と宣うことが野暮の骨頂であることは言うまでもない。任意の公理において、状況最適を選択した人とその個人的な幸福を批判することは、はっきり言うが、間違っている。


状況それ自体を批判する過程において、状況最適を選択した人とその個人的な幸福を、たとえば奴隷乙名誉白人乙と批判することに私は関心ないし、それは状況批判に際してやってはならないことと思っている。が、そうなっていない状況批判は散見されて、多く紛糾の種となっている。


状況それ自体を批判するとき、状況最適を選択した人とその個人的な幸福を、まして任意の公理の正義において、批判すべきでない。それは私がつね自らに言い聞かせてきたことであって、なので先の「図書館ホームレス論争」においてそのように自らの文章が読まれる余地あったらしきことは、反応を拝見して、けっこう反省した。


構造批判において構造の内面化を批判することに躊躇ない人があることは事実で、私も内面化それ自体を批判することはある。状況最適を選択した人が、のみならず自身の個人的な幸福において(たとえば状況最適として非婚を選択することの個人的な幸福であれ)、他者の問題意識や任意の公理に基づく状況それ自体の批判に対して、状況最適の是と処世の肝要を説くことは、それは筋違いであって、批判に晒されてやむなきと思う。その批判が「奴隷の鎖自慢」「名誉白人気取り」といった文字列の形を取ることの是非は別として。


つまり、構造の内面化はその表出において必ず当事者のみならず他者をも抑圧するから。所謂「馬鹿は黙ってろ」論とはそういうことで、構造の内面化は御自由ながらそれに基づく発言が結果する他者の抑圧は端的に悪なので自重せよ、ということ。構造の内面化は自分の内にしまっとけ、つまり私圏に限定せよ、と。そして、抑圧が個人の幸福を鋳型として形作るから、その幸福の真に疑いない(というか幸福に真偽などない)から、微妙な日本語を用いるなら、悩ましい。


王様は裸と言っている子供は王様の権力を撃っているが、王様の権力を撃っているつもりで王様の個人的幸福を勘違いと笑いあまつさえ裸を嘲笑していることがある。王様が依拠する権力と王様個人の幸福を不可分と考えるとき、ギロチンの発想が生まれる。そして神々は渇く。


個人に幸福を与える権力の存在と個人の幸福が不可分であるとする発想は、変革に際して、ギロチンにかけるべき権力とそれに依拠する個人の幸福を欲する。権力の偏在の是正に即してギロチンさるべき幸福はやむなきことになる。その「個人の幸福」は偏在する権力に依拠していたのだから。むろん、依拠していたと考える発想が、概ね間違っている。唯物論は幸福を直接には扱わない。


個人に幸福を与える権力の存在と個人の幸福を区別することが、すなわちギロチンを捨て去ることが、少なくとも現在の文明人の前提と思う。7年前のあの日のワールドトレードセンターについて詳細を記した大変な力作のブログ記事を拝見した。そこで紹介されている本を私は以前に読んだ。さして知られていなかった本であったらしいことに驚いている。

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話はズレるけれど。そもそも論として、社会的に状況最適を選択しつつ言論において状況それ自体を批判することはまったく問題ない。それが問題であるなら存在あるいは実存においていずれかに片寄せるかしかなくなる。状況最適を選択する日和見か、状況それ自体の全身批判者か。革命家すなわちテロリストと打倒さるべきブルジョワと存在を二分して規定する、あるいは自身の実存をそうチューニングする、手垢まみれのベッタベタな政治主義に私は関心ない。そして、1年前に書いたことだが。


私たちがフロイトの末裔である限り、すなわち悲しき社会的動物である限り、幸福という観念は階梯秩序を構成し、階梯は外延としての外形を要請する。結果としての規範意識に即した、状況最適の社会的雛壇すなわちヒエラルキーを、奴隷と名誉白人の生成装置とは私は思わない。人間社会における幸福とはイマジナリーな範型が最初に存在し、抑圧としてのそれを起点として言わば弁証法が社会/個人において展開するものでもある。個人の幸福とは、その観念は、そのようにして現れた。


私が身内に人生の墓場を見て、皮肉でなく墓場の幸福を見たように。墓場の幸福を知ることが他人の幸福を知ることであって、ゆえに任意の公理をもって他人の幸福を云々することは野暮であり、ましてその幸福は墓場なりと傍から指指することは論外である。が。個人の幸福とその獲得が規範意識に即した社会的ヒエラルキーのもと暗黙に規制され、結果、幸福という観念の階梯秩序が個人の幸福模索それ自体において抑圧的に影響するなら、それは転倒と思うし、それをして状況不適と見なすことは反動でしかない。


しかし。抑圧という起点なくして存立する幸福とは、共同性を宙に描かない幸福であって、共同性が幻想であろうとも、ではそのような幸福がはたしてサスティナブルな幸福たりえるか、すなわち社会存立の基盤たりえる幸福か、と、大麻肯定論に現状賛成しないシーラカンスな私は思う。唯物論で押し切るならまた別だけれど。


私自身は到底サスティナブルな幸福を求めて生きていないが、それは墓場の幸福を知るがゆえに別なる幸福を求めているということであって、墓場は私の心の故郷でもある。ズルいのだけれど。墓場を対幻想と言う。だから私は根本的に共同幻想の類を信じない。


共同性に基づくサスティナブルな幸福を基盤として存立する社会は既に無理であり、共同性に基づくサスティナブルな幸福に拠らずとも回る社会と個人の幸福を、という議論はかつて社会学系であった。現在もあるのだろう、が、私の意見としてはあまり賛成できない。やっぱりけっこう保守主義者だな、俺。


FAMILY

FAMILY


近代において結婚とは原則個人がするもので、そして個人がするものとしての結婚ならできちゃった婚だろうが5年間の中出しを経て妊娠契機だろうがまさしく御自由で、云々するは野暮。結婚を選択しないパートナーシップもまた個人の選択肢。


しかし、現代においてなお結婚とは原則個人がするものではないこと、つまり、言葉は悪いが胎児や未来のそれがさせるものであることを、結果的に示したエントリであったことが、「いい話」であることの理由であるとき、その限りにおいて、「個人の個人的な問題」「個々人の問題」ではそれはない。


妊娠を契機に結婚しておめでとう、と、「もともと子供ができにくい体質だったらし」い人と妊娠を契機に結婚することができておめでとう、は全然違う。前者ならおめでとう以外に言うことはない。そして後者もまた当事者自身の問題ではない。


そして。「もともと子供ができにくい体質だったらし」い人と妊娠を契機に結婚することができておめでとう、において、状況最適の選択としての、ふたりの5年間の中出しにあっただろうことを、私たちは想像しうる。むろん私も下司でなく想像しうる。政治的に正しい恋愛や政治的に正しい男女関係/性関係などあろうはずがない。そのことを私はよく知っているし、知って現在進行形である。「私と貴方」のことについては、そのどれについても、書くことと思っていることは違う。どう真面目に書いても。

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「いい話」に必要なものとは何か? 抑圧である。抑圧に人がどう向き合うかである。走れメロスだっていい話であるし、忠臣蔵だっていい話である、きっと。忠義概念に対する批判意識がないと大石内蔵助に言って意味はない。丸谷才一は言ったが。だから、藤沢周平の小説を、「いい話」の日本的な最高の洗練にして現代的な最高の達成としてのそれを、私たちは愛するのだろうし、私は贔屓にして久しいのだろう。


抑圧に対して状況最適を選択することと抑圧構造それ自体を批判することは、繰り返すが位相が違う。状況それ自体を批判することと状況最適を選択した個々のプレイヤーを批判することは違う。構造を批判することと構造の内面化を批判することは違う。が。


構造の内面化が構造それ自体を形成していることも事実であり、個々のプレイヤーの(主観的な)状況最適化行動が状況それ自体を構成し時に規定し状況の悪を再生産してもいる。誰が悪、と指し示しえないことが高度に複雑化した社会の自明であり、にもかかわらず人は顔を持ち合わせる悪を求める。それを指し示そうとする、所謂「マスゴミ」は、特に政治屋は。あるいは、現代社会の原罪としての悪を論じる、他人事のごとく。


むろん、それでも世界は回っており、そのとき「個人の幸福」概念は論駁の有効なカードである。俺には生活があるんだ、と大阪府知事は言ったらしい。小泉なら石原なら言うまい。革命家には足りない。そしてその「個人の幸福」とは政治概念としてのそれであって倫理観念としてのそれではない。


政治概念だから駄目ということではない。政治概念として公に提出される「個人の幸福」とは至極保守的なそれであり、至極保守的なそれでまったく構わない。ただし、倫理観念としての幸福はそれと別なる場所を志向するし、その志向する場所にあって「結婚」は未だに不在らしい。日本におかれては。結婚の幸福とは政治概念としての幸福である。だから悪いとも政治概念としての独身主義者の私は思わないけれども。


抑圧に対して状況最適を選択して個人の幸福を獲得することが「いい話」たりえることは、いまなお、人は自由でないということではある。藤沢小説の登場人物のように。あるいはそれが人間存在の本質であるかも知れないし、そして墓場の幸福を持ち合わせるフロイディアンの私は人は本来的に不自由なものと思っている。他人の幸福を墓場と指す言は端的に馬鹿と思っている。幸福は墓場から始まる。墓場から始まって墓場に終わるから個人の幸福は尊い――逆説的に。しかし。


恋愛は論じるものではなく、するものだ、と言った思想家曰く、対幻想は共同幻想と対立する。対立しうる唯一の契機である。だから、対幻想は、すなわち性愛は、ふたりのストーリーは、その結果として私たちが個人たりえること、個人としてしかありえないことを規定するのだろう。時に子を巻き込んで、子さえ疎外して。『死の棘』ではないけれど。


この世にはおおっぴらに祝福さるべき幸福とおおっぴらには祝福されない幸福がある。『愛のコリーダ』を観る限り阿部定は幸福であったらしい。極端な話だが、世の男女関係とはああいうもんではある、というのは私の経験則が腐っているからだろうか。おおっぴらに祝福さるべき幸福とおおっぴらには祝福されない幸福、その区別を問うことは、おおっぴらに祝福さるべき幸福を貶めているのではないし、祝福を貶めているのでもない。


社会的動物の必然たる階梯秩序としてのタテの序列において規定されることのない、ヨコに広がり相互に共存する個々の個別的なる固有の幸福を、人が幸福として選択し獲得しうる状況と環境を、私圏において望む、ということだろう。そのような幸福が、人の世にありえるかはわからないけれど。『クレしん』のもっとも有名な、そして素晴らしい映画を、思い出す。公開から7年、ヒロシの年齢に些か近付き最近切実に。難儀を承知で願わくは、中出しハッピーが倫理学としてのみ取り扱われる社会であることを。