保育園からやり直す政治

藤子不二雄A先生の『社長幼稚園』のことではない。


http://d.hatena.ne.jp/RPM/20081016/1224167751

http://sankei.jp.msn.com/politics/local/081016/lcl0810161139000-n1.htm


私も論点が錯綜していると思う。ただ、ネットで百家争鳴を呼んでいるひとつの焦点は「子供をダシにして」云々ということと把握した。子どもをダシにすると美味い芋鍋ができるのだろうきっと、とか与太は措き。


私は経緯を聞いて裁判所は仕事しなかったのかと思ったけれど、一般論というか私が持ち合わせる一般的認識として、行政代執行を行政は行えるということを理由に強行することは必ずしも妥当なことではない。商売柄知ってるが、別に東京では他人事ということでもまったくない、が、橋下知事大阪府政がある種の強権性を改革のためのマニフェストとするなら、時に保守的な一般的認識を後生大事に抱えて改革はできないということなら、それはそういう方針なのでしょうと、地方自治であるからして東京都民としては思う。


管見の限り、橋下知事は地方行政に伴う利害調整に対してあまりに荒くかつトップダウンに過ぎると映りもするが、そうした首相を私たちはかつて得たし、都知事も得たし、私はその都知事を投票行動において支持したし、さもなければ改革などできないと御本人は再三主張しておられるので、就任半年、無責任ながら東京都民としては御手並を拝見する以外ない。で、そうした橋下府政の方針を承知で差止命令出さなかったのですか裁判所は、という。三権分立とはそのことで、強制執行を行える行政を止める権力は司法でしかないのに。


なお。行政代執行を行政は行えるということを理由に強行することは必ずしも妥当でない、という一般的認識に即して、行政代執行へと至る経緯と事情を公的に問うことは結果的に行政代執行の妥当を導出する方程式として機能する。まして、一般的認識を理由に保育園側に即時帰責することは言うまでもなくまずいし、下司の勘繰りと言う。

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で。「子供をダシにして」云々について言うと、昔から反戦平和運動などというのは女子供がやるものと相場が決まっていて、反戦平和運動やるような男はオンナオトコとして遇されてきました。鶴見俊輔翁なんてオバサンみたいな顔しているし(「感性の薄い顔」的な意味で――by『心に青雲』)。小田実はとか具体的反論は却下。「子供を利用する卑劣」といった指摘はそうした昭和以来のイメージに基づく前提条件において涵養される発想で、なぜそうなるかと言えば、女子供は政治の当事者たりえなかったがゆえに今なお政治の当事者たりえないと認識されているからであって、山本夏彦師が言った通り、婦人に参政権を与えるべきではなかった。むろん婦人参政権から半世紀、そして政治の当事者たらんとする女はオトコオンナとして遇される平成の20年。フェミとかキモいに決まっているわけです。なぜキモいかというと、女もまた政治の当事者たらんとする運動とは、女が女として政治の当事者たらんとする運動であったから。なので、私は意見は違うし言論者としては評価しかねるところがあるけれど、また社民党の党首としては知らんが、たとえば福島瑞穂フェミニストとして行っている一連の政治活動や政治的発言は正しい。「女が女として」をキモいと、あるいは時代遅れと、人が思わないなら。


ある種の反フェミニズムというかフェミニズムという政治運動に対する違和感表明はそのようにして為されてきた。つまり、「女が女として」とか勝手に代表するな、代弁するな、と。「私」はたまたま生物学的かつジェンダー的にも女であるが、「女が女として政治の当事者たらんとする運動」には関心ないと。たとえば、それは中野翠の一連のフェミニズムに対する違和感表明として示されてきた見解である。


むろんここには根本的な「政治」に対する反撥というか違和感の表明があって、それは68年と72年を経た個人思想と関係なきものではない。つまり代表あるいは代弁のシステムとしての政治に対する「個人」に即した懐疑の表明としてある。個人は個人として政治の当事者としてあるのであって、女が女として政治の当事者としてあるのではないと。女であることは私という個人を構成するひとつのファクターに過ぎないのであって、女が女として政治の当事者たらんとすることは、そうした運動は、「政治」における個人の個人性に対する抑圧でもある、と。


対談 偽悪者のフェミニズム

対談 偽悪者のフェミニズム


政治において「女」であることを全面化したとき、「女」でもある個人は「政治」において抑圧される。そして政治とはそもそも論としてもそういうものであって、あらゆる被抑圧者の解放の思想たるマルクス主義に拠らずとも、代表と代弁のシステムであることは違いない。否、あらゆる「代弁」を「代表」へと変換する当事者概念の回路としてある。「だから」「政治」には進んで近寄らないという人が一定数ある。歴然と。


むろんたとえば中野氏がそうであるように、彼らは「個人」であることにおいて政治的であるのであって、断固として反ファシズムでもある。そしてたとえば「女」である私は、プライベートに、すなわち私的な関係性において処理さるべきものとされた。「同性愛者」である私においてさえ。『ゼロ年代の想像力』において政治的に主張されていたこともまた、そうしたことと私は理解した。


私的な関係性こそもっとも政治的である、というのは、スコープとしてそう設定するならその通りで、たとえばよしながふみのマンガの登場人物がトラメガとプラカード抱えてデモに参加する姿を想像できないし、それこそが現在のマイノリティのpoliticsであり、ethicsの意における美しい身の処し方かも知れない。なので非モテは自己責任ということになり、かつ美しくない。本田透のような醜悪な汚物は消毒すべきということになる。つまり、私的な関係性へと政治が解体され溶解するとき、醜悪な汚物は消毒される以外になくなる。むろん、消毒すべきなどと誰も主張しはしない。ただ「こっち見んな」とかすかに表情に出すだけである。つまり軽蔑ということで、私はよしながふみ作品は好きだが、そうした側面があることを否定しない。軽蔑というのは美しいが。

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そして「女である私」を処理する私的な場所を失ったときに政治はいかなる様相を呈するか、というのが、『彼女たちの連合赤軍』に代表される大塚英志の一貫した問題意識である。「私」を関係性において処理することがかなわず、政治において処理することを禁じられたとき、文藝というものがかつてあったし、今もある。「女である私」を処理する私的な場所を失ったとき公的な場所においてそれを処理せんとすることの箱庭的な範例として、かつて私たちは山岳ベースの事件を見た。――彼女は現在危篤状態であると聞く。


むろんそれはかく言ってよいなら大塚英志的なひとつの極端な解釈に過ぎない。で、山岳ベースでのリンチ殺人や大塚英志の著作が現在において一般的な認識たりえているとも私には思えないのだが、あるいは山本直樹桐野夏生がそれほど読まれているということかも知れないけれど、かかる解釈は汎用概念として雑駁に公式化され他人を中傷するために使い回されているらしい。つまりテンプレート言説として。要は、オマエが女としての「私」を私的に処理できていないから政治としてそれを問題化するのだ、と。一般論としてはそういう側面がないと言い切れるものでもないが、そして宮台先生が散々言ってきたことでもあり、非モテに対する非難というのもほぼその範疇なのだが。


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1183522.html


私が思うことには。「私」を私的に処理できないからこそ政治的に処理せんとするのであって、その受け皿として政治はある。が、私にとって政治とは第一義的に利害の調整と調停の場なのだけれど、そのオーダーに実存はない。自身の存在の受け皿としてある政治が即ファシズムたりうるというわけではないが、その危険なきものでもない。


「だから」政治という調整と調停の席に実存をオーダーすることはやめろ、「私」をオーダーするのはやめろ、それは個人の内心においてであれ関係性の中であれ私的に処理せよ、という見解はある。「だから」政治は「私」を個別の政策を単位に因数分解してピンポイントに手当せんとする、「女性」として派遣社員として非婚者としてNEETとして。――所謂アイデンティティ・ポリティクスに対する私の見解は複雑である


先日、NHKの番組で爆笑問題と対談していた姜尚中氏が曰く、加藤智大被告が表出していたような失意や孤独感や孤立感の受け皿として本来政治はあって、政治はそうした連帯の契機としての機能を取り戻すべきだ。同意するけれど、私が思うに、ピンポイントな手当へと唯物論的に最適化された政治は「私」を個別のかつ既成の政策を単位に因数分解するし、上記記事への反応に覿面なように政治運動もまたそうした最適化を否応なく強いられているときに、たとえば「派遣社員としての私」「非婚者としての私」という当事者概念とその政治性において、被告は自身を規定したろうか。あれほど自身の「不細工」に拘泥していた被告は。「派遣社員としての私」が政治的資源たりうることに対して、「私」が奪われるかのように感じたろうとも勝手に思う。


「私」を唯物論的に(というのは半ば与太だが)換言するなら、個人の個人性と指す。内側から把握されたそれが「私」。そして政治的資源とは、外側において置換可能な代入項として記述される概念であるということ。そのように現在の政治は唯物論的に(繰り返すが半ば与太)最適化されているということ。派遣社員も非婚者も女もあるいはGIDも。「○○としての私」において「私」に政治は興味ありませんし興味を持ち合わせません。なら、「私」もまた政治に興味を持たなくなることは致し方ない、と思う。鶏が先か卵が先かとは問えても。


旗幟としてのマルクス主義はまったく妥当な理路なのだろうと思う。「私」を個別のかつ既成の政策を単位に因数分解してピンポイントに手当せんとする唯物論的に最適化された政治が自明でありそれがゲームの一切であるとき、あらゆる被抑圧者の解放の思想は「私」を「私」として公的に肯定する唯一の政治的旗幟たりえるだろう。むろん、唯物論的にはそれはとんでもない話であるが。「派遣社員としての私」をあくまで唯物論的に諮ることが現行の政治であり政策であるとき「派遣社員としての私」「非婚者としての私」は政治的資源でしかない。ということで、与太と断るが、橋下府政は事実上きわめて唯物論的であるが、際して感情を利用するところが、狡猾でもある。「子供が笑う大阪」


そしてそもそも論において、代表と代弁のシステムとしての、代弁を代表へと変換する当事者概念の回路としてある政治は、機能不全に至って久しいのではないか、ということがある。同性愛者が同性愛者として政治の当事者たらんとする運動において同性愛者の国会議員を日本が輩出して然るべきと私は思うが、むろん福島瑞穂とその政治的言論が糞味噌に嘲笑される時世にあっては日暮れて道遠し、というか蜃気楼。


そしてそのことの大半は日本の政治風土に起因するものであって当事者運動の問題ではないのだが、当事者運動は日本の政治風土を見極めるべき、という話によくなっている。あまりこういうことは言いたくないけれど、たとえばイラン国内にも人権運動はあるしかつて、いや今も女性解放思想はあって、イランの政治風土を見極めるべき、とか傍から言うもおこがましい。むろん私は日本の政治風土を一概に否定するものではない。


ペルセポリスI イランの少女マルジ

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政治概念としての当事者運動の直面する桎梏が、こと日本におかれてはある。つまり当事者が政治的に当事者たりえると認識しないことには政治運動は形成されないのだが、そのこと自体が、たとえば女が女として、あるいは非モテ非モテとして、あるいはワーキングプアプレカリアートとして、政治的に当事者たりえると認識することそれ自体が容易に脱臼してしまう。


派遣社員に妙な同情はやめてくれという声があって、仰ることはわかるけれど、勝手な同情など誰もしていなくて、現在の状況において派遣社員という雇用不安定な立場は政治的な当事者たりえるし政治に対する要求主体たりえる、という話なので、勝手に代表するな、代弁するな、ということだろうしそうした増田を以前も拝見したが、政治に対する要求主体たらんとするために当事者運動を組織することと、個人思想は対立するものでない、というのが私が歴史から得た教訓ではある。


つまり日本では、政治に対する要求主体たらんとするための当事者運動が、個人が個人としてあることを抑圧すると、過度に考えられている、というか思い込まれている節がある。むろん、そのこと自体を否定する気はない。そうした側面は大いにある。私が日本共産党に投票したことがないのはそういうことではある。


代表と代弁のシステムとしての、代弁を代表へと変換する当事者概念の回路としてある政治は、日本において、女が女として、派遣社員派遣社員として、非モテ非モテとして、ワーキングプアプレカリアートとして、政治の当事者たらんとする運動について、「私」が政治的資源として分解されたうえその資源を政治的に搾取さることと見なし搾取に抗するべく違和を表明する人々を同時にかたちづくった。その懐疑と不信は根強くある。懐疑と不信それ自体を私は必ずしも批判しえない、「歴史的経緯に鑑みて」も。


個人の個人性を当事者性の名のもとに政治的資源として分解したうえその資源を政治的に搾取する政治概念としての当事者運動。そうした発想の広まりには、端的に言うなら、今回の報道に対する批判がそうであったように、「メディアリテラシー」概念がネットを席巻したことの動機としての、政治的詐術に対する懐疑と不信が存する。付記すると、他人にナイーブと言いたがる人間というのは政治主義者である。別に政治主義者で構わないが、私は宮本顕治は評価は措き好きではないしクラウス・バルビーも好きではない。


私たちは、政治的詐術の存在を知っている。アサヒるの話ではない。米大統領選に限らず歴史の話。そして政治的詐術の幾らかは、当事者性の詐術として存したし、存する。当事者性の詐術とは、「私」を政治的資源として分解しその資源を政治的に搾取する詐術のことでもある。


写真論

写真論


ここに涙する子供がいる。久々にソンタグの『写真論』を読み返していたところだったので「報道写真」とはそういうもの、と言ってしまってよいのか、それこそソンタグが唾棄したシニシズムではないかとも思うのだが、しかしソンタグは9.11を経た晩年において見解を変えた。あの、飛行機がビルに突っ込む映像はあまりにもドラマティックではなかった。そしてそれは際限なく再生され増殖蔓延し人を麻痺させるイメージだった。湾岸戦争が10年先んじていたことが、決定的に全面化した。イメージ批判(としてのイメージ)とは、中平卓馬だのゴダールだの挙げるまでもないのだが、イメージは批判するもの、しかし「ここに涙する子供がいる」ことを伝えるにそれがドラマティックなイメージであれドラマティックなイメージは必要ではないか、世界に涙する子があることに対して私たちが麻痺し鈍感であるよりは、というのがソンタグの晩年の見解だった、と思う。


当事者性の詐術とは、ここに涙する子どもがいる、私たちはそれを代表し代弁しなければならない、という論理のことで、それが詐術であるとは、涙する子供をイメージすなわち表象とは言わずとも政治的資源として分解しその資源を政治的に搾取しているからであって、つまり子供には当事者性において反論する権利がある。というか、私は意見は幾らか違うが五味太郎のファンでもあるので、彼の人ならこうした報道にも「子供をダシに」という発言にも大いに異論展開するだろう、とは最初に思った。子供にも意見があってそれは「ここに涙する子供がいる」に収まるものであるはずはない。言うまでもなく、ソンタグがかつて批判したような「ここに涙する子供がいる」とは、第一義的に第三世界に対する先進国のイメージにおける政治的な搾取を批判するものとしてあった。

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で。子供を当事者にすることが未来の革命戦士の育成であるかは知らないが、というかあれですか『モーターサイクル・ダイアリーズ』ですか、と思うのだけれど、もっと言うならパレスチナで殺し合いが世代を越えて続くことを私は歓迎するかしないかと問うなら歓迎しないし、カンボジアがどういう状況か通り一遍知ってるんだが、むろん子供を当事者にすることは結構なことで、私も皿と包丁が飛ぶ環境で育ってよかったと思っているし、相続する財産の当ても絶無なので相続税対策に苦慮する人にまったく同情できないのは社会正義の心が育まれたということなのだろう。親から相続した畑とか即刻収奪すればいいと思うよ、私有財産は盗みであるし。


詮無い与太は措いて真面目に話すと、子供を政治の当事者にすることに私が必ずしも賛成しないのは、紅衛兵の歴史を、『滝山コミューン1974』を、あるいは藤子A先生の『少年時代』を知っているからで、子供を政治の当事者にすることとは突き詰めたとき子に親を糾弾させることであって、それが真に不正義であるならやむなしと言えるか言えないか。私は儒教道徳を信じないのでそれで構わないし、岡田史子のマンガではないが、手を汚して財を成した父の息子がその不正義に反撥する、というのは別に甘えとも限らない、ただ、文革の凄まじさは、あの中国にあって、真に不正義であるならあらゆる反逆と糾弾は是と毛沢東が少年たちに保証したところにある。造反有理革命無罪とはそのことであって、その顛末を鑑みたとき、またたとえば陳凱歌の回想など考えるにつけ、そのことについては共同体主義を私は採らざるを得ない。言うならば、毛沢東は剣を投げ込む者であった。


私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春 (講談社現代新書)

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要するに、学級会という当事者政治に私たちは辟易したことがあるでしょう、と。真に不正義であるならあらゆる反逆と糾弾は是であると子供たちに保証した教師を私は小学校低学年で知っている。結果は学級会で○○君が悪いと思います、だった。日教組批判に関心はない、というかその教師が日教組であったかなど知らないし知りたくもない、誤解なきよう。問題は、その教師がどうと言うよりも、当事者性の詐術であって、子供は政治の当事者たりえるという認識において大人というかその教師が考える政治の当事者にすることしか考えないこと。五味太郎が学級界など糞と言うであろうように、子供が政治の当事者たりえるということは、大人が考える政治の当事者たりえるということではない。


子供だから? ――いや。大人が考える政治という政治的通念こそ、大人にとってもまた問題ということ。○○君が悪いと思います、とかね。私が小学校高学年で出くわした担任教師は、若く破天荒な先生で、そういう先生にありがちなことに今となっては(御本人に自覚があったかは知らないが)バリバリに左翼的な人だったとも若気の至りが過ぎていたとも思うが、小学生の私は呆れつつも好きで、人気者で、実は今でも鮮明に覚えている。卒業式でマジ泣きする、とてもナイーブな人だった。私はもらい泣きするクラスにしらけていた子供だった。


クラスを半々に分けて小学6年生にディベートをやらせて、その議題は死刑制度の存廃という、破天荒な先生だったけれど、しかし考えれば私はその頃からずっと死刑制度については考えてきた。そして思い起こすに、当時教室で交わされた議論は、やはり応報感情をめぐる議論に流れがちであったが、というか国家殺人の問題は流石に議論の俎上に載らなかったが、冤罪可能性の指摘や、被害者遺族にとっての「赦し」についての言及もあって、現在そこらのYahoo掲示板で交わされているそれよりよほど高度であったように記憶している。フツーの公立小学校であるし、贔屓目かも知らんが。


当時もそうであったように、いま議論しても先生とは意見が違うだろうしウマも合うはずなかろうが(私は同窓会に出席する趣味がないしお呼びもかからない)、感謝は忘れていない。先生は、○○君が悪いと思います、など、いっぺんもやらせたことがなかった、言動ゆえにクラスから孤立していた○○君(私ではない)を受け容れるために、○○君に見えないところで奔走し、それを知った幾人かのクラスメート(私を含む)に奔走させていた。生ける仲達を走らせていた、いや死んでないが。そういう人だった。「真に」と言うなら、真に政治的なこととは、当事者概念の回路を開くこととは、そういうことだろうと思う。それは私は大賛成である。


不幸なかたちで当事者概念の回路を開くことそれ自体には、多く政治より心理学や精神分析の回路を開くことになる時世であるし前提として賛成しない、が。政治と正義は違う。政治は誰かの何かを抑圧し抹殺する。だから政治は要らないというのがマルクス主義の原理であったし、レーニンはそう言っていた。今となってはよほどガチの人でもそういうことは言わない。レーニンの嘘は周知されている。


そして、政治によって抑圧され抹殺された誰かの何かを子供の涙によって表象することは、率直に言って最悪であるしダメダメである、ダメダメであるとはそのことに対する免疫システムとして進化論的かつ弁証法的に(うそ)シニシズムが発達したからである、が、そのことと子供の涙は関係がないし子供の涙に嘘はない。子供の涙に嘘はないとはむろん、涙それ自体は表象の問題でないということ。そして報道された涙は表象としてイメージ批判に晒され、表象としての涙はその寓意を読み解かれて中世宗教画のごとくアレゴリーとして処理される。で、新たな報道で、よかった、涙した子はいなかったんだ、ということになる。実在の人間とその感情は政治的アレゴリーとして処理される。画題「弾圧のアレゴリー」写真家がゴヤでなかったことは言うまでもない。


それは、代表と代弁のシステムとしての政治と当事者性との前提としてある距離が皮肉な悪意に晒された結末でもあるが、それと問題は別として、政治が誰かの何かを抑圧し抹殺したことと子供の涙には関係があるだろう。関係があることをただ泣いている子供に教えることが政治であるなら、それは構わないが、教え方にもよると私は思う。○○君が悪いと思います、では最悪でダメダメである。比喩だが、君たちの父が悪いと毛沢東紅衛兵に教えた。そして子供に爆弾を抱かせて悪いものの象徴へと赴かせる大人は後を絶たない。その悪いものが悪いことも事実であって一切合財は個人の主体性に基づく判断なのだろうし知らん人間の自殺を止める気もないのでそれはそれで構わないが、故意に差別的に言うなら私たちは文明人であるからして、他のやりようがあるだろう。


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そして、子供の涙において誰かの何かを抑圧し抹殺する政治に憤ることは、まったく正しい。そのような正義は、芋畑は知らないが、人は子供時代にそれを基底的に育むものと私は思っていて、私は性的なそれを含む学校を舞台とする虐待やむなしという政治的な言を論外と思っているし(『リリイ・シュシュ』ではないが、思春期ゆえどうしようもなくやむをえないこととそれが悪であることは別である。そして実際はいい大人もまたそれをやっている)、そしてこれは当時接した女子の始末が大きいのだが、「私」のフォローを埒外とする政治を懐疑してもいる。政治はむろん必要だが政治が誰かの何かを結果的にも抑圧し抹殺することは不正義ではある。正義という言葉をキモいと辞書から抹消するのでなければ。

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個人であることはすなわち政治的なことである。オーウェルがそうであったように、それはファシズムへの最大の抵抗軸である。「私」とはその範疇ではない。「私」とは政治的には弱い、だから人は小説を書く、日本において私小説を。私的生活においてフォローされない「私」を代表する政治が時にろくでもないことは知っているが、「私」を個別のかつ既成の政策単位に因数分解して政治的資源として取引しピンポイントに手当することが唯物論的最適解としての政治であることの自明と、ファシズムの足音は、表裏である。「私」を代表してくれる人を求めて、人々は小泉純一郎に投票した。


政治的資源として取引される「私」であることへの不信と懐疑が根深いとき、すなわち日本において当事者政治が運動として脱臼しがちなとき、唯物論的指向へと傾斜し続ける政治は何をフォローできるだろうか。そのとき、涙する子供が政治的資源に見えてしまうことは、近代哲学の認識論の問題ではない、というか、自称中立と人の無自覚を笑って済む問題ではないし、また上記を理由に自称中立を必ずしもファシズムと親和的とも私は思わない。ファシズムと親和的と指摘されて率直に戸惑う人は多いだろうと思う。もちろん私はファシストですが、と言うとホームレスをガス室への人みたいだな。


私は自分の内に正義を持ち合わせるけれど、それを政治的資源とすることには関心がない。ということでまたしても民主党に投票するのかしら、それを思うと頭が痛い。涙する子供が政治的資源として良いダシが取れるか、それがそもそも無理無理むりむりかたつむりなくらいに、シニシズムは自明である。小学生の私でも親が産経新聞取っていたなら写真を見て笑ったろう。あるいは小学生の私だから笑うのかも知れない。大人になるということは頭の中に認識の整理箱が増えるということで、ソンタグだの中平卓馬だの大塚英志だの姜尚中だのと箱に貼るラベルも増える。私はたまたま「プロ市民」「ブサヨ」「自称中立」「奴隷の鎖自慢」というラベルの箱を持ち合わせないに過ぎない。同じことを言っているのかも知れない。結局頭は小学生で、整理箱が増えてラベルが煩雑になるだけで、認識自体は変わらない、あるいは。


ところで私はこういうときいつもジャ・ジャンクーの映画を思う。畑が潰されようとも幹線道路が開通しようとも、そして行政の長たる知事が落成式典で満面でも、結果自分の小さき生活が直接間接にとばっちりを食おうとも、政治と「私」は常にかかわりを持たない。そして「私」は満たされないまま持て余し続けて、小さな私的関係性の中をさまよい続ける、そして人は卒然と去る。それが現代中国的なる世界観であるかは知らないが、世界と「私」に接点なきことは、ことあの広大な大地においては、そして急激な経済発展下のあのような政治体制においては、日本より遙かに劇的であるだろう。だから、よからぬ事も起きる、日本の後を追うように。彼の国にも、加藤智大はあるのだろう。

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