田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」は、すべての日本人がいま読むべき論文だと思う。


とうとう、田母神俊雄の長編評論「日本は侵略国家であったのか」が論文になった。


http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf


この論文は今、すべての日本人が読むべき論文だと思う。「すべての」と言えば言いすぎであれば、知的生産を志す人、あるいは勉学途上の中学生、高校生、大学生、大学院生(専門はいっさい問わない)、これから先言葉で何かを表現したいと考えている人、何にせよ教育に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う。願わくばこの論文がベストセラーになって、日本人にとっての戦争と平和について、これから誰かが何かを語るときの「プラットフォーム」になってほしいと思う。この論考に賛成するかしないかは別として、田母神の明晰な論理による思考がぎゅっと一編に詰まったこの論文が「プラットフォーム」になれば、必ずやその議論は今よりも実りのあるものとなろう。


田母神俊雄という人は寡黙の幕僚長なので、僕のブログの読者では知らない人もいるかもしれないが、五、六ヶ月に一度、とんでもなく素晴らしい正論を吐く人だ。本論文は「そんなの関係ねぇ!」以来の、田母神発言を愛好する者たちにとっては待望の書き下ろし作品であるが、その期待を遥かに大きく超えた達成となっている。


内容について書きだせば、それこそ、どれだけでも言葉が出てくるのだが、あえて今日はそれはぐっとこらえておくことにする。多くの人がこの論文を読み、ネット上に意見・感想があふれるようになったら、再び僕自身の考えを書いてみたいと思う。


一言だけいえば、これから私たちは「戦争の世紀」を生きる。資源争奪上戦争が必要だからとかそういうレベルの話ではない。戦争がかつての万世一系のように、「国体」として人類の叡智を集積・蓄積していく「普遍語」になる時代を私たちはこれから生きるのだ、と田母神は喝破する。そして、そういう時代の軍事同盟以外の日米関係の未来、日本の未来、日本人の未来、集団的自衛権という観点からのシビリアンコントロールの意味、歴史教育や修身教育の在り方について、本論文で思考を続けていく。とにかく思考が明晰だ。しかも小説のように面白い。明晰な文章を読むと、その内容が厳しいものであっても快感が得られるものなのだ、と改めて思った。


防衛大学校から航空自衛隊に入隊し統合幕僚学校長を務めた田母神の問題提起は、「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。」ということである。放っておけば日本は、「国家」としては残っても、叡智を刻む「国体」としてはその輝きを失っていくのではないか。「戦争の世紀」とはそういう暴力的な時代なのだと皆が認識し、いま私たちが何をすべきか考えなければならない。


この論文にこめられた、日本を愛する田母神俊雄の「心の叫び」が、できるだけ多くの日本人に届くことを切に願う。

■■■


失礼千万を承知で改変させていただきました。御容赦。⇒水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan


はてなブックマーク - Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ ...

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20081109153229


――つまり、紹介書籍の内容の問題でなく、香具師の口上の問題ということです。私はとても好きだけれど、『ハックルベリーに会いに行く』の人のような。私は偶々御紹介の書籍を書店で見かけて――恐縮ながら長々と立ち読みしたわけですが――読んでいます。あまりよい読者であったとも思いませんが、水村美苗氏の読者ではあったので。おぉ、と。


精読したわけではないながら感想は、渾身の良書と思いました、しかし所謂批評空間方面の言説の読者であった私にとってはさして新鮮な論点でなかったことは事実です。そしてそもそも私にとっては山本夏彦において既知の議論でした。私はそう解した、あるいはそのようにしか解せなかった、ということで、繰り返しますが私はそもそも水村氏のあまりよい読者ではないと思っています。


梅田望夫氏の言葉の真摯を承知のうえで改変したのは茶化してのことではなく、また香具師の口上であってむろん構わないと思いますし私はハックルベリーの人はとても好きですけれど、しかし。


香具師の口上が読者を「その気にさせる」べく一定の言説的な磁場を頼るとき、その言説的な磁場が持ち合わせる特殊性を捨象してあたかも普遍的な知の問題のごとく述べ、対する疑義を「本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに」と議論を(敢えて言いますが)すりかえ個々人の態度問題として却下することは、おそらくそれは故意であるがゆえに――どうなんでしょうか。その「言説的な磁場」とは、梅田氏が独力でつくりあげてきたものであった、と言って過言でなかったとしても。


香具師の口上は他人を乗せてナンボです。乗せるために用意される前提があるということです。その前提は梅田氏の業績と等しく、そして前提には私は異論ありませんし、恩恵も受けています。自身が一からこさえた前提において確信のもと他人を乗せるべく示される口上に傍から文句を付ける余地も筋合もありません。


繰り返しますが、香具師の口上で悪いということはまったくありませんし、また梅田氏が香具師ということではむろんありません。方法としての「香具師の口上」ということです。ただ、用意された前提が透けたときそれは「本を紹介しているだけのエントリー」が問われているのではない、ということです。なお、一連の次第について思うことはありますが、田母神氏に対して他意はありません。