「これは単なる絵だ。だが、それがいい」


はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):漫画の人気キャラが非処女と判明してヲタ騒然…「単行本全部捨てる」と漏らすファンも

はてなブックマーク - 処女信仰と『かんなぎ』祭りについてのまとめ(仮) - 羊肉うまうま@ついったー部 - はてなグループ::ついったー部

はてなブックマーク - きなこ餅コミック 激しい〈処女信仰〉は、悲しい〈童貞賛美〉の裏返しの叫び

処女厨爆発しろ - やや最果てのブログ


げんしけん』の春日部咲を処女と言った人を知っている。感銘すると同時に『テヅカ・イズ・デッド』のクリティカルな主張を、私はそのとき理解したのだった。たぶん。


げんしけん(1) (アフタヌーンKC)

げんしけん(1) (アフタヌーンKC)

げんしけん - Wikipedia


作品には意味があり、作家には意図があり、キャラクターの配置と造形にはその意図が反映される。ことに、木尾士目のような作家においては。それを古典的な意味で、作家性と言う。


作品の意味を前提して作家の意図が反映されたキャラクター配置(とその造形)において、春日部咲は非処女として在る。咲ちゃんが非処女であることに、作品においては意味がある。そして、春日部咲が自身の趣味嗜好と人生の目的を確と持ち合わせる自律した女性であり決して「ビッチ」ではないことにも、作品において意味があり、作家の意図がある。


他方、いちおうの主人公、笹原のその妹は、未だ趣味嗜好と人生の目的を確と持ち合わせるわけではない現代の若者の典型像であるが、しかしやはり「ビッチ」ではない。ことに、兄である笹原にとっては。――『げんしけん』とは、そのような関係性の描写を意図して描かれた作品であり、最後まで、その作家性はキャラクターの取扱において禁欲的なまでに貫徹された。それは古典的な意味での作家性。


木尾士目は、匿名的存在としての人間の関係性とその典型像を典型像として解像度を上げて描く作家であり、だから単行本のオマケ頁においても、描かれるのは登場人物同士の関係性の戯画であって、たとえば『BLACK LAGOON』の単行本巻末のようには、独立した存在としてのキャラクターそのものの戯画ではない。


言うなれば『げんしけん』とは、「オタク」を描いた作品ではあるけれど、「オタク」に代表される現代の若者の関係性とその典型像を典型像として仔細に描いた作品であって、決してオタク的―−東浩紀言うところのデータベース的に消費されるべく意図された作品であったわけではない。むろん、良し悪しの問題ではない。


だから、春日部咲が非処女であることと、その咲ちゃんの人物造形は、作家の意図するところであり『げんしけん』という作品においては意味がある。「春日部咲」にはそのような意味での作品中における存在理由がある、ということ。有村悠さんの言葉を借りるなら、作品世界における合目的的なキャラクターとして。そして果たして、春日部咲という「絵」に表象された人格的存在は、そのようには消費されなかった。

■■■


その人は言った、咲ちゃんは処女だと。私は思った、処女である咲ちゃんとは、それは何? それこそが『テヅカ・イズ・デッド』において論じられていた、と私が記憶する「キャラクター」と「キャラ」の境目の要諦と気付くのに、時間はかからなかった。頭の中で電球が瞬いたとき、大概それは外れなのだけれど。


純化すると(単純化するな)こうなる。作品世界における意味付けや作家の意図が反映されたところのキャラクターとして「咲ちゃん=非処女」であって、咲ちゃんすなわち非処女である。作品の性格ならびに意味ならびに構造上、そう言って過言でない。


非処女であるところに春日部咲が春日部咲であるところの意味がありひいては作品世界における存在理由があるのだから、非処女でないなら、それはもはや「春日部咲」ではない。にもかかわらず、処女である咲ちゃんを人は前提しうる。これは想像力の問題であると同時に、キャラクターの固有性という概念から転倒を経た固有名としてのキャラの問題としてある。


「春日部咲」という図像付随的な固有名は、そのキャラクターの固有性を位置付けるはずの作品世界における合目的的な意味を離れて、処女として人の想像力において存在しうる。私が記憶する『テヅカ・イズ・デッド』の分類ないし定義に拠るなら、これを「キャラ」と言う。キャラクターの固有性を位置付け作品世界に紐付ける、作品世界における合目的的な意味を離れた、「絵」に表象された、あるいは表象にさえ規定されない、人格的でさえない固有名として。


余談ながら、かつて有村さんが大変真摯に論じておられた「合目的的なキャラクター、世界観に沿った合理的なキャラクター」を「それにしたがってって消費」するのでなく、すなわち男に陵辱されてそれでも感じてしまうために存在するキャラクターを、一個の人格的存在として愛したい、さもなくば「彼女たち」が不憫である、という問題意識も、このような議論の延長に位置付けることはできる。有村さんは承知だろうし、また有村さんにとっては端的に個人的問題であるかも知れないけれど。

■■■


私はむかし、だいぶ昔のことだが、そして橋本治の受け売りでもあったが、人格無視云々のポルノ批判に対して、次のように述べてきた。こんな女が現実に存在するはずがないでしょう。こんな女が現実に存在しないという前提において創作され共有されるのがエンターテインメントです。


しかし、AVでSEXを学習して実践する男もあるらしく、むろん現実はフィクションのマトリックスであって、現実の暴力や恐怖は、表象される暴力や恐怖のマトリックスとしてある。もはや既知に属すること。


ゆえに、合目的的に擬似人格を設定された非人格的存在に一個の人格を見出すことは、現代の想像力の必然であり、合目的的に擬似人格を設定された非人格的存在に別なる擬似人格を代入することも、現代の想像力の必然であり、消費者の都合だろう。それを妄想とネガティブな言葉で規定することは、できれば避けたいとも思う。


もとより擬似人格が設定されたに過ぎない非人格的なキャラクターは作品世界の位置付けや合目的性を離れて、属性としてその固有性を処理される。属性としての固有性処理が非人格的であったとして、そのことはなんら問題でない。「春日部咲」は正しく「非処女」として属性処理される。


しかし、人は固有性を固有名において処理するがゆえに、処理に際して、固有名において属性さえ消費者の都合から個別に変更される。属性の如何は、想像力と消費者の都合において規定され確立された任意の固有名とは必ずしも関係しない。


つまり、単一の非人格的な固有名に付随する、消費者の都合に基づいた無数の想像力と、想像力において再装填された無数の擬似人格がある。キャラクターならざる、作品世界とその必然の紐付けから切り離された「キャラ」の誕生。


テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ


だから、その人にとっての春日部咲は処女である。対するに、マンガをちゃんと読め咲ちゃんはコーサカとギシアン、と指摘することに意味はまったくないし、咲ちゃんを処女と言っている人がマンガをちゃんと読めていないわけでも妄想に溺れているわけでもない。


その人は『げんしけん』というマンガをそのように読んで、その人なりに消費している、ということでしかない。なので福本伸行のキャラが軒並み美形化されていたとして、何が問題だろうか。むろん誰も問題にはしていない。想像力に敬意を表している。


処女/非処女という属性処理がエンターテインメントにおいて問題たりうるのは、現実がフィクションのマトリックスである以上、表象における抑圧の敷衍であり暴力性の発露であるからだろう。そのことを否定しうるものではまったくない。


しかし、一点述べると、現実がフィクションのマトリックスであるからこそ、現実の問題を表象において討伐して現実が変わるという発想は危険きわまりないし、現実の問題をせめてフィクションでは見たくない、というのは単なる「不快感至上主義」に等しい。


むろん、個人の個人的な不快感には意味がある、政治的な意味も。しかし政策に反映される回路がない――所謂ポピュリズムの時世において、今後のことはわからないけれど。だから、いまなお森昭雄の言説を動員して、フィクションの犯罪助長論が規制の最大の口実たりうる。

■■■


かんなぎ (漫画) - Wikipedia


かんなぎ』私は放送中のアニメは見ていたけれど、マンガをちゃんと読んでいたとは言い難い。作品の意味付け、作家の意図、読者の消費、三者が齟齬を来たしたのだろうか、とは思う。要所は、作品の意味付けは誰が行うのか、作品に刻印される作家性とは、作家の裁量であるか、という、いまや古典的とも言える問いにある。言われる通り、そして「原作者」は自覚しているだろうように、『涼宮ハルヒ』は誰のものであるのか。


少なからず、こと子供や子供のハートを持ち合わせる大人を対象とするメディアにおける連載マンガは、読者との共同作業であって、作品世界の必然に即して固有性を作品世界に位置付けられ紐付けされたキャラクターを独立した「キャラ」として育てるのは時に読者でもある。


げんしけん』における春日部咲のようには、『かんなぎ』のナギは作品世界において意味付けられてはいない。処女/非処女ということではない。繰り返しになるけれど『げんしけん』の春日部咲は、作品世界において――性体験に無縁な男性たちを主人公とする性を主題ともする青春ドラマとしての作品内においてということだが――非処女であることに意味がある。


同様に、『かんなぎ』のナギは、作品世界において「生身の女の子」でない、ということに意味がある。合目的的な存在理由が。そしてそこに、フィクションのフィクションであることの所以があり、エンターテインメントの意味がある。生身の女の子でない、どころか、建前と言わず設定において女の子でさえない、神様だから。それが、作品の意味のもとキャラクターの存在理由として要請される合目的性。


その、作家ならびに読者に帰するだろう合目的性こそ、所謂データベース的な消費を帰結するフィクションの必然であって、つまり先述の通り現実に存在しない女、という前提は外すべくもないからこそ、そのことを設定や図像において裏書する必要がある。どう見ても8歳の女の子が全員18歳以上であるのは、摘発を逃れるためだけのことではない。作家がそのことを率先して忘却するなら、読者との共犯関係共同作業において育てられたキャラクターは、少なくともキャラとしてはリコールに値するだろう。


別に生身の女の子をリコールしているのではない、そのことが「生身の女の子でない」ということの、現実に存在しない女を現実に存在しない女として、すなわち神様として描き、それに萌えることの、すなわち「処女厨」が全力で肯定されるべきことの、意味としてある。一部の批判に対して私は思うのだけれど、あなたがたはフィクションをエンターテインメントを何だと思っているのか。

■■■


少なくとも半分を読者に帰するキャラクターの合目的性に即して、作家の意図が、現実に存在しない女として明示的に描かれた現実に存在しない女において男と女の現実を描かんとするとき、齟齬が生じそれが亀裂として現れるなら、それは作品が作品であるところの正念場とも思う。


むろん。現実に存在しない女として明示的に描かれた現実に存在しない女において男女の現実を描くことは、偉大なる桂正和を引くまでもなく、まったく無問題であるし、誰もがやっている。『GUNSLINGER GIRL』は現代社会のひいてはこのクソのような世界の縮図であるのだ、きっと。


ただし、『GUNSLINGER GIRL』がそうであるように、読者との約束(=promise)として、作品世界における現実の濃度すなわちリアリティのレベルは最初に明示されなければならない。それが、宮崎駿がかつて言ったように、エンターテインメントの要諦であり、ファンタジーの倫理としてある。むろん、あまりに作家であった宮崎駿は作家の必然として、エンターテインメントの要諦を無視してファンタジーの非倫理へと針を振った。


現実に存在しない世界における現実に存在しない女を現実に存在しないものの証明として「絵」で描くことにおいて、描かれる「現実」のレベルは最初に明示されるべき、それは受け手との根本的な信頼の問題、そう、かつて筋金入りの近代作家であった宮崎駿は言った。


現実にありえない女を現実にありえない存在として明示的に描くために用意された現実ならざる設定において、その非現実の約束を反故にして男と女の現実が前提なく描かれるなら、それは作家性というよりは、読者に対する背反である。


げんしけん』で例えるなら、斑目と咲ちゃんが結ばれるようなもの。『げんしけん』が設定において現実の濃度を可視の水準に位置付けスタートして終了したのは、非現実と明示して描かれる非現実を、擬似現実と約束された作品世界において認めないとする宣言とその貫徹にほかならない。それが木尾士目ということ。現実のごとく描かれる現実を、非現実と明示的に約束された作品世界において認めることは、必ずしも妥当でない。


意匠としてのファンタジーにおいて現実の現実であることを「リアル」に描く、という作品は無数にある。『かんなぎ』はそうではない。意匠としてのファンタジーは非現実が非現実であることを約束するためにある。意匠としての男女関係のファンタジーにおいて男と女の男と女であることの現実を描いた作家は枚挙に暇がないけれども『かんなぎ』はそうではない。今後のことは、マンガ『かんなぎ』のよい読者ではない者にはわかりかねるけれど。


そもそも論として。大前提としては、フィクションとは非現実のゆえに善悪の彼岸が約束されるのであって、にもかかわらずフィクションにおいて擬似現実と模倣された擬制としての善悪に基づいて読者に訴求することを、大むかし「俗情との結託」と言った。むろんエンターテインメントは「俗情との結託」において成るけれど、「俗情との結託」を指摘さるべきは作品である。


フィクションにおける属性処理としての処女志向が「俗情との結託」か、かくも糞味噌に言われている状況において、私はそうは思わない。だからこそ、擬似現実でないと明示されるあからさまな非現実が萌えるために要請される。その作品世界に基づく事の是非は善悪の彼岸において論じられるべきだろう。原則としては。


俗情との結託に基づいて設定される擬似現実において利用されうる現代の善悪とは、政治的正しさ以外の何物でもないと私は思っている。異性に対して心の広い男は政治的にも正しい。その構造を逆説をもって徹底的に喝破したのは『東京大学物語』の江川達也だった。

■■■


古典的な作家主義は死んだかも知れない、けれども、いや死んだからこそ、人は「オリジナル」を旗幟として「オリジナル」に拘泥する。消費者の都合に基づく読者の営為としての属性処理と齟齬を来たしたとき「オリジナル」が「非処女」であったらしいことにショックを受けることは、当然でもあるだろう。


消費者の都合に基づく読者の営為としての属性処理が作品を全面的に意味付けるなら「オリジナル」に依拠した抗議こそ意味がない。むろんそのはずもなく実際は、連載中/進行中の作品において、消費者の都合に基づく読者の営為としての属性処理が作品の半分を意味付けたとしても、半分は作家の手になる「オリジナル」において意味付けられる。


ところで私はCLAMPは大好きだけれどアニメ『魍魎の匣』におけるCLAMPがキャラデザした関口巽が許し難いのですが、誰に抗議したらよいでしょう。飛影はそんなこと言わない、関タツはあんなメガネ男子じゃない。京極夏彦は近作において中禅寺秋彦の容貌を凡庸に凡庸に描写している。


ちょびっツ 1 (ヤングマガジンコミックス)

ちょびっツ 1 (ヤングマガジンコミックス)


幾度も書いてきたし言うまでもないことと思うけれど、改めて明記する。「欲望」や「精神性」に基づく「三次元」と「二次元」を区別しない特定ポルノの暴力性を批判する議論にはきわめて問題がある。むろん『かんなぎ』はポルノではない、が、こう明記しなければならないことがある。


「現実に存在しない女」との「現実にありえない男女関係」を描くために「現実ならざる設定」が用意される。非現実と明示し読者と約束するために、設定の荒唐無稽と御都合主義はあからさまに示され強調される。


約束を経て連載を重ね信頼を築いた後に唐突に「男と女の現実」が描かれるなら、そうであるならということだけれど、読者には抗議する筋合があるし、作家には作家として「オリジナル」の作品において読者の抗議を真っ向受けて立つ筋合がある。


その抗議が政治的正しさにおいて門前払いのごとく第三者から棄却されるなら、そもそも大きな御世話であり、かつ、エンターテインメントがエンターテインメントであることの、御約束の意味がない。御約束と言うと軽いが、それは、かつての小池一夫作品が典型的にそうであったように、現実にありえないことと最初に明示し読者と約束するためのサインにほかならない。あからさまに示され強調される設定の荒唐無稽と御都合主義は、そのためにある。


よもや「ゲームと現実を混同」のごとき、ユーザーのリテラシーをなめくさったマスゴミの紋切型まがいの認識が「処女厨」に対する批判に存するわけではあるまい。小池一夫作品とその読者の「セクシズム」を「声高に」批判するマンガ文盲はいないし、敢えて書くが多くの男はそのことをわざわざ批判したりはしない。私は本件における「処女厨」批判も同じことと思っているけれど、同じことにならないのは、政治的に正しくない性観念にも貴賎と上下があると思っている人がいるのだろう。それは自身の批判する「処女厨」程度に愚かしいことなのだが。

■■■


「現実に存在しない女」に「まで」処女/非処女にこだわるのか、ではない。「現実に存在しない女」であるからこそ、属性としてであれ作品の必然としてであれ、処女/非処女にこだわる、ということ。


現実に存在する女の、処女/非処女に男が、まして非当事者としての男がこだわりうるはずもない。現実に存在しない女に対してのみ、男は処女/非処女にこだわりうるし、堂々とこだわってよい。それはフィクションでありファンタジーでありエンターテインメントであって、現実に存在しない世界の現実に存在しない女の話であるから。それが御約束の意味であって、そのことはサインをもって明示されていたから。


たとえば私は吉田秋生は素晴らしい作家と思っているが、その作品に登場する男について、つくづく女の視線と思っている。よしながふみに至るまで、多く女性作家は自身の視線から見たい男をしか描かない。貶めているのでも批判して言っているのでも最悪の相殺論でもない。男は自身の視線でいまなお雨夜の品定めをやっている。ただし平安の昔とは違って、時に孤独に、PCの礫を避けて虚構世界の中で。それを「萌え」と言うかは知らない。


現実を素材としておおっぴらに交わすべきでない雨夜の品定めのために、エンターテインメントが用意されるとき――つまりそれは映画スターやTVドラマ/バラエティやその出演者総じてタモリ言うところの「国民的オモチャ」を含むのだが、そしてそれは「生身の人間」であることにおいて「絵」の比ではないのだが――それを肴に交わされる虚構世界をめぐる雨夜の品定めにまで傍から嘴を挟むのはなんだろうと思う。ネットで書くな、という話ではあるまい。もしそうなら、性観念や性体験をめぐる男の器量についてネットで匿名で書くことくらい無意味で恥ずかしいことはない。


ジャンルとしてのハーレクインロマンスやある種のBLの覿面に男根主義的な性差別性に対して「声高に」突っ込む人はあまりいない。消費者が女だから覿面に男根主義的な性差別性が「免罪」されるわけでもない。欲望とそのフィクションにおける広範な消費の問題は大きな御世話、と言いきれるなら、端から正義を偽装した政治を問うべきことではない。私は言いきれない。だから正義を偽装してでも、政治を問うしかないと思っている。


性差を問わず私たちは男根主義的な男の欲望から自由でない、ということではある。ラカニアンを名乗る斎藤環がかつて喝破した通り、ナウシカに限ることなく、戦闘美少女は性的存在としての自己を意識しない。表象されるヒロインは、視られる存在としてのみ性的に存在する。そしてまことに、現実はフィクションのマトリックスとしてある。


私たちは誰しも、視られる存在としてのみ性的に存在する時代――それを子供時代と言う――を経て、幸運かつ幸福にも、多くは幾らか長じてそのことを自覚し(文字通りの子供時代にそのことの自覚へと至らざるをえない人もいる)、性的存在としての自己を規定し、自身の性的なpresenceを知り性的存在としての自己のpresentationを覚えていく。性差を問わず、時に「媚び」として。だから、余談ながら生来の容貌の問題は性的存在としての自己に対する意識において決定的に大きい。「たかが容姿」、たかがイケメンブサメン美人ピザの問題ではない。


戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)


そして私は思うのだけれど、現実に存在しない女の処女/非処女に拘泥することを嘲笑する人はむろん売買春にもAVにも無縁なのだろう。「相手は生身の女の子なんだぞ!」。


売買春の是非を措いても、私は現在の日本の売買春は性的搾取と思っている。私は現実に些か立場と責任あるのでそれをけしからんともべつだん思わないが、現実の「生身の女の子」が介在する性的搾取より想像力に基づく想像上の女の子(いや神様か)に対する性的搾取の方が問題と考える発想は端的に理解し難い。


他人事に対して政治的に正しく他人を堂々馬鹿にできるから、ということでないなら。社会的公正の問題であって、まさか優越感ゲームではないと思う。私はAV含めて二次元三次元問わずポルノメディアにプライベートには縁がない。抜くために接したことがないということ。風俗も同じく。


プライベートには現物しか関心ないサディストの私はそもそも穴に挿入する趣味が基本的にないので、穴の具合に拘泥する人のことはよくわからない(Sなので異物なら入れうるが)。ただ少なくとも、特定性体験において性的存在としての自己の意識が規定されていることをことさら「告白」したがる人に「処女厨」とやらを嗤う筋合はないと思う。


性体験とは数ではないし、性観念が体験の有無や数に依存するものでもない。私のように数だけ経て荒涼ということでも必ずしもないだろうけれど、そのメモリーを必要と相手に応じて安値で卸しているようにしか見えないことがある。つい思い出すマンガがある。むろんmemoriesはpriceless。


パーマネント野ばら

パーマネント野ばら


上記『痛いニュース(ノ∀`):』のブコメ欄で紹介されていたurlが懐かしかった。


イミフwwwうはwwwwおkwwww 10年前に惣流・アスカ・ラングレーと出会って以来、何千回とオナニーしてきた俺がついに悟った!


むろん、元スレの1がそうであったように比喩として、単なる絵という了解のない人はいる。マドレーヌの香りから幼少期に遡る記憶の一切が始まるように、1901年、シチリアのコルレオーネ村にてヴィト少年の母親がドン・チッチオに殺された瞬間からコルレオーネ・ファミリー三代に亘る愛と哀しみの歴史が始まったように、単なる絵という認識から、了解の現在へと及ぶ一切は始まっている。そして新たに肯定されるべきことと、同時に問われることがある、エヴァから13年を経た2008年。


BLACK LAGOON』のレヴィを処女と言った人を知っている。冒頭の人と同じ人です。単なる絵に対する孤独な雨夜の品定めはto be continued. その肯定さるべきを、改めて言うまでもなく、問われるべきは「だが、それがいい」の逆接に在る。


ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で