配線を繋ぐということ


2009-09-18

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090919/p1


またしても、駆け足かつ雑駁な議論になりますが。


一時的に倫理と道徳を弁別せずに書きますが。倫理道徳の根拠を下部構造に求める。そうした考え方はあります。一神教に発する文明は、マルクスヘーゲルの「逆立」を批判したように、またニーチェが糞味噌にこきおろしたように、倫理道徳の根拠を「上部構造」に求めてきました。結果、教会の権威は、時に科学という試行を抑圧した。


「上部構造」は、人間とサルを切り離す場所に成立しました。マルクスを継ぐ誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースも、また一神教の代替物としての天皇批判を継いだ阿部謹也も、私たちの倫理道徳の場所を、下部構造に求めた。それは、資本主義の暴虐が「社会」を超えて世界を席巻した20世紀において、彼らが持ち合わせた問題意識でした。


しかし、倫理道徳の根拠を下部構造に求めたひとつの帰結が、ナチスドイツとしてあった。第一次世界大戦の戦場を潜り抜けたヒトラーの理性的な世界観にあって、私たちが「種」の存続のために生存闘争を繰り広げることは自明な事実だったので。倫理道徳の根拠を「上部構造」に求めてきた一神教に発する文明の欺瞞に対する徹底した批判としてあるニーチェの議論を、真に受けると、そして国家が政策化すると、ナチス優生学になる。ナチスの科学主義は、倫理道徳の根拠を広い意味での下部構造に求めたその結果としてあった。それも、20世紀の、つまりレヴィ=ストロース阿部謹也が生きた世界の、問題意識です。


このことの教訓は。倫理道徳の根拠を下部構造に求めるなかれ、ひいては「上部構造」の根拠を下部構造に求めることは常にオカルトである、ということです。そのことを知っていただろう彼らは神話を「学説」としてその「科学的」な人種主義に接木する。かくて国家共同体のオカルトは成る。「国家社会主義」とはよくいったもので。


「経済学者」マルクスにとって、歴史の必然とは科学的な命題でした。下部構造による上部構造の規定を説いた彼は、上部構造それ自体を論じていたのではないし、上部構造のあるべき姿を説いていたのでもない。国家を越えた労働者の解放は彼において歴史の必然として論証された。――ここから、上部構造のあるべき姿を説くのが後の疎外論です。


ナチスを経て、疎外論批判を経たレヴィ=ストロース阿部謹也は、倫理道徳の根拠を広い意味での下部構造に求めることを、あくまで科学的な命題として追求し論じた。「べき論」を彼らは説いているのではない。tikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロース阿部謹也を「曲解」して「べき論」を説いているのではないことは了解していますが、しかし。


上部構造と下部構造は重層決定される。このとき、倫理道徳の根拠を下部構造に求めることは、そのままオカルトである。レヴィ=ストロース阿部謹也が科学的な命題として追及し論じたそれは、そもそも一神教に発する文明を背景とした倫理道徳の観念と整合するものではない。当然そのことを承知していたレヴィ=ストロース阿部謹也は「一神教に発する文明を背景とした倫理道徳の観念」をこそ批判してきました。


PledgeCrewさんに対してこれを言うことは釈迦に説法と思いますが――重層決定とは、また認識論的切断とは、約めて言えば、上部構造と下部構造の配線はイデオロギーにおいて繋がれている、なぜなら「上部」と「下部」の配線はそもそも繋がれていないからだ、という「科学的な命題」のことです。マルクスの「規定」という命題のイデオロギー疑似科学性を指摘したのが「マルクスのために」と言ったアルチュセールでした。tikani_nemuru_MさんやPledgeCrewさんが科学的な命題として下部構造による上部構造の「規定」を主張しておられることは了解していますが、しかし私は重層決定と認識論的切断を採ります。


「生物学的還元論」の話をしているのでは当然ありません。tikani_nemuru_Mさんの議論がそうしたものだともまったく思っていません。私がしているのは、「上部」と「下部」の配線はそもそも繋がれていない、それを繋ぐことはイデオロギー的操作以外の何物でもない、そして斯様なイデオロギー的操作を国家が代替してきたのが人類の歴史である、そのとき科学は国家に利用された、という話です。


tikani_nemuru_Mさんが上部構造による下部構造の規定というヘーゲルまがいの「逆立」を一貫して批判しておられることは、私は了解しているつもりです。tikani_nemuru_Mさんの疑似科学批判も、そうしたものなので。tikani_nemuru_Mさんが「ペテン」と指しているのは「上部構造」のことです。下部構造から立ち上がる倫理の可能性について、ニーチェ的な道徳批判と共に、tikani_nemuru_Mさんは論じておられるのだと私は理解しています。そのことに対する私のアンサーは。――不可能です。下部構造から立ち上がる倫理の可能性はありません。下部構造とは、グローバル資本主義とそれに伴う共同体の崩壊そのものだからです。


重層決定が前提である私は、当然それは重層決定の命題に反するのですが、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、倫理は倫理に返すことが、人権や個人の尊厳といった近代の達成である諸価値の根拠と考えます。それは、文明に接木された文化ということですが。カエサルに神を説く類を、たとえばマルクス主義者であり筋金入りの左翼であるMidasさんは徹頭徹尾批判している。私も散々ダメ出しされている。ま、私は保守なので、そして保守主義とは個人主義のことなので(もちろん在特会産経新聞保守主義ではない)、唯物論の暴虐にあって個人の尊厳をどのように贖うか――それが一切の出発点としてある以上、一神教も新憲法下の天皇靖国も要請されるし、後述しますが、規制論に与する立場もあるでしょう。私は採りませんが。



ニーチェに多く影響を受けた三島由紀夫の議論ですが――私たちは放っておくと互いを殺し合い奪い合い喰らい合うので、その歴史的教訓に学んで、檻に入って檻から出ないよう互いを監視することにした。その檻を、他者危害禁止原則に基づく個人の観念と言い、市民社会と言う。なので「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」はそもそも語義矛盾です。「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」は檻なので、檻の内と外を弁別する機能を原理的に孕んでいる。自由と寛容の名において。


そして檻の「内と外」は、容易に差別的な視線へと転じる。檻の外に対する弁別と連関して、檻の内においてさえ、「内と外」は価値合意に伴う選別として見出される。互いを殺し合い奪い合い喰らい合うような、自由と寛容に縁の遠い連中は檻の中の住人にふさわしくない、と。当然それは差別であって、そういえば、自由と寛容とその価値を守護するフランスの内務相が「アラブ移民層出身」の自国民を腐ったミカン呼ばわりしたそうですが。「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」の恒例行事です。もちろんこのことは、かつての殖民地主義政策とも相変わらずの大国根性とも連関している。


檻と思えば、倒錯した話なのですが。そして倒錯を指摘するために三島由紀夫は「檻」と表現した。価値とは、そういうものでもある。だから、たとえばアルジェリア出身のユダヤ系哲学者であるデリダは、そうした一神教に発する西欧的な価値そのものの「脱構築」を企図した。遡ればバタイユも。


だからと言って、檻を解き放つわけには行かない。その檻が、自由と寛容という欺瞞を、それを言祝ぐ「リベラルな市民社会」を、その価値さえもひっくるめて、三色旗において保証しているから。フランスは、国家主義的な警察国家です。血で血を洗ってきたヨーロッパの歴史の結果、ひいては宗教に対するオブセッションの結果、自由と寛容を保証する檻であることのために民衆が国家を強く要請しているからです。要するに、市民である私たちは自ら檻を望んでいる。


もちろん私は他人事としてフランスを腐しているのではない。その結果が「アラブ人」に対する差別なら世話ないように、その結果が「アジア人」に対する差別なら世話がない。もちろん、日本におかれては「自国民」であることさえ困難なので、移民政策の相違と相変わらずの島国根性は連関するものでしょう。とはいえその島国根性は「自由と寛容を保証する檻であることのために民衆が国家を強く要請する」発想を緩和するものでもある。国家主義者は「内と外」に対して、常に意識的です。昔、この国には優生保護法というのがありました。


このとき「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」という語義矛盾の檻に好んで閉じ込められ好んで相互を監視する私たちは、どう考えるか。まず、武田鉄矢のように、「アラブ人」は腐ったミカンではない、と確認することでしょう。つまり、個人の尊厳について、檻の中で、相互に確認することです。


「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」の基底に存する同胞愛の観念は、容易に内なる腐ったミカンを措定する。たとえば「女」という腐ったミカンを。ある種のフェミニズム批判がそうしたものであることは知られています。「女」という腐ったミカンが、その同胞愛の欠如において、「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」を毀損する、と。それは、公安が「内なる腐ったミカン」としての反体制を措定することと結託している。国家とはそういうものです。


tikani_nemuru_Mさんは、公共圏を、「上部構造」というペテンに拠ることなく唯物論的に下部構造から立ち上がりうるものと考えておられるのではないか。私は全然そう考えない。私は、公共圏とは、「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」を「社会」として檻から解き放つべく、たとえば「アラブ人」「女」という「内なる腐ったミカン」を他者性と措定することによって、国家の檻を揺籃とする市民の観念を国家から解き放つべく、上部構造と下部構造の配線を繋ぐイデオロギー的試行と考えています。


むろん、Midasさんのようなマルクス主義者においても、また私のような保守主義者においても、そしてNaokiTakahashiさんのようなリバタリアンにおいても、「うん、それ無理」は自明です。「上部」と「下部」の配線はそもそも繋がれていないし、配線を繋ぐことはイデオロギー的操作以外の何物でもなく、そして斯様なイデオロギー的操作を国家が代替してきたのが人類の歴史であり、あまつさえ20世紀にあってはイデオロギー的操作を国家が代替するとき科学が動員される。その反省の上に私たちの現在がある。


いずれにせよ、公共圏が上部構造に拠ることなく唯物論的に下部構造から立ち上がりうる、という考えには私はまるで同意できません。そのように考えておられないのなら結構です。なぜなら、散々書いてきた通り、現在の世界にあって「個人の尊厳」という観念は下部構造から決して立ち上がらないから。事実問題として、私たちは共同体的な社会を生きているのではない。資本主義に伴う近代の必然としてニンゲンのアトム化があるとき――つまりそれは下部構造の問題ですが――共同体的な社会を科学的な命題として主張することはバックラッシュでしかない。ましてそれが――民族国家と同様の――上部構造の捏造による道徳の主張、すなわちペテンならなおのこと。檻であることに合意するフランス社会に生きるレヴィ=ストロースバックラッシュとはまったく思いません。要するに、科学的な命題として主張されるそれは、アルチュセールが「マルクスのために」切断した、「上部」と「下部」の配線を繋げるためのイデオロギー疑似科学です。


グローバリズムに晒された結果フォーディズムが致命的に損なわれた現在の世界にあって、代替不可能性を贖う個人の尊厳が下部構造から立ち上がるなら、それは国家による経済の統制を意味します。つまり欧州的な社会民主主義のこと。それはそれで結構ですが、欧州的な社会民主主義政策とは、イデオロギーの産物であり、そして、上部構造と下部構造の配線を国家が繋げてみせる、つまりグローバル資本主義という唯物論の暴虐にあって個人の代替不可能性を国家が贖うものなので、マルクス主義者なら、そういうのは欺瞞と言うでしょう。


「上部」と「下部」の配線を――「内と外」を原理的に弁別する国家の檻へと好んで閉じ込められる市民ではなく――民衆としての「私たち」が繋ぐ取り組みが公共圏です。つまり、それこそが社会である、というのがハーバーマスの主張ですが。そしてそれもまたイデオロギーの産物です。不可能と承知で「上部」と「下部」の配線を繋ごうとするペテンは、Midasさんにあってはなべて偽善であり欺瞞であり詭弁でありエセインテリのカマトトなので、私もまたダメ出しされるのでした。「上部」と「下部」の配線を繋ぐイデオロギー疑似科学を国家が代替する、それがスターリニズムでありナチズムであり科学主義の誤謬そのものだからです。この点については、また私に対する指摘と限定しますが、Midasさんのダメ出しの趣旨に私は同意せざるをえない。


表現の自由には他者というヒモが付いている」はもっぱら理論的な話なので、そして理論的に幾らも反論しうる話なので私としても散々反論してきましたが、そのことは措き、下部構造を煎じ詰めたときに現れるのがヒモです。要するに、資源とその(分配ではなく)所有の問題。だから資源の分配が政治の問題として問われる。ニンゲンは資源の範疇ではない、という倫理合意も政治の問題として問われる。アレントを引くまでもなく――古代の都市国家では人間は人間であるがゆえに資源の範疇ではなかったが、奴隷は人間ではなかった。そして現在、ニンゲンの死体は資源の範疇であり、中国では死刑囚もまた資源の範疇です。


グローバル資本主義の暴虐に晒されようと最後まで残るのが、下部構造を煮詰めて現れるヒモであって、その「最後まで残るもの」としてのヒモを「上部構造」として捏造し国家共同体が配線を繋げようとする営為がバックラッシュです。あるいは原理主義です。たまたま拝見したハイクであったのですが。


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日本の男の性意識だって名誉の殺人の根底にあるそれとまったくかわらないよ。(中略)日本でも名誉の殺人は起こってる。それが行われる土壌がある。イスラムこええって言ってるおまえがこわい、ってわたしはいつもおもう。日本だっておなじじゃん。ただ殺されることはすくないっていうだけ。


その通りで、要するに「ヒモの問題」「資源とその所有ひいては分配の問題」と考えている限り状況は変わらない。そしてそれは国家共同体すなわち家父長制の問題であって、「上部」と「下部」の配線を繋ぐイデオロギー的操作を国家が代替してきた人類の歴史にあって、国家は「下部」の様相に適したイデオロギー的操作を行い「上部」を捏造する。それが、国家共同体であり、家父長制です。結果、名誉殺人が発生し、容認される。もちろん宗教は関係ない。日本で「殺されることはすくない」のはこの国が敗戦以来形式的に人権思想を「上部」として言祝いでいるからに過ぎない。


このような家父長制の発想に対して、「ヒモの問題」でも「資源とその所有ひいては分配の問題」でもない、女性にも個人の尊厳がある、と主張してきたのがフェミニズムでした。いかなるニンゲンであってもニンゲンは尊厳ある個人である、「アラブ人」であっても「女」であっても「ホモ」であっても。そのように、何度でも言わなければならない。そして、そのうえで、「上部」と「下部」の配線を繋ぐイデオロギー的操作が要請される。それを国家が代替する道を選ばないなら、公共圏というイデオロギー的操作が配線を繋ぐため要請される。なぜ要請されるか。差別とそれに伴う喫緊の暴力があるからです。尊厳ある個人とは、帰属の問題でなく、他者性の問題です。


他者の観念は下部構造が規定するものではない。上部構造と下部構造の配線を繋ぐイデオロギー的操作を国家が代替する発想は、科学主義に基づく「上部構造」の捏造によって、時にスターリニズムとしてあり、現に家父長制そのものとしてある。科学主義に基づく「上部構造」の捏造が生殖を理由とする家父長制の正当化としてあることは、配線を繋ぐためのイデオロギー的操作を国家が代替することの当然の帰結です。フランスのように檻の中の市民社会を実現することもあります。


公共圏論とは、いわば、個人の尊厳を贖うべく「上部」と「下部」の配線を民衆が民衆として繋げることによって社会が真に他者性へと開かれる取り組みのことですが、MidasさんやあるいはNaokiTakahashiさんの見解立場なら言うまでもなく私の見解立場でも「うん、それ無理」と言うしかない部分がある、というのが正直なところです。民衆は、イデオロギー的操作によって「上部」と「下部」の配線を繋げた結果「市民」として誕生するのだから。当然、「市民」も、そこから遡行された「民衆」も、イデオロギー的操作の産物としてあるのだから。


個人の尊厳と下部構造は直接に連関しない。斯様な世界にあって、下部構造を煎じ詰めたときに現れるヒモを「上部構造」と連関させるべくイデオロギー的操作を国家が代替して挙句「上部」を捏造するペテンが道徳を僭称して横行するとき、個人の尊厳はいっそう損なわれる。重層決定の裏腹としてこうした状況が現在進行形としてあります。結果、個人の尊厳の贖いは下部構造それ自体において問われる。あるいは現在の世界におけるその不可能を了解する。個人の尊厳の贖いを下部構造それ自体において問うことは現在の世界にあって不可能である、と。それが、唯物論のファイナルアンサーです。そこから、個人の尊厳を脳科学によって贖おうとするクオリアミラーニューロンな発想まで半歩であるし、個人の尊厳を生殖によって贖おうとするナチス優生学まで一歩です。それもまた、現在。


「個人の尊厳の贖いは下部構造それ自体において問われる。あるいは現在の世界におけるその不可能を了解する。」それが左翼の発想で、もちろん、私はインターナショナリズムを信じない。そしてだからこそ――私はイーストウッド主義者であると同時にカサヴェテス主義者でもあるので言いますが――個人の尊厳の贖いが下部構造それ自体においてしか問われない世界に抗して、人は人を愛する。脳とも生殖ともなんら関係なく。


フェミニズムの問題意識においては「陵辱表現は女性の尊厳を貶めるものである」という主張はありえます。私に言わせれば、それは誤った命題です。もちろん男たちは女性の尊厳を貶めるために日夜リアル陵辱に明け暮れていますが、そのことは表現規制の理由にはならない。重層決定の帰結はこうしたこととしてあり、当然、問題は、男たちが女性の尊厳を貶めるために日夜リアル陵辱に明け暮れている下部構造です。そして表現規制において「上部」と「下部」の配線を繋ぐべく国家に要請する発想が登場することも、また、重層決定のもたらした皮肉な帰結です。ニーチェの道徳批判がもたらした皮肉な帰結のように。イデオロギー的操作を国家が代替するとき動員されるのは、科学でなく、科学主義です。


「人間存在は、遺伝子の産物ではなく、観念の産物です。」とは、理論的に言い直すなら以上のようなことです。還元と規定は当然相違しますが、述べてきたような文脈について、見解を伺いたいところではあります。「今の時点でわたしが地下に眠るMさんの書かれることについて関心を持っているのは、上に述べたような部分に限られます。」では済まない話ということです。私がMidasさんを擁護しているのではないように(その必要もない。このエントリにもマルクス主義者としてきっちりダメ出しすると思う)、PledgeCrewさんがtikani_nemuru_Mさんを擁護しているのではないこと、また擁護する必要もないことは百も承知です。みな自分の見解立場から議論している。


問題は、上部構造と下部構造の配線が繋がらないことです。そして「上部」と「下部」の配線が繋がらない限り、下部構造が規定する私たちの現在を「上部」と捏造するイデオロギー的操作――すなわちペテン――には事欠かない。茂木健一郎の議論のように、小泉純一郎の自己責任論のように、ナチスドイツのように。そして、女性の尊厳を貶めるセカンドレイプ言説や名誉殺人を引き起こす性差別そのもののように。その背景には、イデオロギー的操作を代替する国家がある。そして、イデオロギー操作を代替する国家と科学主義の誤謬は相性が良い。


自由主義とは、当然、イデオロギー的操作を代替する国家を退け、イデオロギー的操作を国家が代替してきた人類の歴史を批判する発想のことです。法治国家はそうして合意される。私は保守主義者ですが、男たちが女性の尊厳を貶めるために日夜リアル陵辱に明け暮れている家父長制丸出しのこの国家共同体にあっては、そのような自由主義に賛成せざるをえません。それが日本です。だから、刑法175条の撤廃が順序、話はそれからです。


そして念押しするなら、上部構造と下部構造の配線が繋がることは、原理的にも、また事実問題としても、ありえない。でもやるんだよ! 公共圏論を! インターネッツで公共圏が形成されうる「かのように」振舞うことを! というのがMidasさんが散々ダメ出しするところの私の欺瞞であり偽善であり詭弁でありカマトトです。ま、その点については、そして私については、仰る通りです。


繰り返しますが、述べてきたように、私は「生物学的還元論」の話をしているのでは当然ないし、tikani_nemuru_Mさんの議論がそうしたものだともまったく思っていません。とはいえ、議論の舵を修正する必要に思い至ったのは、PledgeCrewさんのエントリを拝見してのことです。大変丁寧なサジェスチョンに感謝申し上げます。先のエントリ、またしてもtikani_nemuru_Mさんに対して挑発的に書きすぎたとは思っています。