生き延びるためのペテン


おサルの世間の真正性 - 地下生活者の手遊び


まず、私たちはサルではないし、遺伝子の産物でもない。この大前提について確認しておきたいと思います。


自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会は、ひいては公共は、価値的な人工物です。その価値に対するコミットは問われます。コミットなくして人工物は維持されないので。その人工物を抽象的な国家が代替する発想こそスターリニズムです。「その人工物を抽象的な国家が代替する発想」をtikani_nemuru_Mさんが一貫して退けておられることは知っています。


自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会――ひいては公共――という価値的な人工物に対するコミットは共同性に対する批判を含意する。なぜなら、共同性が喚起してきた殺し合いの歴史を私たちは知るから。近代以降にあって、共同性とは政治的な動員の装置でしかない。そもそも「共同性」の観念が近代の産物なので。「自然」の観念が近代の産物であるように。スターリンを経たロシアがグローバル化する世界にあって共同性へと回帰することもむべなるかな。そのとき、共同性は国家幻想を補完する。プーチンはそのことを知っている。

レヴィ=ストロース阿部謹也が直線で結ばれるのは、ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃーからですにゃ。多分、ニンゲンというサルの一種の帰属感は、自らの属する数百の集団に対して感じられるものではにゃーかと考えますにゃ。進化心理学的にきっちりと根拠を示すことのできる話ではにゃーけれども。


このくだり、私はまったく同意できません。「人間は本能の壊れた動物である」というテーゼは御存知ですよね。むろん毀誉褒貶は公知の事実であるし「学的にきっちりと根拠を示すことできる話ではにゃー」のですが、私はこの命題に同意です。「東洋の土人部落」とは北一輝の言葉です。土人部落の土偶としてある天皇という装置を用いた社会主義革命を目指した彼は、人間存在が遺伝子の産物ではなく観念の産物であることを知っていた。――tikani_nemuru_Mさんの言葉を借りれば「オカルト」ということですか。


もちろん「人間存在は遺伝子の産物である」という命題もオカルトであって、だからドーキンスは批判されている。そのことは彼の業績を貶めるものではもちろんない。ただ、このことは、これも公知の事実であるワトソンの問題と紙一重ではある。科学の命題を人間存在に対する命題へと敷衍したとき、それはあくまで「オカルト」の一種でしかない。「神は妄想である」と言った彼は、その修辞的な命題もまた妄想であることに、気が付いていないか、あるいは修辞と承知で言っているか。当該の本を一読したのもだいぶ以前ではあるのですが。


――これは、一連の議論を拝見してのtikani_nemuru_Mさんに対する端的な疑問なのですが、価値の根拠を問うことは進化心理学に遡行すべきことなのですか。「良いオカルト」と「悪いオカルト」の弁別はサルに遡行して問われなければならないことなのですか。私はそうではないと考える。


大昔に私が読んだサル学の研究書には、確か、サルの子殺しの話が紹介されていました。子殺しを否定することから文明は始まりました。当然、それは一神教というオカルトの産物です。人間存在を観念の産物と規定して人類は現在の文明と文化を築きました。そのようなものとしてある文明と文化に対する批判を、レヴィ=ストロース阿部謹也は展開しました。


「人間は本能の壊れた動物である」から「個人の尊厳」が取り沙汰される。だから、人は「個人の尊厳」においてハイジャックした旅客機をWTCに突っ込ませる。そのような物の考え方を「原理主義」として批判したのが養老孟司です。要するに、他者にとっての「個人の尊厳」を考量しない発想であると。他者とは、そういうことです。思想信条を、信仰を、つまり妄想を自らと共にしない相手のことです。


「ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃー」ことは、あるいは遺伝子の産物であることは、他者の観念を規定するに至った人間存在をめぐる数千年の問いを、ひいては近代の達成である諸価値を、反故にしうるものではない。「ニンゲンがサルの一種」であろうがなかろうが、歴史的存在であるところの私たちはサルではないし、遺伝子の産物でもない。価値の根拠を、「良いオカルト」と「悪いオカルト」の弁別を、なぜ「ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃー」ことに求めなければならないのか本当にわかりません。


人間存在は、遺伝子の産物ではなく、観念の産物です。当然それはオカルトです。科学とは、観念の産物であるところの人間存在の外部に基準を設ける試みとその歴史です。「それでも地球は回っている」とはそのことです。地球が回っていることは、観念の問題ではない。心頭滅却すれば火もまた涼しいが、しかし火傷はする。そして心頭滅却すれば、ハイジャックした旅客機で高層ビルに特攻することもできる。観念の産物であるところの人間存在にとって「個人の尊厳」が取り沙汰されるのは――つまり他者の観念が規定されたのは――このような事例に歴史は事欠かなかったからです。当然、日本も例外ではない。


人間存在の外部に設けた基準を観念へと回収するとき、つまり人間存在の場所へと回収するとき、ナチスドイツのごとき誤った優生学が採られる。ドーキンスは、そしてワトソンも、半ば観念へと回収してしまっている。人間存在が観念の産物である以上、私たちはいかなる天才であってもオカルトを胸に抱いて生きていかなければならないので致し方ないのですが。しかしことドーキンスは、公共の問題としてそのことを主張している。公共にあってオカルトが合意されてはならないと。その通りですが、しかし「神は妄想である」というオカルトについて公共は合意すべきと彼もまた言っている。


子殺しを否定することから始まった文明の尻尾に、現在の中絶問題があり進化論問題があり、「間引き」に躊躇ない社会に対する批判があり、捕鯨問題があり、ひいては児童への性的搾取に対する批判がある。このとき、文化の観念が要請される。かつて、インスタントコーヒーの普及に伴うコーヒー文化の転倒について「文化と文明は逆立ちする」と言ったのはコーヒー好きで知られる夏目房之介です。要するに、文化が先んじて存在していた場所に文明が介入しこれを決定的に変容させたとき、「文化」は文明に接木されるものとして見出される、と。この「文明」とは資本主義とほぼ同義です。


いわゆる文化的多元主義とは、文明に接木される「文化」を考量する発想です。文化とは文明に接木され資本主義に接木されるものとして見出され言挙げされる。そうでないならそれは、もはやバックラッシュでしかない。そのようなバックラッシュを、たとえば現在のローマカトリックは主張しているか。否、です。


文明に接木される「文化」を考量することと、文化人類学的に見出された文化の起源を文明と対立するものとして提出することは、違います。文明に接木される「文化」は、端から文明の掌です。しかし、文化の起源を、私たちは文明によって簒奪されている。骨を手にした猿、骨を武器に用いて殺し合う猿。かくてテクノロジーをもって宇宙に繰り出す、かつての猿としての人間存在。キューブリックが描いたように、それが私たちの来し方行く末です。スターチャイルドには決してならないでしょうが。

多分、ニンゲンというサルの心理生活というのは数百人規模のクラン(氏族)に適合するようチューニングされている。ニンゲンの可塑性はでかいが、基本的には数百人規模の集団で生きるのがこのサルの生態。心理的にもその規模の集団で暮らすようにチューニングされている。



レヴィ=ストロースの「真正性の水準」はその有力な傍証と考えますにゃ。

このサルを一定規模以上の集団に所属させるためには、いくつかの政治的な装置が必要となるのではにゃーかと。近代国家はこのサルの忠誠心を利用するために、民族国家というでっちあげを、たぶんでっちあげと意識しないまま行ったんだにゃ。天皇制や国家神道も、このサルを民族国家とやらに直接的に帰属させるためのでっちあげ。



ニンゲンというサルを一定規模以上の社会に直接的に帰属させるためには、「大きな物語」が必要であると宮台あたりはいうけれど、どっちかというと「大きな物語」ってのは、同じ国民や同志を、あたかも血縁であるかのごときレトリックなんでにゃーかな? これは、いちいち例証の必要すらにゃーくらいだ。守るべきは同胞(はらから)、兄弟であり、国父は政治家への最大の賛辞であり・・・。

で、僕はこの血縁レトリックがあんまり信用できにゃーんで、「大きな物語」なしで済ませたいのですにゃ。

しょうがにゃーので中間団体。

「「中間団体を重視する」のは、社会の原型を彼らの議論の場所に tikani_nemuru_Mさんが見ているから」もいいんだけど、もうちょっと正確にいうと、「サルには群が必要だから」となりますかにゃ。

個々人が直接的に大きなものに帰属するのがアトミズムなのではにゃーのかと思うのですにゃ。これなら権力によっていくらでも動員できるわけで。


なので、このくだりには国家論としては同意するのですが、「サルには群が必要だから」にはまったく同意できません。人間存在は観念の産物なので、「群」を口実に動員されたり特攻したりするのです。『俺は、君のためにこそ死ににいく』という、石原慎太郎製作総指揮・脚本による特攻隊を描いた映画がありました。このタイトルの意味は、つまり「俺は、天皇陛下のために死ににいくわけではない」ということです。「君」とは愛する人のこと。レトリックではない血縁のこと。「数百人規模のクラン(氏族)」のこと。「顔が見える相手」のこと(当時、天皇は「顔が見えにゃー相手」としてあった)。


石原慎太郎はそもそもそういう考えの人なのですが、「俺は、天皇陛下のために死ににいくわけではない、君のためにこそ死ににいく」は、死ににいくことについては一緒です。「一緒ではない、違う」というのが石原慎太郎の考えであり「想い」でもあり、この映画で彼が伝えたかっただろうメッセージであり、言ってしまえばそれは一種のロマン主義です。で、こういうロマン主義をかつて糞味噌に虚仮にしたのが深作欣二であったり、笠原和夫であったり。やはり、私たちは先祖返りしているのでしょう。『仁義なき戦い』の北大路欣也も「俺は、君のためにこそ死ににいく」を地で行った訳であるし。実在の人物をモデルにした彼の演じた役柄は「特攻隊の生き残り」でした。そしてもちろん、彼らは北大路欣也演じる山中正治に思い入れていた。


ヤクザの徹底した身贔屓の論理は、 tikani_nemuru_Mさんの上記の主張によって擁護されるのですが、そして、そのようなものとして社会があることも日本にあってはまったくその通りで何の間違いもないのですが――だから、それでよいのですか。他者の観念を規定することに伴って要請される価値的な人工物であるリベラルな市民社会は、百年どころか百万年の孤独の彼方でしょう。


性差別撤廃が問題なら身贔屓の論理は真っ先に問題と私は思います。氏族や部族の論理を21世紀の日本で主張されても困ります。事実認識の問題なら、そんなことは公知の事実です。「人を殺してはならない」と「身内を殺してはならない」は違います。後者の論理を否定して前者の論理を採るのが人類の歴史的教訓だと私は思っていましたが。もちろん、「人を殺してはならない」と「同胞を殺してはならない」も違います。パレスチナ問題についての見解を伺いたいところです。

真正性の水準ってのは、ニンゲンという生物は顔が見える相手と見えにゃー相手では行動パターンを変える仕様になっているという、知恵のついたサルとしてはアッタリマエの話なんだにゃ。で、自らの属する集団の利益に敏感でありつつ、顔の見える範囲において他者の尊厳に配慮し、また、他にもそうした集団があることを考慮すべしといいたいだけにゃんが。

だいたい、世間様だのムラ社会だのは僕だって好かにゃー。おっしゃるとおり性犯罪の二次被害三次被害の主犯は世間様であるというのは僕がいいだしたことだし、その認識は変わってにゃーよ。ただ、ニンゲンというサルを直接的に一定規模以上の集団に帰属させるためには血縁を擬制した仕掛けが必要であり、その仕掛けが根本的に群れ幻想とでもいうものに基づくものであると認識しているということですにゃ。あるいは、「帰属させない」という方法もあるけど、これはアトミズムにしかならにゃーと思うのですにゃ。

よって、サルの群れ=世間様をいじるべし、ということになる。



中間団体が利権団体であるのは百も承知しているし、不正の温床といえばいえるだろうけれど、まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシと見ますにゃ。中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。

何にしろ、旧来からある世間様なりムラ社会そのものを肯定するつもりなど最初から微塵もにゃーし、そんなこと書いたおぼえもにゃー。なんで直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係といったらムラ社会呼ばわりされて否定されるのかよくわかんにゃー。


「で、自らの属する集団の利益に敏感でありつつ、顔の見える範囲において他者の尊厳に配慮し、また、他にもそうした集団があることを考慮すべしといいたいだけにゃんが。」サルの話は措き、このくだりには同意です。「ただ、ニンゲンというサルを直接的に一定規模以上の集団に帰属させるためには血縁を擬制した仕掛けが必要であり、その仕掛けが根本的に群れ幻想とでもいうものに基づくものであると認識しているということですにゃ。あるいは、「帰属させない」という方法もあるけど、これはアトミズムにしかならにゃーと思うのですにゃ。」このくだりについては、群れ幻想と国家幻想は共犯関係にあるというのが私の考えです。


アトミズムは資本主義がもたらした近代の帰結です。これは事実認識の問題。そしてアトム化した個人が帰属と承認を求めてファシズムへと辿り着いた以上、自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会という価値的な人工物とそれに伴う公共の観念が社会の構成員の自覚的なコミットによって形成されなければならない――古典的な自由主義とその帰結に対して懐疑的なtikani_nemuru_Mさんは、そのような問題意識を持っておられるのだと私は理解していましたが。少なくともハーバーマスは、そのような問題意識を持っていたので。


「サルの群れ=世間様をいじるべし」――いじれないから世間様です。その意味では「ぶっ壊す」ことによってもっともいじったのが小泉純一郎でしたが。イデオロギーでも啓蒙でもなく、下部構造におけるドラスティックなスクラップ&スクラップによって。「中間団体が利権団体であるのは百も承知しているし、不正の温床といえばいえるだろうけれど、まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシと見ますにゃ。中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。」――愛国心共産主義は「イデオロギー的うわ言」ですか。


その「イデオロギー的うわ言」で、本能の壊れた動物であり観念の産物であるところの人間存在は、オカルトに支配されていることと個人の尊厳を持ち合わせることが同じこととしてある人間存在は、自分を殺したり他人を殺したりする。あるいは親兄弟を告発したり殺したりする。そのコミットメントは何に由来するか。中間団体が利権団体であり、不正の温床であることです。「弱者」とは、利権や不正の温床としての中間団体から零れ落ち弾き出された者のことです。私が小泉構造改革を結局のところ支持しかねたのは、「構造」を変えることにしか彼は関心がなかった。改革さるべき「構造」の犠牲となってきた者へのフォローを彼は考量しなかったし、そもそも彼にとって政治とはそういうものだった。徹頭徹尾下部構造の問題であり、そこに「個人の尊厳」はない


「中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。」よほどマシも何も、中間団体が利益共同体としてあることと「愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言」は、コインの表と裏としてあり、いうなれば相互補完的に存在し、その表裏によって一枚のコインとして社会はある。資本主義下の近代社会は。別の言い方をするなら、共犯関係にある。ただし共犯関係は、均衡によって成立する。


「資本家が私腹を肥やしている」とき、革命の契機があり、あるいは右翼テロが起こる。つまり共犯関係の均衡は崩れる。保守主義とは、コインの表裏としてのこの相互補完の均衡を維持することによって、社会というコインそれ自体が「イデオロギー的うわ言」へと裏返らないことを目指す立場のことです。つまり、「中間団体が利権団体であるのは百も承知して」いながら「まあそれはそれ」として「中間団体は利益共同体でよく」とする認識がある限り、「愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言」は猖獗を極める一方でしょう。つまり、現代にあっては排外主義の昂進。


「中間団体は利益共同体でよく」と私も思いますよ。ただ、「イデオロギー的うわ言」に基づく差別を問題視する限り、コインの表裏とその均衡について、共犯関係が決裂する分水嶺の在処について、ことに現在は、考えざるを得ない。共産主義革命は起きないでしょうが、レイシズムという「イデオロギー的うわ言」において社会という一枚のコインが裏返ることは十分にありえる。

何にしろ、旧来からある世間様なりムラ社会そのものを肯定するつもりなど最初から微塵もにゃーし、そんなこと書いたおぼえもにゃー。なんで直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係といったらムラ社会呼ばわりされて否定されるのかよくわかんにゃー。


「直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係」が縁故に由来するものであることと、他者の観念に由来するものであることはまったく違うからです。自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会という価値的な人工物は、また公共の観念は、後者に準拠します。前者に準拠するものとして、tikani_nemuru_Mさんは論じておられるように私には思えたし、今もそう考えていますが。

多分フッサール経由でハーバーマスのいっている「生活世界」でもいいし、最近の宮台がいいだしているらしい「パトリオティズム」でもいいにゃ。最近の宮台のいっていることは追っていなかったので、こういうことをいっているとは知らなかったんだけどにゃ。さて、こういうのも「先祖返り」かにゃ?


この問題について宮台真司を持ち出してよいのなら話は早いのですが――彼が一通り議論してきたことなので。なんとなく禁じ手にしていたところです。自由と寛容を言祝ぐ価値的な人工物であるリベラルな市民社会はしかし範囲の画定を要請する。範囲を画定しないなら、古典的な自由主義と区別が付かないし、アトミズムとその帰結を補填することもない。国家の外延において範囲が画定されるとき、その準拠枠を「パトリオティズム」を単位とすることによって、個々人の自発的なコミットメントを涵養する。而して斯様な構造ある限りその自発的なコミットメントは国家へと回収される――それが彼の議論の要諦に対する私の見解ですが。


神風特攻隊は「悪いオカルト」を信じたが会津白虎隊は「良いオカルト」を信じた、ということでもないでしょう。あるいは、討ち入りした赤穂浪士は「良いオカルト」を信じた、ということでもない。「良いオカルト」は、少なくとも他者を殺さないオカルトでしょう。『花よりもなほ』という映画がありまして。


前後しますが。

もちろん、べき論ではにゃーです。「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」は事実認識の問題として紹介しましたにゃ。科学によって呪術を駆逐しようとしたって、そんなことは無理もいいところですにゃ。もちろん、公領域における呪術は困りものにゃんがね。

呪術思考は駆逐不可能というのが現実なので、科学と呪術の並置以外に選択肢はにゃーってことね。


こちらについては全面的に同意です。

ヤスクニだのテンノーってのは、数百匹規模の群れ生活に適合したサルの忠誠心なり感情的帰属感を、近代国家に対して抱かせるためのペテンだにゃ。無論、サヨクの個人崇拝もペテンね。ヤスクニやテンノーってのは、むしろ国家権力による共同性の簒奪だと考えますにゃ。

実際に、明治政府は村落共同体の神社や鎮守の森を破壊しつつ、国家神道をでっちあげていったわけだにゃ。つまりは村落共同体の破壊と国家共同体のでっちあげというペテンだよにゃ。南方熊楠あたりが、血管切れそうな勢いで激怒しているトピックですよにゃ。このあたりの話はオモチロイので、いつか気が向いたら引用してエントリにしたいくらい。



sk-44が、社会と共同体を対立的に扱うのはわからなくもにゃーんだが、少なくともテンノーやヤスクニある限り、日本に「社会」は無理なんでにゃーの?

少なくとも、個人が直接に帰属する「社会」は、テンノーとヤスクニあるかぎり、無理に思えますにゃ。

だから、「死んだ子供」を止揚する社会、というのがテンノーやヤスクニのある国家共同体で実現できるというふうに僕にはイメージできにゃー。テンノーとヤスクニを克服しにゃーところに、社会なんて存在しにゃーよ。


「少なくともテンノーやヤスクニある限り、日本に「社会」は無理なんでにゃーの?」そう思いますよ。だから現行憲法下において天皇は国民統合の象徴であり靖国神社は一新興宗教です。それが、現在の日本における社会合意の在り様であって、それが問題という立場は当然あるでしょう。私の見解としては、共和主義も結構ですが、この国で天皇を廃し靖国神社を取り潰したら(一新興宗教をどのように取り潰すのかわかりませんが)、社会というコインは裏返るでしょう。裏返っても構いませんが、差別と暴力と動員が靖国の境内でなく公共の往来を行き交う風景は殊更に見たいものでもない。


「テンノーとヤスクニを克服しにゃーところに、社会なんて存在しにゃーよ。」共同幻想論を採る立場としては仰る通りですが、話が逆です。社会を存在させるために、天皇靖国というオカルトに支配された人と貴方が他者として対話すればよい。「直接的に顔の見える関係」において、他者の「個人の尊厳」を尊重したうえで。「天皇靖国というオカルトに支配された人」はこの国に百万人はいます。それが、自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会という価値的な人工物に対するコミットであり、公共を成り立たせる行為です。――コミットをかくも他者に対して勧めておられるのだから。


繰り返しになりますが、神風特攻隊はペテンに殉じたが、会津白虎隊はそうではなかった、などという話はありません。どちらもペテンです。ペテンで構いませんが。「俺は、君のためにこそ死ににいく」も当然ペテンです。「君のためにこそ」などペテンの極みです。これは、突き詰めれば「あらゆる死は犬死にである」という、かつて宮崎哲弥が主張したテーゼになりますが、もちろんこの命題とて観念です。


『生き延びるための思想』という上野千鶴子の著作があります。彼女は言う。死ぬための思想ばかりがこの世にはあって、もてはやされてきて、生き延びるための思想がない。生き延びるための思想を、私は紡いでいきたいと思う、と。思想は人を殺す、という歴史が証明した公知の命題を裏返してこの言明はなされている。


人を殺す思想はなべてペテンです。しかし、本能の壊れた動物であり観念の産物であり、オカルトに支配されているがゆえに個人の尊厳を持ち合わせる人間存在にとって、このことは宿痾としてあり、かかるペテンは私たちの存在を規定しさえする。「生き延びるための思想」は、良いペテンであり、良いオカルトである。そして「生き延びるための思想」は、他者としての自他が生き延びるための思想でなければならない。価値の根拠は、最終的に当為命題です。つまり「生き延びるための思想」の根拠は、問われるものではない。サルも遺伝子も要らない。

社会というものは、他者の存在を認めるものですよにゃ。共同性だけではそこに社会といえるものはにゃーよね。これはもちろんわかる。

しかし

ニンゲンは社会というものに直接に帰属することはできにゃーのだと考える。帰属とは感情的な満足をもたらすものであり、帰属の対象は小規模な共同体、顔の見える関係が基本なのですにゃ。そして、「おおきな何か」への帰属はほとんど常にペテンでしたにゃ。また、帰属のにゃーところにはアトミズムが待っている。

社会というのは共同性の否定ではなく、他の共同性があることを相互に認証することによっても成り立つと考えますにゃ。

各共同体【間】の多層性・多元性・流動性のうちに社会があると僕は見る。だから、「死んだ子供」を共同性になかに封じ込めるのだと僕はいったのですにゃ。共同性のなかで「死んだ子供」がうろつくのはアタリマエ。しかし、他の共同性というものを認めなければならないとしたら、他の共同性に対して「死んだ子供」を横車につっこんで無理を通すことはできにゃー。

社会とは死んだ子供を止揚するところだと僕も思うぜ。


「おおきな何か」への帰属がほとんど常にペテンであったならば、「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属もほとんど常にペテンでした。生殖に伴う合理性はペテンを贖うものではない。人間は生殖に規定される存在である、という「悪いオカルト」を主張しておられるのではないのだと思いますが、またコルホーズやタタラ場のごときものを想定しているわけでもないのでしょうが――「おおきな何か」を棄却する限り、小規模な共同体への帰属と生殖における人間存在の規定は裏腹です。


そのような、生殖における人間存在の規定から離脱したくて、要するに、自身の性的な身体から逃れたくて、人は「おおきな何か」を要求し、観念の産物として自身の存在を規定することを望みました。神、人権、自由、平等、同胞愛、労働者の解放、インターナショナリズムフェミニズム。確かに、神への帰属も人権への帰属も自由への帰属も平等への帰属も同胞愛への帰属も労働者の解放への帰属もインターナショナリズムへの帰属も、フェミニズムへの帰属も、天皇や民族国家への帰属と同様に、ほとんど常にペテンでしたね。オカルトだから仕方がないし、イデオロギー的うわ言だから仕方がない。


で、「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属が意味する、人間は生殖に規定される存在である、という命題もほとんど常にペテンだと思いますが。ちなみに、この命題は、tikani_nemuru_Mさんが仰る「イースト氏」が「事実認識」とエクスキューズして再三主張していることです。そういうのが糞だと、フェミニズムは再三言ってきました。人間は生殖に規定される存在である、♀はその資源である、というのが前近代の論理でした。だから、深沢七郎は「アンチヒューマニズム」の文学を書いた。


「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属がなぜ「人間は生殖に規定される存在である」を意味すると言い切れるのか、と問われるだろうから書いておきますが、「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属についてそのように言い切れないのなら、それは、「おおきな何か」への帰属というペテンの産物です。神、人権、自由、平等、同胞愛、労働者の解放、インターナショナリズムフェミニズム。ペテンの産物で結構ではないですか。つまり、それが近代の達成である諸価値とその帰結なので。


もちろん、私は、「ニンゲンは社会というものに直接に帰属することはできにゃーのだと考え」ません。「諸個人は社会という大きなものに直接に帰属することはできにゃーと思って」いません。「べき論でなく、事実認識として」まったくそのように考えない。なぜなら、事実問題として他者は存在するからです。隣人として。「顔が見える相手」として。「直接的に顔の見える関係」の中で。私にとって♀は他者です。そして、身贔屓の論理がどのように他者を奪うか。


人間存在は観念の産物なので、心頭滅却すれば火もまた凉し、で、比喩ですが、誰かを焼き殺します。たとえば我が子を。苦痛を与えることが愛情の証明であるオカルト世界について縷々説明してきたつもりです。子に対する再三の打擲が「親の思いを子どもに刻み込む」ことだと公言する人の話を、最近ブックマーク経由で読みました。私も似たような愛情教育を受けてきたし(私は虐待とは思っていない)サディスト的に考えれば正しいのですが、それ体罰というより調教だよなぁ、と私は思ったのでした。苦痛を与えることが愛情の証明であるオカルト世界に年端もいかない幼子を合意させたいのかなぁ、と。

sk-44は「土人」「土人部落」というレトリックを使うけれど、僕ならば人類すべては「サルの一種」「サルの群れ」といいますにゃ


サルの群れは土偶を必要としません――超越性の依り代を。超越性の依り代が、つまり、エホバの顔が、現人神が、観念の産物であるところの人間存在において個人の尊厳の在処を指し示す。そもそも国家神道をペテンと言い切るなら、原理的には、あらゆる世界宗教をペテンと言い切るべきなのですが。もしペテンと言い切れないのなら、その理由を伺いたいところです。


国家神道は「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属と親和的でない、というのは当然与太です。言うまでもなく「俺は、君のためにこそ死ににいく」と靖国神社は大変親和的であり、相互補完する共犯関係にある。国家批判ということならわかります。現在の靖国神社は一宗教法人です。私は政教分離原則を支持するものです。私にとっては「おおきな何か」への帰属も「小規模な共同体」への帰属も等しくペテンです。「良いオカルト」と「悪いオカルト」があるように「良いペテン」と「悪いペテン」もあるでしょう。


なお。

僕はアタマがワリイんでね。「メタ」な読み方というものがサッパリぱりぱりパリサイ派。ベタだのメタだの言われてもわかんにゃーのでごめんね。この本のこの辺でこういっているだろ、という話ならわかるんだけどにゃー。


では言い換えます。彼らの近代批判が含意する西欧文明の前提について踏まえておられますか、ということ。前世紀の歴史的条件を考量しておられますか、ということ。スターリニズムファシズムについてどこまで了解しておられますか、ということ。私たちが歴史的存在であることへの認識はあるのですか、ということ。文脈を捨象して文章を徹頭徹尾リテラルに読んでおられるのですか、ということ。なお。「手もとの本からは見つからにゃー」どころか私は資料に縁のない場所で記憶で書いているので(本とビデオテープの物置と化している自宅には長らく帰っていない)、このことについては諦めてください。

ソノトオリ。

だけどさ、

ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリのコメント欄に涌きだした連中*1の反応を思い起こしてみるに、「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対して腰がめっぽう重い親方日の丸と、コメント欄に涌いて出た連中は共犯関係にあるのではにゃーかと思ったんでにゃ。

親方日の丸とコメ欄に涌いた連中との違いは、「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」の是非だけで、それ以外の性差別容認については利益が一致しているのではにゃーのかと思って、ああいう書き方をしたくなったのよ。


ええ。レイピストが教師になることも、教師がレイピストであることも、この美しい国の美しい伝統です。レイピストが親方日の丸の陰に隠れるのは、「小規模な共同体」の公共に押す横車の結果ですが。その横車を、縁故社会と言います。中間団体が利権団体であることや不正の温床であることとは、つまりこういうことです。「まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシ」と見ることができるか。


このとき、「国家権力による各々のアトムへの直接的統制」の最たるものである死刑を支持するのも「小規模な共同体」です。「中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ」――利益共同体とは、身贔屓の結果人権侵害を隠蔽する装置です。皆で旨い飯が食えればそれでよい。「皆」とは「顔が見える相手」のことです。警察組織が身贔屓の結果人権侵害を隠蔽することは日本の常識であり世界の常識です。


昔、宮崎駿が『火垂るの墓』について言ったことですが。――あれは高畑勲が嘘をついたというよりは、野坂昭如が嘘をついた。戦時下に海軍士官の息子が餓死するなどということはありえない。上官同僚部下、海軍共同体が草の根分けてでも探し出して保護する。海軍とはそういうものだった。そして、海軍共同体に縁故なき平民の子が餓死した。そういうものを自分は糞だとずっと思ってきた、と。


言うまでもなく彼は左翼的な理想主義に共鳴してきた人ですが、こうした発想は「イデオロギー的うわ言」ですか。私は縁故なき平民の子なので、愛国心にせよ共産主義にせよ「イデオロギー的うわ言」の方が「まだしもマシ」と思います。歴史が証明している通り、イデオロギーで飯は食えないし食わせられない――だから「生き延びるための思想」が要請されている。


脱線。「小規模な共同体」とヒモのアナロジーについて思ったことがあるので少し書きますが。男たちは「ヒモが付いていない♀」を求めている。男のヒモ、あるいは共同体のヒモがついていない♀を。国家の法のヒモが付いていない♀を。ヒモが付いていない♀なら誰に気兼ねすることなく好きにできる。陵辱も殺害も遺棄も。「ヒモが付いていない少女/幼女」というのはある種の男にとって理想的な存在で、人身売買はそうしたニーズによく適合している。処女厨というのもそういうことでしょう。


ヒモが付いていない♀のことは誰も探さない。もちろん♂でも同様で、人買い、というかその筋の人たちはまずその辺を確認する。日本の家出人や行方不明者は年間どのくらいでしたか。要するに、下部構造にあってはニンゲン、ことに♀は現在も国家共同体のヒモによってその存在を規定されているので、ヒモが外れれば誰かの所有物になる。♀の存在はその性的な身体に結ばれているヒモによって規定されているので、存在の査定はヒモをもってされる。人権? 人格? 尊厳? そういうのは「イデオロギー的うわ言」です。


昔も今も、人は身体をその背後のヒモによって査定する。誰の所有物であるかを見る。誰の所有物でもないなら、それが資源である限り、誰かが所有権を得る。性的身体は資源です。身体の背後に存在するヒモのことを、マルクスは社会的諸関係と呼んだし、リベラリストは個人の身体を抑圧する国家共同体の権力と呼びました。フェミニストも。そして、♀の身体の背後に存在するヒモは、概ね性によって規定されている。今もなお。


余談ですが、仕事柄もあり、価値判断は措きこのような事実認識がデフォルトとしてあると、些か年下の交際相手との向き合い方はなんとも難しい。当たり前ですが、近代において♀は女性であって尊厳持ち合わせる人間なので、自分の身体の背後に存在する性によって規定された国家共同体のヒモを心底鬱陶しく思っている。そして、そのヒモを国家共同体から切り離すことと恋愛の相手に付託することを同一の抵抗にして自由の行使と考えているように私には映る。


それは、それこそかつて宮台真司が論じたような「自分の身体は自分のもの」という制服少女の選択へと行き着くのですが、思うに、自分の身体の背後に存在する性によって規定されたヒモを誰かに付託することが抵抗であり自由の行使であるということが、なんというか、痛ましい。


♀は性によって規定されたヒモにその存在それ自体を規定される――デフォルトで国家共同体に。すなわち家父長制に。そのことを承知でヒモを誰かに付託することが抵抗であり自由の行使と暗黙に考えている。結局、ヒモにその存在それ自体が規定されていることは変わらない。変えることもできない。だから彼女は対幻想まがいの恋愛幻想を求める。つまり、ヒモの問題ではないことをヒモを付託した相手に確認しようとする。矛盾なのだが。


ヒモの問題だろう、という私の事実認識が邪魔をして、その恋愛幻想にはどうしても乗れなかったりする。要するに、恋愛幻想をもって束の間にせよヒモを忘れることは虚偽としか私は思わないので、自由を得るためには自活する生活力を身に付けるよりほかない、と真っ当な生活の才に欠けるノンシャラン男としてもサジェスチョンするしかなかったりする。脱線でした。

親方日の丸に表現規制をさせないことが、当初からの僕の一貫した問題意識なのはご承知のとおり。性差別の解消が最有効手段のひとつであるというのもずっといっていることですにゃ。

差別撤廃は「ヒモ」ではなく市民の義務だしにゃ。

「おまえらがヒモをつけているから、俺は性差別撤廃という市民の義務を拒否する」

ではガキもいいとこだし、性差別と陵辱ゲーの関連を印象づけることにすらなっちゃうにゃ。差別撤廃を是とするのなら、リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ。そっちのほうが得だと思うんだけどにゃー。

政府に対しては「表現規制だとかくだらねえこと抜かしてないで、性差別撤廃のために○○をやれ。」

人権団体に対しては「表現は関係ねえよ。エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」

と言えた方がいい。

自分の言い分を通すためには、いろいろやるべきことはあるわけだにゃ。


「差別撤廃を是とする」のは一連の議論の継続的な参加者ほぼ全員と思いますが。「差別もある明るい社会」という話は誰もしていなかったと記憶しています。で、「リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ」という話ではないからはてなに限っても延々紛糾しているのだと思いますが。なお、少なくとも私は損得のために議論しているのではない。現在においては、tikani_nemuru_Mさんに応えたいから議論しています。


「人権団体に対しては「表現は関係ねえよ。エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」と言えた方がいい。」――私は人権団体に対して「俺も性差別撤廃のために匿名でブログで議論してるよ」とは流石に言えません。佐藤亜紀氏の言葉を借りるなら――「ちゃんと目を開いて」この国で暮らしているならあらゆる女性が差別に晒されていることはわかるはずなので、「直接的に顔の見える関係」に限ってもそうした人のために小指一本くらい動かすべきではあるでしょう。「小指一本」も、ニンゲンをアトム化する下部構造にあっては色々と難しいのですが、小指一本くらいは私も動かしている。tikani_nemuru_Mさんにおいてもそうでしょう。小指一本でキーボードを叩いても仕方がないと私などは思います。


で、それはわかるのですが、「エロゲ業界」が引き合いに出される理由が皆目わかりません。「人権団体」だろうが何だろうが、誤った指摘は誤りでしかない。「エロゲ業界」が指摘されるべき性差別撤廃とは、たとえば「国連の人権系の委員会」が述べるところの「男女賃金格差、女性の不安定雇用、同一価値労働同一賃金原則の確立、育児休業制度の整備など」のことですか。それは日本政府に対して要請されていることだと思いますが。そして、経団連トップを輩出するような日本を代表するグローバル企業から指折り数えて指摘されていくべきことです。


――言論の自由がない中国出身の監督による映画『靖国』上映に多くの人々が尽力したこの自由民主主義社会にあって、当然、表現内容に対する政府の容喙はあってはならないので。ところで自主規制というのがあります。それは、暗黙の容喙です。


「エロゲ業界」に対して日本政府が要請されるべき差別撤廃は職業差別の撤廃であって、つまり刑法175条の撤廃が筋。話はそれからです。撤廃しないまま公安の宣う「公共の福祉」を容認するのがこの国の民意なので、刑法175条を擁する日本国民はどの面下げて「エロゲ業界」に「性差別撤廃のために」要請できることがあろうか。――「エロゲ業界」の部外者としての私はそう考えますが。表現内容に対する暗黙の容喙を許しているのは私たち日本国民と、その「エロゲ業界」に対する差別です。


性差別撤廃を「国連の人権系の委員会」は言挙げても、職業差別の撤廃を言挙げることはない。そして、風俗ライターの経歴を持つ国会議員は世間様に謝罪しなければならない。出馬の際に経歴を開示すべき、という意見がありましたが、確かに、開示していれば、選挙期間中に森喜朗の面白い発言がまた聞けたでしょう。かつて買春を報じられた元首相の。


市民の義務は自発性の問題です。ヒモの問題であるはずがない。それこそ宮台真司の議論ですが。差別撤廃という市民の義務に対する自発性を「エロゲ業界」の中の人に対して本当に求めているのなら、「エロゲ業界」の外の人の「貴方」が最初に職業差別撤廃に取り組むべきです――市民の義務として。


「エロゲ業界」には官憲のヒモが付いている。そのヒモを外して、日本にあって表現の自由が空手形でないことを示すべく「刑法175条の撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ、表現内容に対する暗黙の容喙を許さないためにこういうことを実際にしてるよ」と、「エロゲ業界」の中の人に対して外の人としての私たちは言えた方がいい。言うまでもなく、刑法175条の存在と職業差別は連関している。管理売春の違法を口実に「売春婦」を差別する人間はこの自称法治国家には事欠きません。


「親方日の丸に表現規制をさせないことが、当初からの僕の一貫した問題意識」は結構ですが、なら刑法175条の撤廃が順序です。職業差別撤廃にtikani_nemuru_Mさんは同意されますよね。「差別もある明るい社会」を望んではおられないだろうから。ならば、「エロゲ業界」の中の人に対しては「俺も職業差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ。刑法175条撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ。表現内容に対する暗黙の容喙を許さないためにこういうことを実際にしてるよ」と言えた方がいい。


そのことに「エロゲ業界」の中の人が納得すれば、市民の義務に自発的にコミットするでしょう。つまり、表現内容に対する暗黙の容喙を「貴方」が許さないのであれば。「エロゲ業界」の外の人である「貴方」が。改めて確認しておきますが、これはヘイトスピーチの問題ではありません。「エロゲ業界」はゾーニングを採用しています。差別撤廃が市民の義務であるように、表現の自由も市民の義務です。今更言うまでもありませんが「エロゲ業界」は社会的少数者です。「オメコの汁で飯食うとる」人間はなべて差別の対象です。オメコの汁の二次元三次元を問わず。


ところが話は逆立ちしている。「エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」――「エロゲ業界」が性差別撤廃のために何を実際にするのですか。「男女賃金格差、女性の不安定雇用、同一価値労働同一賃金原則の確立、育児休業制度の整備など」のことですか。それはまず経団連に言うべきことで、「エロゲ業界」に対しては、刑法175条の撤廃が順序ですね。繰り返しますが、市民の義務である表現の自由のために表現内容に対する暗黙の容喙を断固として退けることが先決です。


これも念の為に書いておきますが、差別を理由とする表現内容に対する容喙は許されないというのが一貫した私の立場です。表現内容に対する容喙と批判は違います。ゾーニングも違います。もちろん、暗黙の容喙は実情ですが、自主規制が存在することと自主規制を肯定することはまったく違います。市民の義務であるところの表現の自由に関わる問題だからです。tikani_nemuru_Mさんは自主規制を是としておられるのですか。


はっきり申し上げますが、いや再三申し上げているのですが、性差別撤廃の議論に際して「エロゲ業界」に言及することは職業差別に与する行為です。当然、「国連の人権系の委員会」はこの日本での職業差別に大いに加担しているし、公安の仕事を大いに助けている。そのことに自覚がないのか、つまりその程度の見識なのか、それとも日本で暮らす人々に対して端から無責任なのか。「差別撤廃を是とするのなら、リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ」――冗談ではない。「差別撤廃を是とするのなら」は無理を通して道理を引っ込ませる金科玉条ではない。


その一文に私が了解したことは、こうした文脈を踏まえないでtikani_nemuru_Mさんが論じておられるということです。御自身の言説が差別に加担していることがtikani_nemuru_Mさんの意図するところでも望むところでもないなら、性差別撤廃の議論に「エロゲ業界」を引き合いに出すことは即刻やめていただきたい。――「差別撤廃を是とするのなら」。


女買いに縁のない日本の大企業官公庁など存在しません。もちろん桜田門も。人権団体に対して「俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」と言えた方がいいのは御手洗経団連会長ですね。大手芸能プロダクションも「言えた方がいい」でしょうね。金で買った女を抱かせて国家を股に掛けた商談を成立させ経済成長を達成してきた日本中のプロジェクトXなサムライビジネスマンは過去半世紀に及んで猛省すべきですね。美しい日本の礎となった彼らは。


念の為に確認しておきますが、そしてどうやらこのことは改めて声を大にして言うべきことらしいので言いますが、「人権団体」に対して「エロゲ業界」が「エロゲ業界」として言わなければならないことなど何もない。言う筋合も問い質される筋合もない。エロゲがいつ人権を侵害しましたか。エロゲがいつ人権思想に抵触しましたか。私が関わっているような、現実の性的な身体が絡む「業界」なら人権侵害もありますが、しかしエロゲのそれは「ただの絵」です。こんなテンプレートを、なぜ今更、しかも声を大にして言わなければならないのか。


繰り返しますが、私を含めた、マジョリティとしての「エロゲ業界」の外の人が最初に職業差別撤廃、ひいては刑法175条の撤廃、表現内容に対する暗黙の容喙の撤廃に取り組むべきであり、そのことに納得すれば、公安の弾圧に晒され続けている社会的少数者としての「エロゲ業界」の中の人も性差別撤廃という市民の義務に自発的にコミットするでしょう。むろん、性差別撤廃と表現内容に対する暗黙の容喙の撤廃は両立します。性差別は表現内容に対する暗黙の容喙によって撤廃されるものでは当然ないので。マイノリティとしての女性は性差別について声を上げるに難い、「声を上げるに難い」状況こそ差別である、という話はネットでもリアルでもよく知っている。であるならば、マイノリティとしての「エロゲ業界」の中の人も当然同様です。


そのようなマイノリティを納得させられないなら、つまり市民の義務である差別撤廃や表現の自由が空文でしかないということになれば、「エロゲ業界」の中の人は下部構造で勝手にビジネスやるだけです。私が、いや多くの縁故なき平民の子が、そしてマジョリティとしての男性が、そうしているように。人権だの尊厳だのという「イデオロギー的うわ言」で飯は食えないので。それもまた「生き延びるための思想」です。私が、マイノリティとしての女性を納得させられなかったこととその結果のように。もちろん、現実の恋愛の話ではない。


「エロゲ業界」と言挙げてその中の人に対して外の人が性差別撤廃という市民の義務を要請するなら、まずは風俗ライター出身の国会議員が世間様に謝罪するようなふざけた事態がなくなるよう、職業差別撤廃、刑法175条の撤廃、表現内容に対する暗黙の容喙の撤廃、話はそれからですね。――「「エロゲ業界」と言挙げてその中の人に対して外の人が性差別撤廃という市民の義務を要請する」ことが、事実上の職業差別です。職業差別そのものです。意図なくとも加担しています。わかっておられますか。――「差別撤廃を是とするのなら」。

逐語的に答えているととんでもにゃー量になるので、あるていど絞って選択して答えていますにゃ。で、「ここのところの指摘は重要なはずだけど答えてねえじゃん」と思われるところはご指摘くださいにゃー。都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃーつもりだけど、後回しにして忘れたり、正直言ってよくわからにゃーんでほっといてあるところもある。


別にスルーはまったく構いません。私とtikani_nemuru_Mさんが「逐語的に答え」合っていたらとんでもないことになるでしょう。「都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃー」ことは知っています。私の書いたことに対して、tikani_nemuru_Mさんの応えたいように応えてくださってまったく構いません。記憶で書くことも脱線も含めて、私もかなり勝手にやっているので。ただし、「都合がワリイところを避けるという真似」をこちらのレスについて指摘されても困ります。それはtikani_nemuru_Mさんの発想です。「都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃーつもり」は私も同様です。