憎悪の蓋


2009.6.7: 日記


五十嵐氏の事件を引き合いに出したことは不穏当でした。弁明させていただきますが、雉を撃つな、と言っているのでは私はない。雉を撃つな、とは誰に対しても言いません。誰が何故やったのか、ではなく、官憲が仕事をしないとき表現の自由について国家の法治が公共の利益を実現する、という発想に到底賛成できない、ということです。表現の自由を法治の原則において守ることさえしなかった、あるいはできなかった日の丸の官憲に、公共の利益に基づく表現の自由の制限を委ねることには躊躇します。


日本の官憲は、望むまでもなく、公共の利益を自称してポルノを弾圧してきました。この官憲に対する不信は、当然のことながら外国人排斥(日本においては移民でさえない)と関係がない。むしろ、警視庁草紙以来、弾圧の発想と技術を近代日本に積み上げてきた官憲は、公共の利益に基づく表現の自由の制限によって、マジョリティではなくマイノリティを弾圧し、外国人を排斥し、ムスリムを抑圧します。不可視化が、彼らにとっての社会秩序です。明治以来の日本のバナナリパブリックまがいな弾圧の思想は、天皇を戴く経済先進国の差別構造の一部を形成しています。


強姦ゲームのユーザーも尊敬すべきイスラム研究者も、官憲にとっては等しく鳴く雉であって、帝国主義者は自由で寛容な社会の市民道徳に基づく静寂を好みます。日本では、強姦ゲームの存在と同程度に、五十嵐氏の事件を、人々は知りません。知るべきと言っているのではない。帝国主義者とその番犬であるところの官憲は静寂を好む、という話です。自由で寛容な社会の市民道徳は、植民地主義者の道徳です。


しかし、官憲に対する不信の結果生じる自警団もまた、マジョリティがマイノリティを数の力で沈黙させる差別構造の反復でしかない。それはそうです。しかし日の丸の官憲にとって法治に基づく公共の利益とは、不可視化による社会秩序のための弾圧の土壌を用意してきた植民地主義的差別構造そのものです。それが日本社会です。そして当然のことながら、官憲の体質は一朝一夕で変わらないし、しかし私たちは警察に強制力を付託するよりほかない。にもかかわらず鳴く雉は、その官憲様に法治の原則を貫徹してもらわねば鳴くことさえできない。


撃たれる雉について指摘することは、法と法の外を同時に指摘することであり、そして表現とは、つまり雉が鳴くことは、法の外の行為です。問題は、雉が雉である以上鳴くことを、そして人間が傷付く心を持ち合わせる以上雉を撃つ可能性を潜在的に持ち合わせることを、どのように法が収拾するか、ということであり、この場合問われるべきは日本国の法です。そのとき、官憲ならびに司法の明治以来の弾圧の文法については留意してしすぎることはない。雉が雉である以上鳴くことを、そして人間が傷付く心を持ち合わせる以上雉を撃つ可能性を潜在的に持ち合わせることを、どのように法が収拾するか。


人類社会の法について論じることと、日本国の法について論じることは違います。それは官憲司法のバナナ具合や逆鱗を持ち合わせる存在としての「他者」を不可視化する植民地主義的差別構造のことに限らない。法理の議論でもない。人類社会の憎悪の蓋であったことがなく、表現の自由言論の自由を守りはしなかった法が信頼されうるか、という話です。


人類社会の法を公共の利益に基づく憎悪の蓋として考える――そのことに私が同意できないのは、蓋すべき憎悪さえ認識されず不可視化されているこの社会において、憎悪に蓋する必然を人々が了解しないままに官憲が人類社会のコードを名乗って蓋したところで、不可視の憎悪が沸騰し社会的緊張の内圧を上昇させることにしかならないからです。


法が信頼されない社会で、人類社会のコードを名乗って官憲が憎悪に蓋したとき、沸騰した憎悪の矛先は法にも官憲にも向かいません。人類社会の法が守るマイノリティへと向かって、信頼されない法という形式的な蓋の下で巧妙なリンチが行われるだけのことです――それこそ自警団活動として。自警団活動が、人類社会の法と官憲の介入によって掣肘されると考えることは、この社会においては、楽観的な見通しです。玉音放送なくして終戦が成り立たなかった体制で、法介入を休戦協定と考える人がどれほどあるか。少なくとも官憲は、それを休戦とは考えず、どこかに侵攻するでしょう。おそらくはマイノリティへと。虐殺が起こるとき、官憲は、マイノリティを守りません。


俺は差別と不寛容なムスリムが大嫌いだ、というのはブラックジョークにもならない――真顔で言う人が多すぎて。自由や寛容という概念と端から無縁なこの国でも、です。自由や寛容は、本来、近代日本の官製の概念ではない。官製の概念ではない寛容を、また市場の産物ではない自由を、不可能性において模索するところから話は始まっています。文化問題として、ではない。人間が人間である限り持ち合わせる逆鱗を見えなくさせる差別構造が存在し、その差別は、逆鱗が可視化されたとき直接的な暴力とその恐怖で他者の口をつぐませる。それをろくでもないと私は思います。


寛容が官製の概念であってはならないし、自由が市場の産物であってはならない。官製の寛容と市場の自由は帝国主義者のお下がりで、しかも帝国主義者はそのことを信じない。「真に受ける」者は弾圧する。官製の概念でない寛容を、市場の産物でない自由を、エロに見た先人が業界にあったのはその所以です。それもまた、68年的な、ヒッピーじみた能天気な自由と寛容ではありましたが。そして現在、官製の寛容を、市場の自由を、エロはコードとして体現している。


自由も寛容も不可能と万民が知った、だから私は勝手にやらせてもらう、というのが日本的なポストモダン社会で、しかしその実市場の自由と官製の寛容が勝手な行動をどこまでも規定する。付け加えると、自由も寛容も不可能と万民が知った社会で勝手にやらせてもらう者が増えた結果、規制も監視もサイバネティックスも理論から実装へと移されることは当然の帰結です。自由も寛容も、最初から市場と官のお下がりだったのだから。


市場がグローバル化し、グローバリゼーションに対して擬似共同体が「免疫機能」を発揮して体内のウィルスを殺滅せよとばかりに社会的緊張をもたらすとき、国家は法を差し込む責務を負う。結果、遊びの時間は終わったとばかりに道徳の議論は終了して規制論へと移行する。かくて自由と寛容の、市場と官からのお下がりについて、私たちは自覚する。


単一の社会において需給が最適化された好事家の市場は、グローバリゼーションとは本来的に無関係です。しかし当然のことながら、インターネットは存在しamazonのような多国籍企業も存在する。結果、グローバリゼーションは遊びの時間を終わらせる。「免疫機能」は、グローバリゼーションに対する擬似共同体の掣肘は、宛先違いのムスリムに対して発動されるように、島国の好事家にまで発動するということです。


だから、道徳の議論の時間は終わって、規制論の時間です。甚だ遺憾ながら。むろん、敵は、他者の信仰でなく、市場の自由と官製の寛容を真正の自由と寛容と騙っていた植民地主義者と、そのお下がりをもらっておこぼれにあずかりながら、一方でその自由と寛容を「真に受けて」真正と信じていた私たちの間抜けです。


遊びの時間は終わったので、道徳の議論はやめて、変態よ紳士たれ、と言えないところが端から市場の産物にすぎない自由主義の所以です。一人称に対して社会的な紐付けのない匿名空間では、名誉という概念を打ち捨てることは容易い。公私を区別するのが紳士の所以ですが、市場の自由と官製の寛容は、そのプロパガンダは、「私は勝手にやらせてもらう」を自由と寛容と誤解させました。それは、日本的な、あまりに日本的な日本の風景です。


公私の区別において、ポルノや娼婦を買うことは私的行為でした。もちろん日本では、ポルノや娼婦を買うことは公的な行為です。日本に紳士などあったためしがない。そして、強姦ゲームを買ったり男を買ったりする行為だけが、男を公私の区別において紳士にした。性的嗜好における日本の男の公私を論じるなら、これが私の前提です。公私の区別を植民地主義的差別構造と切り離して論じることはできないということです。知的で誠実な性暴力嗜好者の存在それ自体が差別構造の現前であるように。


その紳士のはずの男が、女性に対してヘイトスピーチの限りを尽くすのは、強姦ゲームを買うことに公私の区別が要らなくなったということでしょう。それは、ゲイとは違います。問題は、強姦ゲームを買うことに公私の区別が要らなくなったことであり、その状況です。大麻についても言えることですが、法的な解禁は、必然的に嗜好のカジュアル化をもたらします。だから「ポルノグラフィは社会において微妙なものであり続けている」――法的にも。しかしながら、強姦ゲームを買うことは、カジュアル化しており、よって植民地主義的差別構造に対する自覚なくそのコードが行動様式において反復される。自由と寛容に基づくマイノリティに対するヘイトスピーチとして。それは駄目です。構造的に駄目です。が。


人は、雉であるがゆえに、傷付く心を持ち合わせる人間であるがゆえに、たとえそれが誰かの心を傷付けることであろうと「私」をpublishします――匿名で。publishされた「私」は時にヘイトスピーチのコードを陳腐に反復し誰かの心を容易く、しかし決定的に傷付ける。それは、もちろん、憎悪のプロパガンダそのものです。その憎悪は、植民地主義的差別構造から来る。


「私」がpublishされたとき「公」が差別構造の現前なら、その差別のコードを匿名でpublishされた「私」がなぞってしまうことも、水が低きに流れるように当然のことです。むろん糞ですが。そして市場の自由は、時に差別構造の資本主義的現前であり、その上部構造に官製の寛容が載るなら、匿名でpublishされた「私」が「俺は差別と不寛容なムスリムが大嫌いだ」「俺は差別と不寛容な女性が大嫌いだ」と真顔で口にすることもわかりきっている。


にもかかわらず、それが心の問題、つまり傷付く心を持ち合わせる人間が雉として鳴くことの問題である限り、そして市場と同程度には官憲も心の問題を蹂躙する限り、私は規制論に対して慎重であらざるをえない。人は、傷付く心を持ち合わせる人間である限り、たとえそれが誰かの心を傷付けることであろうと「私」をpublishします。それが表現です。しかしそのとき「公」が差別構造の資本主義的現前であるところの市場とその上部構造における植民地主義者の寛容なら。表現と市場は、必然として相容れない。


表現は、市場や官と別の「公」を、雉と射手の存在する場所において画定します。永遠に暫定的に、不安定に。そのとき法は、同じ人間であるところの雉と射手を収拾するためにある。なればこそ、政治的介入であってはならない。私はそう考えます。


市場に表現の豊穣はない――私は必ずしもそう考えません。底辺の豊穣が頂点の角度を構成するからです。その点で、つまり表現論的には、自主規制は問題です。しかし、究極的に、あるいは根源的に、市場の豊穣と表現は相容れない。市場の自由と官製の寛容が真正の自由と寛容として信奉される現代日本から時計の針を巻き戻せば地下出版の豊穣に戻れるわけでは私たちはありません。「私たち」とは、強姦ゲームの製作者とユーザーに限った話ではない。


法が憎悪の蓋としてまがりなりにも機能する社会は、法の公正がまがりなりにも信頼される社会です。紳士として扱われないと、男は紳士になりません。淑女として扱われないと、女性が淑女になれないように。それがヒギンズ教授も真っ青の差別構造であることは当然です。だから、自由と寛容は、市場でも官でもなく、現在形の政治を宛先として問われます。人間として扱われないと、奴隷は人間になれません。その人間だって当然奴隷なのですが、だからといって奴隷が奴隷のままでよいという話はない。


奴隷と人間の区別が、資本主義と政治の合作である以上、公私の区別は「かのように」以上のものではありえない。殊に、性の問題については。そして、「公」における他者の毀損を問うとき、その「公」は市場でも官でも表現の自由でもない。「かのように」の外側に、時に雉として、時に射手として、存在する他者です。法は、「かのように」の外側を収拾するためにあります。人類社会の法は、鳴く雉が撃たれないことを、同時に射手を人類の爪弾きにしないことを、合意するためのものとしてある。


政治が、心の問題に対する社会的な合意なら、そして心の問題が、奴隷が人間として扱われ、変態が紳士として扱われることによってしか贖われないなら、規制論は心の問題を贖うための高く付く買い物であり、不当な取引でしかない。そう言わざるをえません。にもかかわらず、私たちは社会的な合意において心の問題を贖うしかないのですが。その、心の問題を贖うための条件闘争が、政治です。自由とも寛容とも「表現の自由」とも、関係がなく。条件闘争のために、紳士として扱われるために、変態は公的に発言しなければならない。当然、変態としてではなく、紳士として。つまり、お国の法律に守られながら、法律さえ守っていれば無問題と、DQNの振舞いをするのではなく。そういうDQNを、往々にして、善良な市民と言いますが。