欺瞞の限度

現代は本質的に悲劇の時代である。


完訳チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)

完訳チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)


昔――ほんとうに昔のことだ――上岡龍太郎の番組が好きでよく見ていた。


上岡龍太郎がズバリ! - Wikipedia

あるテーマに該当した“50人”をスタジオに招き入れ、アンケートの“スイッチオン”形式で番組は進行していく。また、街頭のインタビューからの質問(「今週のチマターズ」という)にも回答していき、ボタンを押した人の中の一人を上岡が指名していきながら、トークを繰り広げ、そこからまた生まれてきた質問や疑問をスイッチオンしていく。
また、“スイッチオン”ではなく、全員がフリップで回答することもあった。
「ムーブ・上岡龍太郎の男と女ホントのところ」時代では、ラストコーナーに「逢いたい…」があった。

放送されていた期間での、その時代の社会や流行、世相などからテーマが設定されていた。また、午後7時台の放送時間に、普通では考えられないようなテーマの人選もなされていた。正規の50人が集まらず、50人未満でなされたテーマの回もあったりした。


引用部の下に羅列される「過去に集まった50人のテーマ」には入っていなかった、が、印象深かった回に、「痴漢被害に遭ったことのある女性50人vs痴漢に間違えられたことのあるオジサン50人」(「オジサン」のほうはもっと少人数だったか、あるいは25人vs25人だったか)を同じスタジオに集め一堂に会させて応酬させる回があった。顔出しで。上岡の司会が毎度のごとく冴え渡る。「仕込み」であったかは知らない。滅法面白かったことは記憶している。社会問題を告発し啓蒙する番組ではなく歴たる娯楽番組である。それも夜の7時。


「痴漢被害に遭ったことのある女性たち」と「痴漢に間違えられたことのあるオジサンたち(中年以上の男性ばかりであった)」はスタジオで激突する。ひとりの「痴漢に間違えられたことのあるオジサン」(50代)が上岡に問われて語る。


――通勤時、隣の若い女性がいきなりこのヒト痴漢ですとかとんでもないことを叫んで騒ぐ、背広の襟を掴んで駅のホームに降りろと言うから急いでいたにもかかわらず降りて説明した。いくら人違いと説明しても聞かず自分を性犯罪者呼ばわりする、駅員が来ても騒ぎ続ける、自分に指突きつけて公衆の面前で再三痴漢呼ばわり、あまつさえ中年男性であることに対する侮蔑的な言を吐く。腹が立ったし黙らないので、頬を平手で張った。いっそう修羅場になった。


「痴漢被害に遭ったことのある女性たち」50人が、いっせいに激昂してスタジオ大騒ぎとなったことはいうまでもない。激昂する女性陣に対する上岡龍太郎のフォロー、みなさん、このヒト(公衆の面前において自分を再三痴漢呼ばわりし罵倒した若い女をひっぱたいたオジサン)は、被害者なんです皆さんと同じ、痴漢犯罪の!その心のなさはさすが上岡であった。――懐かしい。確かにTVはつまらなくなった。


何が言いたいかというと。おおらかな、よい時代であったなぁ、と。当該のオジサンの一件が実際あったのは放送時より更に遡る時代のはず。女性専用車両の影も形もなく「痴漢冤罪」という言葉も知られることなかった時代。現在なら絶対にありえない企画であり話である――ことはいうまでもないか。


痴漢被害者と「痴漢に間違えられた」被害者が、公明正大に朗らかに喧嘩して怒鳴りあい殴り合って晩飯時の茶の間でその光景を笑って楽しむ世界は、公器のどこにもない。内容の真偽を措き、現在なら番組として成立せんだろうということ。当たり前か。


痴漢問題、痴漢冤罪問題を防ぐためにいかなる手立てを講じればよいか。かく問われるたび私は応えている。


女が通勤も外出も自重すりゃ... - ハルパゴスさん - はてなセリフ


あれだ。電車は男子専用の交通機関であり女が乗ると処罰するとか法制化すれば宜しい。若くて美しい女は存在自体が男の劣情を煽るのだから。隔離政策を実施して。日本もイランに倣うべき時期だろうそろそろ。


persepolis-movie.jp – このドメインはお名前.comで取得されています。


後日、ちゃんとした「評」を書こうと思っていたけれども、少しだけ。主人公のマルジは、革命後の祖国イランの美術学校において、戒律に拠り服装規則を変更せんとする学校関係者に論駁する。大意。美術学校の生徒は動きやすい格好でなければ仕事として学ぶべき絵が描けない、私たち女は貴方がたの姿を見て思うことはないが貴方がた男は何事かを思うのか、それは戒律に照らし合わせて如何。かくて服装規則は厳しく変更されることなくなる。許されざる「下心」は「貴方がた男」の側に在ると婉曲に指摘したのだ。


興味深い一件。特にテリー伊藤徳光和夫の発言。ふたりとも好きなんだけどさ。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080116-00000003-jct-ent

痛いニュース(ノ∀`) : 「足を見るオジサンはチカン」…アイドル「AKB48」大島ブログが大炎上 - ライブドアブログ

「被害者ぶってるけど、そういうことを誘発しているのはそちらでしょ!挑発的な格好をして被害者のふりをするな!! 」

「見られることに優越感を感じないと。オシャレってことは、男に見られたいってことでしょ」


男の劣情を煽る側の問題であると男が公言するのはすごいな。劣情の存在を否認せよとはまったく思わないが。イランの男の矜持を見習うべきだろう。私など目の保養としか思わない。若いことには価値がある。主に容姿に。実際の私はハルパゴスさんでなく福山雅治なので無問題だろう。


セクハラ - ねこのみみ

 「女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」だとな?だったら私は電車内中吊り広告の、胸も露わな冬でも水着姿の女性の写真の方がずーっとずーっとずーーーーっと不快なんですけど。見たくなくても見えてしまう、スポーツ新聞や夕刊紙のエロネタ記事の画像もかなり不愉快なんですけど。そういうものを「見たくないものを見せるのはセクハラ」だとして退ける想像力はないくせに、男性の半裸写真だと「女性が不快に感じる」だと?ご配慮ありがたくて涙が出らあ。


 公共の場でヌード画像を見ることに不快感を覚えるのは、別に私だけの特殊なものではない。特に、女性の中には「男性のハダカ見たって嬉しくもなんともない(むしろ不快)」という人は多いと思う。けれども、男性には「女性のハダカ見たって嬉しくも」という人は多くはないだろう。だからこそ、ビキニガールは季節を問わず日本中で微笑んでいる訳だ。しかし、今回の件で、当該蘇民祭ポスターを見て不快に思う男性がいらしたならば、同じような居心地の悪さを女性は日常的に感じているのだということをご理解いただきたいものだ。(「私は別に不快じゃないよ」という女性もたくさんおいでだと思うが。)


ちなみに私は「スポーツ新聞や夕刊紙のエロネタ記事」にも「画像」にも関心ない。ビキニガールにも関心ない。「当該蘇民祭ポスター」を不快とも思わない。そもそも快不快の問題ではない。神事なのだから。


神事に対する畏敬やその尊重も公共機関/空間においては快不快の問題として処理される、という世俗社会における至極妥当な結末の話。「当該蘇民祭ポスター」に掲載された佐藤真治氏(佐藤さん)の困惑もまた其処に在る。所謂PC(政治的正しさ)の話でもまた猥褻の話でもない。「猥褻」概念とは近代社会における規範と世俗の乖離の問題であるから。


大衆的な世俗社会における猥褻の問題とは、日本において、たとえば都築響一らが取り上げてきた「秘宝館」の問題として在るだろう。少なくとも、ロレンスやサドの問題ではない、と私は思っている。素晴らしい文学であるし、伊藤整澁澤龍彦は最大限に尊敬しているが。


戦後日本において「文学的」に問われた猥褻問題とは、大衆的な世俗社会において喪われた本来性と崇高を復権させる試みでもあった、と私は考えている。その問題意識は大衆的な世俗社会を見切ってもいた。大衆的な世俗社会における「猥褻」とはロレンスでもサドでも、ジュネでもヘンリー・ミラーでもなく、強いて言うならナボコフである、ということ。


大衆的な世俗社会(=アメリカ)に陵辱され汚される崇高な美意識と恋愛感情(=ヨーロッパ)、という図式に、帝政ロシアに生まれ第一次大戦後のヨーロッパを経て戦後のアメリカに暮らした喪われた大貴族の子息ナボコフは、気が付いていた。知的洗練において屈折したプルースト的な恋愛感情が歴史無く即物的大衆社会において端的なセックスと物欲の露出へと還元され解体されるその悲痛を、ハンバート・ハンバートの崩壊を通してナボコフは描いた。


歴史無く即物的大衆社会において端的なセックスと物欲の露出へと還元され解体された本来性と崇高が「秘宝館的なるもの」において現前する。それをしてジャンクならずキッチュという。私たちは誰しもハンバート・ハンバートである。男である限り、という留保を付するべきか。否。


大衆的な世俗社会、ひいては大衆社会における「猥褻」とはその概念とは何か。斯様な問いは、たとえば近年の「松文館裁判」を通して知的に問われ続けた事柄でもあった。


松文館裁判 - Wikipedia

被告側はあくまで無罪を主張し上告したが、2007年6月14日に、最高裁判所第一小法廷(才口千晴裁判長)は二審判決の漫画もわいせつ物に当たるという判断を支持。また、チャタレー事件の最高裁判決等を判例として、憲法における表現の自由の侵犯には当たらないと判断、上告不受理を決定。これにより、二審判決が確定した。

チャタレー事件 - Wikipedia

裁判要旨

  1. わいせつとは徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。
  2. 芸術作品であっても、それだけでわいせつ性を否定することはできない。
  3. わいせつ物頒布罪で被告人を処罰しても憲法21条に反しない。
  4. 第一審判決で無罪としたが、控訴審で右判決は法令の解釈を誤りひいては事実を誤認したものとして」これを破棄し、自ら何ら事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠のみによつて、直ちに被告事件について、犯罪事実を認定し有罪の判決をしたことが、刑訴法400条ただし書きに反しないとされた事例(4.については多数意見では触れていないが刑集には触れられている)

最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。


わいせつの三要素

  1. 徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
  2. 且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し
  3. 善良な性的道義観念に反するものをいう

(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)


わいせつの判断


わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」


公共の福祉


「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。」

わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。


公共の福祉論について


公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが、わいせつの規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い。


大衆社会において猥褻は遍在している。遍く在る。差異として商品化され消費されうる。そのとき、公共の空間/機関から「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をかく認定したうえ撤去することは妥当であるか、正義を構成するか。


少なくとも。○○が不快だ、は撤去の妥当性を構成しないし主張の正当性を構成しない。それは公共機関/空間における喫煙問題の要点としても在る。かつ「猥褻」の定義をチャタレイ裁判の最高裁判決に拠ることには私はまったく賛成しない。彼の偉大な傑作の完訳が刊行されたのは近年のことであり、伊藤整の死後のことである。

尚、件の翻訳は1964年、戦後には珍しい伏字を使って出版された。また、1996年、息子の伊藤礼が同じ新潮社から削除部分を補った完訳版を出版したが、現在に至るまでこの本は猥褻文書として摘発されてはいない。

伊藤整 - Wikipedia


上記の一文が示していることは。「猥褻文書として摘発されうる」ことである。現在もなお。最高裁判決在る限り。「当局の黙認のもとにある」「当局のお目こぼしを受けている」のである。


読書中毒―ブックレシピ61 (文春文庫)

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――から引用。『25 二人のチャタレイ夫人』

 おことわりしておけば、ぼくはポルノグラフィはすべて解禁してしまえ、という考えの持ち主である。(もう一つの話題の、子供向けマンガの性描写については、現物をみていないので、判断を留保する。)解禁してしまえば、数年で<ポルノ産業>は消滅する。芸術もワイセツもない。どちらも商品に過ぎないからだ。


 だいたい、写真(とくに輸入アートもの)は、ヘアがあるのが、いま、ふつうである。


 ところが、小説――とくに一度、有罪になったものはそうはいかない。


 永井荷風作と伝えられる『四畳半襖の下張』をうっかりのせた雑誌が裁かれたのは、そう古い話ではない。


 そして、なんといっても、『チャタレイ夫人の恋人』である。D・H・ロレンスの名作は、戦前からカット版が出ていたはずで、戦後、一九五〇年に、伊藤整が完訳本を小山書店から出した。本はベストセラーになり、同年、発禁になる。伊藤整と小山社長は<わいせつ文書頒布容疑>で起訴された。


(中略)


 日本で発禁になったのは、主として、チャタレイ夫人とメラーズの性描写である。この文章を書くために、伊藤整訳を読みかえしてみたが、いささか古めかしいとはいえ、堂々たるもので、<わいせつ>とはほど遠い。


 いま、そこらの書店に入ると、「未亡人××」とか「××犯す!」といった文庫版ポルノが出ているし、完全なポルノ小説も(高い値段で)売られている。それらにくらべれば、『チャタレイ夫人の恋人』の性描写は<わいせつ>度において、ものの数ではない。


 ではなぜ、『チャタレイ夫人の恋人』(完全版ですよ)が再発売されないのか? 出版したとたんに<昔の判決>が生きてくる。小山書店はつぶれてしまったはずで、だれしも、そんな面倒はさけたいに決っているから、手を出さない。


「なさけない」

 
 と、ぼくは知り合いの女性編集者にボヤいた。十数年前のことだ。


「あれっ」


 相手は変な顔をして、


「さいきん、完訳が出てますよ」


 と言った。


「そんなことはない。発禁になるもの」


「でも、出てます。<完訳>とうたって、なければいいのです」


 教えられた某社の世界文学全集のロレンスの巻(現在は入手不可能)を買ってきて、おどろいた。完訳なのである。


 完訳は完訳だけど、なんだか、冗談みたいな訳でもあった。


(中略)


 冗談はさておき(といっても、この訳はモンダイです)、<完訳とうたわなければ許す>という役人の態度は、<時代の変化によって、もはや、「チャタレイ夫人」をとりしまるのはムリがある>+<しかし、昔の判決をとり消すわけにはいかない>という矛盾を実に陰湿な形で表明している。

 
 法律を変えない限り、名作『チャタレイ夫人の恋人』はずっと日陰の身というわけである。


 なさけない、恥ずかしい、というのはこれである。しかも、もっと<過激な>翻訳小説はどんどん出版されている。(p132〜135)


1991年の文章である。伊藤礼氏による「完訳版」の出版は、5年後のこと。そして。21世紀の「松文館裁判」において、<昔の判決>が蘇る。


公共の空間/機関から「猥褻な事物」は、チャタレイ裁判の最高裁判決のもと、かく認定され撤去されうる。ポスターであれ、ポスターに映る人物であれ、「エロネタ記事」であれ、ビキニガールであれ。そして、現実の人間の、姿格好であれ。――笑いごとではなく。


ミニスカート履いて脚出して歩いている女が視界に入ることは不快だ、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」である以上、公共の空間/機関において「猥褻な事物」に該当するので、存在自体を撤去していただきたい。少なくとも自重していただきたい。「発禁処分」に。公言することなくとも、かく要請する人は、断言するが少なくない、大変に多い。「普通人の正常な性的羞恥心」に欠け「善良な性的道義観念に反する」と指差す人もある。


私は目の保養と思うし世界は美しく病の反映としての生命力に満ちかつ官能的なほうが素晴らしいと勝手に思っているから無問題であるが、それは単に私に「普通人の正常な」官能と「善良な性的道義観念」が欠落しているからかも知れない。ゆえに。


ブルカも要るかも知れず、公共の空間/機関から女の存在自体を撤去するべきかも知れない、少なくともミニスカート履いて脚出している女は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」であるからして。自重して然るべき也。


日本の現在はイランの現在を他人事とできるものでもない。「電車内仲吊り広告の、胸も露わな冬でも水着姿の女性の写真」が不快であることに同意する人が多く在るなら。かく言明し得るなら。電車内の、脚も露わな冬でもミニスカ姿の女性が不快であると言明しても無問題であるということ。共に「猥褻な事物」に該当するがゆえ。


痴漢とセクハラが違うように、猥褻とセクハラは違う。大衆消費社会において偏在する猥褻という名の差異が、公共の空間/機関から、法的概念としての「猥褻」を理由に撤去されることを、私は是としない。任意の不快を理由とするならなおのこと。セクハラとは行動の問題であり存在の問題でも意識の問題でもない。人格ある個人の自己表現としての個人性を「猥褻」と見なすことは、とんでもないことである。


ある女性作家が、かつて記していた。痴漢問題に関して、一等気に掛かるのは――日本の男女はなぜかくも公共的な空間/機関において暴力的な緊張を構成するか。冒頭の話ではないが。尻を故意に触った若い男に怒鳴ったらシラ切るどころか逆切れして殴られそうになった、という話は、私も知人から聞く。手にしていた傘で追いかけ回した、という話もまた別の知人から聞いたが。男よりよほどバイオレンスな日常であるかもしらんなと思う。


なら。電車に乗らなければよいのであるし、公共の場において容姿をさらさなければよいのであるし、家に閉じこもって外に出なければよい。だから、笑いごとではなく。「公共の場において容姿をさらすべきではない」「家に閉じ込めて外に出さなければよい」と考える人は、普通にいる。現在の日本ではさすがに少ないかも知れん。ゆえに「ミニスカを履かなければよい」「脚を出さなければよい」に妥協点を見出すのだろう。男女間の暴力的な緊張を回避するために、女は公共の空間/機関において肌をさらすべきではない、と。――いうまでもなく。詭弁と欺瞞にも限度がある。


山岸凉子『天人唐草』

天人唐草 (文春文庫―ビジュアル版)

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「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」――それが法的に定義された「猥褻」である。主体や人格や個としての意志を個別に問うことなく。それをこそ否としたD・H・ロレンスの、これは20世紀に対する皮肉な千里眼であり予言であろうか。1930年に44歳で死んだ特異な個性にして知性の、百年の孤独だろうか。


大衆消費社会において猥褻という名の差異が遍在することを認め肯定する私は、猥褻という名の差異の遍在を、任意の個人の、その姿格好品行振舞いと付会してその人格を貶め、男女間の緊張を正当化する類の言説には、賛成しない。むろん。「オジサン」の姿格好品行振舞いと付会して、個人の人格を貶める行為にも。


公共の空間/機関において、一期一会の男女はかくも陰湿で暴力的な緊張関係にあるかと、その代理戦争の相として在るネットの論調見て、ときおり私は思う。現在、仕事柄ラッシュの電車をさして利用しないといえ、私は暢気なのだろうか。


去年の3月、母親からTEL。


それでもボクはやってない - Wikipedia

それでもボクはやってない スタンダード・エディション [DVD]

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観たかと言う。とっくに、と応えると、警察に留置されるとあんなことに云々と言う。都合の悪いことは忘れたか、と呆れて、よく知ってるから、と笑って応じると、オマエも冤罪には気を付けろとのこと。福山だから大丈夫、と応えた。ま。脛に傷持つ奴ほど意識して外面を取り繕うものである。注意されるまでもなく。