Conversation Piece


20歳を過ぎたら、もうそれはお前の責任なんだ


「責任」という言葉の定義を措くなら。親の責任と思うよ。親がいない人もいるけれど。「親」も自らと同じひとりの男と女である、という言い方は在るし、そんなことはみなわかってる。「親子」という関係性において問題が生じる。「親」を自らと同じひとりのボンクラであると対象化することは容易くとも、「親子」という関係性それ自体を対象化することは、誰にとっても難く、一般論としても難い。フロイトの図式であるけれども。


構造主義は、あるいは民俗学は、こういうとき、無力だ。人は「親子」を容易に対象化し得ない。だから。「親の責任」とすることには意味が在るし、在り続ける、と思う。もっとも。それを聞かされる「責任なき」他人はたまったものではなかったりするので、話を聞く専門家が居る。

 「親からあれこれこういう目にあわされて、俺私はこんな風になった」と言っている人間に対し、


 「お前もう○歳なんだろ?ならもうそれは、お前の責任なんだ。親のせいにするな」(これは20歳とは限らない、高校生くらいの場合もある)

(前略)「親にもう拘るな。親を恨んでも仕方が無い。そんなことは忘れて、もう自分で変えるしかないんだ」という、責任云々というよりも、当人のために敢えてそういういいかたをする、(後略)


↑これ。「親」本人が長じた「子」に対して言うことが、大変に多い。親子の私的な口論に大変ありがちな会話。であるから。「親」が「子」がというよりは、「親子」の関係性における一般的な問題。換言すると、親子間のごくプライベートな問題を私的な関係性において一般化する態度の問題、ではあるけれども、一般化したくなる気持ちもわからないではない。愛は存外無限ではない。無際限でもない。サスティナブルな愛情を規定するのが関係性の制度と形式である。私的なそれであろうと。


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愛は理性ではない、衝動である、という言葉が、先日観た上記の映画に出てくるけれども、衝動としての愛は、フロイト的に言うならエロス&タナトスであり、映画の結末はそのことを証す。そして、愛は理性ではなくとも、理性としての「愛」はある。関係性の制度と形式において規定されたサスティナブルな愛情のこと。むろんそれは人工だ。――上記映画において示された、二十数年間四肢麻痺の主人公と、彼を世話する家族との間に在るそれのような。

 確かにこの二つはそれなりに正しいように思える。実際正しいのかもしれない。でも、これは、「んで結局、親の責任なのか否か?」に対して、真正面から答えてはいない。現実的に進む為の便宜的な答えというだけであり、真正面から答えてはいない。有る意味では逃げている。


「親」は「子」に対して真正面から応えるはずがない。「真正面から答えて」よいのだろうか。私はおまえよりは下の子のほうがよほど可愛い、ずっとそう思ってきた、とか。小津安二郎向田邦子山田太一を引くまでもなく、公的な「親子」とは「家族」とは欺瞞的な制度であり形式であって、斯様な欺瞞において構成された愛が「家族における愛情」のモデルとして在り、かくフォーマット的に最適化された「愛情」なければ、括弧を外した愛あろうとも形式としての家族は壊れる。そして。壊れまくっていることはいうまでもない。


NHKスペシャル


昨年末、イヴの夜に放送していた。他人の家で見た。点けたのは私であるが他人もまた興味深げに眺めていたので感想を訊くと逆に訊き返された。大阪の人間にはついていけない、付き合いきれん、と差別発言で私がお茶を濁すと、微妙な顔をした。親があれども「親」のない人はいる。家で寝てばかりの文無しの親を悲しく思う人もいれば、いない癖に恒産で存在を主張する親に辟易する人もいる。20歳を過ぎていなければつらいだろう。


私は、親を形式的な「親」として認知し、自身を形式的な「子」として規定することに長い時間を費やした。父親を男と思い、母親を女と見なして長じる子は、「親子」としての、また「家族」としての、公的かつ欺瞞的な「愛情」を私圏において関係性として構成することに難儀する。端的な事実としての親を「家族」という制度的な関係性に規定された「親」として認識することの難儀を、正月に放送していた田村正和主演の『鹿鳴館』と映画『鬼龍院花子の生涯』を週末に観て、思った。

 19歳までは親の責任だがその一年で自己を変えられないまま20歳に突入すれば「自己責任」になるというのだろうか?なんだか滅茶苦茶な話だ。


 例えば幼い頃虐待にあい、そのせいで性格が歪んだというなら20歳になろうがそれは親の責任である。


そうなんだけどそういう人は多く責任ある親とは直接話さない、「責任」の件については。話すと上記の返答が返ってくるから。そして責任なき他人や責任なきその人の子が「幼い頃虐待にあい、そのせいで性格が歪んだ」という事実を引き受ける。そのことが要点。社会制度の議論において、そして、個々人の意識と行動として自らに問うたときにも。


「親子」の関係性の問題を、当事者の「親子」にのみ引き受けさせてはならない。引き受けることできないのが「親子」の関係性の必然であり、悲喜まみえた、人間の意識の拘束である。


「滅茶苦茶な話」というなら。「親子」の関係性の問題を一般論に拠って処理することがそもそも「滅茶苦茶な話」ではある。そして、社会は一般論を生きるよう人に要請するから、人は一般論に則って関係性を処理する。プライベートな関係性であれ。かくて「家族」という一般性とそれに還元された「家族間の愛情」が構成される。斯様な一般論の汎用性を、私圏の関係性において人は適用する。


「親子の愛情」とは、「親子」とは、近代の一般性に還元された形式であり、ひいては制度としての任意の規範を形成する。かかる形式に制度に価値がないとも、「愛情」において括弧を外した愛が所在しないとも、私は考えない。とあるオムニバス映画の台詞にあったが、愛とは胸の痛みである。規範を棄却し形式を介さない、剥き出しの愛がサスティナブルな関係性を構成するかと問うたとき、私の認識は悲観的であり保守的でもある。


胸の痛みが痛みであることにおいて形式と欺瞞を召喚する。胸の痛みが形式と欺瞞を排したとき、人がみな自身の胸の痛みに率直であるとき、JLGのカサヴェテスの美しい映画が生れる。が、サスティナブルな生を否定する彼らのテンションに拠って人は日常を生き得ない。日々の持続のために、「常なるもの」のために、人は信仰を求め「家族」を求めた。一族再会を。平安平安平安。


むろん。それは個人であるほかない人間にとって神経症の種である。「家族」は常なる形式であるからこそ感情の抑圧として機能する。ゆえに。壊れることは、私たちがどうしようもなく孤独であることは、世界の選択なのだろう。

 20歳過ぎたら、自己責任だという人は、おそらく大体の人は上のように真正面から答えるのではなく、当人のためにと答えをわざとズラしているのであろうが、それはある種危険な行為でもある。その「想い」(本当に「親の責任でなくお前だ」と主張したいのではなく、当人がこれからの人生を歩んでいけるようにいう想い。優しい人が自殺するのを止めるのに、「周りが迷惑する」と敢えて言うことで止めようとする手法と同じように)が、伝わればいいが、果たして本当に伝わるのかどうか。今も言ったが、優しい自殺者に対して「死んだら皆が泣くんだぞ。お前がどうこうじゃなくて、皆に迷惑だ。だから死ぬな」と言うのも、本当に「俺らが迷惑だからやめろ」と言ってるのではなく、とにかく「優しいあいつを引き止めるにはどうすればいいか」という問いから導き出された答えなのであろうが、しかしその「本当の想い」が、そんな錯乱中の当人に果たして伝わるのか否か。自殺者や、親のせいで人生狂ったと嘆く人間に、そんな想いを汲み取ってもらえるだろうか?


 そしてそれが汲み取ってもらえない場合、寧ろそういった種の呼びかけは最悪のケースを呼ぶことになりかねない。


 そういった心に余裕が無い人間は、それを「そのまま」受け取り、例えば自殺者ならば「俺は死んでさえも迷惑なのか。俺は死ぬことすらできないのか?俺はどうすればいいんだ?」と尚更錯乱するだけであろう。親のせいで人生狂ったと嘆く人間ならば、「じゃあ私が悪いのか?私は何もしていないのに」と益々自己を責め苦悩するばかりであろう。その言葉をかけた人たちは、おそらくは優しさゆえに、当人を救ってやろうというつもりゆえにその種の言葉を吐いているというところが皮肉で切ない。もう正常でない彼らは、優しさゆえに気持ちを汲み取るなんて事はできず、優しさゆえに自己を責めるほうへと進むだけである。お互い優しさが空回りし最悪の結果を呼びかねない。それは皮肉で悲しすぎる出来事だ。


仮定に仮定を重ねる文章、というか、すごいな。「本当の想い」とやらは錯乱中であろうとなかろうと伝わらない。生ありきとする「想い」は関係性を前提して構成される。責任はおろか関係性もなき他人が自殺者を止めるのは、「優しさ」ではなくて、まさに形式と制度と一般性の問題。そして。それが、大昔からの、人の人としての「責任」。


関係性あるなら。『海を飛ぶ夢』ではないが「俺が嫌だから死ぬな」と言える。むろんそれは「俺はおまえに責任が在る」でも「おまえは俺に責任が在る」でもない。「俺が嫌だから死ぬな」と告げようと人は「自己責任」に拠って死ぬが、関係性の所在を、ひいては関係性に規定された愛情の所在を、指し示すことはできる。当人に対してであれ、自分自身に対してであれ。他人に対してであれ。それを一般性への還元という。


「責任」とは、関係性なきときに召喚される一般性としての概念。還元の一環でしかない。「想い」にのみ拠ってこの世が回るなら、人はなぜ近代的な「家族」を欲するのだろうか。「本当の想い」なき「親子」という関係性の制度と形式の残骸に、一般性へと還元された「愛情」の欺瞞に、打ちのめされてなお。関係性が、最終的には一般性へと還元されないことを、他人に対して指し示し得ないものが在ることを、残骸の中に知るからだろう。ことに私圏においては。


「20歳を過ぎたら、もうそれはお前の責任なんだ」とは私は思わないが「30歳を過ぎたら」とは思わないでもない。増田、前提として、親しくもない他人のごく私的な愚痴に付き合える人が口にできる主張とは思う。 「親しくもない他人のごく私的な愚痴に付き合う」ことが、「引き受ける」ことの第一歩であり、最後の一歩であり、「責任」の意味であるから。


人としての「責任」を、病院とか警察とか行政とか「関係者」とか、システム的に制度化された一般性の顕現たる社会において、一般論のもと、当事者性と専門性へと全権委任することを、否とするなら、ね。制度を外し形式を外し一般性を排して「人として」付き合うことは、かつそこに「想い」を介在させることは、サスティナブルには、大変なこと。むろん、サスティナブルでなかろうとも構うことはない、が、増田の主張に拠るなら。責任なくとも、関係性ないからこそ、「責任」を「引き受ける」。それが私にとっての「他者と向き合う」ではある。良く実践しているかと問うなら誰しも微妙であろうが。


あってなきものがないことの「責任」は、形式にも制度にも一般性への還元にも所在しない。私はその点、ロマン主義者ではない、とかそういうことは措くとして、あってなきものをあらしめるためにこそ形式があり制度があり一般性への還元がある。「家族」「親子」という関係性の地獄においてこそ、プラトニズムを志向し規定し希求するのが、シェイクスピア的なロマン主義へと還元し得ない、人の普遍的な難儀であり厄介であるかも知れない。聖家族。


千年の夢―文人たちの愛と死〈下巻〉 (小学館文庫)

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