Human Factor


ここでhashigotan(笑)のステキコメントを復習してみよう

これじゃ悪の華も悪の魅力もあったもんじゃない。

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何も記さなかったといえ、ブクマした手前、応えておくべきことだろう。

2008年01月23日 b:id:takisawa  とりあえず、これまでのはしごたんを擁護、もしくは好意的に評価していた人たちは、現状のはしごたんについて如何なる評価を下しているのだろう。もし「おめでとう」とか言っているなら頭がどうかしている。

2008年01月23日 b:id:NOV1975 人間  たっきーが辛らつだが僕もそう思う。


「現状のはしごたんについて如何なる評価を下しているのだろう」――エヴァではあるまいし「おめでとう」とは思わないが、普通に、良かったですね、と思った自らについては、少しばかり考えた。私には何が欠如しているのだろうと。


犬身

犬身


前提の問題、であるかも知れない。私自身は、セックスを欲する、自身の実存においてセックスを希求する、という発想がないしわからない。『犬身』をめぐる著者松浦理英子星野智幸の『小説トリッパー』誌上における対談から言葉を引くなら、私は性器至上主義者でも性行為至上主義者でもない。というか、わからない。「挿入趣味」が一切ない。それを歓びとも自尊心とも人の尊厳とも思わない。ジャック・ケッチャムを普通にエロ本として読んでいる。むろん、素晴らしい小説とも思うが。


性行為が幸福なものとは経験的に考えたことがない、性行為が孤独を埋めるとは経験的に考えたことがない、誰しも同様、と考えていた。今も考えている。飲酒は気分が良いことなのだろうが、私は酒も酔っ払うことも好きでない、ゆえに、他人と飲む機会なくして酒を求めることはない。他人と飲むなら愉しい。そういうことであるならわかるし、ゆえに求められれば応えた。機能していた頃は。そのこと自体の何が愉しいのか、わかる日は来なかった。


他人が私のようには考えていないことを知って、昔はよく驚いた。他人を歓ばせるセックス、とか、私には意味がわからない。セックスとはコミュニケーション、といった類の決まり文句がある、言葉はわかるが、私にはわからない、とは昔書いた。貴方と合体したい、と人は時に思うことがある、そのことを、私は別の惑星の話のように眺める。そして私はセックスが好きな「振り」をやめた。昔むかし。義務感も責任意識も据え膳も知ったことか。


自分がこれまで他人に対して「付き合ってください」と口にしたことがないことに、先日友人と話していて私は気が付いた。「付き合う」とはどういうことか、概念がわからない。惚れたことはある、が、そのことと「付き合う」が一致しない。向こうがそのつもりであった、とか、そういうことはある。「好きな人」はいる、その一環としてセックスがあることはわかる、が。


初めてが10代で一期一会ばかりだったせいもあるだろうか。私は。かくも望むならセックスしたほうがよいとは思った。踏み込まぬよう自ら能う限り線を引いたのは、他人の私的な人生に干渉するべきではない、という原則の以前に、物理的に私自身が応え得ないからだった。口だけ出してどうする、とは思った。責任云々の何が要点かわからない。本人の、実存を賭けたごく私的な選択であり決断であり希望であり人生だろう。自己決定の能力なき禁治産者と見なしたことはないと私は再三言っている。むろん、傍から経験則に拠って、あるいは一般論として、言えることはある。


エントリに示された「Aさん」の行動について私が思うことはある、そしてそれは「妥当」な経験的感想とさして変わるところない。ただ。「Aさん」に対して責任云々を傍から問うている人の発想はわからない。素で思うのだが。色恋沙汰において責任取るとはどのようなことだろう。発つ鳥は後を濁す。承知のうえでなお、人は他人に惚れ、他人に踏み込み、他人を抱く。愛のないセックスが糞とは私はまったく思わないが、当方そのつもりでも、という「つもり」の不一致はある。というか、よく知る。だから。人は「愛のないセックス」を多く金銭に拠り処理するのだろう。道徳は措き「リスク管理」の見地から。


仮定の話。「Aさん」に何かが起こったとして「同情」する人は少ないだろう。本人にその認識は在る。同情御免とも言明している。男女の仲とは当事者間のリアリティ以外の何物でもない。


セックスするしか契機はない、と実存において信じていた人が、セックスにより契機を得た、と実存において考えているなら、良かったですね、以外に私の感想はない。実際。主観と心理と実存の問題に過ぎなかろうと、契機がなきこと、虚偽とも言えない、と私は考えていた。主観と心理と実存の問題である限りにおいて、客観と倫理と構造の解を示したところで意味がない。すなわち、一般論は意味がない。むろんメディケーションは一般論ではない。オブセッションの解法が他に所在したろう、とは言える、が。


自己拘束は自己拘束である限りにおいて自らが解かんと意思し自ら解く以外にない、他人が「解いてあげる」ものでもないし、構造に準拠して解かれるものでもない。そのことが、「本人にとっての」問題の要諦である。誑かされた、とかそういう話ではない。少なくとも他人が言挙げることではない。


当人が、自身の自己拘束を自己拘束と知り、自己拘束である限りにおいて他人に任せたとして詮無きと認識し、自助努力に拠って自らの自己拘束を解かんと意志することを、そして、手段や経緯はどうあれ、自らの意志と思考と行動に拠り解いたことを、解いたと本人が認識することを、そのことを「誇示する」ことを、いかに判断するか、と問うたとき、良かったですね、以外に私の感想はない。


規約は措き。インターネットにおいてセックスの相手を募集しようが、インターネットにおいてセックスの報告をテキスト化してアップしようが、いかなる問題か、とは私は一貫して考えている。業者が絡んでいるわけでもなし。ゆえに。本人が望んでいたセックスのその報告に対して、良かったですね、という意を込めて何も記さずブックマークした。


かくて。一切は、発端にして起点たる『ある個人史の終焉』と 『「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろ』へと還る。増田から。

id:hashigotanが幸せを感じることは何の問題もないし、それをブログに書いたって何の問題もない。


id:idiotapeがそうしたってなんの問題もなかったのと同じように。


「何の問題もない」「なんの問題もなかった」のはその通り。私の基本的な立場は一貫している。個々人の幸不幸は個別であり、一般性を排して、個において問われるべき。「子供が生まれて感動した」「おめでとう!」は社会的な儀礼。「少しも考えていない」人があるなら「少しは考えろ」と指摘されて然るべき。いうまでもなく。『ある個人史の終焉』の筆者氏は、考えていない人では、まったくなかった。楽しく拝読していた私は、そのことは断言する。だから悲しい、と記したし、いまなお思う。


『「初めてセックスして感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろ』とは、改変に拠り、言える。ところで。誰が「おめでとう!」と言っているか。ブクマを眺めても見つけられない。誰しも「おめでとう!」とは公言し得ないのだろう。『ある個人史の終焉』における「子供が産まれて感動した(実際には産まれていない。hashigotanは本文を読んでいない)」「おめでとう!」とは相違して。むろん。コンテクストが在り経緯が在り、本文内容が在る。


なんの問題があったか、と問うなら、「おめでとう!」にこそ「問題」が所在した。「おめでとう!」の何が問題か。事象は、問題と見なす人の言挙げにより「問題」として成立する。hashigotanの「初めてセックスして感動した」を「問題」と見なし言挙げる人が在るように。


強引に一般性へと還元するなら易い。「子供が生まれて感動した」にも「初めてセックスして感動した」にも「おめでとう!」は、社会的な儀礼として、程々にしておけ、と。「子供が生まれて感動した」も「初めてセックスして感動した」も、素晴らしいことではないか、個人の幸福という観点からも、リプロダクションの見地からも。私にはよくわからないことであるが。


斯様な、「私にはよくわからないことであるが」という、hashigotanの問題意識と問題提起に対して「共感」ならず「共鳴」する人が、多く在った。


hashigotanの言挙げ=問題化=問題提起に対して、「無気力」になる側の問題、あるいは「hashigotanという人」のパーソナリティ/メンタリティの問題、と不適切な還元を示す人が在ったゆえ、換言するなら、妬み僻みと見なす人が在ったゆえ、私は言及記事を記した。


当時。マジョリティ/マイノリティという区別に対する指摘を幾つも頂いた。目を通して、所謂「弱者権力」的な話のことだろうか、と思った。最初から「差別」の問題でないことは言うまでもない。というか。「差別」の問題であったならかくも混線しなかったろう。


端的に。妬み僻みと示す指摘が多く在った、ということ。換言するなら。『「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろ』を、多数派的な通念に則って処理する言辞が所在した。ゆえに「文学」という言挙げが示された。福田恒存の『一匹と九十九匹と』ではないが。念の為に明記しておくけれども、マジョリティ/マイノリティとは強者/弱者の謂ではまったくない。


人は――少なくとも私は――hashigotanが「可哀相な人」「気の毒な人」であるから「擁護」していたのではない。まして「被差別者」とは。マイノリティが、すなわち、「多数派的な通念」において無視され否とされ隠蔽され表沙汰にしたなら排除される世界観や価値観が、それを主張する「一匹」が、言論において「表現」において、擁護されて然るべき、とは考える。


彼の人の言論が、公的な言説において、明確に偏向していた、任意のバイアスに規定されていた、ことは、いうまでもない。バイアスの所在は誰もが知った。バイアスの由来は当人の過去と現在に在った。ゆえに。バイアスは実存に及び分かち難かった。


彼の人の言論と対するとき、その誰の目にも瞭然な、かつ本人が自ら示す、バイアスとその由来を、捨象することは難く、誰しも対峙を迫られた。ゆえに。任意の個の生と幸不幸と、任意の個の生と幸不幸との、対峙の構図が描かれる。時に対立的な。『ある個人史の終焉』の筆者氏に限られたことではない。私は、少なくとも対立の構図には関心がなかった。私の話を、あるいは私の知る他人の話を、示したところで何になるだろう。


バイアスの所在を捨象するか。言論におけるバイアスの所在を指摘し批判するか。言論がバイアスに規定されることそれ自体を批判するか。バイアスに規定される実存をこそその個人的な由来に及んで非難するか。私は、由来に及ぶべきではないと一貫して考えている。バイアスの所在を捨象して論駁した人もあったし、由来とはかかわりなきことと、言論におけるバイアスの所在を、ひいては言論がバイアスに規定されることをこそ、批判した人もあった。立場であり見識であると、まったく皮肉でなく思う。ゆえに。私は私の立場に立った。「バイアスの所在」を「公的な問題」とした。個々人の意識へと及ぶ「社会構造」の問題として、また、「バイアス」の、一般性へと還元し得ない個にとっての意味について。


hashigotanにとっての「バイアス」が、その言論を起動し駆動せしめ、かつ「はてな」において公的な言説を作動させた。hashigotanはそのことに意識的であり、ゆえに自ら「バイアス」の所在をその由来を指し示し、再三自己を、公的に規定した。私もそのことに幾許か「加担」したのだろう。私にとっては。一切は「バイアスの所在」とその個別性の問題、であり、一般性へと換言し得ない個々の個別の「バイアス」が、すなわち人生観が、個々の生において、その幸不幸において、インターネットのフラット性ゆえに、遭遇し交錯し直交して衝突することの、やりきれなくもある相だった。


なので。


はしごたんへ


こういう話にまったく関心が持てない。

こんな贅沢な承認を世の中の当たり前のように存在するカップル達はいつもいつも味わっているなんて… ひどいこんなの残酷すぎる。こんなシアワセをいつもいつも?


そのシアワセを得るために一生懸命努力してるんです。貴女みたいに世の中の批判をして現実から逃げているのではなく、いやな現実とも向き合って努力しているから承認してくれる他人が現れるんです。そんな努力をしていないくせに他人を非難するのはやめてください。


セックスとは承認なのか、というところから私の話は始まるので。いつもいつもシアワセと思えなかったことの残酷というものも在るのだけれども、そういう話がhashigotanに資するだろうか。意味があることだろうか。私のような男は幾らも在る。ま、一般論はやめてください。それと。努力の形は人それぞれ。生に対する最適化の相も人それぞれ。死ね、と言っているなら話は別ですよ、黙れ、とかね。存在が不愉快だ、と公言し合える自由な世界は素晴らしい。

2008年01月23日 b:id:mahal blog, sbm  id:kurokuragawa氏が正解。この点、つーか「自分だけの幸福追求」という点において、はしご氏は北極点のごとく不動。


2008年01月23日 b:id:kurokuragawa 人間  「自分が大事な人」ということでは何も変わってない

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080122215038


私も同意。hashigotanにとっては自身の「バイアス」こそが最優先の実存課題であり、ほかのことにはほぼ関心がない。特に現在は。「公的な言説」についても、ひいては「発言の責任」についても。「自分が大事な人」が他人の「大事」を毀損したとき、人は憤激するし、現に本人は十二分に憤激を買っている。個人の倫理課題としての「公正」の問題は、ひいては恋愛における個人の葛藤は、人を分け隔てることに対する痛みの意識は、セックスと愛情/友愛との、すなわち存在の位相と関係の位相との相克は、憤激の在処から生じる。hashigotanはそれどころではない。あるいは誰しもそれどころではない。拘る者は拘ればよい。私のように。


hashigotanが一貫して拘泥し続けてきたのは、自身における「バイアス」の所在とその由来、すなわち、自身の現在と過去であった。実存問題であった。関係の位相は措かれている、が。過去は変え難いが、現在は変え得る。彼の人は、自ら変えんと意志し思考し行動した。結果、自身における「バイアスの所在」に対して、ひいては自身の現在に対して、一定の更新を画した。少なくとも本人はかく記している。

2008年01月22日 b:id:hashigotan 被言及*  何ヶ月か前の俺の心中みたいなことを言ってるなこの人・・ 俺もそうゆう長い苦悩の時期があって、それを乗り越えて今があるんだよ。それは多くの人とのつながりとの中で生まれた結晶でもある。lstyさんのブコメに同意

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080110191417


かくて。ネットワーカーとしてのブロガーとしての「hashigotan」「ゆがんだはしご」は、言論者としての自己同一性を更新する。「バイアス」の所在が、彼の人の実存を、自己同一的な個を、そのように言って言い過ぎなら、インターネットにおける言論者としての自己同一性を、規定していた。認知も認識もされていた。今後のことはわからない。おそらく本人自身にも。ネットの言論者としても、ひとりの個としても。確かに。「敬礼」を示すタイミングであるかも知れない。しかし。


そのことが、慶賀すべきことでなくて何だろう。「長い苦悩の時期があって、それを乗り越えて今がある」と本人が記す。慶賀して応対する以外の発想を、私は知らない。何を言うこともない。公的な「発言の責任」を誰が取るのか、尻拭いを誰が引き受けるのか、それは知らない。少なくとも。憤激は、禍根は、怨嗟は、デリートも更新もされているはずがない。そのことから生じる倫理課題を、人は誰しもいつか引き受ける羽目に陥るだろうと、私は信じてはいる。「因果応報」の話ではない。


先程の増田から。

それから愛されてもいないのに愛を語るのはやめてください。反吐が出ます。どんなに言い繕ってもあなたがきつねこさんから受けた扱いは最低の扱いです。セックスを語るのには充分な経験ですが、愛を語るには不十分です。


愛と言葉にした途端に愛は遠ざかっていくもの。愛とは胸の痛み。自分以外の人間に対する自身の胸の痛み。「自分が大事な人」が、そのことを切実に知った。任意の他人を「男」として切実に欲した。愛は多く負の相として現れ、ゆえに尊い。志向し獲得したセックスを介して、他人に対する自身の胸の痛みを切実に知った人が、ゆえに葛藤する人が、愛を語るに不十分か。性関係において、相互に愛し愛されることのなかった人は愛を語るには不十分であるか。

気持ち悪いよ。


そのような発想をこそ、私は一貫して、否としてきたな。

id:hashigotanが幸せを感じることは何の問題もないし、それをブログに書いたって何の問題もない。


id:idiotapeがそうしたってなんの問題もなかったのと同じように。


仰る通り。凡庸な人間が凡庸な不幸と幸福を得て凡庸な価値観を口にして何が問題だろう。凡庸であることすら許されない、と、彼の人は実存において葛藤し苦悩し続けていたのだから。思い上がり?しかしそれが本人にとっての現実であり真実であった。視野狭窄?これまでも散々指摘されてきたことだろう。本人は理由を再三記している。


『ある個人史の終焉』に記されたように。任意の性愛にまつわる事象を契機として、筆者にとっての現実と真実が一定の更新を画したとき、画したことが劇的に記されてあったとき、貴方にとってよりよき現実と真実でありますように、と、儀礼として言葉を掛けることを――言葉を掛けるなら――私は選択する。『ある個人史の終焉』に対して、多くの人がかく言葉を掛けたように。それは。正誤を問うなら、正しいこと。正誤を問うなら、であるが。