b:id:me-can-say-jinさんへ


幾度もブックマークのうえコメントしてくださっている。言っていることも私なりにわかるので、補足的に。手短かつ端的に。

2008年01月25日 b:id:me-can-say-jin  毎回よくもまあここまで長く遠回しに「価値判断はしたくない」って書けるなあ。

はてなブックマーク - Human Factor - 地を這う難破船


当ブログの仕様です。1年半は前から言われ続けていることです。価値判断を示すべし、と問い詰められたことも幾度か在る。私は、政治的なスタンスを問われたら、右曲がりとは答えますが、そしてそれは事実ですが、便宜としての対外的な自己規定であって、そのようなことは議論の前提として問われるべきことではない、と考えていること、いまも変わりなかったりします。で。


me-can-say-jinさんの「価値判断」もまたよくわからなかったりするので――つまり、価値判断を留保することに対して如何に考えているかがわからないので――単なる感想なのか私的なメモなのか批判なのか皮肉なのかわかりかねますが。ダイアリーは拝見しました。


議論の前提において価値判断をクリアに示すべき、と考えますか。もし、そうであるなら。私はそのようには考えないのです。私は。山形浩生蓮實重彦評から言葉を引くなら、手っ取り早い結論は諸悪の根源である、と考えているので。ことに価値的なそれは。私はかく言ってよいなら価値相対主義者ですが、価値自由を無前提に是としているのではない。さもなくば、このことにかくもコミットしなかったでしょう。そもそも。このことについて価値相対主義的な見解は成立しなかった。


私は。人間とその行動と傾向と対策に対して、個人としての価値判断を公的には容易に示し得ないと考えます。経験則であろうと。むろん私において経験則は所在します、が、汎用性が在るとは考えない、ということです。自身の経験的な価値判断に対して、自己ならざるものの個別のコンテクストを、公的な言論において優先させる、ということです。


学問的/医学的な議論は汎用と普遍を前提します。メディケーションを軽んじているのではまったくない。そして。そのことが個別のコンテクストにおいて如何に反映されるか。問われるべきはそのこと。これは普遍的な課題です。精神医療は個別のコンテクストに始まり終わります。原則は前提です。


私は、このことについて、経験的かつ価値的な判断の限界を指摘している。個々人の経験的かつ価値的な判断の範疇から私見を述べて、どうするのだろう、とは一貫して考えています。他人の「不幸」の開示に対して、自身の「不幸」を開示することは、少なくとも合理性に準拠した行動ではない。合理の議論ではないということです。原則とその侵犯、という枠組において決済するなら易いです。「誰が悪いか」も。


発言も相互言及もブログ閉鎖も発言内容に対する相互的な指摘も自由です。で、最初からそういう話ではないからこういうことになった。価値判断、と記されますが、ヴェーバーに及んで言うなら、神々の闘争としての価値自由に準拠した相対化の範疇の議論ではありません、最初から。価値自由に拠り相対化し得る議論ではない。私は一貫してそのことを言っているけれども。


生老病死は、性愛は、相対化し得ません。一般化もし得ません。一般化されなかったからこそ。誰しも「おめでとう」とは言えなかった。同じでない個別のことを同じこととして処理するとき、相対化と一般化の契機が生じます。自分がされて嫌なことは他人にするな、と、他人の立場に立って考えろ、は、全然違います。私が記してきたのはそのことです。アイロニカルな記述の度が過ぎるかとは我ながら思いますが。

強引に一般性へと還元するなら易い。「子供が生まれて感動した」にも「初めてセックスして感動した」にも「おめでとう!」は、社会的な儀礼として、程々にしておけ、と。「子供が生まれて感動した」も「初めてセックスして感動した」も、素晴らしいことではないか、個人の幸福という観点からも、リプロダクションの見地からも。私にはよくわからないことであるが。

Human Factor - 地を這う難破船


『「子供が生まれて感動した」も「初めてセックスして感動した」も、素晴らしいことではないか、個人の幸福という観点からも、リプロダクションの見地からも。』――そういうことではない、というのが私の「価値判断」です。再三言っていることです。「私にはよくわからないことであるが」と示すことの普遍的な意味、ということです。


「価値判断はしたくない」――か。個別の文脈を周知してなお価値判断することの困難は、在ります。me-can-say-jinさんが付してくださった他なるブコメを参照しますが。

2008年01月14日 b:id:me-can-say-jin  韓国人と話したんだが彼らは「ごめんね」<「もうしない」という意思表示を期待してた。先方だって世代交代してるし「もうしない」にこんな持って回った話は必要なのか…

はてなブックマーク - 「ローゼンメイデン問題」/終わらない近代の「国家」と「民族」 - 地を這う難破船


私が応えるなら。必要ですよ。「もうしない」のためにも。日本人の民族性は知らないけれども、戦前戦後を貫く、近代日本の国内文脈は所在します。政治的にも、言論的にも、文化的にも。現在に及んで。当該のエントリについて言うなら。所謂「イデオロギー・フリー」言説も、「メタ・イデオロギー」言説も、「シニシズムの蔓延」も、それらと表裏にある嫌韓の流行も、「美しい国」も、南京事件慰安婦問題をめぐる国内的な混乱と国際的な批判も、斯様な現在に及ぶ近代日本の国内文脈と、密接かつ直接に、かかわっている。ちなみに、忘却は悪です。


「もうしない」のために、「過去の事情」を知ることは、考察と分析は、「持って回った話」は、必要です。歴史は反復するから、とかそういうことは措くとして。――というか。他の人に指摘されている通り、私の議論は滅法雑で大雑把です。


私は「現在の価値観で過去を裁く」云々に関心はないけれども、過去を知らない人に対しては意味のある指摘と思う。「価値判断」は、その後のことです。近代における民族を単位とする虐殺に対しても、近代における国家を単位とする女性に対する性暴力に対しても、「再帰的」なる近代に生きる私たちは、常に反省的であるべき、という「価値判断」は所在します、が。――それで、という話です、一切は。


民族を単位とする虐殺が国家を単位とする性暴力が、世界に存在し遍在する限りにおいて、「再帰的」なる近代先進国社会は、現在へと及ぶ近代の負債に対して反省的であり続けよ、という定言命令に規定される。なぜか。理性を正義を公正を近代社会に生きる私たちが信じるためです。80年代を90年代を経た「合理的社会」においてなお、普遍を私たちが志向するためです。およそ前提的に。そして。


理性を正義を公正を、普遍志向を、個別のコンテクストへと反映させたとき、齟齬が、軋轢が、内的混乱が、痛みが、生じるからこそ、そのことを調停するためにこそ、私たちは合理性に規定された社会においてなお超越性の相としての非合理の所在を要請する。たとえば。人生、とか、出会いの意味、とか、この世界に生れてくる子らへ、とか、あるいは、この世界に生れてくることのかなわなかった子らへ、と。ゆえに、私はドストエフスキーの小説を愛する。あるいはチェーホフの作品を。


私は「特定の信仰」を持たないが、一貫してそのように考えている。価値自由の話では、神々の闘争の話では、ありません。少なくとも、このことは。大仰に言うなら。近代の臨界点と接する話。


過去記事から⇒法治主義の外側で - 地を這う難破船


斯様な事例に対して、「私刑は認められない」と示せばそれは価値判断になるでしょう、あるいは「私刑やむなし」と示せばそれは価値判断になるでしょう。それで話が済むなら、私は長文をいちいち書きません。当該の事例がそうであったように、「それで話が済む」とは、むろん考えていないためです。済んだことが、これまでに在ったか。それが。『地を這う難破船』を更新する、sk-44の仕様です。


――率直な突っ込みに感謝します。