デモクラシーの権力.「反テクノクラシー」の権力


http://www.asahi.com/politics/update/0127/TKY200801270107.html

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080127-00000946-san-pol

 橋下さんの当選で、大阪府に故横山ノック知事に続くタレント知事が誕生することになった。ただ、60歳を過ぎて知事になったノック氏と違い、全国最年少の30代後半。ノック氏は府職員の人望が厚く、自らは「素人」として実務は任せ、広告塔の役割に徹した。若い橋下さんがどう職員を指揮していくか不透明だが、「職員に汗をかいてもらう」「役人をけちらす」などと発言しており、府職員は戦々恐々としている。


当選するべくして当選したのだろう。選出されるべくして選出されたのかは知らない。この乖離に石原慎太郎東国原英夫杉村太蔵藤川優里が入り込むからこそ、選出手続きの妥当と公正が制度論として問われ、組織選挙と動員の弊害が叫ばれ、民度云々が糺され、そして民主政は面白く意義深い。米大統領選挙予備選を眺めればわかるように。


出馬して当選したことが選出の正統性をイコールとして保証する。ゆえに。選挙制度は幾度も議論されてきた。当選したら選出されたことになるか、という諦めが、民主主義に対するペシミズムとシニシズムをもたらす。かつてルソーが原初的に感じたそれを。


橋下徹「まっとう勝負」

橋下徹「まっとう勝負」


偶々読んだ。橋下徹という人は、弁護士という専門性に準拠した職にありながら、徹底した「反テクノクラシー」の人である。それはおよそ、本人の実人生と結びついた信念と言ってよい。かつ、橋本氏は、日本の法曹の「テクノクラート性」に対して一貫して批判的である。なら「反権力」の人であるかというと、難しい。彼は日本の弁護士もまた総じて「テクノクラート」と見なしており、弁護士会をその権力性の現れと見なしているからだ。橋下氏が、日本における法曹の「テクノクラート意識」と彼が見なすもの、に対する反撥を以前から覚えていたことは、間違いない。上記書籍の刊行は2006年のことである。


テクノクラート - Wikipedia


法曹という存在を権力的な「テクノクラート」と見なす橋本氏は、その職能的な「正義」を「使命」を全うすることの「テクノクラート性」に、自身の反骨精神と反権力志向から、個人的な違和を覚える人だったのだろう。橋下氏は反エリーティズムの人であり、また反設計主義の人でもある。デカルト的な「理性」に対して懐疑的な人でもある。


橋下氏は「タレント弁護士」であることに躊躇なく、政治の世界に打って出ることに躊躇なかった。「テクノクラート」としての自身の意識を打ち棄て、一個の市民として在ることにまったく躊躇のない人だった。躊躇したのは、「タレント橋下徹」としての、各方面とのビジネスと義理と筋に対してである。


テクノクラート」であり続けることを否とした弁護士は、選挙期間中に、大阪府の「役人」のテクノクラート意識を批判した。橋下氏にとって「テクノクラート」のテクノクラート意識とは、ひいては専門家のテクノクラート性とは、悪しきエリーティズムと設計主義の化身であり、世間の常識と人間の生活と感情を軽んじる思い上がりである。


かくて。そのような人物が民主政における直接選挙のもと、大阪府の行政の長に選出され「テクノクラート組織」の頂点に立った。面白いことであるし、民主主義の適正な機能であり、存在の意義でもある。ルソーが思い描いただろうそれの。


むろん。かの懲戒請求騒動において明確化した、橋下氏の決定的な誤謬は、日本の弁護士を職能において「テクノクラート」と見なし、弁護士会を権力的なテクノクラート意識の現前と見なすスタンスにある。専門性と官僚制は相違する。現代において、国家に権力に体制に対立しうる専門性を、その法にかかわる専門性のゆえに、市民生活と対立しうる官僚的な権力の現れ、と橋下氏は見なす。


橋下氏は、法にかかわる専門性を官僚的な権力を構成しうるものと見なし、かつそれを否定している。法が市民生活へと還元されないとき彼は苛立ち、法に準拠することによって市民生活と対立しそれを害しうることをよしとする、専門家の高慢とエリート意識を、彼は唾棄する。市民生活の側に立ち「反テクノクラシー」であることにおいて、橋下氏の弁護士会批判も、「役人」批判も、変わるところはない。橋本氏の論理においては。むろん。転倒していると私は思う。が。


宮崎哲弥が橋下氏の問題意識を理解する理路は、よくわかる。


現代の大衆的な市民社会において、(ことに法にかかわる)専門性が権力として時に機能し、歴史空間のコモンセンスや、感情的/経験的基盤に、規定された市民生活と、時に対立することがある。『ナニワ金融道』において一目瞭然に周知されたその事実に対して、大阪出身の橋下氏が経験的に抱いた懐疑は、彼において軸を外すことがなかった。


法にかかわる専門家はその権力性に対して自覚的であれ、かつ、自身の「権力的」な専門性が、法治社会における力の源泉たるその専門知識が、市民生活に対して、如何に還元されうるかと問え、と。むろん。橋下氏が考える市民でありその生活である。それは「歴史空間のコモンセンスと感情的/経験的基盤」に鑑みて規範的である。たいへん「古風」に。古風な男、は私は嫌いではない、が。そして。


橋下氏の選択は、彼が示したスタンスは明確だった。橋下氏は決然と、歴史空間のコモンセンスと感情的/経験的基盤に規定された、彼が信じるところの市民生活の側に立った。指摘される通り、正しく橋本氏はポピュリストであり、反知性主義者であり、斯様な橋本氏が大阪府知事に選出される。当選するべくして当選する者しかいない。そして、当選するべくして当選することが選出の正統性を保証することが、素晴らしき民主主義のジレンマであり、かつてルソーが引き裂かれた民主政のアポリアであるかも知れない。一般意志の難しきよ。


ポピュリズム - Wikipedia