1月24日(日)午前11時  新宿駅南口で会いましょう


大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。私は元気です、というか多忙です。映画観る時間が取れない。なぜかといえば。


在特会が明日の日曜日の真っ昼間に新宿で臨時大会ののち国民大行進というのをやるそうでしてね。


http://www.zaitokukai.com/modules/news/article.php?storyid=322

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血沸き肉踊るのは結構なのですが、「勝手にやってろ」というわけにもいかないのが私の個人的な落とし前でして。新宿であるし。というわけで、転載です。


1月24日(日)午前11時 新宿駅南口出口です。私もいます。駆け付けたい方、あるいは在特会の言行に関心ある方は、いらしてみてください。

■あれがヘイトクライムだ! レイシストを通すな! 1.24緊急行動

http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-21.html

集  合:1月24日(日)午前11時〜 新宿駅南口出口

(集合場所は変更する可能性がありますので、当日まで「ヘイトスピーチに反対する会」のHPを注視してください)

行動予定:レイシズムに反対する街頭宣伝・フリースピーチを行います。

レイシスト在特会」の「ヘイトデモ」に対して言論・表現による抗議を呼びかけます)

呼びかけ:ヘイトスピーチに反対する会

http://livingtogether.blog91.fc2.com/

主  催:「レイシストを通すな!1.24緊急行動」実行委員会

連絡先:livingtogether09@gmail.com

*意見の相違を暴力で解決し、それを正当化してきたグループの参加を認めません。

ヘイトスピーチに反対する会 あれがヘイトクライムだ! レイシストを通すな! 1.24緊急行動


ところで。時間がないので本当に手短かつ超雑駁になるのですが。


どこまで落ちる「愛国者」の漢字力 - Transnational History

『どこまで落ちる「愛国者」の漢字力』で批判したもの - Transnational History

b:id:fujiyama3  もしかして西村修平氏は、この程度の漢字間違いはどうでもいいと思ってるのだろうか。日本語を大切にしない野郎ですね。

はてなブックマーク - どこまで落ちる「愛国者」の漢字力 - Transnational History


結論から申しますと、比喩ですが、彼らは自分が首から下げるプラカードを読んでいないのですよ。彼らにとって、外国人参政権も何もかも、ヘイトを主張するためのダシなので。すなわち、「我々国民」と「それ以外」を分断する線を引くためのダシなので。だから、「我々国民」の措定を帰結する土俵に、たとえそれが在特会の言行を批判するためのものであったとしても、乗るべきではない、というのが私の考えです。そして、そのような「我々国民」の措定を帰結する土俵として、現行の外国人参政権をめぐる議論はある。在特会が設定する土俵そのものとして。


95年、とある国際政治学者がオウム真理教事件について著した書物の中で、ナチスについて引いたうえで、およそ次のように書いていました。国家の奪取を目指したにもかかわらず、麻原も上祐も、ヒトラーゲッベルスの戦略的天才とは比べ物にならない杜撰さである、と。――そういう問題ではないだろう、と当時ですら私は思いました。


10代だった私はその以前に考えたことがある。ヒトラーゲッベルスはバカだったのか否か、と。ホロコーストの問題について、そのような土俵で考えることそれ自体が詮無い、というのが当時の私の結論で、今もそれは変わりません。知的で誠実なナチの小話ではないけれど、バカではなかったからなんだというのか。少なくともそれは、たとえば今回のような、反差別の抗議行動の軸とはなりえない。


バカであろうがなかろうが、殺戮者は殺戮者でしかなく、憎悪の扇動者は憎悪の扇動者でしかない。狡猾な戦略的天才であることはなんらそのことの免罪符にはならない。戦略的天才であることを理由に「見ろ!人がゴミのようだ!」とその戦略的天才であるらしい誰かが引き起こす殺戮に酔いしれ、殺し殺されるゴミであるしかない自分に酔いしれるのは、それは高校二年生の発想です。私は95年に高校二年生でしたが、流石にそれはなかった。


そして――この15年、そうした発想のフィクションはまことに多かったと思う。別にそれが良い悪いということではないけれど。何もかも不可能である中で、私たちに可能なことは、何もかも不可能な自分に酔いしれるだけ、ということか、あるいは決断主義か。新井英樹は、ポール・ニューマンの『暴力脱獄』を観て「主人公がどうして反抗するのかがわからない」と述べた「若い子」がいたことに衝撃を受けたと語っていました。


人間の尊厳という観念は、その社会における実現は、確かに困難ですが、その困難ゆえに社会など知ったことかと「殺し殺されるゴミでしかない私たち」と言い切ってしまうことは、なるほどそれよりずっと易しい。安易で安直です。そして言った本人は気持ちがいい。それを「どや顔」と言うのでしたか。言ってしまえば言った本人が気持ちいいだけの、それゆえに、それを言っちゃあおしまいよ、という事柄は、確かにある。別に自由主義を批判しているのではない。むろん、dj19さんがそのような「どや顔」をしているということでもありません。


ただ、在特会の中の人が自分の首から下げるプラカードの漢字を間違えるのは、バカだからでも保守失格だからでも愛国者失格だからでも日本人失格だからでもなく、むろん可哀相な人たちだからでもなく、彼らにとって言葉とは、誰かを脅し貶め威嚇し黙らせるための道具でしかないから。だから彼らは「血沸き肉踊る」もそうだが、何だって言う。「叩き出せ」とも「ゴキブリ」とも。そしてそれは、残念ながら歴史が証明しているように、道具が道具である限りにおいて、効果覿面に他者を殺傷する。現実に。


他者を殺傷するための効果覿面な道具を道具としてそれこそ戦略的に駆使する手合いに対して、戦略レベルの土俵に乗って、あるいは保守失格愛国者失格と、そのバカや不誠実をバカや不誠実として批判することは、詮無い行為だと私は思います。なぜならそれは、国民の意識の基準としてあるとされる「国語」に対する賢明や誠実の場所から、その逸脱者を批判する、言うなれば保守主義者の土俵そのものだからです。思うに、それは結局のところ、在特会のロジックと見分けが付かない。国民の意識の基準としてあるとされる「言葉」に対する誠実/不誠実が、世界的に現実の差別と抑圧と分断と殺戮と「民族浄化」を引き起こしてきた歴史を思えば。


国民の意識の基準というフィクショナルな観念に先はあるか。先がないことを知っているのが保守ですが、先がないことが、すなわちそのフィクショナルな観念の帰結が、現代においてなお現実の差別とそれに基づく暴力を引き起こすことには知らない振りをするのもまた保守です。自己批判ですが。


何が言いたいかというと。在特会の中の人は国民の意識の基準としてあるとされる「国語」など信じていないし、そのような「国語」に対する誠実などもっと信じていないし、自らが撒き散らす差別意識や憎悪さえ信じていない。国民の意識の基準というフィクショナルな観念をそもそも信じていない。むしろ信じていない自分自身を是とする。ゆえに不誠実ですが、その不誠実が現代の社会を生きる私たちにとって所与の条件としてあることこそ問題です――それをしてシニシズムと言いますが。シニシズムがもたらす暴力性が現実の差別を背景に剥き出しとなったのが現在です。


なぜなら彼らは、信じていないからこそ、あのように振舞えるし、そしてそのゆえにこそ、その差別と憎悪は燎原の火のごとく不信のデフレスパイラルとして社会に蔓延する。「誰かの差別と憎悪」として。「自分自身は信じていない差別と憎悪」として。それは、在特会と合わせ鏡どころか、在特会と同じことであると、「誰かの差別と憎悪」「自分自身は信じていない差別と憎悪」をダシにするクレバーな人々には伝えたい。もちろん自己批判を含みますが。


彼らがバカであるならば、貴方も同程度にバカであるし、彼らが賢明なら、貴方も同程度に賢明であるし、彼らが戦略的天才とやらであるならば、貴方も同程度に戦略的天才とやらである、と。というか、それこそがゲッベルスの振舞いであり、かつてのドイツ国民の振舞いでした。バカであろうと、賢明であろうと、戦略的天才とやらであろうと、ホロコーストは引き起こされた。いや、誰しもバカであることを拒もうとしたがゆえに、賢明であろうとしたがゆえに、戦略的に振舞おうとしたがゆえに、ホロコーストは引き起こされた。


不誠実であることに対する誠実、と言うと島田雅彦のような80年代的な話になりますが、ベタに在特会の「国語力」を云々するよりは、不誠実であることに開き直ることを不誠実に対する誠実と信じ込む/強弁する手合いを批判する方が、それこそ誠実な行為ではないかと私は思います。戦略以前の。


だから――「誰かの差別と憎悪」「自分自身は信じていない差別と憎悪」という土俵に乗るなら、それは在特会の乗っている土俵と同じです、とdj19さんにはお伝えしたいところです。何物も信じない自分のことは信じている人が世の中にはありふれている、とそういう話です。むろん、dj19さんがそうだと言っているのではまったくありません。


ともあれ、ブクマを拝見しましたが、dj19さんも、明日、新宿駅南口で会いましょう。待っています。