「対話」の地平は蜃気楼の彼方に


年の瀬なので――遅ればせながらかつ手短になるけれど、書いておく。


はてなブックマーク - macska dot org » 在特会と通じる性質を見せる「反在特会」の取り組みと、「上から目線のエセインテリ」

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mujige  「在特会をやっつけた、ばんざい!」なんて思っている人は少なくとも私が知る限り(特に直接の被害者側には)いない。ともかく集会が無事開けてほっとしているという程度ではないか。ネット上ではそう見えるのか?

はてなブックマーク - macska dot org » 日本の左翼や社会運動の問題点/不十分点を指摘するために、朝鮮学校に在特会が押し掛けた事件をネタに使ったつもりはなかったんだけれど、どうもそういう流れになってしまっている件について。

mujige  前田さんの集会報告の大半が会場警備の話に費やされたのは、それだけ在特会の妨害が激しく、その対策に追われていたから。流血覚悟の人も多かったのではないか。その緊迫した雰囲気は現場にいないと見えないかもね。

はてなブックマーク - macska dot org » しがらみも責任もないからこそ、言えることもある、という話/kgrさんへ


11月1日の朝鮮大学フェスタの際も、12月19日の緊急報告会の際も、駆け付けた私としては、怪我人も逮捕者も出なくてよかった、という感慨がすべてである。私はヘイトクライムをまったく歓迎しない。念の為に書いておくと、11月1日は言うまでもなく、12月19日の緊急報告会の際も、在特会の攻撃対象とされ、そして実際に襲撃された人々が参加し、登壇し、関わっていた。mujigeさんの見解に全面的に同意することを、一参加者の証言として私はここに明記しておく。


私は早くに馳せ参じて会場入りしていたが、一服して開演間際に戻ろうとすると、会場であるセミナールーム前のロビーで知人を見かけた。会場に入れなかったと言う。確認したところ、知り合いはいるかと尋ねたところいないと答えたので入れられなかった、そうするよりほかなかった、と。私の知り合いとわかって即入場無問題となった。知人は懇親会にも参加した。そういうことはあった。そうした「ソリッドな対応」(前田氏の言葉)については、前田朗氏も説明とお詫びを閉会時に仰っていた。即対応としてのその判断を原則論の立場から批判することは私はできない。


排外主義者と社会的少数者は「対話」できない。レイシストと被差別者は「対話」できない。レイピストと性犯罪被害者は「対話」できない。当たり前の前提と思っていたが、どうもそうではなかったらしく、日本社会の差別に対する認識の惨憺を改めて思い知った次第である。むろん、macskaさんのことを言っているのではまったくない。だから直リンもしなかった。


「対話」できないのが他者である。にもかかわらず「対話が大事」と「貴方」が信じるなら、「対話」の可能な地平を「貴方」自身が――「可能性」としてでしかないにせよ――目指すよりほかない。尊厳ある人間と相互に認め合うことによって。その合意によって。それをして反差別の旗幟と私は考えている。「対話」できない他者を排除することが「市民」の選択としてあったわけでは、少なくとも12月19日の緊急報告会はない。「対話」の不可能性において「こそ」、虐げられる者の傍らに立つことはできるし、そのことに意味はある。それが、あの集会の趣旨であり、反在特会の旗幟と、私は考えている。


「一般論として」だろうが――「批判は生産的か」と言った人がいた。その人のことは私は好きだが「貴方が生きていることは生産的か」と思わず言いそうになった。人は、生産的であるために生きているのではないし、生産的であるために何かを批判するのでも、生産的であるために声を上げるのでもない。人間として存在するために生きている。人間として存在するために声を上げる。人間として存在するために何かを批判する。そうせざるをえない人がある。それは、本人の性分の問題ではない。そして――私のことではない。


差別とは他者に対する存在の否定である。在特会がしているのはそれそのものである。そして、少なくともこの国では、社会的少数者は、人間として存在する、ただそれだけのことのために莫大な労苦と犠牲と屈辱を強いられる。尊厳ある人間として存在しようとしたとき、「日本社会」として存在する――すなわち「世間様」という名の――聳え立つ壁に阻まれ、計り知れない困難に直面する。


その、暴力そのものである壁の前に立ちすくみ、自明なものとして存在する労苦と犠牲と屈辱と困難のために、聳え立つ壁に対して口を噤み、あるいは声を上げることにも、そして人間として存在することにさえ、思い至らない人々がある。かかる理不尽な状況が現在進行形としてあるとき、「対話」も糞もない。差別構造とはそういうことである。それが、差別でなくして何であろうか。口を噤ませておいて「対話」を云々することが、「市民」の選択そのものとして、この美しい自由主義社会ではある。意識さえされずに。そしてインターネットでも。


そしてそのことを、すなわち社会的少数者が堪え忍んできた理不尽極まりない労苦と犠牲と屈辱と困難を、被抑圧者の「自己責任」へと転嫁するのが、在特会のロジックであり、付け加えるなら自衛論のテンプレートである。その言説は常に、壁の側にあり、差別構造という壁と一体化し、壁を補強し更新し、あるいは壁を自明に存在するものとして「自由な個人」からアウトソーシングし、結果的に、私たち自身を壁そのものと規定する――「日本国民」「自由主義社会の市民」という。


それは、主体性の剥奪と同時に、非の打ち所のない典型的な排外主義である。壁とは、差別構造そのもののことであり、「自由な個人」の無前提な措定と掲揚においてアウトソーシングされ、そのことによって現在も作動し続ける主体性の剥奪装置であり、社会的少数者に対する抑圧そのもののことなのだから。言うまでもなく、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチの話をしているのではない。


排外主義者と社会的少数者は「対話」できない。レイシストと被差別者は「対話」できない。レイピストと性犯罪被害者は「対話」できない。自らの存在を否定する者と、どうして対話できるだろうか。存在を否定しておいて、対話しようとはどういう了見だろうか。まして傍から「対話せよ」とは、どういう冗談だろうか。繰り返すがmacskaさんのことを言っているのではまったくない。そしてもう一点付け加えると、私自身の前記エントリに付されたコメントに対するレスでもまったくない。


歴史的な差別構造に依拠した、社会的少数者に対する存在の否定であるヘイトスピーチは、いかなる意味でも、当事者の耳に入れる意義を持たない。にもかかわらずヘイトスピーチが自由であるのが、この国の現在であり、そしてヘイトスピーチ規制に批判的な私の立場の帰結である。その帰結は、わかりきっていたことではあったが――8月以来、私にとっての認識が変化したことは違いない。三鷹での在特会の言行を目の当たりにして以来。


はてなブックマーク - BBCニュースフォーラムの見出し「同性愛者は処刑されるべきか?」にTwitterユーザが激怒 - みやきち日記


「同性愛者は処刑されるべきか?」という問いが論外であり、またその問いを検討することそれ自体が論外であるのは、近代人権思想を掲げる社会が誰の存在も否定しないことを至上命令とするからである。それをして寛容と言う。誰かの存在を否定する言行に対する「寛容」は、それは寛容とは言わない。少なくとも、リベラリズムの文脈に基づく限りにおいては。多文化主義と文化的多元主義の相違とは、そういうことなのだが。よって、再三書いてきた通り、私は原理的死刑廃止論者である。誰の存在も否定しないことに私は少なくとも賛成するので、サルトルの理論は好かないが、11月も先日も駆け付けたのだった。


朝鮮大フェスタの後日、人を介して、朝鮮大学の中の人の感謝の言葉をメールで頂いた。拝見して――私にとっては、単なる、行き掛かり上の個人的な、存在を否定しない/させないための瑣末な行動でしかないことが、当事者にかくも感謝されていることを知って、以前に否応なく関わった別件(ネット上のことではない)の際と同様、複雑な感慨を覚えた。日本に暮らす男性ジェンダーと親和的な日本人である私にとって在特会の問題は、いや外国人や社会的少数者の問題は、いつだってそのような複雑な感慨と共にある。


かかる私は「もはや保守とは言えないのではないか」(大意)と酒の席で常野さんに総括を迫られた突っ込まれたけれど、真面目に答えると、在特会の一連の言行に対して迅速な対抗行動を実施し、「排外主義を許さない」と在日の人々と共に緊急報告会を開き、在特会の攻撃に対して大事に至らぬよう集会の中止まで検討して、しかし予告された妨害を阻止して開催にまでこぎつける信念と行動力を持ち合わせた人々が、保守主義者にはいなかったということ、それがすべてである――私にとっては。


それもまた、わかりきったことではあったし、むろん保守とはそういうものではあるが、そしてそれは必ずしも否とされることではないと私は思うが(「行動する保守」が在特会に限らず全世界的に凡そごらんの有様になる以上)、しかし私は、「対話」の不可能性において、現在進行形で存在を否定されている、そしてずっと否定されてきた人の傍らに立つことが許されるとき、たとえそれが私自身の渡世と世界観に対するリグレットからの欺瞞であろうと、そのことに躊躇はない。この日本社会にあっては、私と被差別者である人々は立っている場所が違う――よって「対話」の地平などない――そのうえでなお。それが、「表現の自由」を私が主張してきた意味でもあり、落とし前でもあるから。


人は、たとえ「対話」が不可能であっても、人に応えたいと思うべきだと、すなわち、人が尊厳ある人間として存在するために、自由であるために、否応なく上げる叫びに応えたいと思うべきだと、私は自分自身については考えているし、それが私の言行の、些か能天気な原動力ではある。ネットでも、むろんリアルでも、渡世においても。