見果てぬ夢とハーモニー


どうして「差別する自由」とかそういう話になってるの……


tikani_nemuru_Mさんには申し訳ないけれど、kadotanimitsuruさんに対してそのように指摘することは、たぶん藁人形です。


私を含めて、どいつもこいつも、話を極端な方向に振るのもう禁止な。 表現の自由? そんなもん知るかぁ!!! ――逆ギレはさておき。


id:kadotanimitsuruにおける「表現の自由」 - 地下生活者の手遊び

表現の自由はサイコーだ! - 地下生活者の手遊び


私の方でも補足しますと。

b:id:T-3don メタブクマ, 議論  しかし、sk-44さんのエントリーを受けてなおこう言うブクマをつけるか、っていう前提がすっぽり抜け落ちているブクマが散見、いや結構見受けられるんだけど。これは国語の問題で済むのかな。

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T-3donさんにも申し訳ないけれど、私は、id:kadotanimitsuruさんは当然そう言うだろう、と思った。というか、もっと正面切って批判されるかと思った。見解立場が異なるのだから。ただ。kadotanimitsuruさんに対して改めて私の見解立場を申し上げるなら。

kadotanimitsuru 1984年, 差別 の自由こそが真の自由だよ。だからそれを(「個人の御勝手」に封じ込めた上で)温存しないと社会自体から自由が無くなる。全ての個人が漂白される。表現の自由は思考の自由。全ての個人にAKを! 互にF*CKと言い合う世界を!

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「「個人の御勝手」に封じ込める」ことがどのように可能か、という話です。私はヘイトスピーチの規制にも反対です。私の基本的な立場は、以前も書いたように「差別意識は顔に出すな」です。そして、kadotanimitsuruさんは決してそのようには考えない。これは批判ではない。見解立場の相違についての確認です。


私に言わせれば、差別意識を顔に出さないことのプロトコルとしての社会合意さえこの国にはない。そのことを是とされるのがkadotanimitsuruさんの見解立場と私は理解していますが、しかしその結果、差別意識はインターネットを舞台に延々垂れ流される。そのことで抑圧される、既に抑圧されている、散々抑圧されてきた者たちがいる。むろん「キモいオタク」もそうでした。男性ジェンダーの差別と抑圧にさらされてきた人々としての彼/彼女らもまた。


私は是としませんが――「差別もある明るい社会」とは、万人の万人に対する闘争として、あるいは被抑圧者のプロテストの武器として「差別」が存在する社会のことではありません。呉智英は「封建主義者」なので。全ての個人にAKを与えたところで一方的な虐殺が回避されるはずもなく、互にF*CKと言い合う世界で差別と抑圧から個人が解き放たれるわけでもない。その程度に、構造差別は強固です。そしてそのようなことは、kadotanimitsuruさんは百も承知と私は思っています。


kadotanimitsuruさんにとって「「個人の御勝手」に封じ込める」こととは、私たちが個人であるという合意のもと万人の万人に対する闘争として「差別」することが可能な「真の自由」を実現する、ということだと私は理解しています。そのとき「個人」は理念型として措定される。


確かに、表現の自由は思考の自由ですが、同時に、表現の自由は思考の表出とその相互的な検討の自由です。表出に際して相互的な検討から降りうることが「真の自由」なら、その自由は構造差別をなんら解体しない、と私などは考えますが、たぶんkadotanimitsuruさんにおいてはそうではない。「見解立場の相違」とはそのことです。差別意識を顔に出すことの自由が真の自由なら、私はその自由には乗れません。あまりにも形式的な議論に過ぎる。


表現の自由」は形式論では済まない、しかし、戦前以来の歴史的な法措定権力が現在の憲法理念と乖離していることがあきらかな社会においてはその限りではない。それが私の見解です。そして付け加えるなら、「基本的人権の範疇」として「表現の自由」を主張することと「「「個人の御勝手」に封じ込める」ことがどのように可能か」考えることは両立する――というのが私の見解です。


ただ、そのとき理念型として措定された「個人」を前提することはできない、というのが私の考えです。なぜなら、理念型として措定された「個人」を前提して「「個人の御勝手」に封じ込める」ことは実質的にトートロジーでしかなく、「どのように可能か」という議論にはなりえないからです。そのトートロジーをして「基本的人権の範疇」とkadotanimitsuruさんが再三主張しておられることは了解しています。「個人の自由」とはそのことである、と。それは、ひとつの見識と私は思います。


ただ、私はその見識には乗れません。「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」の主張が「「個人の御勝手」に封じ込める」ことではありえないことは明白だからです。莫迦莫迦なことを言うことが「個人の御勝手」で済ませられることならどれほど楽か。差別とは、莫迦莫迦なことを言うことが「個人の御勝手」で済ませられないことだから、問題です。ルワンダ虐殺の際のラジオDJがそうであったように。あるいは彼は莫迦ではなく、悪意をもってそうした。つまり、「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」の主張は、憎悪の扇動をなんら掣肘しない。


莫迦莫迦なことを言うことは個人の御勝手である――そう言って片付けられたらどれほど楽か。そうであるなら、この表現規制が公安マターとしてある、戦前以来の歴史的な法措定権力が現在の憲法理念と乖離していることがあきらかな国で、私も「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」を明確に主張するでしょう。しかしそうではない。それが、私の見解です。


そして繰り返しますが、私はヘイトスピーチ規制にさえ反対です。だからこうしてblogを書いている。莫迦莫迦なことを言うことは個人の御勝手である――少なくともこのインターネットにおいて、私がそのように片付けないのは、私自身の「御勝手」です。しかし、私が私自身の行動についてそう言えるのは、自らを被抑圧者の側と私自身が考えていないからです。


「「個人の御勝手」に封じ込める」こととは、理念型としての「個人」の措定において、自他の政治的/社会的身体とその決定的な非対称性を捨象することと同義です――形式的に。捨象することによって理念型としての「個人」が見出されるなら、あるいは、捨象することによってしか理念型としての「個人」が見出されないなら、私はそのような個人主義には乗れません。しかしkadotanimitsuruさんは、後述しますが、捨象することによって理念型としての「個人」を見出しているわけではない、と私は考えています。


だから、これはkadotanimitsuruさんに対する反論ではありませんが、私は保守主義的な個人主義者なので、理念型として措定された「個人」に基づく議論は、その捨象において自他の政治的/社会的身体とその決定的な非対称性を忘却することへしか行き着かないと考えるのです――kadotanimitsuruさんが、あるいは多くの「キモいオタク」が忘却していないとしても。だから――そのことをkadotanimitsuruさんの責とは私は必ずしも考えませんが――現在「差別する自由」とその是非という極端な話へと行き着いてしまっている。


差別とは、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性をもたらす権力関係において存在すること。そのような権力関係に対するプロテストが理念型としての「個人」の措定にのみよって贖われるか、私は悲観的です――それが「基本的人権の範疇」の意味であるとしても。制度としての権力関係は形式的に「解消」されるでしょう。しかし実際は。「解消」が事実上空論であるがゆえに、そして権力関係に対するプロテストさえ今なお困難であるがゆえに、「表現の自由」は形式論では済まない。それが私の見解立場です。その「実際」を、kadotanimitsuruさんが存じ上げない「お花畑」であるはずがない、私はそう考えています。


そして同時に――戦前以来の歴史的な法措定権力と現在の憲法理念との乖離があきらかな社会において、「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」は何度でも主張されて然るべき、と私は考えます。ややこしい話で、そのややこしさについてkadotanimitsuruさんは承知されていると私は考えています。そのうえで、見解立場の相違は存在しますが、しかし。


表現の自由」の旗幟に立つとき、それが結果的なことであるとしても、特定の誰かにシワを寄せてはならないし、寄せるべきでは決してない。その点において、私とkadotanimitsuruさんは見解を同じくしうると私は考えています。誰かにシワを寄せないための「表現の自由」に私は同意するものです。そして、それは規制をもってすることではないと私は考えます。以上もまた「妄想を投影」かも知れませんけれど。「莫迦莫迦なことを言うことは個人の御勝手である」として片付けることを私が是としないように、「差別に対する意識の問題」として片付けることも私は是としません。


権力関係において規定されているカテゴリーに即したレトリックに対しては、その政治的文脈について敏感であれ――ということは言えるでしょう。「獣は檻に」が予防拘禁論としてありうる、と一部で見なされたことも、権力関係において規定されているカテゴリーに伴う政治的文脈の問題としてあった。つまり、Francesco3さんが使用した表現に抑圧の政治的文脈を読み取った人がいた。


しかしその表現は、「男」「女」という主語において、鈍感な、あるいは確信犯の渡辺淳一が示した、既存の政治的文脈に即したカテゴリー間の搾取である言説に対するプロテストとしてあった。そのことは、たとえばhokusyuさんにせよApemanさんにせよ縷々説明しておられます。権力関係において規定されているカテゴリー間の搾取の問題である、と。言い換えるなら――「男」「女」という主語における――マジョリティとマイノリティの問題であると。


あるいは「男性ジェンダー」「キモいオタク」という、マジョリティとマイノリティの、権力関係において規定されているカテゴリー間の搾取の問題である、と。権力関係において規定されているカテゴリー間の搾取は、そのように、無数の主語の組み合わせと共に、無数に存在している。「自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性」は、まさにそのようにしてある。そしてそのことは、必ずしも法の問題ではないし、「法の下の平等」の形式的な実現によってのみ解体されることではない。付け加えるなら、この国における排外主義の主張がそうであるように、あるいは性産業従事者に対する差別がそのようなものとしてもあるように、形式的に実現される「法の下の平等」が時に誰かを排除する。


自由主義とはつまりそういうことですが――「法の下の平等」の形式的な実現によって「自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性」が解体されうると考えるなら。そのときどうするか。「「「個人の御勝手」に封じ込める」ことがどのように可能か」考えるとは、私にとってはそういうことです。言論において「表現の自由」の旗幟に立つとは、たぶんにそういうことです。解体など不可能、という話については、harutabeさんに対するレスの方で後述します。


自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性をもたらす既存の政治的文脈に即したカテゴリー間の搾取が差別である以上、それは、理念型として措定される「個人」を抑圧するものとしてしかありません。かかる抑圧に対抗するとき「「個人の御勝手」に封じ込める」ことをもってするなら、すなわち自他の政治的/社会的身体とその決定的な非対称性を捨象する形式論をもってするなら、自他の政治的/社会的身体の決定的な非対称性の捨象と、理念型として措定される「個人」の抑圧は、美しく結託するでしょう。それが、現在の状況です。「個人」という人権概念に裏打ちされたかけがえのない価値が実際にはきわめて困難である現在です。


私が「私たちが、男性でも女性でもなくマジョリティでもマイノリティでもなく構造差別の加担者でも犠牲者でもなく真に「個人」であることは、大変に困難なことです。あるいは不可能なことです」と書いたのは、そうした状況を指してのことです。個人主義者である私は、しかし、理念型としての「個人」を措定することの困難を、否応なく認識せざるをえません。kadotanimitsuruさんも、誰しもそうでしょうけれど。


私が個人主義者であるのは、人権概念に拠るものでも理念型としての「個人」の措定に拠るものでもない。端的に、ロバート・エヴァンスの言葉を借りるなら「人生という学校」を、私がそう考えて生きてきたからです。比喩ですが、クラスメイトを他者と考え、その人間としての尊重を自明として私が生きてきたからです。


そしてたぶん、kadotanimitsuruさんにとっての個人主義も、あるいは多くの「キモいオタク」にとっての個人主義も、そのようなものとして存在するのであって、形式的な空論によって贖われてきたものでは根本的にない、と、私は勝手に考えています。そして再三になりますが、「基本的人権の範疇」としての「表現の自由」の主張はされてされすぎることはない。私がtikani_nemuru_Mさんと交わしてきたのは、「表現の自由」の価値のありようをめぐる意見交換でした。


tikani_nemuru_Mさんのエントリに対して、一点だけ、どうしても申し上げたいことがあったので。

で、リンクしたエントリの趣旨は、

  • 差別というものがまったくない理想状態では、表現の自由は完全に認められる。

であり、ブクマコメで「理想状態での表現はグロげちゃになると思う」と確かに発言していますにゃ。

もちろん、ここでのキモは「差別というものがまったくない理想状態」というファンタジーな前提だにゃ。言い換えれば、自由と個人が万人において確立している理想状態にゃんね。

こういうありえにゃー状態を前提としてなら、表現はなんでもアリで、げろげろグチャグチャ多いに結構。なんでも陵辱し放題やり放題。ここにはニンゲンの自由を阻害する「差別」がにゃーので、Everything is gonna be alright !

表現の自由はサイコーだ! - 地下生活者の手遊び


表現の自由が完全に認められる、差別というものがまったくない理想状態での表現は、決してグロげちゃにはならないことを私は確信しています。そのことの是非は措くとしても、また、「だからこそ「差別もある明るい社会」を!」という話は採らないとしても。kadotanimitsuruさんが言われているのはそういうことです。大いに結構も何も、そのような理想状態においては、自由な表現は、決してグロげちゃにはならないでしょう。そのことをこそ否とするのが、たとえばkadotanimitsuruさんです。それは、ひとつの立場であり、見解であり、見識です。


人が差別され抑圧されているとき、自由主義社会では、グロげちゃな表現が咲き誇る。グロげちゃな表現が咲き誇るために差別や抑圧が温存されるべき、と言っているのではもちろんありません。社会において差別され抑圧されている人々が表現のグロげちゃを目指し実現することの意味が、自由主義社会における「基本的人権の範疇」である「表現の自由」の意味でもある、ということです。その結果としてある日本の「オタク文化」が、時に差別的であり暴力的であったとしても。そのことが、既存の構造差別と結託して新たな差別と抑圧を生み出しているとしても。再三になりますが、私はスターリンは嫌いです。むろん、このことについても是非はあります。私の立場は、複雑です。



Little my room on the Prairie - halt.

反吐が出そうか?それが正しい。今の俺のどや顔を想像して今すぐブラウザを閉じ便所に駆け込め。俺はモグラ獣人ではないし、ましてやアマゾンでもない。買いかぶるのは止めてくれ。


――私に言ってます? 「反吐が出そうか?」とかそれこそ私に対する買いかぶりです。というか、仰ることにほぼすべて同意なのですが。「差別意識は顔に出すな」が私の見解立場なので。「差別とパターナリズムと良き父性は境界なく連続している」というのもその通りと思います。「性別に関係なくみんな気軽にレイプできる社会」という言説を笑い飛ばしているわけでは私はない。


「風通しの良い社会」を私自身は必ずしも望みませんが、で、なぜharutabeさんは顰蹙承知で顰蹙を買うことを書いておられるのですか。少なくともこのインターネットにおいて「風通しの良い社会」を目指してされていることと勝手に思っていました――いや、皮肉ではなく。私が「いつも真顔で冗談言う」なら、harutabeさんは「いつも冗談の振りして真摯なことを言う」だと私は勝手に思っています。

「真に獣であれば檻に入れてよい」という命題が俺を激発させるのは、たとえ「その能力(<責任能力>(のようなもの))を明確に欠く存在」であっても未然に檻に入れるわけにはいかない、と俺は信ずるけれども、それは世間一般において自明ではあるまい、とも考えるから。安田好弘の弁護を批判した人がいた。被害者の人権はどうなるのか。無論どうにもならない。そもそも刑法は被害者を救済するためのシステムではないし、それを担って然るべき世間様は、俺は、被害者を肴に酒を飲み思う様陵辱する。俺はマジョリティの皮をかぶりマジョリティの輪の内側で俯いてヘラヘラ笑いながら生きてゆく。石を投げながら。いつまでも続きはすまい。やがて俺もまた殺されるだろう。


まったく同意です。『マイノリティ・リポート』を観て、というかディックの一連の小説を読んで、これこそ目指すべき未来と言う人はあまりいないと思いますが。

もう自由だの権利だの尊厳だのいい加減聞き飽きたんだよ。領主が領民をボコボコぶっ殺して白人が黒人をモリモリ狩り集めて官憲が被疑者をガシガシぶん殴ってた時代に見果てぬ夢として書かれた言説を現代っ子が字義通り受け取ってああだこうだ、全くお笑い種だ。お前等だってどうせ端からそんなもん信じちゃいねえんだろ。その証拠にお前等同士全然話が通じてねえじゃねえか。誰かが自由とか権利とか尊厳とか言い出したらドン引きするべきなんだよ。


私も聞き飽きたし言い飽きています。ところで、現代っ子だろうと、見果てぬ夢は未だ見果てぬままなのです。私は自由意志など不可能と考えますが、そのことを鬼首で説く人にも呆れます。いや、harutabeさんのことではなく。「現代っ子」のことを文明人と言いますが、文明人のサバルタンに対する居直りくらいろくでもないものはないと私は思っています。それこそ差別そのものだからです。harutabeさんの実存が時にサバルタンとしてあることは了解しているつもりです――むろん皮肉ではありません。私を含めて、そのような引き裂かれ方は、普通に「現代っ子」の条件です。僭越な物言いであることは重々承知です。


「お前等だってどうせ端からそんなもん信じちゃいねえんだろ。」信じる信じないの問題なら、散々述べてきたことでわかる通り、信じていませんが。つまり、自明でないことを信じようとするときドグマが発生する――Midasさんはそのことをずっと言っています。で、自明でないことと、自由だの権利だの尊厳だのという近代の達成である諸価値を社会思想の根幹に置きその実現を指向すること、それを是とすることは、別の問題と保守的な私は考えますが。私は無政府主義者ではないし、ソマリアに住みたいとも思わないし、文化大革命にも賛成しないので。


そうですね、私は自由も権利も尊厳も端から信じていないのかも知れませんが、他者という存在に対する人間としての尊重は自明でした。それが「差別意識は顔に出すな」ということですが。それは、私の欲望と他者との性愛の決定的乖離という個人的経験の産物です。散々ドン引きしながら私が延々書いてきたのは、harutabeさん流に言うなら、自身の個人的経験に対する落とし前でしょう。なお、話が通じていないのは私を含めて面々の「御勝手」が甚だしいからです。だがそれがいい、とスターリン嫌いの私は考えています。

だから誰か俺に言ってくれ。内心の自由は自明などではないと。情欲とともに女を見るものは既に姦淫を犯したのだと。俺は今そういう話が聞きたい。


では御希望にお応えして。内心の自由などまったく自明ではありません。サバンナに私たちの寝室は散々蹂躙されている――そのことが自由意志の不可能の意味なので。で、私において自由意志が不可能であることと、他者がその大草原での差別と抑圧のゆえに自由意志へと1mmでもにじりよろうとする際に自由意志の不可能を鬼首で説いて冷や水かけることは、同じことではない。他者という存在に対する人間としての尊重は私においては自明なので。


付け加えますと――これはkogeさんに対する再度のお返事にもなりますが――他者とは、このアレな社会において、社会的動物と見なされない存在のことです。そのような存在こそが真に自由意志を実現しうる、とか言い出すとありきたりな罠に嵌りますが、しかし、その大草原での差別と抑圧のゆえに自由意志へと1mmでもにじりよろうとする他者に対して、自由意志の不可能を縷説する趣味を私が持たないのは、たぶんに、蹂躙を享楽するサディストの自己批判が理由です。


私においてこの社会というサバンナは、蹂躙を享楽するアレな社会そのものとしてある。適者生存の法則においてその大草原を闊歩する社会的動物は、私が時にそうであるように、往々にして他者を捕食して涼とする。harutabeさんがそうであるということではありませんが。――と付け加えることは買いかぶりと取られるでしょうか。しかし、だからこそ、harutabeさんは「俺は今そういう話が聞きたい」と、一切御自身に限定して書いておられるのだと、私は勝手に思っています。